長男に捧げるレクイエム


私の長男は、2006年9月21日、ブラジルで遭難によりなくなりました。28歳でした。
ここに集めた詩(のようなもの)は、哀しみから立ち直っていく中で「うずのしゅげ通信」に発表したものです。 書くことでかろうじて喪失の苦しみにたえてこられたと、今にして思います。

  [補注] これ以後に書いた詩は、詩のコーナーでご覧ください。


  職場で
                                2007.1
2006年9月、長男を亡くしました。しばらくして職場に復帰したのですが、
気持ちの持ちようがわからなくて不安に苛まれていました。復帰がうまくでき
ないようなら辞めるしかないとも考えていました。そのころは知った人と会い
たくないといった思いが強くありました。人中を歩いていても現実感が希薄で、
風景にも精彩がなく、以前に読んだ離人症を病んだ人の心象風景そのままでし
た。
電車の中や職場で所かまわず不意にこみ上げてくるつらさ、涙を見せることな
く、そのつらさをうまく紛らすことができるだろうか、といった心配もありま
した。
生徒たちは、もちろん今回のことは知りません。私の落ち込みなどまったく気
にかけてはいません。いつもどおりの生徒たちです。いつもどおりの明るさで
す。いつもどおりの遣り取り。……
しかし、私にとってはそれが救いでした。普段は心のすみに押し込めたつらさ
が、意識にまとわりついてどうしても払拭できないときがあるのです。そんな
時は生徒に話しかけたりして、気を紛らしていたのです。生徒の優しさ、寛容、
明るさ……うまく言い表すことができませんが、それらが私を包んでくれてい
るように感じました。
そんな中で、これまでも薄々は気づいていたことですが、今回つくづく分かっ
たことがあります。
自分は生徒を教える立場にいて、場合によっては支えてきたかのように錯覚し
ているけれども、それはものごとの半面であって、実は支えられていたのは自
分の方だったということ。

校内で出会うといつも「浅田先生……」と声をかけてくれる生徒がいます。別
に用事があるわけではないのですが、笑みを浮かべて、優しい抑揚を付けて。
出勤した最初の日、彼は、掃除場所にやって来たとき、そこで待っていた私に、
いつもどおり
「浅田先生……」と声をかけてくれたのです。
私は、返事を返しながら、ふと心に浮かんだことを口にしました。
「浅田先生なぁ、いまめっちゃ落ち込んでて、元気ないねん。
Oくん、『浅田先生、元気出してください』って言ってくれないかな、そうした
らきっと元気でるから……」
彼はにっこり笑って、じつに素直に「浅田先生、元気出してください」と言葉を
かけてくれたのです。
私はあやうく涙が出そうになりました。涙ぐんでいたかもしれません。
その呼びかけによって私は最初の日を乗り切ることができたのです。
彼の声かけはそのときだけではなく、頼まなくてもその後しばらくは続きました。
ほんとうにありがたかった。
そのことだけではありません、私は生徒たちに感謝しなければならないことをい
っぱい抱え込むことになってしまったのです。まだ充分立ち直れたとはとても言
えませんが、そんな生徒たちがいればこそ、これまでやってこれたということ、
それは認めなければならないと思っています。他の学校だったらもう辞めていた
かもしれません。


  卒業のお礼状
               2007.2
そんなO君が、卒業の直前、パソコンを使った国語の授業でわたし宛のお礼状
を書いてくれたようで、机上に配達されてきたのです。
「浅田 洋先生へ
 いろいろお話をしてくれてありがとうございます。
 二年のとき理科を教えてくれてありがとうございます。
 体育館のそうじもおしえてくれてありがとうございます。
       平成19年2月
                   O.K.   」
教えてもらったのは私の方、お礼を言わなければならないのはこちらです。
大切なことを教えてくれてありがとうございます。
このハガキは大切にしまっておきます。


  嘆きの壁
            2007.9
北の庭に面した
三畳ばかりの、本で埋まった狭い部屋で
あのことがあって復活したタバコを吸う
朝食後の一服
換気扇をつけてはいても
煙がこもると
胸苦しさがこみ上げてくる
私はすでに嘆き疲れた
嘆きはいまだに生々しいが
また、すでに半分くらいは虚しい
あるかないかわからないものを
あるとして踏ん張ることができない
それでも、暗い部屋の窓から覗くと
前栽のトサミズキの葉群れが
日の光を受けてまぶしく
黄色い輝きを放っているのがあざやかだ

近つ飛鳥の風土記の丘は
私の休日の散策コース
王陵の谷につらなる丘陵に点在する
古墳群を縫う道すがら
鶯の鳴き声に誘われて
嘆きはつぎつぎに姿をあらわす
はじめは哀惜の想いがわきたつ
やがて想念は浄化されて
不在そのものの嘆きとなり
歩くリズムにまぎれて消える
歩くことは座ることに似ていると思う
しかし、このこころの平穏は、惜しいことに長続きしない

