◇2000年9月号◇

[見出し]
今月号の特集

性教育について”ちゃんと”考えてみよう U

落語「銀河鉄道 青春十七切符」

短歌




2000.9.1
性教育について”ちゃんと”考えてみよう U

ふたたび性教育について考えてみることにします。
賢治劇「イーハトーブへ、ようこそ」は、ある危うさをもっているようです。 それはどんなものか、というところから考えていきたいと思っています。
まず、「イーハトーブへ、ようこそ」は、男子生徒にたいする性教育を想定した脚本である という事実があります。性教育を、男女で分けること自体がおかしい、と考える向きには、 納得できない内容があると思います。しかし、わたしが最初にこの劇を発想したのは、 男子生徒の性的な成熟につれて、それがさまざまな問題行動になってあらわれるのを見るにつけ、 そこをなんとかしなければならないという実際的な、緊急な必要に迫られていたからです。 高等養護の生徒たちを見ていると、性的には十分に成長しています。 男子は性的な欲求に悩まされることになります。 その性的な欲求を何とかなだめつつ一生つきあっていかなければなりません。 言葉をかえれば、(こんな表現がいいかどうかは問題ですが) それをうまく「処理」しなければならないということです。 しかし、そこに「処理」という実際的ではあるのですが、 ちょっとひっかかる発想を滑り込ませてきたとき、 うっかりするとつぎのような考えさえ出てくるのです。

処理的な発想はつぎの引用にも見られます。 はじめてこのパンフレットを読んだときは考え込んでしまいました。 もっともこのパンフレットの発行は1992年であり、 現在は改訂(絶版?)されているかもしれません。
パンフレット「結婚と性」(手をつなぐ親の会)に、 つぎのような質問が載っていたのです。
「男として性の体験をさせたい
そろそろ三十歳になろうとする長男は、通所授産施設に通っています。 まじめ一方で、ほとんど休むことはありません。しかし、一つだけ気になるのは、 若い女性に対する関心です。時々雑誌のグラビアのヌード写真を、 食い入るように見ていることがあり、ドキッとさせられます。 若い男性として当然のことかと思いますが、複雑な気持ちです。 結婚ができればもっとも良いのでしょうが、今の収入や障害の重さを考えると 、とても不可能だと思います。
そこで、せめて男として経験だけでも、と考えています。街には、 男の人を相手にする商売の人がいる、と聞きます。そのような女性にお願いすることは、 極端な話でしょうか。また、不道徳な発想でしょうか。」
それに対する処方として、三つの意見が並列されています。
意見1は、「とんでもない」説。
 その一部を引用します。
「まさに、女性を性欲の対象とする、あるいは性の商品と認める、男中心社会の発想を、 障害者の問題にもそのまま無批判に持ち込んだことだと言えましょう。 性による差別的発想(行為)そのものであり、そのような人に、 障害による差別を批判する資格はありません。
またそれは、犯罪行為(売春防止法違反)でもあります。法律を犯してまで、 性欲を処理しなければならないのでしょうか。もっと仕事に打ち込んだり、 スポーツや創造的な文化活動に参加する中で、 健康的な青春が送れるはずです。」
意見2は、「その道の人にお願いする」説
 この意見の本質はつぎのところにあります。
「グッドアイデアと思います。いや、それしか方法はないでしょう。 確かに、結婚という公認された性の解消の方法が良いでしょうが、じっさいはなかなか難しい。 それでも、男の性欲は否定できません。スポーツに打ち込めとか、仕事に励めというのは、 男のことをよく知らない人の空理空論です。実際は、そうすればするだけ、 元気になるものです。
また、雑誌やビデオなど、刺激的な物が街には溢れています。聖人君子ではあるまいし、 それらと無縁の生活をしろ、と言うことほど非現実的なことはありません。」
意見3は、「本人の気持ちしだい」説
「親や家族は、固定された結婚観に支配され、 特に知的な障害のある人の結婚を初めから諦めている場合が多いようです。 果たして不可能なのか、と再度問い直すことが必要です。その後で、 さて現実的な性欲の解消をどうするか。また、異性との体験はいかがか、ということです。 (中略)観念的に言えば、ボランティアの存在が望ましいのですが、 現実的には考えられません。近親相姦は論外として、「誰かにお願いする」というのは、 よく耳にすることです。マスターベーションでの処理も、それはそれだけですし……。 しかし、本人の率直な気持ちはどうでしょうか。」

