◇2000年12月号◇

[見出し]
今月号の特集

風がうれしい虔十

養護学校は生き残れるか?

「知的障害者」という言い方でいいのか?




2000.12.1
風がうれしい虔十
賢治童話の知的障害者像

賢治の童話に登場する知的障害者は「虔十公園林」の虔十(けんじふ) だけではないかと思います。
しかし、残念なことに、数多い作品論の中でも、この「虔十公園林」は、 あまり触れられることがありません。
では、この作品のなかで知的障害を持っているらしい「虔十」はどのように 表現されているのでしょうか。

虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
雨の中の青い薮を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を 見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから 虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもう うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、 はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を 見上げて立っているのでした。

この箇所を読んでいると生徒の顔が浮かんできました。「いるいる」と思わず笑ってしまいました。 わたしの学校にもいるのです。たいした理由もなくあはあはとわらっているのです。 なにがおかしいのでしょうか。ふしぎな気がします。だからそんな生徒は教師から、 理由もなく笑うことを禁止されていたりするのです。
おっかさんに云いつけられると虔十は水を五百杯でも汲みました。一日一杯の草もとりました。 けれども虔十のおっかさんもおとうさんも仲々そんなことを虔十に云ひつけようとは しませんでした。

虔十は家族の中で幸せだったことがわかります。なにげない表現ではありますが、 家族の暖かさが伝わってきます。
さて、そんな虔十が、あることをねだります。

「お母(があ)、おらさ杉苗七百本、買って呉(け)ろ。」
「杉苗七百ど、どごさ植ゑらい。」
「家のうしろの野原さ。」
(兄が)「あそごは杉植ゑでも成長(おが)らない処だ。」 (と反対しますが、父が助け船をだします。)
「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。 買ってやれ。」

虔十は、これまで何一つねだったことがなかったのです。あれが欲しい、 かれが欲しいという欲望から解放されているのです。まったくないとは言えませんが、 物的な欲望から比較的自由だということなのでしょう。
みんなはどう思っていたのでしょうか。

「あんな処に杉など育つものでもない、底は硬い粘土なんだ、 やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんなが云って居りました。」
「それは全くその通りでした。杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ 延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変って七年目も八年目も やっぱり丈が九尺ぐらゐでした。」

ところが、その杉の林が子供たちの遊び場になるのです。
「虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑いました。」
畑が陰になるので杉を伐れといわれても頑なにいうことを聞こうとはしません。
そんなこんなで杉林をめぐる軋轢がいくつかあって、村人に殴られたりもするのですが、 物語はさりげなく展開していきます。筋を追って見ましょう。
「さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。」
そして、その後鉄道が敷かれ、近くに停車場ができて村は町になり発展していきます。 ある日村から出て今アメリカのある大学の教授になってゐる若い博士が 十五年ぶりで故郷に帰って来」て、虔十の杉林を訪れます。そして、 彼の提案で「虔十公園林」として、保存されることになります。

「その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。 いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。 この杉もみんなその人が植えたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかは わかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。」
(「十力」というのは、仏の力という意味ですね。)

そして、最後は次のように締めくくられています。

全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂、夏のすゞしい陰、 月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか 数へられませんでした。
そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと 落としお日さまが輝いては新しい綺麗な空気をさはやかにはき出すのでした。

