2000年3月号
[見出し]
かしわ哲著「あったかさん」(小学館)を読みました。
入学式で「国歌斉唱」
2000.3.24
かしわ哲著「あったかさん」(小学館)を読みました。
そこでいろいろ考えさせられたので、まずそのことからはじめたいと思います。
先日、NHK「ドキュメント日本」でサルサ・ガムテープを取り上げた番組がありましたが、
見られましたか。なかなかおもしろかったです。
サルサ・ガムテープというのは、知的障害をもった人たちのバンドです。
演奏活動を支えるボランティアの若者ふたりの支えながら支えられているという微妙な在りよう、
それがうまくとらえられていました。
そのことが知的障害者のバンドがどのようなものであるかを浮かび上がらせるように
演出されていました。そのバンド、サラサ・ガムテープを立ちあげたのが、
この本の著者のかしわ哲さんらしいのです。
わたしの勤める養護学校でも、生徒たちがどれだけ音楽や踊りが好きかというのは
いつも痛感させられていることなのです。バンドの演奏会などで呼びかけられると、
たちまち会場は生徒たちの踊りの渦となりますし、
また太鼓の演奏を聞いたあとで自分たちもたたかせてもらえるとなると、
これもめちゃくちゃな大合奏となるのです。
この性向を理解し、南米の打楽器やポリバケツに布のガムテープを貼った太鼓
(これがバンド名の由来)をたたくにまかせて、待ちの構えでつきあい、
根気強く人に聞かせるバンドにまで育て上げていったのがかしわ哲さんであります。
この待ちの構えというかスタンスというか、それがじつにすばらしいものがあります。
それに知的障害者だからこの程度でという要求水準の引き下げがないのがいい。
これらのことはとても大切なこととわたしは考えています。
本人の自発性を尊重した待ちの姿勢、これはいうほどなまやさしいものではありません。
待っているだけで、何も生まれてこないこともあるし、
うまれてきても自己満足だけでものにならないこともあるでしょう。
腹を据えてまっている、そういったかしわさんの心構えがおのずと見えてくるのです、
これがすばらしい。しかし、漫然と待っているだけではないのです。いいものが見えた瞬間、
それをめざとく捉えてさっとものにする、これはまさに魚釣りのタイミングですね。
たとえば、この本にあるクリスマスパーティーでのこと。
あるバンドのメンバーが「フライドチキンが大好きで、
あれよあれよという間に八本食べてしまった。茶目っけのある彼は、
食べかすの骨をこっそり私のお皿に四本のせて、
『哲ちゃん、いっぱい食べたね』と笑ってみせた。それから独特のこもった発音で、
『フラーイドチキン! フラーイドチキン!』と口ずさんだ。
これはいける!私は軽快なロックン・ロール曲をすぐ作った。
もちらん題名は『フライドチキン』」このタイミングがすばらしい、
待ちの姿勢と創造の瞬間を的確に捉えていますね。これがないと、
待ちが無意味になってしまうことがままあるように思います。この「フライドチキン」の歌、
テレビでも演奏されていましたがなかなかよかった。
それはこんなふうにして生まれたのですね。このタイミングは教師としておおいに
学ばなければならないと思いました。
一からの創造はむずかしいとしても、手を貸すタイミング、ここが肝心なところのようです。
早すぎてもいけない。早すぎると押しつけになるしかない。
遅すぎてもいけない。遅すぎるということは見逃してしまうのと同じになってしまう。
ちょうどよく本人たちの内面をくぐり抜けてきた瞬間を捉える、
そのタイミングだと思います。むずかしいですね。
もう一つは要求水準を下げないという問題です。これもなかなかむずかしいことのように思います。
障害者だからということで、基準が甘くなりがちなことがよくあります。
かしわ哲さんにはそれがありません。
かしわ哲さんのバンド演奏に対して、わたしは生徒と劇をつくりあげていく場合のことを
想像してしまいます。知的障害をもった生徒たちと劇をつくっていく場合、
あまりに加重をかけるわけにはいきません。たとえばわたしが勤める養護学校の場合、
何人かの生徒はかなりのセリフを覚えることができます。
(とくに自閉的な傾向をもった生徒は、一晩で脚本一冊まるごとでも覚えられますが。)
しかし、ほとんどの生徒はせいぜい三つか四つのセリフが限度なんです。
もちろん、それだからといって一般の劇と比べて要求水準を下げるわけにはいきません。
下げたくありません。およそ、「障害者がやっているんだから、このくらいのものだろう」
といった評価、賞賛は、その本人が分かっていないだけで、貶め以外のなにものでもない。
しかし、要求水準をさげてはいるわけではなく、一見しただけでは下手なのですが、
それでいてなぜか要求水準に近いところまでのぼりつめていることがあります。
たしかに演技は拙い、セリフもたどたどしい、それでいて劇そのものの力が「健常者のレベル」
を凌いでいる、そんなことがたしかにありそうな気がするのです。それを目指して、
それが見たくてやっているともいえるのですが……。
かしわ哲さんの本の書評のつもりが、触発されすぎたのか、
内容がいろいろなところに飛び火してしまいました。
お許しください。まあ、こんな調子で「わたげ通信」を今後も発行していきたいと思います。
気軽にどんどんご意見や情報を掲示板やメールでお寄せください。お待ちしています。
2000.3.27
入学式で「国歌斉唱」
わたしの勤務する学校でも4月の入学式から国歌斉唱が式次第に入ってくる。
ここに至るまでには侃々諤々(?)の議論があったのだが、結局押し切られた形になった。
国歌国旗の法制化がなされ、あとは所詮負け戦でしかないのか。何をかいわんやである。
そこで思い出したのがこれ。
(「歌壇」1999年11月号の国貞祐一の歌)
「日の丸も君が代も好き」侍従らは潮もかなうと醜(しこ)の船出す
「侍従」とは誰をさすのか? 「大君の醜(しこ)の御楯と出でたつ」は誰?
法制化なったからにはもはや負け、なにをほざこうとどうにもならぬ、
しかし負け方というものがあるはずなのだが……。
これは自戒の意味で言っているのです。負けが決まってから出てくるピッチャーの気持ち。
しかし、高等部とは言え、知的障害をもった生徒たちにどう教えていくのか。
ごまかしのことばではなく、つまり政治性を帯びたことばではなく、
賢治の言うような「ほんとうのことば」でどう教えていくのか、これはなかなかむずかしい。
それを教えるのが教師の仕事といわれれば、そうなのだが、
それにしても何も足並みをそろえる必要はないと思うのですが。
もうすこし猶予があってもよいのではと、ついそんな甘いことを考えてしまうのです。
いろんな意見を聞かせてください。
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