緘黙


在校生が玄関から校門まで両側に並んで卒業生を送り出してくれることになっていた。今年は暖冬で、まだ三月一日だというのに春のような暖かさで、天気もよかった。
両側に在校生が並んだ人垣の通路を、卒業生は保護者と一緒に校門まで歩いていく。そして、多くの卒業生は一応送り出されたかたちをとって一旦校門を出てから、また玄関前に戻ってくる。そこで、植え込みを背景に担任と写真をとったり、談笑したりして、しばらく名残を惜しむ。それが通例になっていた。
今年の卒業生もそこらあたりにたむろして別れを楽しんでいた。
私は、卒業生のほとりに立って、彼らの動きを眺めていて、たまに近寄ってくるものがいるとツーショットの写真を撮ってもらったり、お別れの握手をしたりしていた。
「先生、おせわになりまして……」
そんなとき不意に背後から挨拶された。振り返ると稲葉の母親だった。
「あっ、卒業おめでとうございます。稲葉君、就職が決まってよかったですね」
私は、とっさにそんな言葉しか返せなかった。しかし、それが本音でもあった。
「そうですね。ムリかと諦めていたんですが、どうにか決めていただいて、みなさんのおかげだとそれは喜んでいるんですよ。……でも、いざ卒業となるとなんだか不安なような気がして、うれしいという実感が湧かないんですよ」
「たしかに、そんなものかもしれませんね」
母親の複雑な表情を見返しながら、私もまたちょっと考え込んでしまった。
稲葉は、三年間緘黙を貫き通した。それは頑固というかみごとというか、まさに緘黙の緘黙たるゆえんをしたたかに思い知らされたわけだった。私は、彼がこの学校に教育相談に来たとき面接してからだから、高等部の三年間を合わせて四年のつきあいということになる。また高等部一年の時は、彼のクラスの副担任で、新任の担任といっしょに家庭訪問までしていた。
母親と言葉を交わしながら、私は人混みの中を無意識に稲葉を探して見た。卒業生の人だかりからはずれたあたりを確かめていくと、いた。彼は人の渦から離れて、校門の前で一人ぽつねんと立っていた。おもしろくなさそうな顔で母親を待っていた。いつもと変わりない嫌そうな表情をちょっと浮かべて、周りをこばむような雰囲気を体全体に漂わせて。そんな彼に誰も近づくものはいなかった。写真をいっしょに撮ろうと誘っても、断られるに決まっていた。と言って、彼が友だちから疎外されているわけではない。関係を拒否してきたのはむしろ彼の方だった。だから、そういった彼を認めることが、三年間で築きあげてきた友情(?)の形とでもいうしかなかった。それにしても、彼が何度も作文に書いて主張し続けた友だちはいらないという信念、あれは本心だったのか、どうか、私には今もってわからない。
私は、そんな稲葉を遠目に眺めながら、
「いよいよ彼も卒業か……」と改めて思った。
と、そのとき、どこからともなく、
「そこの校門は、お前ひとりのためのものだった」
という言葉が降ってきた。
それは、私にも不意打ちだった。その言葉がいったい何を意味するのか、どういう状況で発せられたのか、すぐにはピンと来なかった。ただ厳粛な分厚い響きが、まるで岩のような実在感をもって降ってきたのだ。
私は、何かしゃべっている稲葉の母親の顔をまじまじと見つめながら、言葉の出どこを探っていた。その間、それがぶしつけな行為であることにも気づかなかった。
――分かった、カフカの……
その出どこが浮かんだとき、私はほとんど叫びをあげそうになった。
――あの本だ。
表紙が目に浮かんだ。岩波文庫の……、私が養護学校に勤め始めた頃読んだ、たしかカフカの短編、そこにあった門番の言葉。何という小説だったか、私は記憶の澱を見極めようとしていた。母親と会話を続けながら、目に浮かんでいる岩波文庫の表紙をめくる。巻頭にあったその短編小説は、ほんとうに短い寓話で……私は、さきほど聞こえた言葉を心の内で反芻してみた。
この門番のセリフが最後の最後にあって、……、私は心の中でもう一度ゆっくりその言葉を繰り返した。
「彼がこの前実習にいったとき、門番の……いや、問題の工場長さんと筆談でやりとりした内容を聞かれましたか?」
私は、幾分上の空のところがあり、そのせいで言い間違えた。今風に言えば「すべって」しまったのだが、さりげなく言い直した。自分勝手な思いこみを見透かされたようで一瞬ドキッとしたが、稲葉の母親は、私のトチリにこだわるふうもなかった。
「はい、藤原先生に聞きました。あの子も声をだしてしゃべらないといけないと思っていたんですね。そのせいで、いろんな人に迷惑をかけているって……」
「稲葉君は、みんなに交わろうとしなかったですね。作文なんかでは、友だちなんかいらないと強がっていた。しかし、三年たつと、それなりに同級生に認められて、しゃべらないといけない場面になると、みんなに助けてもらっていたでしょう、代わりに文章を読んでもらったりして、……彼も自然体だったし、それが唯一仲間のしるしというか、友だちの証だったようなところがありましたよね」
「会社でも、せめてそんなふうになれたらいいんですが、……」
「理解してもらうまでが、一苦労ですね。……将来は一人暮らしをしたいと書いてたそうですよ」
「はい、聞きました。働いてお金が貯まったら、独り暮らしをしたいと……」
「彼は、心の中では、自立できているんですよ。喜ばなくては……」
「でも、独り暮らしの場所が、自分の家と答えたそうです」
「いいじゃないですか。よほど家が気に入ってるんだ」
「家では、私にいつもあんなに不機嫌なくせに……」
「学校でもみかけは不機嫌ですけどね、……結局一度も声を聞けなかったな、……今でも、お母さんには話をしていますよね」
「イライラをぶつけてるだけみたいな感じですけど……」
男女二人の卒業生が写真を写そうと寄ってきたので、話はそこで途絶えた。母親は、丁寧に挨拶して離れていった。近くのものを呼び集めながら、ふと目をやると、校門で待っている稲葉のところに歩み寄っていく母親の後ろ姿が小さく見えた。
人数が増えて、並ぶのに時間がかかった。写真を撮り終えて、校門のあたりを探してみたが、すでにそこに稲葉の姿はなかった。
――もうみんなといる必要がなくて帰ったのかな
と、学校の門からフェンスに沿った道路に視線を移しても見あたらなかった。
――『掟の門』
そのとき、不意に小説の題名が浮かんできた。カフカ短編集の最初にあった『掟の門』だ。あの幻聴はそこに登場する門番の最後の言葉だった。私は、卒業生の喧噪の中で、三頁にも満たない短編の筋を思い浮かべていた。

