◇2000年7月号◇

[見出し]
今月号の特集

性教育について”ちゃんと”考えてみよう。

「チャップリンでも流される」について

「八日目」(96年ベルギー/仏)を衛星放送で見ました。




2000.7.1
性教育について”ちゃんと”考えてみよう。

「イーハトーブへようこそ」は、性教育について”ちゃんと”考えるための 里程標のつもりで書いた脚本です。しかし、わたしの性教育に対する考えの甘さから 、脚本に曖昧で不満足な部分を残してしまいました。
高等養護学校の性教育で踏まえなければならないのはどういうところでしょうか。 先月号の「うずのしゅげ通信」にも書きましたが、 卒業生の将来の性生活が結婚というかたちで保障される場合はそんなに多くないということです。 これは一般の高校生や中学生を対象にした性教育と根本的に違うところです。 彼らには将来の男女の性生活がほぼ約束されているからです。
しかし、高等養護学校の卒業生で結婚する生徒は十人に一人、あるいはそれより 少ないかもしれません。 だとすると、男子生徒の場合、「一人のセックス」 も肯定的に考えていかなければならないということになります。
性教育においては、「二人のセックス」(いわゆる男女のセックス) と「一人のセックス」(男子の場合、マスターベーション)を並べて、 両者に優劣はないというふうに教えています。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。 やはり、「一人のセックス」は、本当のセックスができないから、 しかたなしに処理的にしている偽のセックスという感じが否めません。 生徒たちは、将来そういった引け目をもって生きていかなければならないのでしょうか。 それとも「一人のセックス」もりっぱなセックスのありようなのでしょうか。
養護学校の性教育はそんなふうなところから考えていかなければならないと 思っています。
まず、そのあたりが押さえておかなければならない基本であると考えます。
そのことを踏まえて、さらに考えを一歩進めるために、 最近読んだ本の引用からはじめたいとおもいます。
山本直英「私とあなたの『からだ』読本」(明石書店) に自慰にはどんなよいことがあるかが列挙されています。
第一に「だれにも迷惑をかけない性行動で」あること、 また「『自分のからだはいいものだ』と思えるようになること」。
さらに二つ。
「自慰によって『性はプライバシー』ということが身につきます。 (中略)人間はだれにも『秘密な世界』があっていいし、大人になることは、 自己の秘密をいっぱいもつことなのです。」
「自慰は親からの乳離れを進める行為です。 (中略)自慰は親に対して初めて持つ秘密ですから、 親の干渉から脱出する気持ちを育ててくれます。自分だけの時間と空間が多くなることが、 自立した大人になるためには必要なのです。」
「以上のようなメリットが自慰にはあります。」と山本直英氏はのべておられます。 これはなっとくできる考え方だと思います。しかし、われわれの問題は、そこからなのです。
知的障害者には、どうなのだろうか。このような考えがすべてあてはまるのだろうか、 というのが検証の手始めです。後ろの二つのメリットを検討してみます。
「自慰」ということに拘るのは、先ほども述べたように、 養護学校の場合卒業生の多くが独身のまま一生を過ごすという現実があり、 そこに基点を据えざるをえないからです。
それを前提に「自慰」というものを考えていきます。
そこで、まず取っ掛かり。
ここで問題になっている「秘密」を「秘密」たらしめる 「恥ずかしさ」が分かるものと分からないものが、養護学校の生徒には、 いるだろうということです。「性を恥ずかしいもの、隠さないといけないものと分からないもの」 にとっては、秘密は秘密でなくなるのではないでしょうか。 人前で性器いじりをしたりする生徒には、まず、 それが恥ずかしいことだと分かるようにすることが先決なようです。 それが文化を踏まえた手順のような気がします。