そしていつのまにか私の中にそそり立つ嘆きの壁
これまでの日々を
この壁を積み上げることで
たえてきたとつくづく思う
世界の意味がこんなに一点に集中したことはなかった
すでに焦点に彼はいないにもかかわらず
いや、いないがゆえに
嘆きの種は世界そのものとなり
私はその度ごとに一つ一ついびつな煉瓦を積み上げてきた
そしていまや、心の中に峨峨たる壁が建つ
くずおれた神殿の遺跡ではなく
いましも積み上げられた廃墟
壁の地肌に掌を当てると
ひやりとした冷たさが
壁を這う蔦の棘のように胸を刺す
乾燥した煉瓦の稜角から水がしたたり
叫びをふくんだ風に帽子を吹き飛ばされて
私は、思わず周りを見まわす
壁はすでに翳り
深い闇が訪れようとしている
煉瓦の隙間に蛍の光が仄見える
「本当に蛍なの? 蛇ではないの?」
ここはどこなのだろう
嘆きはもはや悲しみを吹き払い
乾いた虚無感さえ漂わせる
しかし、この嘆きの壁は
私の人生の残余を
時の風化にたえねばならない


  祈り
          2007.10
私は祈ることができない

仏壇に向かい
般若心経を唱えてみるが
言葉が流れ出るのみで
心の中に祈りが湧いてこない
しかたなく縁側の椅子にすわって前栽を眺める
夏になるとあらわれるハグロトンボが
今日も八ツ手の葉に凛ととまっている
翅を閉じたまますっくと立てて
風に揺られている
黒い翅がゆっくり開いてゆく
開ききる前に一瞬のためらいがあって
さらにググッと力を込めて開き
あとは閉じるにまかせる
しばらくしてまたパッと開く
ストレッチのようなリズムの
ふしぎなくりかえし
なぜ、こんな所作をくりかえすのだろうか
私の仮説はこうだ
いつでもぱっと飛び立てるように
翅の筋肉をつねにあたためておく
この仮説が正しいかどうか、それはわからない
わからないが、とりあえずはそれで納得する

しかし、このとりあえずの納得が今の私には効かない
たとえば、たましいのように
あるかないかわからないものを
とりあえずあるものとして持ちこたえることができない
気持が折れてしまっている
かつてはできていたことが、いまはできない
だから、祈ることができないのだ
それに、祈ることができないということが
いったい苦しいことなのかどうかもわからない

いつか祈れるようになるのだろうか
祈りのこころがもどってくることがあるのだろうか

とりあえず
そう、とりあえず
ハグロトンボに倣って
手を合わせて立ててみよう
合掌した手がかすかな風を切る
そうしていれば
あるかないかわからないものを
あるとして踏ん張ることができるようになるかもしれない
ふいと飛び立てるかもしれない
そうすれば祈りのこころはかえってくるだろうか

しかし、八ツ手に揺られ
風になぶられながら
いつまで合掌を続けるのか
むなしさにたえきれなくなった私が
ついに合掌を解こうと決意する
そして、まさに両の手が離れようとしたその瞬間
なくなった息子の両手が
外側から私の両手にそっと重ねられる
私の手が一瞬とまどいをあらわにしたのは
息子の掌があてがわれたときの驚きででもあろうか
そして、その手に導かれるままに
ハグロトンボの四枚の翅が閉じるように
ふたたびおのずと両手が合わさっていく
興福寺の阿修羅像の合掌している手に
もう一対の手が両側から重ねられたかのように
そのとき私はたしかに手の甲に
息子の掌の暖かみを感じとるにちがいない
合掌した手が微熱をおびて
祈りが懐に抱かれている
いや、抱かれているのは祈りでもあり
また私でもあるようなのだ
ああ、はたしてそんな奇跡が私に訪れるときがあるだろうか

(注)ハグロトンボ:翅は漆黒、腹部は細く緑色(雄)または黒褐色(雌)


  二上山挽歌
             2007.12
教師を演じる勤めがはねて
逃れるように校門を出たところで
限界まで切羽つまっていたことに気づく
一年たって、なおこのざま
夕闇迫る宮ノ森の村中をせかせかと歩き
笠縫駅のホームに立つと
奈良盆地はなごりの夕焼け
低いほどに濃くなる茜色をたたえた西の空
その茜色の降りつむ下に
歴史の遠吠えが聞こえる山
二上山のシルエットがくっきりと浮かびあがる
私の家は、あの二上山の向こうだ