賢治がここで言いたかったことはこのあたりにありそうですね。「虔十公園林」の立派な緑、 さはやかな匂、木陰、月光色の芝生、これらが公園を訪れる人たちに 「本当のさいはひが何だかを教へる」というのです。「全く全く」共感してしまいます。 「虔十公園林」ばかりではありませんね。虔十の生き方そのものが、われわれに 「本当のさいはひが何だかを教へ」ているように思います。教えているというのは、 少々抵抗がありますね。わたしたちが虔十という澄んだ鏡に向かうとき 自然と考えさせられてしまうのです。われわれの欲望にまみれた消費、むだ、むなしさ、 それらに対して、虔十の寡欲さ、風が吹いただけでうれしい豊かさ、その対照は歴然としています。 地球環境のよごれをもたらしたわたしたちの欲望と断絶した彼らの寡欲、 そのような彼らが指し示す方向、歩みゆく方向が、じつはわたしたちの向かう方向なのではないか、 賢治はそんなことを伝えたかったというような気がします。 生徒たちに面していてもそんな気がすることもあるのです。いかがでしょうか。
「虔十公園林」において、賢治が言わんとしたことを現代の自分の問題に 引きつけるとどうなるでしょうか。
虔十ほど資本主義的人間から遠い存在はありません。現代の加速的な時間感覚が身に付きにくく、 作業能率というものとは縁遠い、そんな彼をもっとも資本主義的生産現場である単純作業、 流れ作業の職場に送り込んでいる、それが客観的に見て教師が果たしている役目のような 気がします。このことに違和を感じないではおれませんね。 (「うずのしゅげ通信」7月号「『チャップリンでも流される』について」で論じたように、 流れ作業にさえ入り込めない生徒もいます。彼らは、 流れから離れた浮島で孤立して単純作業に向かいます。)しかし、 「虔十公園林」の時代と違って、現在では虔十に許されている職場はそこにしかないのです。 どうすればいいのでしょうか。それが、知的障害者の労働の意味というものを考えようとした 賢治劇「チャップリンでも流される」のテーマなのですが……。


2000.12.1
養護学校は生き残れるか?

