◇2001年9月号◇

[見出し]
今月号の特集

養護学校の教科書選びはむずかしい

yahooで本を買う

化石はすべて時間の化石?




2001.9.1
養護学校の教科書選びはむずかしい

作る会の歴史教科書が養護学校で、というニュースにおどろいてしまいました。
先日NHKで、東京杉並区の教育委員が教科書を選定するにいたる経過がドキュメント番組で放映されていました。そもそも教科書を選定するに当たって教師を排除しようということで、いまの仕組みができあがったようです。
杉並区では、結局作る会の教科書は選定されませんでした。しかし、危ういものです。ひとつまちがうと燎原の火のように、作る会の教科書が広がっていく素地は十分にあると感じました。
杉並区では採用されませんでしたが、東京都は養護学校での採用を決めたのでした。どのような経緯で採用にいたったのかは分かりません。しかし、採用を決めた教育委員の方々は、養護学校でどのような授業がなされているか、ほんとうに現場で見られたのでしょうか。あるいは、現場の教師の意見を聞かれたのでしょうか。もちろん、調査されたと思います。だから、充分ご存じだとは思うのですが、養護学校の教科書を選ぶというのは、とても一律ではいかない面をもっています。どんな教科書を使うかはとてもむずかしい問題なのです。
わたしの勤務する高等養護学校でも、また以前勤務していたろう学校でも、ふさわしい教科書となるとなかなか見つかりません。結局は、一応教科書は選定はするものの、実際の授業では、ほとんどの場合、教師の手作りのテキストが使われているのです。そんな現状を考えるとき、作る会の教科書が、どうして養護学校の教科書としてふさわしいと判断されたのか、そのあたりの事情を知りたいものです。
杉並区の教科書選定の教育委員の方々の選定会議の様子が録音で流されていましたが、どうしてもそれぞれの教科書の印象批評めいた議論になる傾向があるように感じました。実際の授業の場に置いたとき、その教科書がどのような受け取りかたをされるのかは、読んだだけでは分からないのです。想像だけでは判断できないのではないでしょうか。そこのところをもっと謙虚に考えたほうがいいと思います。
また、印象批評ということで言えば、作る会が避けようとするような内容をはっきりと書いてある教科書が、印象批評の最初の議論の段階で切り捨てられる傾向があるということです。つぎの教科書の編集にそのことが影響を及ぼさないはずはないのです。まずは無難な内容ということで編集されることになってしまうのではないでしょうか。
 このことでは憤慨しておられるかたも多いと思います。ご意見をお待ちしています。


2001.9.1
yahooで本を買う

インターネットで何かものを買ってみようと考えました。クレジットカードをもっていない、わたしとしては、方法は限られています。
yahooの本屋さんを訪問することにしました。どんな品揃えなのでしょうか。 あった、あった、検索すると本の一覧ができます。
では、どんな本を買おうかな?と探していると、ありました、ありました。 この前、本屋さんで買いそびれてしまった本が。岩井克人著「21世紀の資本主義論」。 たまには難しい本も読まなくては。というのは、岩井克人さんの文章には、 いつも刺激を受けるのです。以前、朝日新聞のつぎのような記事が載っていました。

2001年2月3日朝日新聞夕刊の「視聴21」の欄に経済学者である岩井克人氏がつぎのようなことを書いています。
資本主義社会主義です。だが、社会主義はまさに売らなくてもよいということによって、他者による批判を抑圧した独裁社会になってしまいました。
社会主義が崩壊した今、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、すべてのものが「売れなければならない」資本主義の中で生きていかざるをえなくなったのです。」
資本主義がすべてものもを商品化してしまうシステムであることは、マルクス理論そのものでしょう。どこが新しいのでしょうか。
そのことを、私たちの問題に引きつけて考えてみます。
私たちが生きているのは資本主義の社会そのものであるのはいうまでもありません。そこは、「すべてのものが「売れなければならない」社会」だというのです。それは、まさにそのとおりでしょう。「すべてのもの」というのは、いわゆる商品だけではなくて、労働力もまた商品として取り扱われます。岩井氏が、例としてあげて論じているジェーン・オースティンの「高慢と偏見」においては、「若い娘がまさに商品として結婚市場にくり出してきた時代が始まった」という認識が示されています。若い娘も商品なのです。
とすれば、障害者もまた労働市場の商品としてしかありえないことになります。障害者の労働力もまた商品として社会に繰り込まれるしかないのです。しかし、知的障害者はまさにそのありようにおいてもっとも非資本主義的なのです。能率を超越しているとしか言えないのです。だから、私に勤務する養護学校においては就職していく生徒は、最低賃金を割って(除外申請という方便があるらしいのです。)、数万円という賃金で働いている場合も多いのです。しかし、重度のものはもっとそのありようが限定されています。重度の障害者を商品としてどのように解釈すればいいのでしょうか。
社会主義の世界においては、障害者は商品としては遇されていなかったようです。商品でさえなかったというべきでしょうか。ソ連邦においては、障害者は施設に収容されて、そこで日々をただ浪費していくというありようを強要されていたのではないでしょうか。岩井氏の言を使えば、社会主義社会は、障害者の遇しかたにおいても、「売らなくてもよい」ということから、退廃をまねいてしまったと言えるでしょうか。
岩井氏の引用を続けます。
「「売れなければならない」−−それが資本主義の「論理」です。それでは、資本主義にとっての「倫理」とは何でしょうか。
「売れればよいというものではない」−−それが資本主義の倫理です。
あまりにも陳腐に聞こえる言葉であるかもしれません。だが、この倫理はまさに資本主義とともに生まれてきたものです。そして、資本主義が「売れなければならない」という以上の論理をもたない社会である限りにおいて、これ以上の倫理はありえないのです。」