そのうえで、自慰がプライバシーであり、 秘密のものであることを話すべきなのではないでしょうか。 マスターベーションの仕方を指導する授業を展開、解説した性教育の本までありますが、 まず最初にしなければならないことは、 「恥ずかしさ」というものを分かってもらう授業といったもののような気がします。 「それがむずかしいからこそ、具体的に展開しているのだ。」という避難が聞こえてきそうです。 しかし、それを承知であえて原則に拘っています。
もちろん「性を恥ずかしいもの、隠さないといけないものと分かってい」れば、 もうしめたものです。彼は、立派に秘密を持つことができるからです。 その秘密を梃子に精神的な親離れをこころみていけばいいのでしょう。
しかし、と私はさらに考えてしまうのです。 秘密を持つことはそんなにたやすいことなのでしょうか。 たしかに秘密を作ることはやさしいことかもしれません。 「これは親にいわないほうがいい」といったことは、本能的にわかりそうだからです。 難しいのは、その秘密を保持することなのです。 「健常者」(あまり使いたくない変なことばですが……)では、 無意識に乗り越えていることが、知的障害者となるとちょっとした起伏にもひっかかります。 秘密の保持ということについてはもっと綿密に考えておかなければなりません。 本来、人にとって秘密というのは大切な役目を果たしているように思われます。 しかし、漫然と隠しているというだけでは、秘密本来の機能を果たしません。 こころの中に秘密の整理棚といったようなものがあって、そこで適切に分類、 保存されてはじめて秘密は生きていく上で大切な秘密なりのはたらきを するように思われるのです。
「自分が自慰をしている」という秘密は、自我が蝕まれるような嫌な秘密の棚ではなく、 恥ずかしいことでとても親には言えないが、本来はそう悪いことでもなさそうだ、 といった種類の秘密の整理棚にしまわれるのがふさわしいような気がします。 だから、「安心して秘密にしておく」という形をとらなくてはなりません。 こころの奥底に保存されているうちに、その秘密は丸みをおび、一端を取り出すときは、 ユーモラスな色調をおびているような、そんな保存の仕方をされていなければなりません。 そのような秘密の保持のありようを学んでいくことが大切なように思います。
そのために教師としてどのような手だてがあるか、何をどう配慮し、教え、考えていけばいいのか、 それらはこれからの課題なのです。
それができれば、性に傷つくことも少なくなるだろうし、 社会に出てからの性の話題にも余裕をもって対処できるのではないでしょうか。
ただ、はっきりしていることは、「自慰」という秘密の行為について、 秘密の持ち方を説明しようとする人は、ぜったいに信頼されていなければならないということです。 こころの深いありように触れていくのですから、 教えることがすなわち自分の生き方をを糺されるようなそんな微妙な問題だからです。 わたしは、それにもっともふさわしい人物として賢治先生を考えました。 人間関係のできた担任の教師が話をするのが理想でしょうが、 「性教育は人形劇で」という主張があって、脚本を構想しているとき、 賢治先生以外にはありえないという考えに達したのです。 「一人のセックス」というものについて賢治先生に大肯定をしてほしかったのです。
そして、その結果「自慰の秘密」が適切に保持されるようであれば、 「自慰のメリット」は、健常者となんらかわらないと思います。
山本直英氏の言われるように、「自慰によって、『性はプライバシー』ということが身につき」、 また、「自慰は親からの乳離れを進める行為」となるに違いありません。 だからこそ、養護学校での性教育は、できるだけ具体的な性教育であると同時にこころの秘密の 秘密に触れるカウンセリングでもなければならないと、そんなふうにも考えられますね。 むずかしくて、後込みしてしまいそうです。でも、性教育は生きるエネルギーの教育だから、 しないわけにはいきません。
性教育は、分からないことだらけ、まだまだ納得できないところがいっぱいあります。 さらに考え続けていかなければならないと思います。
つぎの性教育の時間に、秘密の持ち方について生徒に聞いてみることにしようと、 計画しています。問題は、そのあたりにありそうだからです。
だから、この「性教育をちゃんと考えてみよう」は、これで終わりというのではなく、 「そしてやはりこの項つづくのだ」(中野重治)としておきたいと思います。