とりあえずの意見とすれば、まあ、こんなものですかね。
しかし、これらの意見の中にも「『ふたりのセックス』信仰」が見て取れます。
どうして「ふたりのセックス」のみがほんもののセックスといえるのでしょうか?
「ふたりのセックス」を経験しないとどうして心残りなのか?それも人生の心残りなのか? それはどうしてなのでしょうか?
セックスを経験することと人生の価値とは、そんなに深い関係があるものなのか、 と考えてしまいます。(何も私がその考えから免れていると言っているのではありません。 自分の中にもそんな気配があるから、問題にしているのです。)
この問題はしかし、健常者の価値観の障害者への投影でしかない、という気がします。
知的障害者にとっては、セックスの欲望はたしかにあるものの、 それによって人生の価値が決まるようなものだとは本人たちは 思っていないのではないでしょうか?
欲望の解消のためならマスターベーションがある。 女性に相手をしてもらうことを希望するということは、 つまり「ふたりのセックス」信仰が変形して現れているように思われます。
こんなとんでもない意見がまかり通りかねない素地は、そこにあります。 処理という発想が含む人間蔑視が女性蔑視の形をとって現れてきているようです。 処理という考えでは、どうしてもこんな発想に帰結してしまうのでしょうか。
それとも、処理も選択肢の一つだからと寛容に構えて、処理のレベルと、 人間関係としての性とを分けた方がいいのかもしれないとも考えてしまうのです。
「イーハトーブへようこそ」はまだまだこの段階ですね。 そこから、どういう方向に一歩を踏み出していけばいいのでしょうか。 理想論ではなくて、現実的な問題として。
「そしてやはりこの項つづくのだ」としておきたいと思います。


2000.9.1
落語「銀河鉄道 青春十七切符」
  −賢治先生、いじめに乗り出す−

賢治劇と悪、ということで言えば、賢治劇には悪がありません。これは欠点か?
あきらかに欠点だと思っています。
賢治先生が大肯定の姿勢で舞台を支えているために、悪を登場させにくいのです。 しかし、つぎは悪の登場する劇を書きたいと思っています。
悪というといろいろ考えるところもあるのです。
PTAの係りをしていたとき、みょうな分類になりますが、 つぎのようなことを考えたことがあるのです。 この家庭ではこどもを育てるのに性善説でそだてられたな、 この家庭は性悪説で育てられたな、とふとそんな推察が浮かぶことがありました。 どこか僭越な感じがするのですが、直観的にそんな考えがよぎるのです。 そのとき、生徒の顔も同時に浮かんできます。すると、どうでしょうか。 性善説の家庭に育った生徒は概して性格に社会に受け入れられやすい面を色濃く持っているのです。 性悪説の家庭で育った生徒は社会に受け入れにくい面を顕著に持っているような感じがするのです。 両親の思想的な問題もあって、どちらがいいとは言えないと思います。 しかし、それはみごとにそうなのでした。 だから、わたしとしては性善説環境を生徒に補償したいという気持ちもあるのです。 それを支えているのが賢治先生のような気がします。
しかし、賢治劇に悪を登場させることも必要です。人間界には悪がいっぱいあるのですから。 しかし、悪が登場する劇は難しくなるのです。 たとえば、「賢治のイフはめんだうだ」のように生徒の理解を超えてしまうのです。 夏休みを利用して悪を組み込んだ劇を作ろうといろいろと考えてみました。 しかし、構想倒れで、狙いどおりのものはできなかったのです。 でも、その副産物として、いじめ問題を扱った落語ができてしまいました。 「落語『銀河鉄道 青春十七切符』」といいます。お暇があれば読んでみてください。
これには悪が登場します。主な観客に高等養護学校の生徒を想定するような配慮はしていません。 彼らは中学校でいじめられた経験のあるものが多いのですが、 それでも内容がすこし難しすぎるように思います。
昨年亡くなられた桂枝雀師匠の落語に「夢たまご」というのがあって、 その仕掛けを使わせてもらいました。しかし、完成度ということからいえば、まだまだ「半熟」です。 批判をいただいて改訂していきたいと考えています。
ちなみにこの際少々言い訳をさせてもらえれば、文学的に言えば、 賢治劇一連のレベルが鑑賞にたえるぎりぎりの線だと思います。 これよりやさしくすれば、内容的な水準を保つことができなくなる。 難しくすれば生徒たちが理解できません。その微妙な、ここぞという水準で脚本を書けたのは、 わたしが高等養護学校に勤務しているという幸運な事情があったからだと思います。
しかし、これでもたわいのない劇だと思われる方も多いと思います。 でも、内容的には見かけ以上に考えを煮詰めたつもりなのです。 古い友人が共感をもってそのことを言ってくれたことがあり、 とても嬉しかったことを覚えています。


