せんとくん

近つ飛鳥の博物館まで歩いての帰り、風土記の丘の入口あたりで、K君に出くわしました。
家は近くなのですが、お母さんに車で送ってもらったらしいのです。
「しんどくないのなら歩いて来んと……」
私に苦言をいう資格はないのですが、なかなか抜けない教師根性でついそんなことばが口をついて出てしまいました。
Kくんもちょっとはまずいと思ったのか、あわてて「明日はせんとくんが来るねん」と話題を転じてしまったのです。
「何のこと?」
不意打ちだったので、私は、誰が来るのか、聞き分けることができませんでした。 彼は発音に少し不明瞭なところがあるのです。
「誰がくるって? 友だち?」
私たちは、二回同じような遣り取りを繰り返しました。
彼は、ちょっとじれたような顔で入口に貼られているポスターを目で示しました。
「せんとくんが来るねん」
彼が三度目に繰り返したとき、私は「せんとくん」にはたと思いあたったのです。
平城遷都千三百年祭のキャラクター、せんとくんのことらしいと。
「奈良の、仏像で……鹿の角のあるせんとくん?」
Kくんは嬉しそうにうなずきました。
「奈良から来るのか?」
「うん、それで僕は今日風呂を洗うねん」
「後でシャワーでもあびるのかな、ぬいぐるみの中は暑いらしいから……」
「せんとくんの中は女の人やねんて、……それで松村さんと風呂を洗うねん」
「11時から3時までいてはる」
「そうか、都合がついたら僕も行くかな」
私はそんなふうに呟きました。
Kくんは、私が毎日散歩している風土記の丘で知り合った若い友人です。
公園の中にある近つ飛鳥博物館の清掃の仕事をしていて、これから出勤なのです。
「仕事は十時から二時までやけど、九時半ごろには着替えてる」
以前、そんなふうに教えてくれたことがあります。少し早めに出勤しているようです。
「博物館に来たら、写真も撮れるから……せんとくんと写真を撮るときは、ピースやなくて、手を合わすんやて……、 おっちゃんも一緒に写真を撮ったらええねん」
「せんとくんとツーショットの写真か? 恥ずかしいような気もするけどな……」
「お母さんがいつもピースやったら恥ずかしいけど、手を合わせるんやったらかめへんて……、 オレいつもピースする癖なんやけど、ピースせんように練習してんで」
「おもしろい練習してんなぁ」
私は、笑いながら仕事に行く彼と別れて歩きはじめました。

Kくんをざしきわらしのようだと思うことがあります。博物館に座敷があるわけではないのでざしきわらしも 変なのですが、なぜかそんな想いをもってしまうのです。
どうしてかというと、第一に彼にはそれらしい雰囲気があります。 小柄で、明るい性格で、世俗の汚れを受け付けないふんわかした優しさがあります。
それだけではなくて、私にとって、彼との出会いは、何ともふしぎな錯覚をまといつかせたものだったからです。
どういった錯覚かということを話さなければなりません。
最初の出会いは、近つ飛鳥博物館の前です。
林を抜ける道を、帽子を被りランドセルを肩にかけた小学生の女の子がとぼとぼと歩いてくるのです。
ウィークディの午前九時半頃です。
「今頃、小学生がどうしてこんなところにいるんだろう」というのがまず頭に浮かんだことです。
何か問題があって、学校に行かなかったのか、それとも学校を飛びだしてきたのか、どちらにしろ 近づいてくれば見過ごすわけにはいきません。その小学生の女の子には、 遠目にも、私をそんなふうに身がまえさせるような雰囲気があったのです。 これも教師根性のなごりだと言えそうです。
ところが周回道路から木の階段をくだって近づいてくると、何と二十歳くらいの青年なのです。
この山にキツネがいると聞いたことはありませんが、私はキツネにつままれたような気持でした。
どうして野球帽が通学帽に化けたのでしょう。どうしてえんじ色のリュックがランドセルに見えたのでしょうか。
私は笑うしかありませんでした。
「おはよう」と声をかけると、 青年も、機嫌良く「おはよう」と返してくれます。
服装は、作業衣に作業帽、リュックと弁当バッグ。
「ここで仕事をしているの」
「うん、掃除」
彼は近つ博物館の清掃をしているらしいのです。名札からすると、清掃を請け負っている会社に勤めているようです。
「ここではどのくらいになるの?」
彼は、私の顔をじっと見返しました。年の計算がむずかしいのかな、とふと思いました。
「歳はいくつになるの?」
私は質問を変えました。
「三十八」
思いがけない答でした。
「えっ、三十八歳……、とてもそんなふうには見えないけどね……」
信じられない返答でした。どうみても二十歳過ぎで、私が昨年まで教えていた生徒たちとそんなにかわりません。 ちゃんとわかって答えているのか、私は疑っていました。
「何年生まれ?」
「四十六年」
彼は口ごもりながらも一気に答えました。昭和四十六年ということなのでしょう。すると1971年生まれということになります。
今年は、2009年だから、三十八歳。やはり本当だったのです。
養護学校の教師だったにもかかわらず、このていたらく。
それにしても化かされているようなふしぎな感覚は残りました。
ざしきぼっこのようだ、という感想はそのふしぎな思いに由来しているのです。

