◇2002年1月号◇

[見出し]
今月号の特集

「音のない世界で」(続)

ショートショート「流星をとばして」

「これからどうなる21」




新年あけまして、おめでとうございます。
世の中の風潮がどの方向にゆこうとしているのかまだ見えてきませんね。 明るいきざしといって、何があるでしょうか。でもそこを何とかして、 今年こそせめてまあまあの年であってくれたらと祈っております。
本ホームページ「賢治先生がやってきた」も3年目に入りますが、 訪問者も絶えることなく、ぼちぼちとではありますが、あるようです。 アクセス数も、ぼちぼちが積み重なって1万に近づきつつあります。 ありがたいことと感謝しています。脚本に対するご意見、ご感想、 なんなりと聞かせていただけたらと、いつもこころまちにしております。 「掲示板」をもっと活性化するのが、今年のひとつの目標です。 気楽に書き込んでいただけるような工夫を凝らしていきたいと思います。 今年もまた精一杯努力しますので、ご愛顧のほどをお願いいたします。
「うずのしゅげ通信」も、平常心で、 力むことなく、自分で考え、納得したことだけを書いていくという 当初からの方針で続けていきたいと考えています。こちらの方もご愛読いただけたらと、 重ねてお願いいたします。
では、「うずのしゅげ通信」新年号を。

2002.1.1
「音のない世界で」(続)

「うずのしゅげ通信」の前月号で、教育番組国際コンクール”日本賞2001” を受賞した「音のない世界で」について書きました。
聴覚障害を持つ子どもに人工内耳の手術を受けさせるかどうかをめぐって、 聴覚障害の両親が悩む姿を描いたみごたえのある番組でした。
人工内耳を挿入することで、聴覚障害の両親が属する文化になじまなくなるのではないか、 聴覚障害者のアイデンティティーの問題などを真摯に考えていく姿は胸を打つものでした。
そのことを考えていて、自分自身でも反省することがあったのです。
わたしの前任校はろう学校でした。はじめてろう学校に赴任したのは、 いまから二十年くらい前ですが、当時キュードスピーチという方法が 教育現場で用いられていました。教育相談から幼稚部にかけてキュードスピーチ という手指をつかったコミュニケーション手段が導入されていました。日本語の発音で、 たとえば「か」という音は、「KA」ですが、その子音部分「K」を 人差し指で喉を指すことで表し、「A」を口の形で読みとるという方法でした。 読唇の補助に手指を使ったものでした。キュードの威力は抜群で、 それまでの唇だけを読む「口話法」では、なかなか身に付かなかった日本語が 「生徒にかなり入る」と「評価」されていました。わたしがいたのは中・高部で 、当時キュードスピーチ世代が、ちょうど中学部に進学してきたのです。 彼らの学力を見たとき、キュードスピーチの威力は歴然としていました。 それから十年くらいはキュードの時代だったように思います。 わたしが転勤してからしばらくして、手話が導入されたと聞きました。 キュードの威力を見せつけられたものとして、どうしてだろうと、ふしぎな感じがしました。 手話にもどして、はたして日本語が入るのだろうか、そんな気がかりがあったことはたしかです。 キュードスピーチの時代以前は口話法の時代で、手話は日本語獲得に有害だと 禁止されていたのです。山本おさむ氏のまんが「わが指のオーケストラ」にも 手話と口話の確執がくわしく出ていましたね。
しかし、「音のない世界で」を反芻しながら考えていて、気がつきました。 キュードスピーチはたしかに威力があったけれど、あれは教育現場から導入されたものだ ということです。人工内耳が医学の場から侵入してきたFURY(狂暴なもの)であるように。 だからろう者自身から、キュードスピーチは、自分たちの文化を壊すものだと 拒否する人が出てきてもよかったのではないか、ということです。親がたとえばろう者で、 手話がろう者の文化だとしたら、キュードスピーチを身につけた子どもと話しが 通じなくなることだってあるのですから。
そのことに思い当たったのです。
「音のない世界で」は、そんなことを反省させてくれたのでした。


