◇2001年10月号◇

[見出し]
今月号の特集

作家・畑山博さん追悼

チャップリンの「モダン・タイムス」

糸井重里「インターネット的」(PHP新書)はなかなか刺激的




2001.10.1
作家・畑山博さん追悼

作家の畑山博さんが、9月2日に亡くなられました。
朝日新聞2000年9月3日朝刊の追悼記事。
「社会の底辺で懸命に生きる人々を描き、宮沢賢治に理想の教師像を見いだした 『教師 宮沢賢治のしごと』などで知られる芥川賞作家の畑山博氏が2日、 肝不全のため死去した。66歳だった。」
「東京都生まれ。戦時中、長野県の山中で母と共に送った疎開生活が生涯、 創作の原点になった。高校中退後、様々な仕事を経て、 66年からNHK教育テレビなどで脚本作家として活動。 『若い広場』を7年間担当し、教育問題などに積極的な発言を続けた。
72年『いつか汽笛をならして』で芥川賞、『母を拭く夜』 『パクチャル族創世神話』『織田信長』などの多彩な作品がある。 社会の底辺に生きる人々への温かいまなざしと、自然との共生思想に裏打ちされている。
自宅の庭に銀河鉄道始発駅を作るほど宮沢賢治の研究に没頭した。」
わたしは畑山博の忠実な読者ではありませんでしたが、それでも彼が芥川賞を受賞した 「いつか汽笛をならして」以後、ポイント、ポイントの作品は読んで来たように思います。 また宮沢賢治への傾倒にも共感していました。しかし、自宅の庭に銀河鉄道の 始発駅に見立てたプラットホームを作ったという話しを読んだときは、 その打ち込みように尋常ではないものを感じもして、自分にはとてもそこまではできないと 脱帽したものでした。
そのころに読んで影響を受けた本「教師 宮沢賢治のしごと」(小学館) を探し出してきました。
「後記」から引用してみます。
「学校の教師という仕事は、それとほんとうに誠実に取り組んだら、 音楽や絵を描くことよりも、もっと素晴らしい芸術行為なのだと、私は信じている。
ある意味でそれは、神のごとくにして、相手の魂の琴線を調律し、 かき鳴らすことができるのだから。
がしかし、そういう教師はめったにいない。いづらくさせる諸要素が、 現代には多すぎるのだ。
教育の理念も、方法も、システムも、今や極限近いまでに管理され、 巷にはただ無気力、無感動、無個性な教師があふれている。
これでいいわけがないではないかという熱い思いは胸の奥にくすぶらせながら、 みんな息を詰めている。
私が語りかけたいのは、そんな人びとなのだ。」
自分は、「無気力、無感動、無個性な教師」ではないのか?
自省すればするほど、宮沢賢治を引き合いに出した畑山博の教師批判はたしかに 自分にも向けられていると認めざるをえませんでした。
宮沢賢治への打ち込みようはたいへんなもので、それだけに私にもそこから 学ぶことは多かったと思います。とりわけ、こころに残っているのは、 彼が花巻農学校の賢治の教え子を訪ねて、賢治の授業を再現したことでした。 (「教師 宮沢賢治のしごと」)また、賢治がいまわのきわに法華経を埋めるようにと 遺言した北上川のほとりの山を連ねると、銀河周辺の星座になるという推察など、 感心させられたものでした。
家の庭に銀河鉄道の始発駅を作った畑山博さん、もう銀河鉄道の白鳥駅にでも ついておられるのでしょうか。銀河の眺めはどうですか。と呼びかけながら……、 ご冥福をお祈りいたします。


2001.10.1
チャップリンの「モダン・タイムス」

NHKの名画劇場でチャップリンの映画特集をやっていて、ひさしぶりに 「モダン・タイムス」を見ました。
名画といわれる映画をみるとき習慣的に、ついどのくらい古びているか、 どこが古びていないか、といった見方をしてしまうのです。どの映像がまだ生きていて、 歴史的な映像としてではなく、生きた意味を訴えているかというふうに、 どうしてもそんな見方をしてしまいます。
今回ひさしぶりに「モダン・タイムス」を見て、二つの場面にまぎれもない チャップリンの天才性を感じました。
冒頭、工場の流れ作業を揶揄する場面は、いまだにその本質的な部分は古びていないと 感じました。障害者の職場としての単純作業に思いを巡らしていたころに読んだ 中岡哲郎などの工場の分析を学んだ後でも、なお1936年に完成した 「モダン・タイムス」の工場の場面はまだまだ生きた訴求力をもっているのです。
これはすばらしいことだと思いました。やはりチャップリンは天才なのでしょう。 古びている場面も多い。工場の仰々しい機械的なシステムは古びた印象を 免れてはいません。しかし、流れ作業の本質はまぎれもなく射抜かれているのです。 いまだにインパクトをもっているのは、それがあるからにちがいありません。
さらに、もう一つ、チャップリンの天才がかいま見られる場面は、 酒場で歌手としてのチャップリンがオーディションを受ける場面です。 手を振った途端に歌詞を書いた袖が飛んでしまい、ティティナの歌詞が分からないまま、 替え歌を歌うところです。そこに発揮されるチャップリンの芸は、まさに天才的 というしかないということを改めて感じたのでした。芸はまったく年の 経過を感じさせないものでした。
チャップリンの流れ作業のとらえかたはやはりなかなか本質的な深いものだったのだろう と思います。だからこそ、いまだに訴求力を失っていないのでしょう。しかし、 それは認めつつ、「あの流れ作業に障害者が入っていくことはできないな。」というのが ぼくのあらたな印象でした。「障害者が加われることが、 流れ作業の本質と何の関係があるのか?」といぶかしく思われるでしょうが、 ぼくの中では十分に関係があるのです。チャップリンの時代は、 流れ作業はまだまだ専門の技術を要するレベルのものでした。しかし、 その内に流れ作業は、パート労働者にも耐えうるようにより単純化されたのでは ないでしょうか。未熟練の労働者が並んでいるラインであればこそ、 そこに「軽度(?)」の障害者が入り込む余地ができたのです。 そう考えると「モダン・タイムス」から75年、単純労働はそれだけ進歩してきたと 言えるのではないでしょうか。それは、社会の変化にともなった 単純労働の変化というしかないのだろうな、とそんなことを考えてしまいました。
チャップリンの映像をきっかけにして……。