――掟の門の前に門番がいる。そこに、田舎から出てきた男がやって来る。そして、入れてくれ、と頼む。しかし、門番はにべもなく、今はだめだと拒絶する。そこで田舎出の男は考える。今はだめということだが、後でなら許可してくれるかもしれないと。それで待つことにする。

読んでからもう二十年も経つので、細部ははっきりはしないが、筋だけはしっかりと覚えている。細部の手触りも所々名残がある。小説はたしかこんなふうに続いていく。

――掟の門は開いたままだが、門番を恐れて、男は待ち続ける。その門番も怖いが、中にはさらにおそろしい門番が控えているらしい。しかし、門番は存外親切で椅子まで貸してくれる。その椅子に座って、男は何年も待ち続ける。もちろん、手をこまねいていたわけではない。門番に頼み込んではみるが、だめ。贈り物をしても、だめ。あまりに門番を注視し続けたので、まるで、『名人伝』を地でいくように、たしか、門番のノミまでやたら目につくようになって、ノミにまで入れてくれるように頼んだり。
そうして時がたち、男に死が訪れようとしている。いまわの際、すでに目も衰え暗くなった視界に燦然ときらめくものが見える。
男は門番に問いかける。
「誰もが掟を求めているというのに、この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」と。
男の命がまさに消えんとするとき、その耳に門番の最後の言葉が叫ばれる。
「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」……