ああ、胸ふるわせる名をとなえてみようか
大津皇子(おおつのみこ)を悼んで
姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が
二上山に呼びかけたように

うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
        (万葉集巻第二 一六五 大伯皇女)

節をつけて低く朗唱してみる
遠い万葉の皇女の声が
千数百年の隔たりを越えて
今、悲しみに私を誘う

二上山は、「山越しの阿弥陀」の山でもあるが
今の私はまだ祈ることができない
ただ、いにしえ人におのれを重ねて
奈良盆地の真ん中から
西方の二上山に向かって
胸ふるわせる名を心の中でとなえてみよう
「Yoichi」と
そしてそこからあふれくる暖かい気配を浴びていよう
その暖かさをたましいと呼ぼうと
思い出と呼ぼうと
なんの違いがあろうか


 ボディブロー
             2007.12
妻よ
そんなふうに
悲しみのボディブローに
たえるだけでは
いくらなんでもまいってしまう
時に夢にうなされるのは
そのダメージが今になって
夢に侵入しているからではないのか

妻よ
そんなふうに
悲しみのボディブローを
浴びつづけてはいけない
二十八年をかけて培われた
息子の思い出を
夢の袋を広げて
育んでいかなければならないのだから


  震災の地で
              2008.1
かの震災の地で
哀しみを癒している
息子の妻よ
おなじひとりを悼んではいても
哀しみは共通言語ではないから
あなたにどれだけ寄り添えるだろうか
妻であるあなたの哀しみと
親である私の哀しみとは
ふれあえるのだろうか
ただ願っている
震災で亡くなった6434人を哀悼する祈りの朝に
一人を悼んで
あなたがいっそう孤独でなければいいのだが


  二上山の石
                2008.1
百年近く前、私の父が
二上山から持ち帰ったという石が我が家にある
一抱えもあるほぼ四角な石で
その石を巻いてふしぎな刻みが見られる
線刻されたほぼまっすぐな線が幾本も走っている
その線と線の間には不規則な刻みが文字のように並ぶ
その模様から原始宗教のにおいがたちのぼる
専門家に見てもらったが
自然の風化でできたものか
人為的に刻まれたものかさえわからなかった
私は息子が亡くなってしばらくして
その石を一人で外に放り出してしまった
発作的なその行為にどんな意味があったのか

この一年あまりをふり返ると
つらさに追いつめられることはあっても
絶望したことはなかった
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉※
時にはそんなことばが脳裏をかすめた
〈絶望〉は、しかし、私にとって〈虚妄〉ではなかった
ある瞬間には、手が届くところに厳然とあった
しかし、結局私は絶望に崩れることはなかった
どこかに息子の視線を感じていて
それが、かろうじて絶望から私を遠ざけた

哀しみと苦しみのせめぎあいにたえきれず
ひそかに呻くことはあっても
それを地獄の苦しみとは思わなかった
息子のことを憶うのは苦しい
なのに何もかもをむりやり彼に関連づけてしまう
世界の意味がすべて彼という一点に収斂していた
無限の苦しみを生みだすこのしくみは地獄そのもの
しかし、私はそれを地獄と貶めたくなかった
いつの日か、このしくみが
苦しみを、ではなく
懐かしさをもたらしてくれるたしかな予感がある

自分の置かれたさだめを
厳しいものだと身をすくめてはいたが
不幸だと思ったことはなかった
不幸と思いなすと
息子の生の証すべてを否定してしまうような気がして

苦しみや
哀しみは
いっぱいあったが
絶望もせず
地獄だとも
不幸だとも
思わなかった
外に向けられた怒りは
ただたまらなくなって
一抱えもある重い石を
発作的に外に放り出した
それだけ

今は、取り戻しつつある日常と
聞こえないほどの通奏低音をひびかせる軽い鬱
そして、出会いがしらの哀しみ
の日々

 (※ハンガリーの詩人ペテーフィ・シャンドル「希望」より魯迅が引用、竹内好訳)


   鎮魂歌(連作三篇)
                  2008.2
「山越阿弥陀図」

風土記の丘から
近つ飛鳥博物館にくだる途中ふと立ちどまる
そこから、王陵の谷越に
二上山を近々と仰ぎみることができる
「山越阿弥陀図」の中には
ここ、王陵の谷のあたりに
阿弥陀さまが座っておられて
それを奈良盆地から遠望したものがある
いま私がいるのは、二上山の西麓
まさにその台座のあたり
裳裾の風をあびるくらいの近さ
阿弥陀さまが立ちあがり
永観堂の「みかえり阿弥陀」そのままに
ふり返れば
おのずと目が合うような
そんな山道に佇んで二上山を眺めている
そんな場面を思い描いて、ふと気がついた
あの永観堂の阿弥陀さまは
左をふり返っておられる
私がいるのは右
そこで、私と視線が合うという想定は
敢えなくも崩れさってしまう
そんなに都合よくおさまるわけがないのだ
苦笑しながら歩きはじめて
もう一度思いをめぐらせる
立ちあがった阿弥陀さまが体を翻して
西に向かって歩を運ばれる
そこで、ふり返られたと考えれば
まさしくこちらを見る視線になるではないか
「うまくつじつまをあわせたな」という声が頭上からひびいてくる
こんなふうに阿弥陀さまのウィンクをいただいては
歩きにも弾みがつくというものだ


