◇2001年1月号◇

[見出し]
今月号の特集

新年、新世紀、あけましておめでとうございます。

賢治童話は”いじめ”でいっぱい

山本おさむ著「どんぐりの家」を読んで




2001.1.1
新年、新世紀、あけましておめでとうございます。

「賢治先生がやってきた」のホームページも開店1周年を迎えることができました。
「とりあえずやってみる」ということではじめたのですが、 この1年をどう総括すべきか思いあぐねています。
「とりあえず」は、かなりの人に見てもらうことができたこと、 これは感謝しなければならないと思います。
「とりあえずはやってみる」で作った形式を変えずにきましたが、さて、 これはどうしようかと迷っています。
こころのこりは、たとえば、わが校でもインターネットができるようになって、 パソコンクラブでこのホームページにつなごうと試みられたのですが、 まだなれていなくてうまくいかなかったらしいことです。掲示板に生徒たちからのメッセージを、 と期待していたので、これは残念なことでした。

「賢治先生」一連の劇は、かれこれ4、5年前にできたのですが、 一昨年ひさしぶりに「ぼくたちはざしきぼっこ」を書いて、 文化祭で上演できたのです。それで調子に乗って、 昨年は落語「銀河鉄道 青春十七切符」を作りました。 でも、落語ではどうしようもありません。いっそ、自分で落語を演じてみるかと……、 これは冗談です。
落語を書いて頭のどこかが刺激されたのか、さらにイメージが湧いてきて、ついに、 「賢治先生もの」の二人芝居、「地球でクラムボンが二度ひかったよ」という劇を 書いてしまいました。副題を―賢治先生がピカを見た―というのです。 題から想像されるように原爆を主題にしたものです。賢治先生が、 地球から45光年離れた銀河鉄道の駅から、望遠鏡で、普段は宇宙の闇にまぎれている地球 (惑星ですから)が、ピカッとひかるのを見ます。原爆のひかりですね。しかし、 賢治先生にどうすることができるでしょうか。原爆の語り部の人から 被爆の話を聞いたときわれわれが感じるふしぎな違和感、いまの現実と、 実際に被爆した悲惨な現実との45年の隔たりの埋めようもないもどかしさ、 そんなものを書きたかったのです。これは「火食鳥」という同人誌に 載せるために書きました。「養護学校生徒のための宮沢賢治」という範疇には 入りきらないので、このホームページに載せるかどうかは分かりません。
ということで、訪問してくださっているみなさまのおかげで、 この「賢治先生がやってきた」はまだ成長してくれそうなので、 さらに1年、「とりあえずやってみる」ことにしました。 いまは、一日に十数人くらいの訪問者ですが、 これからすべての学校にインターネットがつながるようなので、 今年はすこしは増えるかもしれません。それを期待して、 さらにいいものにしていきたいと考えています。 たまには、意見を聞かせていただけたら、反映していきたいと思います。
よろしくお願いします。
[追伸]しばらく考えていたのですが、このホームページを訪問いただいた方との 一期一会を尊重して、、 二人芝居「地球でクラムボンが二度ひかったよ」を 公開することにしました。いろいろ問題を含んだ劇だと思っています。 また、ご意見をお聞かせください。(2001.1.3)


2001.1.1
賢治童話は”いじめ”でいっぱい

落語「銀他鉄道 青春十七切符」を書いているとき、 あらためて賢治の作品に思いをめぐらしてみると、 何と”いじめ”にかかわる物語が多いか、ということでした。 もっともこんなことはすでに言われていることだと思いますが、 いまは文献を調べることはやめておきます。 思いつきでご託をならべていると読み流してください。
まず「銀河鉄道の夜」からしてそうです。主人公のジョバンニは、 漁師で漁に出かけている父からもらうことになっているラッコの 上着のことで友だちにからかわれています。 ジョバンニはそのことで自分がいじめられていると感じています。 母との会話でそのことが匂わされます。