一読したときから、ふしぎな短編だという印象があった。いまもその手触りがあざやかで、それらをつなぎ合わせることで、粗筋や門番の言葉が浮かび上がってくる。

私はふたたび校門のあたりを眺めた。先ほど母親を待って一人ぽつねんと佇んでいた稲葉のイメージがまだそこにあった。
そして、その瞬間、『掟の門』で待ち続けていた男は、私の中で稲葉のイメージと重なった。彼は、家の外ではけっして声を発しないできた。感情を表さないできた。それは、最初推察したよりもずっと強い意志に支えられていた。いわばそれは彼の掟だったのではないのか。彼の生の条件として与えられた掟のようなもの、緘黙という障害ではあるが、また身を縛る掟とでも言うしかないものではなかったのか。彼はその掟を、幼稚園入園の頃からずっと守ってきた。そして、これからもその掟を守り続けるしかないのだろう。しかし、その緘黙を掟と考えるならば、小説とは逆に、彼はその『掟の門』を出るために待ち続けたとしなければならないことになる。そこを通り抜けて、城郭の外に出て行くことはできるのだろうか。そう、彼ひとりのための門をくぐって。
卒業生が、三々五々帰っていくと、私は、少し早めにその場を離れて、更衣室で服を着替えた。それから体育館に行って、卒業式の道具を片づけた。体を動かしながらも、ずっと『掟の門』のことを反芻していた。よくこれだけ覚えていたものだとおどろくほど、小説の細部までが実在感を持ってよみがえってきた。
片づけが済んだので、職員室に戻ってコーヒーを入れた。朝は忙しくてそんな余裕がなかった。コーヒーを飲みながらぼんやりと稲葉のこと、『掟の門』のことを考えていると、担任の藤原が声をかけてきた。
「稲葉のお母さんと話しておられましたね」
「うん、とうとう三年間彼の声を一度も聞かせてもらえませんでしたって、そんなことを話していた」
「あのお母さん、心配性でしょう。卒業で学校からは離れるわ、職場でうまくやっていけるかどうか分からないわ、で、心細いんですよね」
「本人より、母親が不安なんだな」
「そうですよ。本人は意外に割り切ってる」
「それに、あそこ、それなりに理解のある職場なんでしょう」
「まあ、本人しだい。稲葉も、しっかり頷くとか、書いて見せたりしているんですけど、どうかな」
「結局、三年間、言葉を発しない、自分の内面を見せない、という掟を破ることはなかったね」
私は、先ほどからの考えの続きで、掟ということばを使ってみた。 「掟ね。緘黙は掟だったんですか……稲葉の……」
藤原は、やはりその言葉にひっかかってきた。
「障害ですからね。自分ではどうしようもない」
「どうしようもない掟というのもあるだろう」
私もまたこだわっていた。
「そりゃあ、そうだけど、……」
「あなたの言うのもわかっているんだよ。でも、先に光を見るつもりで掟と言ってみたいわけ……」
「そういう意味でなら、まあいいとして……最後に外で声を発したのが幼稚園の面接っていうから、あいつは、その掟をもう十二、三年も守ってきたわけか……」
「言葉だけじゃなくて、感情も押し殺して、自分を出さないというのもつらいだろうに……」
私は、さっき校門で見た稲葉のつまらなそうな表情を思い浮かべていた。
「どういう障害なんでしょうねぇ、ふしぎというか……」
藤原が、考え深そうな表情でつぶやいたとき、職員室の窓を震わせて、「ガシャ」とも「バン」ともつかない大きな音が校舎内に響き渡った。音というより衝撃が駆け抜けた。職員室は一瞬騒然となり、二つあるドアからどたばたと何人もの教師が飛び出していった。藤原は「何ごと?」と叫ぶなり窓を開けた。廊下の窓越しに、校門のあたりに灰神楽のような煙があがるのが見えた。
「自動車が校門に突っ込んだ」
そう叫ぶなり、彼もまた、机を迂回して、職員室の扉から飛び出していった。私も後を追って出た。
玄関を出たあたりに教師が屯している。事務長やら何人かの教師が校門の外に出ていた。自動車から煙が少し出ていて、焦げた臭いがただよっていた。斜めに突っ込んだ車の左前はほとんどつぶれているが、運転手側の扉は開いている。事務長と一緒に車をのぞき込んでいる若い男が運転手らしかった。どこにもけがはなさそうだ。
「爆発の心配はないらしい」
と、校門の所からもどった教師がみんなに報告した。
「しかし、保険を使うのに、事故証明が必要だから、一応警察を呼ぶって……」
彼は、玄関から事務室に入っていった。
校門に近寄って子細に見ると、車は重い鉄の門扉とコンクリートの壁に激突していた。門扉はレールから脱線して傾いでいたし、コンクリートの壁に罅が走っていた。
「卒業生がまだいるときだったら、大変なことになってましたよ」
私の後ろから、藤原がつぶやいた。
「たしかに、そうだよな」
私は、校門のそばに佇んでいた稲葉を、そのとき思い浮かべていた。
――もうそんなことは懲り懲りだ、と思った。