  ミズキ

ミズキの名前の由来は
新芽のころ枝を折ると水を滴らせるところから
と、聞いたことがあります
初夏
そのミズキが
遊歩道から古墳にそれてゆく道の際で
花をつけていることに気づいたのです
新しい枝に
真っ白い四弁の花を散らせています
線香花火の飛び散る火花を
瞬時に白く凍らせたような花序は
わたしをふしぎな哀しみに誘いこみます

長男をなくしてから
たましいの行方を追いもとめてきました
人がなくなると
たましいは飛び散り
親しい人や知人の心に受けとめられ
その人のたましいに寄り添う
そんなふうであってほしいと

そんな思いがあったので
白く小さい火花を散らしたミズキは
いまや、唐突にわたしに親しく
また忌避される樹ともなったのです
しかし、手に撓めたミズキの花房は
わたしのかってな思いこみなどしらぬげに
あくまで白く清楚に四弁の花を震わせています
わたしは、思わず花をひとつつまんで食べてしまいました
わたしがその場を去ったあと
そのつまんだ痕から
ミズキは
ひそかに樹液をしたたらせたのでしょうか


  山之口獏の詩

本屋で山之口獏の詩集を立ち読みしたのです
詩集の中に「告別式」の一篇がありました
自分が死んだときの告別式を詠んだ詩です
その詩の中に
獏さんがあの世に来てみると
長男があらわれて
盆の供えについて獏さんをなじるという一節があります
そうか、獏さんも長男を亡くしていたのかと
共感するところがあって
あらためて彼の詩を読んでみようという気になったのですが
結局、詩集は買いませんでした
その夜、インターネットで「告別式」という詩を探してみると
ありました
フォーク歌手の高田渡さんが作曲して歌にまでなっています

 こうしてあの世に来てみると
 そこにはぼくの親父がいて
 むくれた顔して待っているのだ
 なにをそんなにむっとしているのだと聞くと
 お盆になっても家からの
 ごちそうがなかったとすねているのだ

ええっと、わたしは目を疑ってしまいました
どうしたことか、獏さんがあの世で会うのは「親父」なのです
「長男」ではないのです
「長男」ではなくて「親父」
頭が一瞬パニックです
長男をなくしてそのことがいつも頭にあるので
読み違えてしまったのか
哀しみにほうけているきらいはありますが
いくらなんでもそこまで惚けてはいないと
さらに念入りに調べてみると
わかりました
高田渡さんが曲をつけるとき改竄していたのです
それにしても何と人騒がせな
もっとも「親父」では
つぎの一節
 ぼくはぼくのこの親父の
 頭をなでてやったのだが
が、いかにも不自然
それをあえて改めたのは
やはりあの世に「長男がいて」とは歌えなかったのでしょうか
どきりとさせられるできごとだったのですが
おかげで、わたしは一つのイメージをえたのです

私の死に際
私のたましいにずっと寄り添ってきた息子のたましいが
先導してくれる
わたしがちゃんとついてきているか
永観堂の「みかえり阿弥陀」のようにふり返り
つつむような視線で励ましてくれる
そして、あの世についたときの語らい
なぜ、そんなに哀しそうな顔をしているのかと問うと
「お経にも、その人なりの定めというものがあって
お父さんの般若心経は、息子をとむらう定めでした」
と、ためらいがちに口にするのです
それが二人の再会