2000.9.1
短歌

「短歌誌「歌壇」に「火食鳥」の紹介記事」
「歌壇」の歌誌紹介の欄で「火食鳥」が取り上げられています。
会員の歌が紹介されていて、私の歌もあります。最近歌を作っていないので、 すこし気恥ずかしいのですが、つぎのような歌です。

水のもむ風のもみあう音としてわがまぼろしやとうとうと響(な)る

たとえば山に入ると渓谷がある。深い渕から水流の音が聞こえ、 また谷筋で風のもみあう音も耳に入ってくる。 それがまるで私の内らのまぼろしが鳴るかのようにとうとうと響いている。 いまや現実の音なのか、幻聴なのかさえ分からくなってしまった。 あえて解釈すれば、そんな意味になるでしょうか。
お恥ずかしいしだいです。
では、本題に移ります。

「関谷藤子歌集『椿の海』」をいただきました。
わたしたち同人誌「火食鳥」の仲間、 歌人の関谷藤子さんが二冊目の歌集「椿の海」を出されたのです。 限定200部の出版ということで、なかなか手に入らないと思いますので、 ここで紹介させていただきます。
関谷藤子さんは、伊東市在住で、現在八十六歳。若い頃に故 坪野哲久に師事され、 1973年(五十九歳)に第一歌集「藤」を刊行しておられます。
だから今回の「椿の海」は第二歌集ということになります。
ここに集められている歌はすべて同人誌「火食鳥(季刊)」(堺市)に掲載されたものです。 関谷さんがことばの響きを聞き取るすばらしい耳、感性と、 ことばを紡ぐすばらしい技量をもっておられることは一読すればわかります。 それがなんと八十六歳。文学に年齢など加味する必要などまったくありませんが、 しかし、それにしてもなんという柔軟性。老化はすなわち精神の硬化である、 といった常識が関谷さんの場合はまったくあてはまりません。
気に入った歌を引用してみます。([ ]内は、連作の表題です。)

 [まぼろしもがも]

毘廬遮那(びるしゃな)の春の伽藍(がらん)に月光す邪鬼の面輪のうかぶを見れば

毘廬遮那仏の伽藍の中に月光が射していたのだ。邪鬼の面輪がうかんでいるのを見て気がついた。 といったふうな意味でしょうか。毘廬遮那は大日如来、邪鬼は悪神、 いつも踏みつけられていますね。

