◇2001年2月号◇
[見出し]
今月号の特集
二人芝居「地球でクラムボンが二度ひかったよ」
性はどんなふうに話題にするの?
手話に興味をお持ちの方に
手話の記号化について
2001.2.1
二人芝居「地球でクラムボンが二度ひかったよ」
ずいぶん迷ったのですが、二人芝居「地球でクラムボンが二度ひかったよ」を
ホームページに上梓することにしました。
先日NHK教育テレビでやっていたのですが、広島を語る会の語り部たちが
2001年3月で引退されるというのです。修学旅行生など、
広島を訪れる人たちに自身の被爆体験を語り続けてきた語り部の方たちも高齢になり、
語る会の活動を存続させることができなくなった、ということもあるのですが、
原爆学習のために修学旅行先を広島に選んだ中学、高校生の語りを聞く姿勢にも問題が
あるようなことが匂わされていました。たしかに、現代の中高生にしてみれば、
広島・長崎の被爆も、自分たちが生まれる前の遠い昔のできごとであるにすぎないのでは
ないでしょうか。語り部の方たちへの礼儀をわきまえない態度は論外として、
むりやり興味を持てというのもへんなような気がします。
彼らは原爆の事実をどう感じとっているのか。そのことを想像しているうちに、
この劇の題材が浮かび上がってきたように思います。修学旅行で広島に着いて、
さて被爆の状況を想像しなさいと言われても、それは五十五光年の距離を隔てて
原爆の光景を見ているようなものではないのかということなのです。
それでもなおかつ被爆の悲惨さを身に引きつけようとすれば、
想像力を働かせるしかありません。そのことを言いたかったわけです。
二人芝居と銘打っていますが、シテは賢治先生として、ワキは役柄ごとに人物を変えれば、
それなりの人数を出演させることができます。
「クラムボン」の意味の齟齬については、承知で使っています。
「地球でクラムボンが二度ひかったよ」という題名では、「クラムボン」は、
原爆を表しています。つまり「眩むbomb」というイメージが優先されているわけです。
「やまなし」の中では蟹を表しているようなのです。
だから「クラムボンが二度ひかったよ」という使い方をすると、
「やまなし」の「クラムボンはかぷかぷわらつたよ」というセリフと齟齬をきたして、
違和感を持たれるかもしれません。まして、賢治童話を大切なものとしておられる方に
とっては許されないと思われるでしょう。まあ、しかし、
意識下のそんな混乱もまたわたしの狙いでもあるのです。また、
どうしても「眩むbomb」のイメージを題名として使いたいというこだわりもありました。
かちかちのケンジリアンという方には寛恕を願うしかありませんが、
そんな遊びもまたおもしろいと思ってくださる方もあるのではないかと
かってな想像もしているのです。
2001.2.1
性はどんなふうに話題にするの?
養護学校の生徒が、日常生活の中で、性というものの位置づけをどうしているのか、
というのが分かりません。セックスというものが、むき出しで日常生活に顔をだしたら、
それこそたいへんなことになるので、人間は文化というものでカバーしてきたのでしょう。
しかし、その機微は成長の過程で知らないうちに身につけているようなのです。では、
その隠微なルールを理解できない養護学校の生徒はどうして、
それをマスターすることができるのでしょうか。
性教育を劇化した「イーハトーブへようこそ」に、つぎのような場面があります。
賢治先生と卒業生たちが、遊園地で「注文の多い料理店」に入って、
いろいろの注文を聞いているうちにおかしいことに気がつきます。
卒業生 おかしいな。賢治先生、おかしいですよ。
卒業生 ぼくもおかしいと思う。
卒業生 たくさんの注文というのは、向こうがこっちへ注文しているんだ。
卒業生 賢治先生、いったい、この料理店はなにをするところなんですか
賢治先生 やっと気がついたね。君達のいうとおり。こここはね、
料理店なんかじゃない。じつはね、ひとりのセックスをするところなんだよ
卒業生 ひとりのセックス?
