◇2000年4月号◇
[見出し]
障害児教育のホームページをもっとつくろう
障害児教育にとって「宮沢賢治」とは、何ものか?
知的障害の生徒は今の生産様式になじまない?
2000.4.1
障害児教育のホームページをもっとつくろう
インターネットをはじめて3カ月。わたしのホームページの来訪者は、これは想像ですが、
教育関係、宮沢賢治に興味をお持ちの方、さらに学校演劇の方ということになるでしょうか。
ところで、宮沢賢治関係や、学校演劇関係はリンクページがそれぞれに充実しています。
わたしのホームページもそれらにリンクさせてもらってもいます。
内容的にも充実したホームページがあって、リンクページも完備している。
だからホームページの全体を見通しやすいのです。
それに比べて障害児教育関係は、まず内容が充実しているとはいえない。
さらに障害児教育関係のホームページ自体の数が少ない。そのためもあるのでしょうが、
見識をもってジャンル分けをしたリンクページが完備していない、
そんなふうな感じをもっています。どなたか、
障害児教育関係のリンクページをつくってくれませんか。
そこにアクセスすれば、関係したホームページが一望できるといったリンクが欲しいのです。
それがひいては充実したホームページを増やすことになるのではないでしょうか。
教師だけではなくて、親がいろいろの情報を得ることができるようなホームページやリンクが
できたらと、そんなふうに考えるのはわたしだけではないはずです。
自分自身が非力でできないので、どなたかの奮起を期待しているのです。
ここまで書いてきて、しかしこんなふうに断定的なものの言い方をしてもいいのか、
障害児教育関係のホームページについてどれだけ知っているのか、
という反省に捉えられました。もしかしたら、知らないだけなのかもしれない。しかし、
そうなら
知っておられる方、教えてください。
2000.4.1
障害児教育にとって「宮沢賢治」とは、何ものか?
障害児教育にとって「宮沢賢治」とは、何ものか?
わたしにとっては、「この人が生きていたからこの人生は生きるに値する」と思える人が何人かいて、
その一人が宮沢賢治なのです。賢治の思想、作品、生き方、対人関係、打ち込み方、
死に方、それらのすべてが渾然一体をなして一つのスタイルとしてわたしの前にある。
無批判に受け入れているわけではないのですが、やはり魅せられてしまうのです。
では、障害児教育にとって宮沢賢治とは、何ものなのでしょうか?
たしかに賢治には「虔十(けんじふ)公園林」という知的障害の少年を主人公にした作品があります。
もっともわたしはこの作品はあまりすきではありません。なぜだかわかりません。
それでもやはり賢治先生は養護学校にとてもふさわしい人物のように思われるのです。
それが賢治劇のもとになった発想です。
でも、賢治が養護学校の教師にふさわしいというのは、一つのひらめき、直観です。
なぜそうなのかを考えた軌跡が賢治劇だとも言えるわけですが、
それでも考え尽くされたわけではありません。
まだまだ考えなければならないことがいっぱいあります。どうしてそうなのか、
これから考えていきたいと思います。
「うずのしゅげ通信」は、とりあえずそんなものでも載せていくということでご了承ください。
2000.4.1
知的障害の生徒は今の生産様式になじまない?
わたしの勤務する養護学校ではかなりの割合の生徒が、
いろんな援護措置を使ってではありますが、就職していきます。
企業に就職できなかったものは、「福祉的就労」ということになります。
「福祉的就労」というのは聞き慣れないことばかもしれませんが、
作業所などに就労することをいうらしいのです。
なによりも、知的障害者というのは現在の生産様式になじめない人たちやなあ、
という話を友人としたことがあります。
その問題をあつかったのが、「チャップリンでも流される」という劇なのです。
生徒たちの作業を観察していると、作業それ自体への拘りが強いように思います。
やっていることは単純作業なので、そんなに楽しいはずはないのですが、生徒たちには、
われわれよりその作業を楽しんでいる(あるいは苦しんでいる?)かのような拘りが見られます。
単純作業それ自体を意味のあるものとして感じているかのようなのです。
今の社会では、労働者は、そんなふうな労働を労働のままに楽しむ楽しみを
奪われてきたとも言えるわけですね。むしろ労働はお金を得るための手段として我慢すべきもの
になってしまっているのかも知れません。だから、その流れに逆らって
、作業それ自体に拘る知的障害者が現代の生産様式になじまないと
感じてしまうのかも知れません。
ちなみに就いている作業は、単純作業は単純作業なのですが、工場の製品の流れの中に
入ることはできなくて、流れからそれた浮島のような位置で、さらに単純な作業をしている、
といったところがおおまかな現状ではないでしょうか。工場の単純作業は、単純とはいっても、
パートさんが対応できるより以上には単純化されないのはあたりまえで、それでは知的障害者が
ついていけないのは目に見えています。
まして、そこに製品に対する拘り(よりいいものを作りたいといった拘りとは別様のもの?)が
あるのですから、現代の生産様式になじまないのは無理もないように思われます。
このことに関しても意見を聞かせていただきたいと思っています。
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