◇2001年12月号◇

[見出し]
今月号の特集

「チャップリンでも流される」が上演

再び「障害者」ということば

日本賞「音のない世界で」




2001.12.1
「チャップリンでも流される」が上演

わたしの勤務する養護学校で、賢治劇「チャップリンでも流される」が、 はじめて自分以外の手で演出されて、上演されたのです。これまではすべて自作自演だったので、 うれしい反面、複雑な気持ちでした。(興味のある方はまた脚本を 読んでいただければと思います。) はじめに工場の単純作業を集団演技で表現する場面があるのですが、 その場面はなかなかおもしろくできていました。しかし、 宮沢賢治がチャップリンといっしょに羅須地人協会にタイムスリップしてからの内容は、 夢の中のことに改作されていたのですが、やはり難しすぎてこなれていなかったように思います。 考えるまでもなく、これはすべて原作の責任なのです。たとえ中軽度の養護学校であれ、 実際に上演するとなれば、もっとやさしくなおすべきだと思いました。
賢治劇で言えば、「賢治先生がやってきた」「ぼくたちはざしきぼっこ」は、 自作自演で上演したことがあり、また「イーハトーブへ、ようこそ」は 一部改作して性教育で読み合わせをしたことがあって、使えないことはないのですが、 「チャップリンでも流される」「「銀河鉄道の夜」のことなら美しい」は、 思いつきの勢いに「流され」て、高等養護学校での上演という枠を踏み外してしまったような ところがあり、実際の上演では、もっと書き直さなければならないと思います。 無責任な言い方ですが、原案くらいに考えた方がいいのかもしれません。 もちろん基本の考え方は変えようがないと思っていますが……。


2001.12.1
再び「障害者」ということば

知的なハンディーをもつ生徒に向かって「障害者」ということばを使うことはできない、 ということを以前書いたことがあります。わたしは以前ろう学校に勤務したことがあり、 そのときは生徒にも面と向かって、手話で「聴覚障害者」ということができたのです。 しかし、知的なハンディーをもつ生徒に「知的障害者」ということはできないのです。 もっともいまの勤務校に赴任してきたころは、「精神薄弱養護学校」とか、 「精神薄弱者スポーツ大会」とかいうことばがまかりとおっていて、 生徒に「精神薄弱者スポーツ大会」の申込書を持ってくるようにとか連絡することもあったのです。 さすがに、「精神薄弱者」ということばは、「知的障害者」と改められたのですが、 それでも「知的障害者」とか、あるいは「障害者」ということばでさえ、 直接いうことには躊躇をおぼえざるをえないのです。 まして、生徒たちにどんな場面であれ自分たちを「障害者」と表現するように強制する ことなどとてもできない、 という気がするのです。でもことはそんなに単純ではないのです。 先日も身体障害者とともに知的障害者も 参加する全国規模の祭典として「全国障害者スポーツ大会」というのがあって、 その壮行会というのが行われたとき、生徒自身が、「障害者スポーツ大会で頑張ってきます。」 と挨拶しているのを聞くとやはりこころが穏やかではないのです。こころが痛むのです。
しかし、最近生徒の口から「障害者」ということばが発せられるのを実に安心して 聞いていられるという経験をしたのです。それは、前月号にもかいた文化祭の劇でなのです。 障害者問題を正面から取り上げた内容だったのですが、その劇の最後に生徒たちが 「自分たちは障害者なのかな?」と問いかけるところがあるのです。 「(療育)手帳を持っているしな、やっぱり障害者なのかな。」
「みんなと同じように働いているのに。」
と言ったセリフがありました。
脚本は問いかけだけで、安易な答を与えていなくて、 それもまた劇の内容を深くしていて、よかったのですが……。(もっともこんなことを書いても、 実際に見ないかぎり分かりにくいとは思うのですが、 それは作者に公表を期待するとして)ともかく、 その場面で障害者ということばを聞いても、ぼくはこころ穏やかではない、 ということにはならなかったのです。安心して聞けたのです。こんな経験は初めてでした。 どうしてなのか、それを明言することはやさしくないのですが、やはり生徒たちが、 それらのことばを劇のセリフにのぼせることで、 そのことばが孕んでいるいろんな差別感とかマイナスイメージを跳ね返す 端緒にしようとしているからではないでしょうか。そんなことを考えさせられた希有な 経験だったのです。


2001.12.1
日本賞「音のない世界で」

教育番組国際コンクール”日本賞2001”に、 アメリカのドキュメンタリー「音のない世界で」が選ばれました。 聴覚障害者の問題をあつかったものです。教育放送で放映されていたので、 さっそく見てみました。
聴覚障害をもって生まれてきた子どもに人工内耳の手術を受けさせるかどうかという 選択をめぐる両親の葛藤を主題にした真摯なドキュメンタリーでした。 そこでは、聴覚障害者の文化、アイデンティティーの問題、 聴覚障害者の家族の問題などさまざまな要素が錯綜して議論されていきます。 生きたかたちで障害を論じるとはどういうことか、障害がどのように文化となるのか、 等々、子どもに人工内耳の手術を受けさせるかどうかという応用問題を考える中で提示され、 また深く考えさせられました。
機会があればぜひ見てもらいたくて、ここで取り上げました。