賢治先生 そうだ。マスターベーションのルールを分かってもらうための料理店なんだ
卒業生 なんだ、そうか
卒業生 それで、ひとりのお方でも大歓迎って書いてあったんだ
卒業生 まだ書いてあるよ。「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。
お気の毒でした。もうこれだけです。自分探検をお楽しみください。では、ごゆっくり。
ティッシュも週刊誌もあります。ただ、まちがっても、人には見られないように」
賢治先生 そうだな、「まちがっても人には見られないように」
というところが大切だな。セックスは楽しめばいいんだけれど、
人にみせるもんじゃないからね。ここを触ればこうなる、あれを見ればこんなになる、
ということを探検するんだ。何も悪いことはないんだよ。では、つぎに行こうか
卒業生 まだ、あるんですか
そして、つぎの部屋にすすんでいきます。
卒業生 「からかいの談話室」って書いてある
卒業生 また、看板があるよ。「ここでコーヒーでも飲みながら食後のお話しを
おたのしみください。ワイ談もあります」
卒業生 ワイ談って何ですか
賢治先生 エッチな話だよ。では行こう
卒業生 えー、入るんですか
賢治先生 入るよ。なれるためにね
(扉を開けてはいる。何人かの人がいる)
客 やあ、賢治先生、お元気ですか。
賢治先生 元気ですよ
客 あいかわらずセロを、弾いてますか、百姓の人達を集めて
賢治先生 ああ、弾いています、一度来てください
客 おなごをだかんと、セロを抱いて、どこがええのか
賢治先生 セロも抱き心地はいいですよ。
(生徒に向かって)
こんなふうにからかいは無視するか、わらってすましてしまう
客 きみたちも若いからがまんできないでしょう。どんなふうにしてるのかな
卒業生 えー、ぼくは……
賢治先生 まじめにかんがえんでいいよ。そんなことは知らないという顔をしてたらいい
卒業生 だまってるんですか
賢治先生 そうだ、人間は、普段は、セックスなんかしません、
という顔をしましょうというのが約束なんだ、では、出ようか
(みんな、外に出る)
この「セックスなんか知らないという顔」をしなければならない約束事、
それは文化といってもいいのでしょうか。そのあたりの機微を論じた本に、
橋爪大三郎の「性愛論」があります。そこから、「性愛の分離公理」の節を引用します。
「ワイセツという観念が成立するためには、一方でワイセツ視される側の社会関係
−具体的には性愛関係−、もう一方でワイセツ視する側の社会関係が、それぞれ成立し、
しかも互いの別個のものとして分離しているのでなければならない。
ワイセツ現象が人類に普遍的に見出されるのはなぜかというと、
人間社会において、このような分離が普遍的に生じているからなのです。
性愛関係−性愛行為によて形成される社会関係−は、たしかに人間社会の重要な一部分である。
ところがある段階から、性愛関係は、それ意外の社会関係から分離され、
それらによって囲繞されるようになった。」
イーハトーブの劇でも書きましたが、一方に厳然と性愛関係というものがあり、
他方にセックスなんか知らないよ
という顔をする社会関係があります。それらは、はっきりと分けられていなければならないのですが、
その分離の構造からワイセツ罪という罪が派生してくるようなのです。もともと性にかかわるものは
猥褻でなどないはずなのですが、セックスなんかしらないという顔を決め込んだ社会にうかつにも
顔を出したりすると猥褻物陳列とかいうことで弾劾されるはめになってしまうのです。
でも、その分離がはっきりとはわかっていないものだってあるかもしれません。
その境界を越境してくるのが養護学校の生徒であれば、その行為はワイセツとは言えないように
思います。
まして罰するわけにはいきません。確信犯ではないからです。しかし、
その行為自体は「恥ずべきこと」として打擲されてもおかしくないし、
厳しく禁止されるに違いないのです。その辺りの機微ははっきりとわかってほしいのですが、
ほんとうにわかってもらうのはなかなかに難しいことのように思います。
性教育でももっとも教えにくい、話にのぼせにくいことではないでしょうか。
まだまだ考えが煮詰まっていないので、「この稿続く」としておきます。
2001.2.1
手話の記号化について<
先月の「うずのしゅげ通信」の「どんぐりの家」についての章で、
手話の記号化について触れたところ、どのようなものかと質問してこられた方がおられました。
わたしがろう学校に勤めていたころにくらべて現在は手話ブームということで、
手話の記号化というような問題にも興味をもってくださる方もいるようで、
手話の話題を続けさせていただきます。