私は、昼食を取りながらも彼のことにこだわっていた。もはやカフカの小説『掟の門』の主人公はほとんど彼に重なっていた。
午後一時前になって、二階の図書室にあがっていった。昼から教科部会があるのだ。

「卒業式の日にまで会議するのかよ」という憤懣の声が聞こえそうだが、他に時間がとれないとなればしかたがない、というのが教務主任の言いぐさだ。
まだ少し早かったが図書室の鍵を開けた。普段あまり気にならないが今日は本の臭いが鼻についた。カーテンを開けて、窓も開けはなって外気を入れた。風とともに、エンジン音が飛び込んできた。窓から見下ろすと、ちょうどJAFのクレーン車が来て、校門に激突した車を後ろから引き上げているところだった。門扉からはずされた車の左斜め前は、ほとんどグシャッとつぶれていた。運転手が無傷なのは奇跡的に思えるほどだった。私は、作業が見えるように、窓際に席を占めた。そして、会議の間中、ちらちらとJAFの作業を見ながら、稲葉のことを考え続けていた。
彼は、三年間きっちり掟を守った。もちろん彼の掟は、にわか仕立てのものではなく、幼稚園以来の年期のはいったものだから、おいそれとは崩れるものでないことは分かっていた。それだけの厳しさも感じさせた。しかし、面接したときはまだ心のどこかに期待があった、もしかしたら、三年間のどこかで彼の声を聞けるのではないかという甘い期待。それはみごとに拒絶された。「しかし……」と、私は三年の歳月を振り返るように遠くの景色を見やりながら反論せずにはおられなかった。
この三年間、教師の努力は、彼の緘黙の壁にすべて跳ね返されていた。が、わずか二度だけではあるが、その壁に罅が入って、彼が心の内をほんの少しかいま見せたことがあるのだ。
一度は、入学して間もない頃の園芸の授業でのことだった。これは後で、その場で一部始終を見ていた園芸担当の森岡から聞いた話である。
園芸の時間に、折田という生徒にしつこくちょっかいをかけられた稲葉が、突然「切れて」、蹴りかかっていった、というのだ。生徒たちはお互いにまだ性格が分かっていなくて、いつも集団から少し離れてそっぽを向いている稲葉が、目障りで、「ワル」の折田がしつこくかまったらしい。それでなくても、一年の最初の頃はいい加減の程度がわからなくて、トラブルが多いのだ。折田は、教師が作業の説明をしているときにそっぽを向いていた稲葉の作業帽子の庇を持って頭を正面に向かそうとしたり、作業服の裾をひっぱって列に入れようとした。最初はがまんしていた稲葉が、突然切れて、折田に蹴りかかっていったというのだ。もちろん黙ったままで。
「その黙ったままというのでオリ(折田)がびびってしまって、あいつにしてはめずらしく逃げ腰でしてね。それをしつこく蹴りながら追いかけていくんですよ。その切れ方にさすがのぼくもびっくりしましたよ。普通だったら何か叫ぶなり、言うなりしてかかっていくでしょう。それがないだけに……、ね」
「ないだけに……」と、森岡は言葉を飲み込んだが、不気味だったとでも言いたかったのかもしれない。
「どんな顔をしてました?」
「顔ね……」
彼は視線を宙にさまよわせた。
「やっぱりいつもの嫌そうな顔がちょっと切れたような……でも、視線はやっぱり伏せていたような気がするな」
「そんなふうに切れるんだね。家庭訪問したとき、母親には切れて蹴りを入れたりするって聞いていたから、どんなふうなのかなって思っていたんだけど……」
やはり稲葉はそのとき切れたのだ、怒りをあらわにしたと考えるしかない。それは、小耳に挟んだだけの何でもないちょっとしたエピソードだったが、彼が心の内を垣間見せた出来事として、私の心に深く刻まれた。