Kくんは、笑顔よしで独特の人なつっこさがあります。私と話すときも明るい表情ですが、 バスで通勤してくる博物館の女性職員さんといっしょになったときなどは、ほんとうに楽しそうです。
彼といっしょに掃除しているおばさんが、「Kくんは友達が多いでしょう」と 笑いながら話しかけてきたことがあります。私もその友人の一人と言いたかったのかもしれません。
「ほんとうにいい人で、私たち、自分がつまらない人間に見えてきたりします」
おばさんは、博物館ロビーのガラスを拭きながら、 Kくんをほめました。
「でも、あんなKくんでも怒ることがあるんですよ。私、こないだはじめて知りました。 あの人、天気予報が好きでしょう。あれにはがんこで、逆らうとキレはります」
おばさんはその時のことを思い出しでもしたのか、息を切らしながら、おかしそうに笑い声をあげました。
安藤忠雄が設計したという打ち放しコンクリートの博物館はなかなか立派なものですが、その正面玄関には大きなガラスが はめ込まれているので、拭くだけでもたいへんなようです。
Kくんが一人でガラスを拭いているのを見かけたこともあります。
ガラス拭きは得意なようですが、他にもKくんに任されている仕事がいくつかあるようで、 ある朝、彼と顔を合わせると、 これから裏手で植木に水をやるというのです。私は、思わず空を見あげてしまいました。今にも雨が降りそうで、 彼が好きな天気予報でも午後からの降水確率が70%になっていたのです。
「天気予報では、午後から雨になってたで……」
「知ってるけど、オレの仕事やから……」
彼は不機嫌に言いはなちました。いつも上機嫌な彼にもこんな面もあったのです。 掃除のおばさんが言っていた、「逆らうと切れる」というのは これに類することなのかもしれません。
雨が降る前に水をやってはいけないということはないのですが、一事が万事で、他の仕事はちゃんとできているのか、 いささか心配なところもあります。
そんな思いがあったからでしょうか、そのとき、私は、おばさんと別れ際、思わず、
「よろしくおねがいします」
という言葉が口をついて出てしまったのです。あとで考えてみるとそぐわない挨拶だったと反省してしまいました。 しかし彼の友人という立場からすれば、あながち不自然でもないかと思い返したりもしたのです。

「休みの日は家で本を読んだり、マンガを読んだり……、本は公民館で借りるんです。 一回に三冊まで、……ぼくは、マンガも大好きで、『天才バカボン』が一番すきです。バカボンのパパが『これでいいのだー』って 言う、あれが好きです」
そんな話をしてくれたこともあります。
「たしかにバカボンのパパは、最後に『これでいいのだー』って、言うね……」
私は、しばらく考え込んでしまいました。Kくんは、ふしぎそうに私の顔をのぞきこんでいました。
−−そういえば……と、私は心の内でつぶやきました。
「『これでいいのだー』とは言いたくない」という思いを反芻しながら、そして、こんな自分でも バカボンのパパのように『これでいいのだー』と 叫べる日がくるのだろうかと煩悶しながら、 毎日の散歩を歩いているようなものだな、私は……。ちょっと自嘲気味にそんな想いをかみしめていました。 もっとも、この個人的な葛藤は決して人には伝わらないものだということも 私には分かっているのですが……。
−−「天才バカボンのパパは、バカボンが亡くなっても、 『これでいいのだ!』と叫ぶことができるのだろうか……
Kくんの心配そうな顔を見返しながら、私は自分にそんな問いかけもしていたのです。