「世界には音が溢れているって知ってる?あなたには聞こえないわね。 でも音はどこにでもあるのよ。ドアを開けると音がするの」
5歳のヘザーとヘザーの祖母マリアンヌの会話から番組ははじまります。
ヘザーは聴覚障害者であり、マリアンヌは人工内耳を埋め込むことを望んでいるらしい。
「もし、人工内耳の手術を受ければあなたも電話で話せるようになると言ったでしょう。」 と手術を勧めている。
しかし、ともに聴覚障害者であるヘザーの両親(ピーターとニタ)は手術に反対なのです。
ピーター(手話)「ぼくは耳が聞こえないんだ。 聞こえるようになりたいとは思ったこともないよ。聴覚障害者であることは幸せなんだ。 それを変えようとは思わない。自分にはありのままの自分が分かっているからね。 耳が聞こえるようになる薬をもらってもぜったいに飲まないね。飲まされても薬を吐き出して、 聴覚障害者に戻るよ。このままがいいんだ。だから3人のこどもたちの耳が聞こえないと 分かったときは自分と同じでうれしかった。長女にヘザーには赤ん坊の内から 手話を教えはじめたんだ。いまのあの子は本当にすばらしいよ。 5歳で手話を使いこなしている。だから人工内耳をつけたいと言ってきたときには、 ほんとうにショックだった。わたしと妻が拒絶されたきがしたんだ。 あの子は変わりたがってた。音を聞きたいんだ。」
ニタ(手話)「聴覚障害者のこどもが5歳になったばかりで音を聞きたがったり、 電話を使いたがったりするのは、とてもめずらしいことなの。 きっと近所に耳の悪い人がいないからだと思うわ。ヘザーはコミュニケーションがとりたいの。 気持ちはわかるけど、ありのままのあの子に幸せになってもらいたいわ。」
ピーター(手話)「耳が聞こえる人は聴覚障害者は幸せになれないと思ってる。 みんな聴覚障害者のことを知らないからさ。弟たちは双子が生まれて、 一人の耳が聞こえないと分かったときひどくショックを受けてた。」
クリスとマリは、ピーターの弟夫婦で二人とも耳が聞こえるのだが、 彼ら夫婦に双子が生まれて、その一人が聴覚障害者でした。
マリ「息子のピーターの耳が聞こえないと分かってひどく動揺したわ。 自分の両親が聴覚障害者なのに立ち上がれないほどショックだった。」
そして、クリスとマリ夫婦が、息子のピーターに人工内耳を埋め込む手術を受けさせる 決心をするのだが、そこでピーターとニタの兄夫婦、祖母のマリアンヌたちの 聴覚障害者の文化をめぐる議論が続くのです。
人工内耳センターの医師パリシエ博士の話「人工内耳の手術をすれば 聞こえるようになります。ほとんどなにも聞こえなくて補聴器も役にたたない子どももいました。 そういう子たちも人工内耳を埋め込めばかなり聞こえるようになります。」
ピーター(手話)「手術で人工内耳を埋め込むなんて恐ろしいよ。 何かに侵略されるみたいだ。ドリルで頭に穴をあけて奥深くに機械を入れるんだ。 ロボットを作っているだけじゃないかと思うね。私たちの言葉は手話なんだよ。 聴覚障害者は自分たちの世界にいることが正しいんだよ。(中略)ヘザーは手術をうけたら、 聴覚障害者の世界とは別の人工内耳をつけた人の世界で暮らすんだ。 耳の聞こえる子どもと遊べばジレンマを感じるはずだ。」
ピーターとニタの夫婦が、すでに人工内耳の手術をした子どもの家庭を たずねる場面もあります。
ニタ(手話)(相手の両親に)「わたしたちは聴覚障害者の世界にいるの。 あなたたちとは違うのね。聞いてもいいかしら?シェルビーの手術を決めたのは、 聴覚障害者の歴史や手話のことを研究した結果なの?それとももっと 簡単に決めてしまったのかしら?」
シェルビーの母「わたしたちは娘がより多くの選択肢を持てると思ったの。 耳が聞こえたほうがね。つまり、生きていくのが楽でしょう。 何の制約もない普通の生活が送れるわ。たとえば外科医のような特殊な仕事でもできるでしょう。 でも手話を使いながらじゃ手術はできないわ。」
ピーター(手話)「シェルビー自身はどっちだと思っているのかな?」
ニタ(手話)「そう人工内耳をつけていて、自分が聴覚障害者だという意識は あるのかしら?」
シェルビーの父「まったくないだろうね。まちがいなくそうだと思うよ。 聞こえないということを知らないんだ。」
このように人工内耳をめぐる議論がえんえんと50数分の番組を覆って続くのですが、 それぞれの議論が生活に裏打ちされていて、そのぶん新鮮で飽きるということがないのです。 それはふしぎなものです。人工内耳について、論じているのですが、 それぞれの主張を聞くうちにそこで論じられているのは、 じつは聴覚障害者の文化というものなのだと分かってくるのです。 聴覚障害をありのままに受け入れて生きていくという生き方があざやかに クローズアップされてくるのです。
原題は「SOUND AND FURY」となっています。
FURYというのは、狂暴なものです。つまり人工内耳というものを 聴覚障害者にとって狂暴なものとしてとらえているわけです。これ、考えさせられますね。
さらに新鮮なのは、この人工内耳を埋めたいという主張が5歳のヘザーの 要求に発しているということなのです。彼女の要求をまわりの人たちはまともに 受けとめているのです。
すばらしい作品でした。アメリカは単に合理主義の国ではないようです。 障害というものを考えるとき、何を大切にしなければならないか、 障害をどうとらえていくべきなのか、そんなことについていろいろと考えさせられました。 日本においてもろう文化というものを主張する論調がありますが、もっと自然な、 個性的なものになったとき、もっと広がりをもつものになるように思います。
聴覚障害者の場合はなるほどそうなのか、では、知的障害者の場合はどうなのでしょうか。 そんなふうに考えてしまいます。
何か意見を聞かせてください。


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