言わでもの補注
「人が死ぬと、たましいは親しい人の心に分有される」という小学生の作文に
でも出てきそうな思いこみにとらわれています。
それにしても、その思いこみを刻もうとしたこれらの長々とした詩のようなも
のは、いったい何なのだろうと考えてしまいます。
詩の形式で書かれていますが、詩ではありません。詩というものは、ことばが
意味を下支えしつつも、ことばのワザが、意味の薄膜を透してひかっているよ
うでなければなりません。(そう、詩において、その意味は薄膜でしかないの
です。)
私のことばには、そのきらめきがない。それは自覚しているのです。では、賢
治さんのいうように心象スケッチとでもいうべきでしょうか。息子の喪失にテ
ーマをしぼった心のスケッチとでもいえば、あたらずとも遠からずといったと
ころでしょうか。とはいえ、これらの表現が、賢治さんとおなじようなものと
いうわけではありません。わたしはそれほど身のほど知らずではない。だから、
心のスケッチとでもいうことにしておきます。
これら心のスケッチを書きながら、心がけたことは、仏教のことばはできるか
ぎり使わないということです。高史明さんは、ご子息を亡くされて、その絶望
から仏教を支えにして立ち直ってこられました。だから、高史明さんの講演な
どを読むと仏教の語彙、論理にのせて自分の苦悩と、そこをくぐってみえてき
たひかりを表現しておられます。しかし、私は、とりあえずは、そうしないで
おこうと考えました。苦しみを安易にことばにしたくない、ということでもあ
ったし、また表現するとなれば自分のことばであらわしたいという思いがどこ
かにあったのかもしれません。
そんなふうな考えがあったにもかかわらず、仏教的なことばは散見しています。
それには理由があるのです。ともすればとじこもりがちな自分の哀しみが、仏
教のことばをつかうことによって、死者に向かって、あるいは世間に向かって
ひらかれる、という効用がたしかにあるのです。そこに救いを求めざるをえな
かったということでしょうか。
しかし、私は、今後も、できればそういった方法によらないで、もう少しもが
き苦しんでみようと思います。苦しくてもそこはがまんして、自分なりのこと
ばを探してみようと。


補遺

 挽歌 その一
               2007.6
息子が28歳で逝ってしまった
思いがけず遠つ国ブラジルで
その日を境に、私はこれまでとはまったく違う世界に迷い込んでしまった
息子のいないその世界にはどうしてもなじめない
そこでは、ものごとの距離感が不安定で
現実が遠く、足を踏まえることができない
また、何か不穏な気配があり
これまでの世界ではありえないことが、起こる
北朝鮮が核実験をしたというニュースを
私は、職場にもどってまもない朝
駅まで送ってもらう車のなかで聞いた
アナウンサーの声は古いニュースのように色あせていたが
その口調は、あらたな戦前のはじまりを思わせる
「こんな世界はいやだ」
と、私は、突然車の中で涙を流した
いまだに息子のいないこの不安な世界にはなじめないでいる

息子は科学者だったから
死というものを、意識活動の停止だと観念していただろうし
私も、そんなふうに思うのだが
それでもたましいの片鱗なりと、どうにかしてみつけたいと
あがきにあがいている
中有を過ぎたころから
季節はずれの冬のハエが
日に一回くらい、台所に姿をみせるようになった
そんなことが一月ばかり続いたある日
目の前にめずらしくじっとしているハエに
妻は、息子に語るように話しかけてみた
話し終わると、ハエは妻と真正面に向かい合い羽根をふるわせ続けた
妻は、季節がら、蝉にもコオロギにもなれなかった息子が
考えた末、ハエになってあらわれたのだと言った
「あの子のことだから考えたのよ」
と、いまでも半ば信じている

ふだんは気づかないが
なんでもない日常の底の底に隠されていた不可能の岩盤
そこに額をごつんごつん打ちつけて自傷しているかのような日々が続いた
ついそこに息子の気配はある、それでいて決して会うことができない
そのことが私を引き裂く
これまでも、子どもを亡くした何千、何万、何億という親たちがどれほど嘆いたことか
しかし、誰ひとりとして再会をはたした親はいない、とみずからに言い聞かせてみる
それでも、つらさはおさまりはしない
今生ではもはや会う方法はないという
深い淵の上に佇んでいるような不安な現実が
時と場所を選ばず惻々と私を襲ってくる
不安は拭っても拭っても拭い去ることができない
そんなときは、トイレにでも避難するしかない
閉じこもって、自傷の誘惑に耐えることが
自分をかろうじて支える唯一の方法であったと、今は思う
教室で
卒業を間近にひかえた生徒が持ってきたサイン帳にこんな問いを見つけた
「魔法使いに、ひとつだけのぞみをかなえてやるといわれたら、何をお願いする?」
その瞬間はっと胸を突かれ、顔色が変わるのがわかった
時間を、息子が亡くなる前の夏にもどしてくれ
そんな思いがなにげなくヒヤッと通り過ぎる

息子は、宮沢賢治の命日とおなじ9月21日に、ブラジルの海岸で遭難した
遺品の中に文庫版の『銀河鉄道の夜』があった
『銀河鉄道の夜』は
祭りの夜、川に落ちた友を助け、自らは溺れてしまったカンパネルラが
天上の旅に出立する物語だ
遺体の確認、火葬という一泊五日のブラジル行で
唯一浅い眠りをねむったマセイオのホテルでは
夜空を見上げる余裕はなかったが
頭上にサウザンクロスが輝いていたはず
サウザンクロスは、銀河鉄道の天上の駅だ
賢治にかかわるこんな偶然を星座のように配置して
私は、いったいどんな物語を紡ごうとしているのか