最近、「障害児の授業研究」という雑誌にほんの短文ですが「わが校自慢」 という題で文章を書く機会が与えられました。そこで、 わたしがいま勤務している高等養護学校のことを考えてみたのです。 高等養護学校の存在価値はどんなところにあるのでしょうか。
最近新聞で障害者を普通校にという記事を読みました。 身体に障害をもった子供たちを地元の小学校にという内容でした。もうひとつは、 普通高校でも知的障害者を受け入れるというものでした。もちろん人数を制限してのものですが、 検討されているようです。
それでは、障害児校といわれている学校の存在意義はどこにあるのでしょうか。障害児校は、 完璧に否定されるのでしょうか。
子どもが障害をもっていると分かったとき、地域の学校か養護学校かという 選択をせまられる機会が何度かあるように思われます。まず決断を迫られるのが、 小学校に入学するときです。地域の小学校か養護学校か、どちらを選ぶか。 ここで親の生き方が試されているようなところがあります。たとえば、 地域の小学校を選ぶとします。子どもは元気に地元の小学校に通い出す。 養護学校を選択した子どもは地域の小学校と交流があります。だから、 まったく地域の子どもたちと切れるわけではありません。 年に4、5回の交流で顔は覚えてもらえる。そして、この交流も年々盛んになってきているので、 うまくすれば、養護学校を選択しても地域とのつながりは保てるかも知れません。 ここの風通しをよくすることがとても大切ですね。小学校3年生くらいで、 もう一度決断を迫られます。このまま地域の小学校に行き続けるかどうか。 9歳の壁と言われる年齢に近づくと、他の子どもたちとの格差も顕著になってきます。 友だちや教師とほんとうにコミュニケーションができているのでしょうか。 いじめの問題が出てきたりすることもあります。そこで、さてどうするか。 ここらで、養護学校に転校して、子どもにあった授業を受けさせるか。 しかし、地域の小学校の障害児学級という手もあります。 ここでも地域の学校を選択したとします。中学に進学するときは、 また迷ってしまいますね。地域の中学が荒れているという噂を聞いたりすると、 いじめられはしないかと、養護学校に傾くこころが出てきます。 養護学校に見学にいったりもします。それでも地元の中学をえらんだとします。 つぎに中学校の3年生になると、進学をどうするか。
高等養護学校か、養護学校の高等部か、それとも思い切って高校を受けてみるか。 こうして、最後に高等養護学校を選択して入ってくるようです。
高等養護学校は、県内の中学校の障害児学級を出たものがほとんどです。 そこに普通学級の出身者と養護学校の中学部出身者が少し混じる程度です。
彼らは、高等養護学校に入学すると、まず対等の人間関係に曝される。 友だちになりたければ自分から口を利かなければならないし、 教室移動や着替えの段取りも自分で考えないとだれも手を取って 教えてくれるわけではありません。恋愛ももちろん対等です。 片思いや憧れだけではありません。本当に恋愛もできるのです。 この対等の関係に放り込まれることによって生徒たちはいちじるしい成長をとげます。 これは教師が介入できない集団の力学のようなものです。 もっとも教師との人間関係もそこに含めて考えておいた方がいいかも知れません。 しかし、とくに自閉傾向をもった生徒など、集団に入り込めない、 対等の人間関係が苦手な生徒は、その機会を捕らえることができなくて、 置き去りにされます。ここに教師が援助しなければならないところがあります。 対等な人間関係の場を保障することと、対等な人間関係になじめない生徒を援助すること、 これがとりあえず教師に課せられた仕事となります。対等の集団というのは、 人間の発達にとっていかに必要かということを痛感させられますが、 そこに問題がないわけではありません。放っておくと、そこに対等ではない、 かまい、かまわれる序列ができたりするからです。生徒の中に教師をまねるものが 出てくるのです。
人間関係が、対等な関係、先輩・後輩の関係、対教師の関係といったふうに分節化してくると、 それにともなって言葉遣いといったものも分節化しなければならなりません。 それがなかなかむずかしいようなのです。教師に対しても友だちに対するのと 同じような言葉遣いをする習慣がなかなか抜けません。
慣れない対等な人間関係でぎくしゃくします。けんかもあります。 慣れてくると異性を好きになるということもできてきます。 これまでのような夢のような片思いとは手応えがちがいます。 平等な人間関係があってこそ、けんかも恋愛感情も育つのでしょうが、 どこかぎこちないのです。恋愛もそれなりの訓練が必要です。 人は思うようにはならないということを思い知るべきなのです。 しかし、彼ら、彼女らは、自分の恋愛を何を手本にしているのでしょうか。
ここまで書いてきて、「イーハトーブへ、ようこそ」に欠けていたものに 気がつきました。それは人を好きになるときその前提となる対等な人間関係の要素でした。 なんだ、結局性教育はコミュニケーションといった論か、ということになってしまった。
しかし、それも必要かも知れない。生徒たちは、生徒たち同士の、 また対教師の人間関係をキャスティングボードにして、2、3年になると段階を追って実習し、 就職に向けて歩み始めます。もちろん、みんながみんな就労できるわけではありません。 卒業生の80%ぐらいが就労、残りが福祉施設(入所、通所)や家庭療養や 家事手伝いといいうことになります。
高等養護学校はこのようなところに意義を見いだして行くしかないように思われます。 どんなものでしょうか。
一連の賢治劇は、そのような状況の中で発想されているのです。そのへんの事情、 養護学校関係者以外の方たちにも分かっていただけるでしょうか。
こんなふうに考えていて、やはり「イーハトーブへ、ようこそ」を改稿しないといけないという 気になりました。それですこし手を入れてみました。新たにラブラブのカップルが登場しています。 気になる点がありましたら、聞かせてください。これからも手を入れていきたいと考えています。


2000.12.1
「知的障害者」という言い方でいいのか?