稲葉が、掟を破って、不覚にも内面を垣間見せたことが、もう一度あった。それは文化祭の劇の練習をしている時だった。
劇担当の私が脚本を書いて、『ぼくたちはざしきぼっこ』という劇をすることになった。
「ざしきぼっこ」というのは、「ざしきわらし」のことで、宮沢賢治の童話にも登場する。その前の年に、彼らの学年で『賢治先生がやってきた』という劇を上演していた。宮沢賢治が、養護学校の教師としてやってくる、という設定で、理科室が銀河鉄道の地球ステーションということにした。『みるなの座敷』を下敷きにした脚本だった。生徒たちは、詩を書いたり、作曲したり、農業をしたりする賢治先生をふしぎがり、いったい何の先生なのかを探ろうとする。そんなある日、危険な実験をするので来てはいけないと禁止されていたにもかかわらず、理科室をのぞきにいった生徒たちは、賢治先生が銀河鉄道の車掌さんであるという秘密を知ってしまう。秘密がばれてしまったからには、賢治先生は学校にとどまることができない。結局、銀河鉄道で去っていってしまうという筋書きだった。
一人一役、少なくとも一セリフという原則だったが、稲葉は、もちろんセリフはムリなので、銀河鉄道白鳥駅で生徒たちが星になって星座のパフォーマンスをする、そのメンバーの一人という役を与えた。彼は、一度覚えた所作を間違うこともなく、他の生徒の動きを率先して引っ張った。
稲葉はもともと能力が高く、自分が何か発言を促される行事など、的確に察知して欠席することがあった。その伝で文化祭も休まれては台無しと、私は、まえもって休まないように釘を刺した。私の言葉に、彼はたしかに頷いたのだ。そして、彼は約束を守った。
で、今回二年生全員で取り組むことになった『ぼくたちはざしきぼっこ』。粗筋はこんなふうになっている。
ある家の座敷で高校生たちがバンドの練習をしている。あまりやかましいので、その座敷にひそかに住まいするざしきぼっこ、とうとう家を出ていく決心をする。このざしきぼっこ、白化粧に箒をもって登場するが、さて家出をしてどこに行くのか。どこへいっても、街は騒音だらけ、空気も水も汚れている。彼は、そんな世の中に愛想をつかして、いっそ地球から脱出しようとたくらむ。で、その方法は……。
ざしきぼっこは、養護学校の文化祭に賢治先生がやってくるという風の噂を耳にする。これはチャンス、賢治先生に頼んで銀河鉄道に便乗させてもらおうという魂胆。そのたくらみを察知した生徒たちは、地球を出て行かれては地球がビンボーになってしまうと、ざしきぼっこを賢治先生に会わせないように画策する。しかし、それも無駄骨。結局ざしきぼっこはは賢治先生を捜し当てる。
銀河鉄道に便乗させてくれと頼むざしきぼっこを力ずくで阻むために、生徒たちは、自分たちのヒーローを応援に呼んで、戦いを繰り広げる。
『ぼくたちはざしきぼっこ』の脚本を即興の配役で教師が朗読して、生徒たちにはじめて披露した時だった。大団円の一つ前の五場。ざしきぼっこの地球脱出を阻止すべく、生徒の呼びかけに応じたヒーローたちが次々に勝負を挑む。それは、ジャイアン、吉本の芸人、貴乃花、それに水戸黄門など、極めつけはアニメの孫悟空でカメハメ波で立ち向かうが、情けないことにみんながみんないともたやすく退けられてしまう。
その場面の出だしは、脚本ではこんなふうになっている。

 生徒M じゃあ、どうしても地球からおさらばするんですか?
 生徒N やめてくださいよ。
 生徒O あなたは地球の大切な人なんです。
 生徒K たいへんなことになるよ。みんなでひきとめようよ。
 (生徒たち、並んでざしこぼっこにすがりつく。「よいしょ、よいしょ」のかけ声をかけて二、三度引き合うが、手がはずれて、生徒たち尻餅をついてしまう) 
 生徒M だめだ。ぼくたちだけじゃあとめられない。力持ちのジャイアンを呼んでくるんだ。
 (これより次々に登場する助っ人は生徒の希望による)
 (ジャイアンのテーマ曲で登場。生徒たち歓声で迎える)
 ジャイアン オーレはジャイアン、ガーキ大将。ジャーン、おれは、ジャイアンだ。ざしきぼっこ、地球から出て行かないでくれ。えーい(と、取っ組み合うがすぐにはねとばされて退場。生徒たち「ハー」と嘆息。以下その繰り返し)
 巡査 何ですか、この騒ぎは?
 生徒L あっ、おまわりさん。実かかくかくしかじかで、こういうわけなんです。
 巡査 ああ、なるほど、わかりました。では本官もお手伝いしましょう。
 生徒N 強い助っ人を呼ぼう。ケンカが強いといえば吉本ですよ。パチパチパンチの島木さん呼んでください。
 生徒O もう、チャーリー浜さんも、桑原さんもみんなよびましょう。おまわりさん、お願いします。
 巡査 (携帯を持ったふりで)もしもし、グランド花月さん、パチパチパンチの島木譲二さんとチャーリー浜さん、桑原和夫さんの派遣をお願いします。
 (吉本新喜劇のテーマ曲にのって三人下手より登場)