「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思ふよ。」
「あゝあたしもさう思ふ。けれどもおまへはどうしてさう思ふの。」
「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「あゝだけどねえ、お父さんは漁へ出てゐないかもしれない。」
「きっと出てゐるよ。お父さんが監獄へ入るやうなそんな悪いことをした筈がないんだ。 この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの 角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生が かはるがはる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で[以下数文字分空白]
「お父さんはこの次はおまへにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあふとそれを云ふよ。ひやかすやうに云ふんだ。」
「おまへに悪口を云ふの。」
「うん、けれどもカンパネルラなんか決して云はない。 カンパネルラはみんながそんなことを云ふときは気の毒さうにしてゐるよ。」

ジョバンニがからかわれている根っこは、父がいないこと、 あるいはその理由のうさんくささにあります。家族にさえ、漁に出ているのか、 監獄にはいっているのかさえはっきりしません。
さらに、おそらくは家計をたすけるために、 学校の帰りに活版所によってアルバイトをしています。 そのこともからかいを誘発しているのかもしれません。
いじめの構造はそんなものでしょうか。
実際のいじめの場面はつぎのように書かれています。ジョバンニのこころが くっきりと浮かび上がってきます。すばらしい描写力だと思います。

(ケンタウルス祭の夜のことです。ジョバンニがもの思いに耽りながら) 大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、 新しいえりの尖ったシャツを着て電燈の向ふ側の暗い小路から出て来て、 ひらっとジョバンニとすれちがひました。
「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジョバンニがまださう云ってしまはないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」 その子が投げつけるやうにうしろから叫びました。
ジョバンニは、ばっと胸がつけたくなり、そこら中きぃんと鳴るやうに思ひました。
「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは 向ふのひばの植った家の中へはいってゐました。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのだらう。 走るときはまるで鼠のやうなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを 云ふのはザネリがばかなからだ。」

賢治作品の中でも中編に属する「風の又三郎」もまたそういうふうに 読むこともできるでしょう。
なにしろ「風の又三郎」は、つぎのような風体ではじめて登場するのです。 まさにいじめられてもおかしくないほどに風変わりなのです。

夏休みが終わった九月一日の朝、一年生の子が教室に入っていくと、
「そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らない おかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座ってゐたのです。」
「ぜんたいその形からが実にをかしいのでした。変てこな鼠いろのだぶだぶの 上着を着て白い半ずぼんをはいてそれに赤い革の半靴をはいてゐたのです。 それに顔を云ったらまるで熟した林檎のやう、殊に眼はまん円でまっくろなのでした。 一向詞(ことば)が通じないやうなので一郎も全く困ってしまひました。」
さすがに時代がちがうのか、そんなに激しいいじめはみられませんが、 まさにいじめを生じかねない状況なのです。

「なめとこ山の熊」もいじめの変奏だといえないこともなさそうです。

「けれども日本では狐けんといふものもあって狐は猟師に負け猟師は 旦那に負けるときまってゐる。こゝでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。 旦那は町のみんなの中にゐるからなかなか熊に食われない。」
という状況が語られている。

ここにみられるのは、三竦みのような構造でいながら、損しているのは熊捕りの 名人淵沢小十郎、それに殺される熊ばかりで、これでは、まるでいじめられているようなのだ。 しかし、これはたんなるいじめではなく、資本主義システムそのものに 組み込まれたいじめのような気がします。

「セロ弾きのゴーシュ」を見てみます。

ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。 けれどもあんまり上手でないといふ評判でした。上手でないどころではなく 実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいぢめられるのでした。 ふるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の 練習をしてゐました。……(中略)……にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。 みんあぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
……(中略)……
「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐる ひまはないんだがなあ。」
みんなは気の毒さうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだりじぶんの楽器をはじいて 見たりしてゐます。」

ゴーシュは、「音楽を専門にやっている」のだから、プロだが、プロが上手に弾くのは あたりまえだから、楽長の難詰はいじめではないともいえるが、 本文の中に「いつでも楽長にいぢめられるのでした。」という文章が見えます。

