◇2000年10月号◇
[見出し]
今月号の特集
落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続)
インターネット半年の感想
十代の少年たちによる重大事件
2000.10.1
落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続)
なにしろはじめての落語でっしゃろ。どんなもんやろうか、
どんなふうに読んでもろとるんやろうか、と心を揉んどります。
「はじめは、何がおこるんか、ちょっとおもろいけど、まん中あたりからくどうなって、
小説みたいで読むのがしんどうなったわ。」
「大阪弁の賢治いうのもユニークで……。」
と、あんまり芳しゅうない(?)二、三の感想はもろうとりますが、
それだけで自分でもようわかりません。
それで、というわけでもないんですが、今回少々解説でもさしてもらおう、思うとります。
「銀河鉄道 青春十七切符」、このなかにつぎのような箇所がありまっしゃろ。
智宏「そういえば、この銀河鉄道というのは、えらい若いのが多いな。
高校生みたいなんばっかりやで。」
賢治「彼らはね、青春十八切符でのってきてるんや。」
マサオ「銀河鉄道にも青春十八切符があるんですか?」
賢治「そりゃあある。十七でもつかえるで。このごろは、十七歳が多い。
みんな事件を起こしよった少年たちや。わたしがつれてきたんやけど。」
−−「お母ちゃん、ぼくをゆるしてくれるやろか」
賢治「この少年は、学校でいじめられてたやつらを金属バットで殴っけがさして、
それから家に帰って母親を殴って死なしてしもうたんや。
母親につらいおもいをさしとむないというんやろうな。」
この箇所はどないしようかえらい迷いました。
ほんまにあった事件にちこうてなまなましすぎて、どないぞせんないかんやろうか、
「お母ちゃん」を「お父ちゃん」に変えるとか、せやけど姑息ですわな、
迷いに迷ったすえに、しゃーない、やっぱり逃げんとこ、
逃げたらこの落語の値打ちがないようになる、そう考えましてん。
いじめを癒す賢治先生の銀河鉄道の旅に、彼にもついていって欲しかったんですわ。
種明かししたら、もともとはこのセリフは「銀河鉄道の夜」にありますねんで。
「『おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。』
いきなり、カムパネルラが、思ひ切ったといふように、少しどもりなあら、
急きこんで云ひました。」
ジョバンニはまだ知りまへんけど、そもそもカンパネルラが銀河鉄道に乗ってるのんは、
自分がザネリを助けて溺れてしもうたからですわな。そのことを母親に許してもらえるやろうか、
ということですわ。
状況はだいぶちがいますわな。それでもおなじセリフがなりたつんですな。それが、
まあことばのことばたるユエンというやつで。
ブラックホールも「銀河鉄道の夜」に出てきてます。
そこらあたりどないなってるかちゅうとですな、銀河鉄道の旅の最後のあたりですわ。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」
カンパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。
ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。
天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。
その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず
たゞ眼がしんしんと痛むのでした。
まるで、宮沢賢治先生さんは、ブラックホールを知ったはったみたいでっしゃろ、
せやけど、そんなことはないんですわ。ブラックホールちゅうもんがあるんとちゃうか、
というのはほんあたらしい理論的な発見やさかい、賢治先生が知ってたはずないんですわ。
もっとも宮沢賢治先生は、かの有名なアインシュタインたらゆう学者の相対性理論たらちゅうのは、
知ってはったと思いますけどな。なにしろ同時代人でっさかいね。
(このことに関してはれっきとした本まででてるんですわ。
竹内薫/原田章夫「宮沢賢治・時空の旅人ー文学が描いた相対性理論ー」が、
それです。)
そのどほんとあいた石炭袋の孔=ブラックホールがかまぼこの鳴門みたいに渦を巻いとって、
それが豚の鼻の穴みたいに二つもあって、と言うわけですわな。
豚はチャーシューからの連想です。そのブラックホールに吸い込まれそうになって目が覚めて、
「あやうく『豚に心中(真珠)』するとこでしたわ」というのがオチになってるわけです。
このオチ、えらい熱心にオチの分類なんかしてはった枝雀師匠の気にいってもらえますやろか。
2000.10.1
インターネット半年の感想
「賢治先生がやってきた」のホームページを作成したのが2000年1月、
しかしYAHOOに登録されたのが3月はじめですから、
籍が入ってはじめて公認されたと考えれば、
実質的なたちあげから半年が経過したことになります。
とりあえず1年間やってみるということではじめたのですが、
当初考えていたよりも多くの方に見ていただいていることは嬉しいかぎりです。
もっとも来訪者のうちほんとうに読んでいただいているのが、どれほどなのかはわかりません。
一読、たわいない劇と切り捨てられる可能性もあるわけです。
内容をすっきりと筋のとおったものにするために枝葉を削ぐことに努力しているのですが、
その単純化をたわいないとされないともかぎりません。
「賢治先生がやってきた」一連の脚本は、上演のために書いたものです。
そして、「賢治先生がやってきた」と「ぼくたちはざしきぼっこ」は、
上演した上で、その脚本を載せています。「イーハトーブへようこそ」は、
読み合わせをしたことがあります。それいがいの劇はまだ上演の機会にめぐまれていません。
「チャップリンでも流される」は、そのままでも機会があれば上演可能だと思いますが、
「『銀河鉄道の夜』のことなら美しい」や「賢治はイフはめんだうだ」は、
何か工夫れば可能かもしれませんが、そのままでは養護学校での上演は困難なように思われます。