幼少のころの息子の思い出はたくさんあるが
私は
いまだに息子のアルバムを見ることができない
妻は
自分の中の楽しかった思い出が
まるでカードが裏返されるように
すべてがつらいものに変わってしまったと嘆く
どうしても会いたくてたまらなくなったときには、写真を見る
その時は涙があふれるが
息子に会えたようで少し心が静まるとつぶやく

息子のことを書き残しておこうと思っても
十本ばかりの論文のほか
彼がどんなことを考えて生きて来たのか
内面をうかがうに足るものはほとんど残されてはいない
小学校時代の作文と、中学、高校の卒業文集のみ
神はその人にたえられない試練は与えないと
力づけてくれる人もいるが
私はそんなに強くはない
これまでかろうじて精神のバランスをとりながら
普段の生活を演じてきた
どうしてこれまでの日々をしのいでこられたのかふしぎなくらい
わたしは嘆き疲れました(注)
わたしは悲しみ疲れました
そして最近ようやくその嘆きの断片を
悲しみのありのままを、書きはじめようとしている
嘆きを馴らし、やわらげ
悲しみを悲しみのままに生きる力となすために

                   (注:詩編より)
反歌
遠つ国に逝きし息子のみたま還り近つ飛鳥の丘にやすらえ
草枕旅にしあればとむらいを五人が集いわが経でなす


 挽歌 その二
              2007.6
柳田邦男氏は、次男を亡くした
脳死から死への11日が過ぎ、遺体が家に帰ってきた深夜
テレビのスイッチを入れると
偶然、衛星放送でタルコフスキーの『サクリファイス』が放映されていた
生前、彼に深い感動をもたらしたその映画は、いままさに終わろうとしていた
「バッハの『マタイ受難曲』のアリア」が
「「憐れみ給え、わが神よ」のむせび泣くような旋律が
部屋いっぱいに流れた」
柳田邦男氏は脳死をテーマにノンフィクションを書き始めた

高史明氏は、十二歳の一人息子に死なれたあとをとぶらい
写経、そして念仏に救いを求めた
結句、彼は親鸞の徒となった
悲しみは、死者から生者に差し向けられた回向(還相回向)だと言われる
それゆえに、悲しみから逃れるのではなく
その悲しみをむしろ大切なものとしていただき
悲しみは悲しみのままに、おのれの慈悲へと昇華しなければならぬと

西田幾太郎は、当時三高のラグビー部員であった長男謙を亡くしたとき
つぎのような短歌を詠んだ
《垢つきて仮名附多き教科書も貴きものと筺(はこ)にをさめぬ》
《死にし子の夢よりさめし東雲(しののめ)の窓ほの暗くみぞれするらし》
また、それより先、次女を亡くしたとき、つぎのようにしたためられた
「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、
遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、此処(ここ)には深き意味がなくてはならぬ、
人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。」

五島美代子は、長女を亡くして、つぎの歌を詠んだ
《亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ》

中原中也が、幼い息子を病気で亡くしたときの詩
《また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない》
そんなふうに歌ったが、それでも耐えきれず、神経衰弱を患い、療養所に入院した

中田武仁さんは、長男の厚仁さんが国連ボランティアとしてカンボジアで殉職したとき
ただちに、支援基金を設立し
また、自身が国連ボランティア大使になって
いま、世界を駆け回っておられる

宮沢賢治は、九月二十一日に亡くなった
(奇しくも、私の息子Yoichiと同じ日だ)
父宮澤政次郎は、賢治の遺言にしたがい
『国訳妙法蓮華教』千部を翻刻、友人知人に配付した


  千年の樟よ
                  2007.11
壺井の村は家から自転車で十分くらいの距離にある
その朝、壺井八幡の千年の樟に会いに行こうと思った
喪中ということで、足を踏み入れないように控えていたのだが
一周忌を済ませた今、もはや憚ることもあるまい
しかし、いざ自転車に乗ると、亡くなった息子のことを思い出して
悲しみがこみ上げてくる
息子は、神奈川で借りていたマンションから
最寄り駅まで自転車で通っていた
お別れ会を済ませて、しばらくしてからマンションを片づけにいった
その帰り
息子が自転車で
私たち夫婦の乗った電車を追いかけて
疾走する幻を見た
涙がとまらなかった
それ以来、自転車に乗るといつもその幻影が襲ってくる