「蛙のゴム靴」もそうです。野鼠にたのんでゴム靴を手に入れたばかりに、 友人のブン蛙とベン蛙にさんざんいじめられる話になっています。

あげれば切りがありません。こういう観点から見ると、まさに賢治童話はいじめの話で 満ちあふれているようの思えるのですが、どうでしょうか。
そんなこともあって、落語「銀河鉄道 青春十七切符」も、 その中においたとき違和感を感じさせないテーマだと、自分で納得しているのですが……。
それにしてもこれほどいじめを巧みに織り込んでいることからして、 賢治が日常生活でいかに疎外意識、というか、被害妄想に近い不安に苛まれていたかが 分かるような気がするのですが、どうでしょうか。


2001.1.1
山本おさむ著「どんぐりの家」を読んで

障害者問題を取り上げたなかなかおもしろいマンガがあると、噂は聞いていたのです。 しかし、わざわざ探してまで読もうとは思わないまま、忘れていました。ある日、 古本屋で山本おさむ著「『どんぐりの家』のデッサン」(岩波書店) という本を見付けたのです。ふとマンガの書名がよみがえり、さっそく買い求めて、 読んでみると、これがなかなかおもしろいのです。
実はわたしは、いまの養護学校に来る前は、ろう学校に勤務していたのです。 だからよけい興味深く読みました。「どんぐりの家」は、ろう重複の生徒、親、 教師の物語だったのです。

第一巻の主人公はろう重複のハンディーをせおわされた田崎圭子さんとその両親と いうことになるでしょう。

最初に小さい活字で「この物語は事実に基づいたフィクションです。」という断り書きが ついていて、目次のページには参考文献まであげてある。
そして、活字で追うと次のような展開をします。

看護婦「おめでとう。田崎さん、女の子よ。」
母親の汗をにじませた顔。
難産だった。
母「赤ちゃんは……?」
そう聞いた時、看護婦の顔が一瞬曇った。
母親の不振な目。
泣き声もせず、隣の部屋からカチャカチャ…と不気味な器具の音がした。
昭和42年2月16日長女圭子誕生。
そこで、時間が跳んで、2歳くらいに成長した圭子が庭で水遊びをさせていて、 目を離したすきに引っ越してきたばかりの隣家に侵入してしまうという事件が描かれる。
そして、
あの日まで……私たちは、普通の幸せな家族だった。
夫も周りの人たちも圭子の誕生を心から喜んでくれた。
あくびをしても可愛い、ゲップをしても可愛い。圭子は笑いと喜びにつつまれていた。
そして3か月、6か月、1年。ミルクの飲みが悪い。50ccを一時間もかかり、 飲み疲れて寝入ってしまう事もある。
発育が悪く、首は半年くらい座らない。寝返りもできず、泣く事もほとんどない。 1歳8か月でようやく歩くようになるが、言葉らしきものは出ない。
夫が圭子をあやす、だっこする。
しかし目線は合わず、ニコリとはするが感情がともなっていないような気がする。 そういえば、この子は心から笑うという事がない。
人形のようにおとなしく座って、ひとりでブロック遊びに夢中になっている。 そして飽きると、ごろごろと寝ころがっている事が多い。
(同年齢の子ども集団に入れない。)
父「大きい病院で……きちんと診てもらったほうがいいんじゃないかな。
何だか違うよ。圭子は他の子と違う。」
そしてその日を迎えた。風の強い日だった。圭子は2歳3か月になっていた。
帝都大学付属病院。
医者「この子は耳が聞こえていません。そして知的障害もあるようです。 言葉を喋れるようにならないし、読み書きもできないでしょう。」
母「は……?」
医者「つまりですね。耳が聞こえないという事は、 お母さんの言葉が入らないという事です。」
(圭子のあどけない顔)医者「ですから、言葉を覚える事ができない。 喋る事もできません。」
医者「そのうえに知的障害もありますから、知能もよくて4歳程度以上には成長しないでしょう。 こういう子は普通の学校には行けませんから、それなりの準備を考えてください。」
医者は冷たく事務的に淡々と説明した。信じたくなかった。色々な病院で検査を受けたが、 結果は同じだった。
そして、家庭での日常生活にもどる。家の中は荒れほうだい、母は疲れ、 父は圭子と向き合おうとしない。
……………