また、高校生の時から書いているという秘密のノートを通勤のリュックから取りだして見せてくれたこともあります。
そこには自分が作詞した歌詞がびっしりと書き込まれていました。
正義の味方が悪者と戦うヒーローもののテレビ番組が大好きなのだそうです。 音楽の先生が曲を付けてくれたという楽譜も貼り付けられていました。 その歌を歌ってくれましたが、私にはよくわかりませんでした。
彼は歌がたいへん好きで、帰宅する途中、周回道路を歌を歌って歩いてくるのに出くわしたことがありますが、 歌はそんなに上手ではないように思います。というより、 かなり音痴ではないかと思うのですが、本人はそんなことにはまったく無頓着なのです。

Kくんは、いつも上機嫌なのですが、私を見返しながら眉をしかめることがあるのに気がつきました。
眉根を寄せて、いたましそうに私を見返す目、……。 最初は、どうしてそんな、彼ににあわないしかめっ面をするのか分からなかったのですが、 それが、私の表情を映しているのかもしれない、ということに思いあたるまでにそんなにかかりませんでした。 私は、彼と話をしているときでも、眉根を寄せてしかつめらしい表情をすることがあるようなのです。
ほんとうは私は目が悪くて、そのためのまぶしさもあって、 ついそんなきびしい表情になってしまうのです。他の人なら見て見ないふりをしてくれるのでしょうが、 彼は真っ正直に私の表情を映して見せてくれているのです。
そのことに気づいてからは、彼と話をしているとき、自分の表情に気をつけるようになり、彼が眉をしかめることも 減ったように思います。
そのことがあって、私は、Kくんを見直したのです。彼の真率さのねうちを思い知らされました。

そして、せんとくんがくるという土曜日、博物館のロビーで待っていると、11時きっかりにせんとくんがあらわれました。
幾組かの子どもづれの家族や学生などが待っているところに、女性の職員に案内されてせんとくんが登場したのです。
そして、最初に駆け寄った小学生らしい女の子と握手したり、一緒に写真を撮ったりしています。私はソファに座って、 その様子を眺めていました。 そのあと数人づれの学生が、せんとくんを真ん中に、笑いながら合掌のポーズで写真におさまりました。
にぎやかな連中が三々五々散らばって行き、 しばらくするとロビーは閑散としてきて、一人のおばあさんが付き添いの職員に写真を写してくれるように 頼んでいるだけになりました。
私は、迷っていました。Kくんもいないし、一人でせんとくんとツーショットというのは、ちょっと恥ずかしい。 「誰かに見せたいので」といった口実で、頼んでみるか、……しかし、嘘をついてまで写したくはない。 いったいそれほどのものなのか?  しばらく躊躇した後、私は、勇気をふるってもう一人の職員さんに、 デジカメを押しつけるようにして、撮影を申し入れました。
おばあさんが撮り終えると、ロビーには、私だけになりました。まず、せんとくんに挨拶をすると、向こうから 握手をしてくれたのです。私は、すこし気持がほぐれて、ぬいぐるみの中は女性らしいが、 暑くてたいへんだろうと思いやる余裕が出てきました。
「では、写しますよ」と言う職員さんの方を向いて、私は合掌のポーズをとりました。せんとくんも合掌のポーズ をするものと思っていたら、彼は左手を腰に、右手を伸ばした奇妙なポーズでした。
せんとくんに礼を言って、カメラを受けとり、「確認してくださいね」という声を背に、ロビーから出ていこうとしたとき、 作業服を着たKくんがどこからともなく現れたのです。 どこか外で作業していたような雰囲気です。
「せんとくんが、来てるよ」
私が、呼びかけるとKくんは、嬉しそうにせんとくんに駆け寄って、まず握手、さらに両手で握手、 その上、ハグまでしています。
その後、私は、Kくんに頼まれて、せんとくんとのツーショットを数枚撮りました。 合掌のポーズを練習したと言っていたにもかかわらず、 興奮して忘れてしまったのか、すべてピースになってしまいました。 シャッターを切る瞬間になると自然にピースのポーズになってしまうようです。
「Kくん、せんとくんとふたりで合掌のポーズって言ってたやろう。 せっかく練習したんやから一枚くらい合掌のポーズで撮ろうよ」
私がそんなふうに提案するとようやく思い出したようで、やっと手を合わせました。 そばにいる職員さんも合掌のポーズで協力してくれて、 やっとKくんの願っていたツーショットが撮れました。
「やったぜベィビィ、イェーイ」
彼は、せんとくんとハイタッチをして、職員さんとハイタッチをして、さらに私ともハイタッチをして、満足げに ロビーの奥に消えていきました。
                           【完】


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