2001.10.1
糸井重里「インターネット的」(PHP新書)はなかなか刺激的

まずは、いくつかこころに残ったフレーズを書き抜いてみます。
糸井重里さんは、「ほぼ日刊イトイ新聞」というホームページを 出し続けています。たいへんな人気サイトで、一日のアクセスが三十万を超えるという 脅威的なものです。
「考えたこと、やってみたいことを惜しみなく出し続ける。枯渇するのではないかとか、 後でもっといい使い道があるとかを考えずに、出して出して出し尽くして 枯れたらそれでしかたがない、というくらいの気持ちがないと、日刊で曲がりなりにも 『新聞』を出すことなどできません。おそろしいけれど、なかなか楽しいことでも ありました。」
これには脱帽しました。「出して出して出し尽くして枯れたらそれでしかたがない」 という覚悟、すごいですね。「うずのしゅげ通信」には、 その精神が欠けていたと反省しています。
「ぼく自身、インターネットに文章を書くようになって、あきらかに文体も変わりました。 何かを早く伝えたいということを大事にして、文章の完成度を犠牲にするように なったのです。それがいいことばかりだとは思いません。しかし、 半完成のアイデアをともかくまず投げかけてみて、もっといい考えが出てきたら、 書き換えればいいのです。(中略)たくさん出す人、いっぱいサービスする人のところに、 いい情報が集まってくるのですから、みんなによろこんでもらうことを、 完成形など待たずにひっきりなしに提供していくことが、 いい情報を集める方法でもあるのですね。」
わたしも、「うずのしゅげ通信」の文章は、他の場所に活字で発表する文章に 比べて完成度が低いと思います。内実を暴露して言えば、「うずのしゅげ通信」は、 パソコンで書いて、プリントアウトしないままで発表しています。一度打ち出すことで、 ぐんと文章の完成度があがることは分かっているのですが、それを犠牲にして (不精を決め込んで)、そのまま発表しているのです。糸井重里さんがいうように それでいいのかどうか、それはぼくの中ではまだ解決していません。
「まだインターネットは“学習意欲”のある人たちのもので、まだまだ 『バカが足りない』と思いました。ほんとうのアイデアとか、知恵とか、 自由とか、くだらないこととかが、ネットの世界の外側にはもっとたっぷりあるのです、 きっと。そういう『くだらなさを含めた人間の遊び感覚』が、 人類全体の知的資源として、まだまだネットの世界の外にたっぷり 眠っているはずなのです。」
落語「銀河鉄道 青春十七切符」を書いてみて感じたのですが、 ぼくの落語のなんと知的(?)なことか、ということでした。 もっとばかばかしい落語を書きたい、それがぼくの夢なのです。
「もうひとつ、大事にしたい原則は、“わからないことは言うな”ということです。 わからないんだけれど、言うと偉そうなこと、わからないなりに言ったら正しそうなこと、 という発言は、ついやりたくなるわけです。もう、無意識でしたと言い訳したいくらいに スラスラと出てしまう。それは、とてもイケナイことだと思っているのですが、ときどき チェックしないとやらかしてしまいます。」
これはほんとうに、ぼくも「やらかしてしまいそうな」ことですね。注意しないと……。 そんなふうに自省しているうちに、この文章はまさに自分のために 書かれているような気がしてきました。それを引用しているこの文章も自分のために 書いているし、それにもっと敷衍して、「うずのしゅげ通信」 そのものも自分のために書いているような気がますますしてきたからふしぎなものですね。
しかし、これだけいろいろなことを考えさせてくれる本はやはり少ないのではないでしょうか。 ということで、感謝の意味も込めて糸井重里氏の「インターネット的」を読んで、 触発されたことの一端を紹介させていただきました。 なかなかおもしろい本です。ぜひご一読を。


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