難産での誕生、一瞬の不安、子育てに追われる毎日………、疑惑、検査、 誕生日の不安に思い当たる、無我夢中の子育て、子どもとの格闘、夫婦の間の亀裂、 子どもとの共生の確認、夫婦の亀裂の修復、協力……

「どんぐりの家」をマンガ論として論じることはできません。内容については、 参考文献としてあげられているように、実話にもとづいてフィクションとして 描いているわけですが、それにしてもマンガでよくここまで踏み込んで描けたと 感心せずにはおれませんでした。
障害をもった子どもを授かった親、あるいは家族がそのことをどのように受容し、 立ち向かっていくのかをいろいろ考えさせられました。 家族がなんらかのかたちで外に開いていくことが大切なのかと、 そんなことにも思いをめぐらせました。「どんぐりの家」においても、 主人公の圭子さんがろう学校の幼稚部に通いだすところから色調が明るくかわっています。
そんなふうに家族が外に開き、そのことで障害を受容していく、そんな段階を経て、 子どもがその家の「ざしきぼっこ(ざしきわらし)」になってくれれば……、 そんな祈りのような気持ちにもなったのです。
それはともかくマンガでここまで踏み込んで描けるのかという驚きを感じました。 しかし、山本おさむ氏は、単に原作を得て、それをマンガ化したのではなく、 障害者の問題、差別表現、ろう教育や手話の問題など、大変よく調べ、 また手話サークル活動に加わるなど精力的に活動されていることを 、「『どんぐりの家』のデッサン」を読んで知りました。
とりわけ、ろう教育の歴史に関わる手話の位置づけなどの問題についても深い理解を 持っておられることをしりました。氏には「わが指のオーケストラ」という、 昭和のはじめのころに大阪市立ろう学校校長だった高橋潔を主人公にしたマンガもあるのです。 高橋校長は、昭和初期にアメリカから口話法が導入され、 ほとんどのろう学校がそちらになびく中にあって、手話をまもりとおしたのです。
手話の問題については、わたしも以前から興味を持っていました。
わたしがろう学校に赴任したのは、1981年でした。当時は、 キュードスピーチ法が全盛の時代で、幼稚部や小学部でキュードスピーチで コミュニケーションしてきた生徒たちが中学部に入学してきた年でした。 それまでは口話法で教育がなされていたのですが、キュードスピーチというものが、 発話の練習をするなかで開発され、画期的な方法として称揚されていたのです。
口話法というのは、フィードバックがかからないために矯正しにくいのですが、 なんとか練習して音声で話をし、また話し手の口を読みとるやりかたで話を聞き、 健聴者と同じように会話するという方法です。しかし、くちの形を読むといっても、 たとえば「あ」も「か」も口の開き具合は同じなので、 よほど練達してもうまくいかないのでした。話している内容が分かっている場合には 読みとりやすいとしても、話題が変わるとついていけないという風だったのです。 それにたいして、キュードスピーチというのは、読唇のむずかしさを補う方法として、 たとえば、「あ行」は、胸に開いた手をあてて表し、「か行」は、 人差し指で喉を指さすという手の動きでkaの子音部分(k)を 表すという方法で読唇の不足を補うというものです。口話法にしろ、 キュードスピーチにしろ、日本語環境のなかで生活しているのだから、 日本語を身につける必要があるという考え方が基本になっているのです。 日本語を身につけさせるということにおいてキュードスピーチは 画期的な成果をあげたように思われました。中学部に進学してきた生徒たちは、 それまでの学年にくらべて格段に日本語が使えたのです。
当時も中学部や高等部での授業は、手話を使ってなされていました。 もちろん教師がすべてそんなに手話に堪能ではなかったので、 手話やら板書やら口話やらを総動員しての授業というのが実態だったと思います。
しかし、それでも以前に比べれば、手話が容認されるようになってきた、 という話を聞きました。以前は、手を動かしただけで、ピシャリとやられたりして いたということでした。
わたしは、ろう学校に転勤が決まったとき、手話の本を買い込んでにわかづくりの 手話勉強をしていきました。高等部三年生の担任ということになり、 はじめての顔合わせの時、「私の名前は、浅田です。」と手話でして、 「わかりますか?」と聞いたら「わかる」という返事、とてもうれしかったのを覚えています。 以来生徒たちに、手話の日常会話を教えてもらいながら身につけていきました。 高等部三年生は、まだ幼稚部や小学部を口話法で過ごしてきた生徒たちでした。 それでも手話は、寮や先輩との付き合いで自然に身につけていました。しかし、 正式に習ったものではないので、少々あらっぱい(?)手話のように思われました。 卒業式の送辞や答辞も生徒が文章を読み上げて、同時にOHPで、 別に書いた文章を映し出すといったやり方でした。
そのうちに「手話でやったら」という話が出てきて、 試みがなされたという風な状況だったのです。そのうちにろう学校から転勤になりました。