2000.7.1
「チャップリンでも流される」について

知的障害者の職場ということについて、以前から考えていました。卒業生はほとんどが製造業で、 それも単純作業に就いていきますので、それは現実的かつ緊急の問題でした。
そもそも、知的障害者は、考えようによってはもっとも産業資本主義の現代に不向きな、 生きづらい人間のように思います。その彼らに社会が準備した仕事は、 どのようなものなのでしょうか。想像されるように、その仕事はいい条件であるはずはありません。 効率優先の社会から疎外された彼らが追いやられる場所は、 いったいどんな場所なのでしょうか。
そのことをさらに考えるために、卒業生の就職先について統計をとってみたことがあります。 次に引用するのが、その考察です。
単純作業が生み出される過程については、中岡哲郎氏の本を参考にしています。 中岡哲郎氏の論考は、製造工場で熟練作業がどのようにしてパート労働者でも 担うことができる単純作業に変貌していくのかが詳しく分析されているのです。 熟練の作業工程が分析され、機械化、流れ作業化がなされます。 そこに導入される機械の入口、出口、あるいはライン作業として、単純作業が生まれます。 わたしが生徒の現場実習の巡回で訪ねた工場でもまさにそのようであったのです。 しかし、生徒たちはそんな単純作業にもついていけないようでした。 速さに、あるいは巧緻性についていけないのです。だから、養護学校の卒業生のほとんどのものは、 流れ作業に就くことはできず、流れ作業に繰り込まれている人の補助とか、 流れ作業とは切り離された内職的な作業に就くということが多いのです。
以下の文章は、「統計的にみた卒業生の就労実態」という題で、 研究紀要に発表したものです。
そこから、一部を引用してみます。
まず卒業生の進路先について業種別に統計をとった資料があり、 それをもとに分析を進めています。
「資料の表は業種別にとってあるが、職場の実態を具体的に把握するためには、 職場でどのような職種に就いているかをみていかねばならない。 例えば、プラスチック製品製造業にも金属製品製造業にもバリ取り作業があり、 幾分かの違いはあるものの、卒業生の職場の実態は『バリ取り作業』でくくるほうが より正確にとらえることができるからである。
本校の卒業生の場合、単純な作業が多い。工場の機械化がすすんだとき、単純作業は、 ベルトコンベアによる流れ作業の職場に、あるいは、縫製工場のように、 コンベアはなくても半製品は流れており、その分業として、また機械の入口出口、 といったところに生じるが、実際そのような製品の流れに乗れているものは、 どれほどいるのだろうか。流れ作業のスピードにはついていけず、 機械の入口出口の作業では採算のとれる早さで作業できないといったことも多い。 そうなると主な製品の流れにかかる作業工程からはじきだされることになる。 いわゆる補助作業に甘んじなければならなくなってしまう。このことは、 雇用の不安定さや低賃金とも関係している。しかし、おおざっぱにいえば、 機械化によって生じた単純作業に対応できるか、できないか、 といったところが本校の卒業生の実態である。そして、 そういった職場は主にパート労働者の職場である。 パート労働でも対応できるまでに仕事の単純化がなされており、 それについていけるものは、パートの女性労働者に囲まれ、 あるいはその指導のもとに働いている。パート労働者に支えられている。 労働密度の高い職場ではパート労働者とのトラブルもあるが、 ちょっとした善意で励まされることも多い。しかし、 作業の単純化もパート労働にたえられる程度の単純化であり、 本校の卒業生にとってはそれでもなお難しい。 平成2年度の卒業生についてざっとした統計をとってみると(厳密な作業の分類が難しいため)、 ベルトコンベアのあるなしにかかわらず、工場内の製品の流れのなかで作業をしているものが、 就職51名中14名(28%)(内訳は靴下のセット機も含めて電子部品製造等のコンベア作業9名、 縫製等の分業5名)、機械の入口出口の作業(例えば、プラスチック成型機の出口での製品 の箱詰め等)が7名(14%)、残りの30名(58%)が、主な製品の流れからそれた、 あるいは離れた、いわゆる補助作業である。このなかには、 例えばプラスチックや金属のバリ取り作業、製品をつめる箱作り、コンテナの洗浄、 縫製工場の糸きり、裏返し、靴下の揃え作業等がある。
製品の流れについていけるものはよいが、早さや、巧緻性においてついていけないものは、 補助作業となる。補助作業はどこにでもあるのかもしれないが、 同種の補助作業が持続してあることが雇用の条件といえる。 作業の流れをみて対応していくことは難しいからである。」

このような考えがあって、この劇「チャップリンでも流される」はできたのです。 チャップリンに登場してもらったのは、彼が宮沢賢治の同時代人であり、 賢治はチャップリンの映画を見ていましたし、 チャップリンが日本に来たとき、顔を合わせていたと想定してもなんら おかしくないということもあります。 また「モダンタイムス」の例の有名な場面、 チャップリンがベルトコンベアの作業で流されている演技が頭にあって、 宮沢賢治と労働について話をしてもらうとおもしろいかな、という発想が浮かんだからでした。
まだ、上演はしたことはありませんが、劇の難易度からいえば、上演可能な気がします。
もっとも能率主義からは遠い知的障害者にどのような職場を準備するかということで、 その社会の性格が分かるように思っています。
どういう場を設けるのが相応しいのか、いろいろな意見を聞きたいところです。