高窓の月のあかりて浮かぶこそ人間的にて邪鬼かなしかる

高窓の月が明るくて邪鬼の面輪が浮かぶ、その表情、仕草が人間的でかなしいような、 とでもいったことでしょうか。

いわれなく邪鬼といまわれいつまでも踏まれているや 立ちてみせてよ

「いまわれ」は「忌まわれ」ということか。「立ちてみせてよ」という呼びかけが、 関谷さんの関谷さんらしさです。

 [象]

まびき菜のおひたし青くよそおいて黄瀬戸の茶碗重宝します

一連の歌の中に「片身なる黄瀬戸の茶碗」とあります。

 [水の垂簾](「垂簾」はすだれ。)

梅雨ふけの露の紫沖縄の飴をねぶりぬほどろほどろに

沖縄の歌を詠むは古しとう古きが好きさなつかしくして

露の紫とは露草の藍色のことか、そんな色の飴をねぶったというのだ。 「ほどろほどろ」はまだらにということだが、ほどろほどろなのは何なのか。 意味はわかりにくいが、ことばの響きがいい。

 [雁のたまずさ]

野がえりの浄めのてしお梅一花闇に咲きいて闇をも淨む

だれかを弔っての帰り、浄めの塩を踏む。ふと気づくと梅が一輪闇に咲いていて、 闇を浄めているようだ。

 [空音]

とりとめて言うこともなくかえりきてすずろにすする春の白粥(しらがゆ)

「すずろ」は、何となくということ。

 [こぼれ萩]

梅雨萩とう沖縄萩のむらさきにしぐれはすぎぬ音なきしぐれ

沖縄萩とは、どんな萩か?

白髪に卷きて舞うべく手にとらば匂うべしやも領布(ぬの)の紫

沖縄にいまだえゆかずこだまして安土屋(あさどや)ゆんたはじめてききぬ

 [春の盃]

残り世のひとりの時間夢の間の夢のつづきの沙丘を歩む

一人住みの関谷さんの寂寥と覚悟がよくでていて、好きな歌です。

〈詩は志なり〉遺語やうたてき後夜月梁塵秘抄なぜかおもえる

「遺語」は師の残した言葉。「うたてき」は納得できない、 不可解であるの意。

 [青霞]

二上山(ふたかみ)は葛城山の北のはて渇仰ここに峠路(とうげみち)こゆ

みまくほりし二上山(ふたかみやま)のそのすそのほたるぶくろのうなだれてみゆ

渇仰は渇くような信仰、「みまくほりし」は見たいとおもっていたの意、 ついに二上山に来た。「ほたるぶくろ」はキキョウ科の草、 つりがねそう。

たたなわる青垣山の青がすみ畝火香具山耳梨かげる

「畝火香具山耳梨」は万葉集の表記による。

 [翳]

みのおとろえいわずしもあれゆるやかに右の眼(まなこ)ゆなみだ流れて

「右の眼ゆ」は右目からの意。

 [低唱]

島島のあさどやゆんたききならしいまだたずねずもうしわけなし

関谷さんの沖縄憧憬は深い。「もうしわけなし」は、歴史を踏また上で、 いたってまっとうなことばとして発せられている。

 [神さまの謡]

沖縄の島土黒く少しでも踏まばや見ばやみばや踏まばや

みえぬ象(もの)森にみていてひとりすむひとりがすきさすこしあわれで

森の中には有象無象がいて、一人住みをなぐさめる。

 [浮き椿]

高窓の光ながれて大寺の邪鬼のまなこと悲しみのあう

「邪鬼のまなこと悲しみのあう」というところがいい。邪鬼と目が合ったとき、 そこに悲しみを見てとり、また自分の目にも悲しみのいろがあったはずだという意味か。

意味の取りやすい声調の通ったものを選んでみました。 それでも短歌の意味はそんなにはっきりと割り切れるものではないですね。 底が見えては魅力が半減するからでです。曖昧だということではありません、 一応納得しつつ、その底にまだ何かを秘めているというのが魅力なのではないでしょうか。



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