こんなふうにして、次々に生徒が喜びそうな屈強のヒーロー達が呼び出されて、それぞれの得意技でざしきぼっこに勝負を挑んでいく。 吉本に続いて、水戸黄門やらアニメの孫悟空やらが登場して、生徒がどっと湧いているとき、稲葉が笑いをかみ殺しているのに一人の教師が気づいた。そっと耳打ちされて盗み見ると、たしかに彼はほとんど白い歯さえ見せて、細い肩を震わせて堪えている。私はそれを見て感動してしまった。なぜだか分からないが、彼の表情を盗み見ながら、こみ上げてくるものに耐えていた。
そして次の練習日に生徒たちと立ち稽古を始めたときも、稲葉が同じ場面で笑いをかみ殺すような表情をしているのを目にした。彼はたしかに劇が気に入ったようだった。しかし、それだけだった。普段の練習をしているときは、いつもの嫌そうな顔で、演技にも精彩がなかった。精彩がないというより、いやいややらされているといった様子だった。
稲葉には、今回も筆談で話し合って、生徒のざしきぼっこの一人という役を与えた。顔の右半分を白化粧して現れ、「ぼくたちもざしきぼっこになってしまいました」と向きを変えれば、彼らもにわか仕立てのざしきぼっこ。仲間のよしみ、銀河鉄道の旅に同伴したいとざしきぼっこに迫る。その一団の先導役ということにした。セリフはなかったが、間違いなく動けるということは一年の経験で分かっていたので、彼の役にぴったりだった。
そしてまた文化祭が近づいてきたとき、私は稲葉を物陰に呼んで念を押した。「強制しないから絶対に休むなよ」という私の言葉に彼はたしかに「うん」と頷いた。そしてもちろん彼は約束を守った。相変わらずポーカーフェイスというより嫌気半分といった顔だったが、白化粧で先頭を切って登場するだけで笑いさえとった。私は、それだけで劇担当として、脚本を書いたり演出したりした苦労が報われたような気がした。
高等部の三年間で、彼の内面を垣間見たのは、この二度だけだった。そのときはたしかに稲葉の緘黙の扉がわずかに開いたような気がしたが、文化祭が過ぎれば、そんなことはなかったかのように何かにつけて嫌そうな表情のままで、あの笑いは何だったのかと、疑ってみたくなるほどだった。彼に対する甘い期待はすべて峻拒された。『ぼくたちはざしきぼっこ』で繰り出すヒーローたちがすべて敗退したように、教師の試みはすべて彼のかたくなさにむなしく退けられた。
JAFの作業は、会議の途中で終わっていた。退屈な会議に耐えながら、私は遠くの山並みを見ていた。遠くを見ながら、『掟の門』と稲葉のことを考え続けていた。
――稲葉よ、君はいのちの火が消えるとき、筆談で門番に問いかけるのだろうか、……「永い年月のあいだ、このしゃべらないという掟の門を、私以外の誰ひとり、通してくれといって来なかったのは、どうしてなのか?」と。
そして、門番からこんなふうに告げられることはないのだろうか?
「他の誰ひとり、ここは通れない。この門は、お前ひとりのためにものだった」と。
彼は、自分の一生をそのように選び取ろうとしている。それはどうしようもないことなのか。
私は、門扉のあたりを眺めおろしながら、彼の一生を俯瞰するような気になっていた。無性に悲しかった。
会議が終わって、しばらくして四時すぎに終礼があって、勤務解放ということになった。
私は、あのことがあってから職場にいるのが息苦しくなることがある。辛抱ができなくなっていた。私はいつものようにそそくさと帰り支度をして、玄関を出た。傾いでいる鉄の門扉を見ながら、半開きの校門を通り抜けようとしたとき、門扉の内側に校舎の方を向いてパイプ椅子が置かれているのに気がついた。工事現場で使い古されたようなさびたパイプ椅子で、座るところがひび割れておしりの形にへこんでいる。永年誰かがたしかにそこに座り続けていたことを思わせるへこみかただった。
「どうして、こんなところにパイプ椅子が……」