そして新しく上梓した落語「銀河鉄道 青春十七切符」は、養護学校の生徒に
、という配慮ははずしています。
それなら、上演のおぼつかないこれらの脚本の意味はどんなところにあるか。
それを私は読むだけでも楽しい「癒しの劇」というところに設定しています。
ホームページを開設してからの経過を顧みて失敗したと思うのは、
掲示板に気安く書き込んでもらえるようなかたちを実現できなかったことです。
掲載されている脚本が長いために、簡単に感想を書くわけにもいかないというところにも
原因はあると思います。それにしても、インターネットの場合、閲覧者の数の割には
手応えがないような感じを持ってしまいます。どんなふうに読まれているのかが、
見えてこないのです。わたしの場合は、
おなじ作品を「火食鳥」という同人誌に発表しているので、
ついそちらのほうと比べてしまいます。
範囲を限って寄贈しているからということもあるのでしょうが、
活字は、やはりそれなりの手応えを持っています。
何らかの反応が目に見えるかたちでかえってきます。
しかし、インターネットとなると、雑踏の中でちらしを配って読んでもらっているような、
そんな感じがさえしています。
もっとも、雑踏には思いもかけない出会いもまた潜んでいて、そこにおもしろみもあるのでしょうが。
インターネットは、双方向性という特徴に恵まれているわけですから、
その性質を活用すべきであったと反省しているわけです。つまりは、
掲示板をもっと気安いものにするよう努力すべきでした。
もちろんいまからでも遅くないとは思いますが。
それで、ひそかに考えていること。掲示板に、障害児教育の中で生まれた短歌や俳句、
川柳などを投稿してもらうというのはどうかと計画しています。
そして、それらの短歌や俳句、川柳を集めて一つの部屋を作るのです。
これを読まれた方、掲示板になんなりと投稿してもらえませんか。
お名前はペンネームで結構です。こころからお待ちしております。
また、わたしの学校では今年の文化祭でこんな劇に取り組みました、
といった情報でもかまいません。そんなことで、よろしくお願いします。
2000.10.1
十代の少年たちによる重大事件
落語「銀河鉄道 青春十七切符」でも取り上げましたが、
十代の少年による重大事件が頻発しています。少年の凶悪事件は決してふえてはいない
という議論もありますが(昭和30年代が一番多かったそうです。)、
しかしいままでの常識的な枠組みでは理解できないような少年犯罪が起きつつあることは
たしかなように思われます。人を殺す経験をするために人を殺してみる。
パイロットを刺してでも、飛行機を操縦するシュミレーションゲームを実際にやってみる。
人を誘拐してきて飼育するかのように閉じこめる。これも殺人に等しい構造をもっています。
表面上はドストエフスキーが「罪と罰」で描いたような殺人ではあるのですが、
そこにラスコーリニコフのような生活の切実さはありません。
親鸞の「歎異抄」に殺人の機微にふれた章があります。
なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、
すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、
百人千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば、
われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、
願の不思議にたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。
現代語訳はつぎのようになっています。(増谷文雄「歎異抄」)
なにごとも思うとおりになるのならば、往生のために千人を殺せといえば、
すぐにも殺すあろう。だが、一人でも殺せる業縁がないから殺さないのである。
わが心が善いから殺さぬのではない。また、殺すまいと思っても、
百人千人を殺すこともあるだろう。」との仰せであった。
これは、わたしどもが心のよきを善となし、あしきを悪と思うて、
本願の不思議な力でたすけていただいているのを知らないことを仰せられたものである。
十代で殺人事件を起こした彼らに、どのような「一人でも殺せる業縁」が、
あったのでしょうか?
ラスコーリニコフ的な生活の切実さも殺人を正当化する理論もなく、
未熟で現実の手応えの不十分なままにどうして「一人でも殺せる業縁」が生じたのでしょうか。
不謹慎なことかもしれませんが、ほんとうにそんなにかんたんに
「一人でも殺せる業縁」があっていいのかい?と揶揄したくなってしまいます。
いのちに関すること、死に関することは、
自分の一存ではどうにもならないことだといつも思っています。
「子どもを作る」という言い方をします。たしかに作る原因は人間の性の営みにあります。
しかし、その上で子どもを授かるかどうかは、何かに、
人間を超えた何かにまかせるしかないのではないでしょうか。
ゆだねるという謙虚さの段階を経ることが必要なのではないでしょうか。
日本語の「授かる」という言い回しはそのへんの機微をよく表しています。
「死」についてもそうですね。寿命といったものは人間の力ではどうすることもできません。
そのような何か人を超越したものにたいする懼れとそこに自分をゆだねる受け身の感覚は、
生きていく上で、
とても大切なもののような気がしています。生き死にのことは何かに委ねる、
そういった感覚が、最近鈍くなって来たのではないでしょうか。
「人をあやめる」ことも生き死にの範疇に入るでしょうか。とすると、
「一人でも殺せる業縁」にやむなくあわせられるのも、
何か人智を超えたものの業であるようにも思われます。そのような「業縁」
を懼れる感覚が鈍ってきている。人間の「むかつく」、「切れる」といった感情のままに、
「一人でも殺せる業縁」に会ったかのように錯覚し、安易に、
人間界だけのこととして人をあやめてしまう。最近の異常な事件の頻発について、
そんな筋道を考えてみたりもするのです。
このような考え方は、不可知論を含み持っていて危険な考えなのでしょうか。
これについても意見をきかせてください。
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