手話の記号化ということになりますと、詳しくは、
「手話の記号化についての試み」(日本手話学術研究会論文集(
昭和58年度号)@)、「手話の記号化についての試みU」
(日本手話学術研究会論文集(昭和59年度号)A)を参照していただくしかないのですが、
おそらく手に入りにくいとおもわれますので、その概要だけでも紹介させていただきます。
すこしは、手話を使える方を想定しての説明になります。
「手話を記号化できれば、言語としての基本的な要件である満足な
辞書さえないという状況を幾分かは打開できるかもしれない。
様々な試みがなされてきたが、いまだに確立した方式といったものはないようである。
それを阻んできた要因は、考えるまでもなく、手話の写像性からくる身振り表現の
多様性にある。これまでの試みに共通しているのは、手話を、位置、手の形、動き、
という3つの枠組みに分けて考える傾向である。その枠組みを踏襲し、
さらに多様な表現に対応するするための方法を考えるとして、
ではその記号化に要請される条件としてどんなものがあるだろうか。
手話の記号化の意味というあたらいから考えてみる必要がある。
現在のところ手話を表示しようとすれば、絵(イラスト)、あるいは写真、
VTR等でその身振りをあらわすしかない。しかし、
これは言語表現としては大変能率が悪いうえ、日本語−手話(日−手)辞典はできても、
手話−日本語(手−日)辞典は原理的に出来ないことになる。
手話を規則的にならべる方法がないためである。もちろん大雑把なものなら可能であり、
事実試みられたこともあるが。手−日辞典ができないことから
(日−手辞典にも満足なものはないが)、本来多義的な、
つまりひとつの手話が多くの日本語に対応する手話言語の研究そのものが
行きづまっているように思われる。もちろん、手話の意味だけならカードで
収集できないこともないが、カードの整理が難しい。……(中略)……
また手話をコンピューター処理するためにも、記号化が必須の条件となり。」
としたうえで、記号化の条件をつぎのようなものとしている。
「規則的にならべられるように、記号の要素として、カナ、アルファベット、
数字を用いること。手話の微細な表現、ニュアンスにまでは拘らず、
記号の要諦である他の記号との差異性があらわせれば充分と考え、
できるだけ簡便なものとし、慣れれば、漢字又は英単語なみの手間で書けること
(できるだけ桁数がすくないこと)、見ればそれに対応する手話が思い浮かぶ
ような意味のある表現になっていること、等が記号化の条件となる。」(@の1、序)
「序で述べた記号化の要請を念頭に、具体的に考えてみる。
まず、はじめに手話をふたつの型にわける。
手話の位置、手の形、動き、という枠組みで表現できるものをT型、
左右の手を別々の主体と見立てて、それらが関係しあう(多くは右手が左手に働きかける)
ものをU型とする。
厳密に言うとどちらに属するのか判断しかねる場合もあるが、
そんな事例はそう多くはない。」(@の2、手話の記号化)
いじょうの分類にしたがって、いくつかの例示があります。
(1)T型手話の記号化
たとえば、手話「いろいろ、さまざま」の記号は、
Aムb3(Amub3)となります。
Aは、手話の位置が胸の前であることを、
ムは、右手の形が指文字のムの形であることを、
b3は、動きが回転をともなった右向きの動きであることを表しています。
両手が動く場合は、左右の手の関係はパターン(対称性)が決まっているので、
鏡の関係、ちぐはぐの関係などが記号で後ろにつけ加えられるようになっています。
(2)U型手話の記号化
たとえば、手話「かわいい」の記号は、Rデmデ
(またはRデmLデ)となります。
この手話の動作は、「左手を子供の頭か何かに見立てて、
右手で撫でている様子をあらわしています。Rは右手の意味で、
U型の場合の最初の文字になります。本当は左手の形をあらわしている後ろのデの前に、
左手をあらわすLが来るべきであるが、桁数を少なくするために省略した。
mは、左右の手の関係、働きかけ(撫でる)をあらわしている。
だいたいこのようにして記号化してあります。
手話の位置、手の形、T型の動きや左右の手の関係、U型の動き(左右の手の相関関係)
等については、アルファベットや指文字に収まる範囲内で分類されています。
そして、「手話の記号化についての試みU」においては「わたしたちの手話」1〜4巻を記号化して、
アルファベット順に並べ替えをした表も添付されています。
おそらく、手話を記号化したのは、これがはじめてではないでしょうか。もちろん、
まだまだ不満足なものなのですが。
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