車が引きはがされた後の被害状況を写真で写そうとして、少し高い位置から撮る必要があって、誰かが持ってきたのかも知れない、ふとそんな情景が浮かんだ。しかし、靴痕のようなものは残っていなかった。どうして古びたパイプ椅子がここに放置されているのか、本当のところはわからない。しかし、私はふと、その椅子は門番が稲葉のために用意したものであるかのような気がした。稲葉がその椅子に座っている姿がまざまざと浮かんだ。
私は、校舎の時計をチラッとみた。電車の時間が迫っていた。私は帽子を被り直して、そのまま歩き出した。そして、校門を通り抜けようとしたとき、ふと何か空気が変わったような気がした。体がすっと密度の違う空間に入ったようで、私は思わず、つんのめって、そのまま立ち止まってしまった。誰かが椅子に座ってそんな私を眺めていた。稲葉ではなかった。私は、啓示のように閃いた考えを振り払うようにブルッと頭を振った。
しかし、脳裏にこびりついた想念を振り払うことはできなかった。古びたパイプ椅子に座って待っていたのは、まぎれもなく私だった。門前に愕然と立ちつくしているのも私であり、そんな私を椅子に座って眺めているのも私だった。ということは、掟の門を前に何かにおびえて出ていこうとしなかったのは、他でもない私だということになる。その啓示はいまや強い悲しみを伴って浮上してきた。これまで、そのことから目を逸らしてきたのだ、ということも認めなければならない。私は、稲葉を主人公に粉飾することで、実は自分のことを隠蔽していた。
『掟の門』の田舎出の男は、稲葉であり、私だった。なぜなら、私もまた、掟を設けていた。長男のことは決して話すまいという掟。
半年ほど前、事故で長男を亡くした。二十八歳だった。生きる意欲を殺がれるほどのつらい経験だった。それ以来職場でもなんとか平穏な生活を取り戻そうと努力してきたが、半年を経た今でも、まだ長男の死を心情的には受け止めかねているところがあった。自分の気持ちを抑えきれなくて、哀しさ、むなしさにただ耐えているだけ、時が過ぎていくのを待っているだけだった。これまで、亡くなった長男のことや遭難のいきさつを、職場の同僚にも生徒たちにも話したことはなかった。もちろん同僚にその事実は知れ渡っている。しかし、日々の会話でその話題には誰も触れようとはしなかった。職場に復帰したときから、その話題だけは拒むという姿勢をこちらから示して、周りからも暗黙のうちに受け容れられた。長男の死を生徒たちにも打ち明けていなかった。父や母の場合は、そのことを話題にして、死の授業をしたのだが。そういった話題に近づくことはあっても、結局告白することはできなかった。結局、その話題に限って周りに箝口令を敷いたようなものだった。職場でも、地域でも、そのことに触れることを一切拒否する姿勢をいつのまにか私は心の掟のようにしてきた。ここにも『掟』があった。その『掟の門』の前で、この半年間、私はずっと待ち続けてきた。そして、これからも待ち続けようとしている。それは、稲葉と同じではないのか。
あの椅子に座っているのは、稲葉であると考えてきたが、しかしまたまぎれもなく私自身でもあった。稲葉は母の他には口をきかないという緘黙の檻を設け、私は息子の遭難という話題に限って緘黙の垣根をめぐらせてきた。そういった意味で似たもの同士と言っては、稲葉に失礼だろうか。しかし、私は、いまそう感じている。
だとすると、私が稲葉に問いかけた問いが、いま自分に返ってこざるをえないだろう。
――これからの一生、緘黙を続けるとすると、お前は命の終わるとき、どのような門番の言葉を聞くことになるのだろうか……
私はそんなふうに自問しながら、校門を出て歩き始めた。
ふと時計に目をやると、いよいよ時間が迫っていた。
                      【完】

 ※『掟の門』からの引用は池内紀訳『カフカ短編集』(岩波文庫)による


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