2000.7.1
「八日目」(96年ベルギー/仏)を衛星放送で見ました。

たいへんよくできた映画で感動もし、またいろいろ考えさせられました。
あらすじは、朝日新聞テレビ覧の紹介を引用すれば、つぎのようなものです。
「家族に見放された仕事人間がダウン症の青年との出会いで人間性を取り戻す。 ダニエル・オートゥイユと現実にもダウン症の俳優パスカル・デュケンヌが カンヌ映画祭で男優賞をダブる受賞した秀作。ミウ・ミウほか。」
障害をもった人たち、この映画の場合はダウン症の青年、の存在感の意味は何なのかということ、 また彼らが発する雰囲気が周りのものに及ぼす安心感とはどういうものなのかということ、 ダウン症の青年の現実感覚はどんなものなのか、 また障害を持つことで差別されている青年は世界とどのように和解していくのかなど、 映画を見た結果抱え込まされた問題は多いのです。
人間はいったい何が幸せなのかということも考えてしまいます。
極端な仕事人間、マニュアル人間アリーが、ジョルジュと出会うことで、 はじめは煩わしく思っていたかかわりによって、癒されていく不思議さがよく描かれています。 といっても、障害者を美化するのではなく、ダウン症の人がもっている陽気さ、 歌好き、ダンス好き、頑固さ、みがって、誰にでも言い寄っていく移り気、 白昼夢をないまぜたような現実感覚、 他をおもんばかることがすくないことからくる性格のまろやかさなど、 わたしの経験に照らしてもほんとうにリアルというしかありません。
そんななかで、わたしが拘ったのはつぎのような場面です。 今回のテーマである性教育にも関係するからです。
ダウン症のジョルジュが、以前から好きだった同じダウン症の少女と結ばれる場面です。 ジョルジュは施設の仲間とマイクロバスを盗んで、 仕事人間アリーの別れた妻子が住む海岸の小さな遊園地に乗り付けます。 子どもの誕生日を祝おうというのです。すでに閉まっていた夜の遊園地は、 かってに電源を入れられて、おもわぬにぎわいとなります。仲間たちが、はしゃいで遊び回る中、 マイクロバスの中にジョルジュは少女ナタリーを誘い込みます。
二人はベッドに入ります。
ナタリー「できないの」
ジョルジュ「どうして?」
ナタリー「セックスはだめだって……」
ジョルジュ「だれが?」
ナタリー「私のパパよ」
ジョルジュ「お父さんもしてる」
ナタリー「パパは別よ、普通だし、仕事もしている。部長だし車も持っているわ」
ジョルジュ(ちょっと考えて)「部長とは寝たくないな」
ジョルジュの言いぐさに少女が笑い出し、結局二人は笑いながら頭を抱き合います。 そのときナタリーはふとまぶしそうな表情をするのです。まぶしいのか、人目を避けたいのか。ジョルジュがその表情に気づいて扉の窓のシェイドを閉めに立ちます。シェイドを閉めて戻ろうとすると、シェイドはぱたんをはね上がってしまう。また閉めて、ベッドに戻って、さて抱き合おうとすると、またシェイドがはね上がる。閉めること三回、そっともどって、さてというときについにシェイドははね上がった勢いではずれてとんでしまいます。それで二人は大笑いになって、そこでほんの少し場面が変わります。花火が上がって、ベッドが照らし出されるとすでに二人は結ばれたあとのようすです。
しばらくして警察がやってきます。お祭りもここまでです。 ナタリーは、警察と前後して駆けつけてきた両親に連れ戻されてしまいます。
問題点を取り出してみます。
ナタリー「セックスはだめだって……」
本当に障害者はセックスをしてはだめなのでしょうか?
子どもをつくることになるからなのでしょうか?
ジョルジュ「お父さんもしてる」
ジョルジュの反論は当然なのです。しかし、ナタリーは、すでに許容の気配をみせつつ、 なお世俗の論理を言い募ります。
ナタリー「パパは別よ、普通だし、仕事もしている。部長だし車も持っているわ」
「パパは、普通。」「健常」だということでしょうか?
「健常者」というのも変なことばですね。
「パパは、仕事をしている。」仕事に就いていないジョルジュに セックスをする資格はないのでしょうか?
「部長」という社会的な役割があって、「車」に象徴される財産があって、 妻を購うことも可能なのだということでしょうか?
しかし、ジョルジュは「部長とは寝たくないな」の一言で一蹴し、 笑いに紛らせて人間としてナタリーを求めているということを押し出すのです。
そして、いざ結ばれようとして、ナタリーが気づいて、 ジョルジュが外部から二人を遮断するためにシェイドを閉めに立ちます。 ナタリーの方が社会性が高いのでしょうか。
ジョルジュは、結局ナタリーと結ばれるのですが、お祭りの後で、 彼女は両親に連れ戻されてしまいます。ジョルジュは深く傷つきます。ディスコで荒れ狂います。 しかし自暴自棄もそれまで。それで気が済んだのか、 ダウン症の青年らしく白昼夢を見ているような雰囲気の中で、 一人ダンスにのめり込むことでたちまち現実と和解していきます。 映画の中では、亡き母を追慕する歌によって象徴的に世界との和解があらわされています。 障害者だということで彼を忌避したウエイトレスまでがその合唱に加わってまさに全世界との 和解がなったかのようなのです。 しかし、それにもかかわらず彼は死に向かって踏み込んでいくのです。 ビルの屋上で、アレルギーのために禁止されているチョコレートをたらふく食べてから、 いかにも、現実感を喪失したまま浮遊していくような感じでそこから飛び降りてしまうのです。 どうしてなのか?これは分かりにくいところです。
これらの細部は映画を鑑賞していただくしかありません。絶対にお奨めです。


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