障害者という労働力もしかし、「売れればよいというものではない」という資本主義の「倫理」を適応すればどう考えればいいのでしょうか。
「売れればよいというものではない」、劣悪な条件でも労働場所の確保は重要なのか、それともそこに「売れればよいというものではない」という「倫理」を導入して、「売れるように付加価値を付けよう」とか、(援護措置で補助金を付ける)、障害者の職場を聖域として一定枠で確保するとか、さまざまな「倫理」が考えられるようにも思われます。
しかし、「倫理」であるから、そこは「運動」が入り込む余地があるように思われるのです。「売れればよいというものではない」という主張を掲げた運動の輪を広げていくという方法もあっていいように思うのですが、どうでしょうか。 障害者の雇用率を満たしていない企業を消費運動から圧力をかけて達成を要求していく。それがあたりまえになる、それが倫理的ということではないでしょうか。最低賃金制度を骨抜きにする除外申請の制度を、オプションをつけることで守らせていく、それも運動による倫理ではないでしょうか。
しかし、ここに書いた考えはまだまだ未熟ですね。考え尽くされていません。それは、自分でも分かっているのです。まあ、じっくし考えていくしかありません。
それで、本は手に入ったのかって?首尾は上々でした。一週間もしないで、指定しておいた近くのセブンイレブンで受け取ることができたのです。うれしいことでした。


2001.9.1
化石はすべて時間の化石?

ちいさいアンモナイトの化石を一つ買いました。
かわいく渦を巻いた殻が磨かれた石の表面に顔を出しています。
何かに使おうという目的があって買ったのではありません。ちいさいものなので、本のページがめくれないように支えることもできるかどうか危ういものです。
でも、机の上において、手でなでていると、ちょっと悠久の時間に触れているような幻想を感じ取ることができるような気がするのです。
 知恵蔵によれば、アンモナイトは、「デボン紀(約四億年前)から白亜紀末(七千万年)までの海に繁栄した。」らしいのです。ぼくの手が愛でているこのちいさな巻き貝も、三億年前くらいの海にいたやつかもしれないのです。想像を絶していますね。それが何ともいえないふしぎな快感なのです。人間の時間感覚を超越したものにたいする憧憬ともいえるかもしれませんね。そんなふうに感じに浸りながらアンモナイトを弄んでいると、何か、毎日の生活とは違う次元に意識が飛んでいってしまうような気分になって、悩みなんかあってもなんとなくやり過ごしていけそうな気がするのです。ちいさなお守りのように思われてくるから変なものです。
 そう言えば宮沢賢治もまた化石というものに独特の興味を示していたように思います。手元に「宮沢賢治語彙辞典」がありませんので(古本屋で買っておけばよかったと、いまは後悔しています。)詳しく調べることはできませんが、たとえば「銀河鉄道の夜」にも時間の化石を掘り出している大学士が登場しますね。賢治もまた時間というもののふしぎをいつも感じていた人のような気がします。ただ、賢治が、化石を身近に置いていたかどうか、それは分かりませんが……。
「銀河鉄道の夜」では、どんなふうに化石が出てくるのでしょうか。それは、「七、北十字とプリオシン海岸」の章に出てきます。白鳥の停車場で下車したカンパネルラとジョバンニは、銀河の河原にやってきます。
「ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。」
 やっぱり銀河には水が流れていたのかと、ふしぎの思いに誘われるとともに、あらためて賢治の表現力にまいってしまいます。
そこで、二人は川上の方に行ってみますと、「プリオシン海岸」という、瀬戸物のつるつるした標札が立っていて、そこでくるみの化石を拾うのです。
大学士らしい人が二人に声をかけてきます。
「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。」
けものの化石も出るらしい。「標本にするんですか。」という質問に大学士は、証明するために要るんだという。「ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか。あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。」と、説明するが、この論理はなかなか分かりづらいのです。
 銀河の川岸の地層が、「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか。あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないか」というのですが、これはどういうことなのでしょうか。
 たしかに、ぼくならぼくが、夜空を見上げて銀河が見えたとして、その川岸のあたりはどうかと言えば、たしかに「がらんとした空」でしかないのではないでしょうか。そこに地層を見るためにはかなりの想像力が要りそうです。
 そこで、賢治劇「「銀河鉄道の夜」のことなら美しい」で、ぼくが考えたのは、「水素よりももっとすきとほってゐ」る銀河の流れは、時間の流れではないのか、ということでした。銀河を流れているのは透明な時間であり、その川岸の地層に埋もれているのは記憶の化石のようなものなのではないでしょうか。地球から飛来した過去の光景も化石となって埋もれている、そんなふうだったらどんなにふしぎな気持ちがするだろうと、つい考えてしまったのでした。
もちろん、一概にそんなふうに決めつけることもできませんね。いろいろの解釈があってもいいと思います。そんなことを想像していると何度読んでも楽しいものです。
また、賢治にこんなことばもあります。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。」(「農民芸術概論」
「正しく強く生きる」というのは、どこか気恥ずかしいし、また「銀河系を自らの中に意識して」というのは、どうすればいいのか迷うところですが、これを、この際ですから、「銀河系の時間が化石に象徴されている」と考えて、「化石を自らの中に意識して」と読みかえてもいいのではないかと、そんなふうなことを思ってみたりもしたのです。
 アンモナイトの化石をなでながら、夏の夜、そんな夢想を楽しんでいるのですが、……。


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