知的障害者を呼ぶのにどう呼べばいいのか、模索されているがなかなかいいことばが 見つからないようです。
まずは、「知的障害者」とカッコ付きで書くことによって、 ほんとうはこんなことばは使いたくないのだが、 しようがなくて使っているという違和を表している者。 しかし、少々わざとらしいようなきがしますし、つねに徴がついっていてかえって 意識してしまうようなところもあります。
「知的障がい者」こんなふうに表現する人もいます。「障害」の「害」の字、 あるいは「障碍」の「碍」の字を忌んでのことでしょうか。しかし、 では「障」の字に問題はないのかといえば、そうでもないように思えるのです。
ほん最近までは「精神薄弱」ということばが使われていました。 先日も学校の運動会で古いテントが張り出されたとき、 そこに「精神薄弱」の文字があってどきっとさせられました。
でも、つい4、5年前までは、「精神薄弱者」ということばは公式のことばだったのです。 たとえば「精神薄弱者養護学校」「精神薄弱者問題」等々。
わたしが現在校に赴任してきたころは、「精神薄弱者スポーツ大会」というものが 県単位であって、生徒に参加を募るプリントを配付していました。しかし、 さすがに面と向かっては「『精神薄弱者スポーツ大会』の参加願をもってきたかな」 とは言えませんでした。「スポーツ大会」ということでことばを濁していたのです。 いまは、「ゆうあいスポーツ大会」とか「ゆうあいピック」とか呼ばれています。 「ハンディキャップサッカー大会」とかいう言い方もあるようです。
わたしは、いまの学校に赴任する前は、ろう学校に勤務していたことがあり、 「身体障害者」とか、「聴覚障害者」ということばはほとんどなにげなく使っていました。 (完璧になにげなくということはありませんが。)生徒に面と向かって、 手話で「聴覚障害者」ということばで話しかけていたのです。
しかし、現在校で、生徒に面と向かって「知的障害者」ということばは使えません。 やはり、「聴覚障害者」とくらべると、わるいイメージが纏い付いているのでしょうか。
では、どういうことばであらわせばいいのか、これがなかなか難しいようです。 これといった案が出ていないようです。

今年の7月にNHKの「にんげんドキュメント」、「カーネギーに響け・歓喜の歌」 という番組が放映されました。副題が「感動の第九ともに生きた障害者と家族の10年」 というものです。
民間の福祉団体「ゆきわりそう」が作った合唱団が、「健常者」も、 「障害者」もその家族も一緒にずっと第九だけを歌い続けて、 これまで七回のコンサートを開いてきたのです。その合唱団が、今回、 カーネギーホールでのコンサートに挑戦し成功させるという内容でした。 これまでの歩みの中で、合唱技術の詳細はあまりわかりませんが、障害者たちが、 第九の合唱をそのままでは歌うことにはやはりむりがあったようで、 テノール、バス、アルト、ソプラノの四つのパートにたいして、 第5パートという新たなパートを作られたのでした。
ナレーションではこうなっています。
「障害者にも高い目標に挑戦することで生きる歓びをあじわってほしいと 11年前第九の合唱を呼びかけました。第九は音の高さがいきなり 一オクターブかわるところがあるなど、合唱の中でもむずかしい曲です。 歌える音域が限られている障害者のために、ソプラノ、アルト、テノール、バス、 という四つのパートとは別の第五パートという新たなパートが作られました。 第五パートは四つのパートの音程の変化が少ない部分をつなぎあわせました。 音域の狭い障害者にも歌いやすいように考えられたのです。」

ここで言いたいのはその内容についてではありません。ここで使われている 「第五パート」ということばについてです。「第五パート」とは、 合唱の分担を表しても居ますが、同時に障害者の人たちも表しているようです。 しかし、わたしはそのことばに違和感を持ちませんでした。そのことにふと気づいたのです。 これまで耳にした知的障害者を表すことばのなかで、もっとも抵抗の少ないものでした。
しかし、時間をおいて考えて見ますと、これでもやはり区別は残っていますね。 そもそも命名というのは区別なのですからね。区別はすぐに差別になります。 「第五パート」ということばもすぐに差別の意識に纏いつかれて 薄汚れてしまうかもしれません。
結論、やはり命名をやめるしかありませんね。福祉的な援護だけが、 問題ならば手帳Aを持っている人、Bを持っている人、これで十分な気もしますが。


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