秋のお彼岸を過ぎたのにまだ汗ばむ陽気
私は想念を吹き飛ばすように
足に力をこめてむやみにこいだ
壺井の村はずれの高台に、その神社はある
彼岸花が咲いている道ばたに自転車を止めて
急な石段をのぼる
樹容が目に入らないうちから杜のようなざわめきが聞こえてくる
ほんとうに聞こえてくるのか
圧倒的な樹の気配が降り注いでいるだけなのか
それは分からない
石段を登り切ると千年の樟が姿を現す
今年は彼岸が過ぎてもなお真夏日が続いており
法師蝉が鳴いている
秋の蝉
しばらく息を整えながら太い幹に蝉を探す

千年の樟よ
常緑樹であるために、秋に葉を散らすことなく
春、新緑の季節に無数の葉を降らせる
千年の樟よ
雨が降れば
時間をずらせて雫をしたたらせ
雨がやんだあとも雫を降らし続ける
千年の樟よ
巨大なあなたの木陰に立つと
つい時間のことに想いをめぐらせてしまう
千年の樟よ
あなたの大きな木陰で
あまりに短かった息子の生涯のことを考えさせてください
私の息子は二十八歳で旅だってしまった
息子が生きた二十八年はながかったのか
それともあまりに短かったか
息子はおのが生涯をどのように駆け抜けて逝ったのか
それなりに充実したものであったのだろうか

あなたの偉容を見あげると
どこかの葉群れがいつも揺れていて
一本の樹でありながら千年の杜の豊かさが伝わってくる
息子が持ち得なかったものだ
研究室に恩師を訪ねたときのことばを思い出す
「彼はこれから枝葉を広げてゆこうとしていた矢先でした」
千年の樟よ
あなたは、夜、無数の葉で呼吸をする
あなたの吐いた二酸化炭素に
千年前の炭素原子が含まれていないとどうして言えようか
昼、あなたは光を受けて光合成をする
ブラジルで火葬した息子の二酸化炭素が
はるばると地球を循環する風に運ばれてきて
あなたに吸い込まれなかったとどうして言えようか

昨晩読んだ中国の詩人陶淵明の挽歌の詩が浮かぶ
その最初の一節
有生必有死 早終非命促
 (生あれば必ず死あり
  夭折といってもあわただしい生であったわけではない)
ここがかんじん要のところ
早世は確かだとしても
息子の生涯は決してあわただしいものではなく
それなりに完結したものであったと考えたい
そう考えていいのかどうか
千年の樟よ

先週、私の勤める養護学校の生徒が
実習させてもらっている橿原昆虫館を訪ねた
帰りがけになにげなく展示を眺めていて
ふと目にした蝶の翅に惹きつけられた
翅にはふしぎな目玉模様が浮きあがっていたのだ
擬態というらしい
私は、その展示の前で考え込んでしまった
蝶の翅に目玉の模様が浮き出るまでに
何世代の経過があったのだろうか
どれほどの時を要したのか
蝶の親たちは子孫を天敵から守るために
幾世代も幾世代もかけて擬態を願ったにちがいない
そんなふうに人類は何を熱望してきただろうか
たましいがあってほしいということ、それをおいてはない
息子を失ったとき、私はどれほど切実にそれを願ったことか
いにしえより親しいものを失ったときの
たましいの希求は痛切なものとしてあったはず
それは埴輪や曼荼羅にその痕跡をとどめているが
しかし、たましいはいまだに顕現してはいない
蝶の翅に浮かび出た模様のように
人はいまだにたましいを擬態するには到っていないのだ

人が言葉をもってたかだが数十万年
たましいの希求となるとせいぜいで数万年の歴史だろう
まだまだ無理だ
とても蝶の三千万年には及ばない
人はたましいを獲得する途上にあると考えたい
息子は、亡くなってまもなく妻や母親の夢に現れて
あたたかい感覚とリアルな存在感を残して逝った
弟の夢にも
そして、ほんの少し私の夢にも
それはもしかしたらたましいの片鱗かもしれない
いや、夢に現れたそのものを
たましいの擬態の一つと考えればいいのだ
そんなふうにして徐々にたましいの擬態を人は明らめていく
人の願いが強ければ強いほどたましいが浮き上がってこないはずがない
何千万年か後には人はたましいの擬態をもつ

しかし、たましいの擬態によって人は何をまもるのか
決まっているではないか
虚無的なおのれの眼差しから
命の意味を
死の意味を

問題は、たましいの希求が
いにしえに比してむしろ弱まってはいないかということ
それが事実なら、擬態などおぼつかない
さらに困ったことは、人がたましいの擬態をもつ可能性よりも
人類が滅びる可能性の方がおそらくは高いということ
人は蝶にも劣るということか

  想念はおのずと飛躍して、かなしい観念の遊び、さらに二つ

  蝶の翅に浮き上がる模様は
  蝶の天敵である鳥の
  そのまた天敵の目玉
  おそらく蝶は、その天敵を知りはしない
  だから、そこに何ものかの介入がなければならない
  ふたつの関係を見ることができる目の存在