文化祭の劇の発表などは、幼稚部から小学部、中・高部、全部がそろって見るのですが、 小学部の劇はキュードスピーチで、中学部、高等部の劇ではやはり手話が使われていて、 それを見て、まあだいだい分かるという状況だったように思います。
当時ふしぎに思ったのが手話の辞書がないということでした。理由は簡単です。 イラストや写真で(いまなら動画)しか手話を表示する方法がないのです。 手話の記号表示ができなければ、辞書などつくりようがないはあたりまえです。 ある手話単語がどのような文脈の中で使われているか、例文を採取することさえまま ならないからです。いちいちイラストや写真で表現するのは煩雑です。 結局、たいていの本では、「私」「好き」「あなた」といった形で、 それらの日本語に対応する手話を表してきたのです。しかし、日本語と手話では、 意味のひろがりもちがいます。それをむりやり日本語であらわすなど、無謀ですね。 手話の辞書など夢のまた夢です。 そこで、なんとか手話を記号で表せないものかと考えたことがあるのです。 もちろんこれまでにも試みられたことはあるのです。しかし、 みなさん用心深くて実際に記号化されたものにはお目にかかったことはありませんでした。 しかし、それももっともで、実際に自分で考えるとなるとなかなかむずかしいのです。 手話の位置、手の形、動きを記号化するのですが、すべてのパターンを覆うとなると大変です。 1年くらいそのことを考えて、手話を記号化する試案を手話の研究会で発表したことがあります。 2年目からは、パソコンの得意なH先生にも加わっていただいて、 記号を打ち込んで並べ替えもしてみました。同じ指の手話が並んでくるのは なかなか壮観だったのですが、それも結果を発表しただけで、 転勤のためにそれも中途半端なままになってしまいました。 以来手話の記号表示ということは興味をもって待ち望んでいるのですが、いまだに、 記号化が完成していないのはなかなかむずかしいということでしょうか。 いまだにちゃんとした辞書がないのも同様です。手話の研究自体が遅れています。 米川明彦著「手話言語の記述的研究」、が、ほとんど唯一の研究書であり、 それ以外には数えるほどしかちゃんとした研究がなされていないというのが実状です。
そんなふうに手話には当時から興味がありました。そして、現在、 ろう学校では手話が幼稚部から導入されていると聞いています。
聴覚障害者にとって手話は母国語だという認識があり、 その母国語をなによりも大切にという考えからなのでしょう。 分からないことはないのですが、あのキュードスピーチの威力を目の当たりにしてきたものに とっては、もったいない気もするのです。ここらあたりのこと、 意見があれば聞かせてください。


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