  いつの日にか人の擬態となるたましいは
  死者のたましいと同じものでなければならない
  しかし、人は死者のたましいそのものを知りえない
  死者のたましいと生者の擬態として浮かび上がるたましい
  その二つをつなぐことができる唯一の存在

  いま太幹で鳴いている蝉の数日の命
  息子の二十八年の生涯
  後何年生きるか分からない私の寿命
  千年の樟の生きてきた千年紀
  蝶が擬態を身につけるまでの数千万年の時間
  どういう形かはわからないが
  人間がたましいの擬態を持つにいたるまでの悠久
  それらは、あまりに桁が違いすぎる
  宇宙的な時間に人間の寿命を埋もれさせないためには
  一つの方法しかない
  時間の対数を取ること
  高校の数学で習ったlogというやつ
  あれは、どうしてそんなことをするのか意味が分からなかった
  しかし、今はそれが分かる
  卑小ではあるが、かけがえのないものと
  とてつもなく偉容のものとを
  同一線上に並べるための方便
  息子の寿命も千年樟の命数も対数を取れば同一線上に刻まれる
  だから、私は対数の目を持たなければならない

  それにしてもなぜ今、対数のことを思いついたのか
  それには理由がある
  科学者としての息子の業績は
  弔辞を読んでいただいた恩師によれば
  二次元電子系の電気伝導度が
  対数的に発散して無限大になる
  ということを理論的に発見したことにあるらしい

  息子の二十八年の生涯は、それなりに充実したものだと考えたいが
  しかし、千年の樟よ
  生の光芒を、あなたと同列に論じようとすれば
  対数を取るしかない
  それは、受け容れなければならない
  今、突きつけられた一つのつらい現実ではある

  想念は、もはや飛躍しすぎていた
  飛躍しすぎた想念がむしろ悲しかった

われにかえった私に、ふたたび陶淵明の挽歌の結句が浮かぶ
千秋萬後 誰知榮與辱
 (千万年のその後は、名誉も恥もあったものかは)
二十八歳で逝った息子が残した論文も私の嘆きも
千年たてば何の意味もなくなってしまうだろう
すべてがむなしい

私は、千年の樟に近づく
磐根に立って太い幹に掌を当てる
ごつごつした肌から
生きている証のかすかな鼓動が伝わってくるようだ
耳をあてるとふしぎな音がする
それは樹液の昇る気配か
あるいは杜をなす葉群れが揺れているざわめきか
悲しみの瘤よ
私は愛おしむように掌を押し当てたまま呼びかける
埋もれている仏像よ
いにしえ、樟から仏像を刻みだした仏師ならば
この大幹に仏像を見いだしただろうか
そのように、人にたましいを幻視できれば
それも一つのたましいのありかたかもしれない
私は、樟に向かい合って
一つの仏像をイメージしていた

あのとき息子は仏像のように横たわっていた

どこかで見たことがある仏像だった
その仏像を探し出さなければならない
それが今、私に与えられた使命
意を決して、私は樟から離れた
こうして時間について考えをめぐらせる場を与えてくれた樟に
また、未来に刻まれるかもしれない仏像を大幹に秘めもつ樟に
自然に頭が下がり、黙礼をする形になる
上空から切り裂くような鳥の鳴き声が聞こえた
それは猿の叫びを髣髴させた
思わず葉群をふり仰いだが、鳥の姿は見えなかった
その声が、しかし、私に一歩を踏み出させた
千年樟の大きな陰から外に出ると
足下に虚ろな影がついてきた
影に躓かないように、これから私は歩いていかなければならない

反歌
千年の樟大幹に韻きあり 小暗き杜のさわにざわめく
千年の樟大幹に韻きあり 千僧供養唱名念仏

([追記]この詩には、「たましいの擬態をもつ」という表現が
何ヵ所か出てきます。私にも、「たましいの擬態」というものの
イメージがはっきりあるわけではないのです。もともとたましい
は目には見えないもの、いや、あるかないかすらわからないもの
です。それを擬態で浮かび上がらせるといっても、その表象がど
のようなものになるかは想像すらできません。
しかし、「たましいの擬態をもつ」ということの意味を判断保留
にしたままで、なおこの詩は、少なくとも自分にとっては、いくら
かの存在価値を持っているように思われるのです。私としては、
このように意味不明な表現を使うというのは、意に添わないこと
でもあるのですが、「たましいの擬態」という表現は捨て去るに
はいかにも惜しいような気もするのです。また、そのことばあっ
てこそ詩としての命脈をたもっているようなきらいもあります。
それ故、そのまま掲載することにしました。その間の事情、ご推
察いただければと思います。)


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