2002.1.1
ショートショート「流星をとばして」

ダウン症ののぞむくんは星を見るのが好きでした。のぞむくんが高等養護学校に入学したとき、 お父さんがお祝いに望遠鏡を買ってくれました。三脚に固定するのではなく、 膝に鏡筒を置いて横から覗く反射望遠鏡でした。のぞむくんは両手で挟み込むやり方が 気に入っていました。星の見方はお父さんが手ほどきしてくれました。 高等養護学校では、理科の先生は賢治先生でしたが、 星の話しは教えてもらえませんでした。夜星を見ながら授業を受けることができないからです。 暗室にプラネタリウムの投影機の小さいのがありました。 星はパラソルのような仕組みの半円の中に入ってみるのでしたが、 一度もみせてもらったことはありません。
のぞむくんが、2年生になった初夏にお父さんが亡くなりました。肺ガンが見つかったときは、 すでに手遅れだったのです。父の葬式をすませて、のぞむくんが学校にいったとき、 賢治先生に理科室に呼ばれました。理科室にいくと、「たいへんだったね。」と、 それだけいって、あとはだまって、暗室に連れて行かれました。 暗室の中にはすでにプラネタリウムがセットされていました。
「そこに入りなさい。」と、賢治先生がいいました。
「お父さんを見送ろうか……。」
電灯が消されて、投影機のスイッチが入りました。目が慣れてくると、 パラソルの中に星がいっぱいひかっていました。天の川もはっきり見えたのです。
真っ暗な中から「見えるかい?」という賢治先生の声だけが聞こえました。
「はい。」とのぞむくんは、答えました。
「星じゃないよ。銀河鉄道だよ。」
「え?」
賢治先生にいわれて、もう一度目をこらすと、パラソルの星空に細い細い線路がかかっていて、 そこを窓ガラスに灯をともしたかわいい列車が、火の粉の煙を放射状に吐きながら 飛んでいくのが見えたのです。いまは天の川の白鳥座のあたりを過ぎて 地球に近づいてきています。
「見えました。」
「ちゃんと、見えているかな……いまどこらあたり?」
「白鳥座のあたりです。地球に向かって……。」
「ああ、たしかに見えているね。あの列車にお父さんが乗るんだよ。」
「いつ乗るんですか?」
「今夜、銀河ステーションからね……。信じられるかな?」
「……」
「じゃあ、家に帰ったら今夜きっと望遠鏡で空を見るんだよ。午前二時ごろだよ。 約束できるかな、お父さんとのお別れだからね。」
賢治先生はそれだけ言って、投影機のスイッチを切ってしまいましあた。満天の星も天の川も、 銀河鉄道も一瞬のうちに消えてしまいました。のぞむくんは、だまって暗室を出ました。
その夜のぞむくんは、お母さんにだまって、真夜中に起き出しました。 寝ないで布団の中で待っていたのです。望遠鏡を携えてベランダに出ました。 空の北の三分の一くらいが雲に覆われていましたが、残りの空は晴れていて、 かなりの星が見えました。賢治先生のプラネタリウムの星空とはいきませんが、 それでも目を凝らしているといつになくたくさんの星が見えました。 しばらく空を見上げていると、東の空を流れ星がスーと光を引いて流れました。 見上げ続けていると首が疲れるので、ベランダの寝椅子に寝ころびました。 また、星が流れました。ちょっと異様な気配がありました。のぞむくんは、 恐いような気がしましたが、お父さんとの別れだと思ってがまんしていました。
空にじっと目を凝らしていると、銀河鉄道の列車が見えて来ました。はっきりとは見えませんが、 線路は天の川のあたりから逸れて、東の空を抱き込むようにカーブして、 水平線のあたりまで続いていて、その軌道の上を列車は音もなく進んでいました。
そして、地球が近づいて来たためかブレーキをかけたようなのです。何しろ光速に近い速さ、 いや、もしかすると光速を超えているかもしれない 速さからブレーキをかけるのですから、車輪やレールから火花が飛び散るのはあたりまえです。 線路からキューと火花が散りました。車輪は火花をまき散らしました。 火花は東の空から飛び散るように四方に流れたのです。流れ星の乱舞でした。 のぞむくんは、あっけにとられて夜空を見上げていました。 キューというブレーキの音まで聞こえたような気さえしました。
しばらく流れ星の散乱が続いて、やがて、すこしおさまりました。
「銀河鉄道地球ステーションに着いたんだ。」と彼は思いました。
しばらくすると、北のそらからのぼってくる列車が見えました。
ふたたび、流星がさかんに流れました。こんどはブレーキではなく、 煙突から飛び出してくる火の粉のような気がしました。
のぞむくんは体を起こして、望遠鏡をのぞいてみましたが、なにしろ銀河鉄道は動いて いるのですから、なかなかつかまりません。でも、一瞬視野を横切った列車は、一列の窓に明かりが ついて、そこにお父さんの影が見えたような気がしたのです。
「お父さん、さようなら。」
のぞむくんは、望遠鏡をあきらめて、空を見上げながらこころの中で言いました。 銀河鉄道はますます遠ざかっていきます。彼は、東の空の流星が噴き出してくる あたりに目を凝らしながら、こころのどこかで納得していたのです。 お父さんが死んで、いなくなってしまったということを。
彼は、手際よく望遠鏡を片づけました。
しし座流星群の流星雨はまだ降り続いていたのですが、 彼はガラス戸を閉めて寝に行きました。
十一月の夜はますます冷えてきたのです。


2002.1.1
「これからどうなる21」

「これからどうなる21」−予測・主張・夢−(岩波書店)を買いました。 いろんな分野の専門家に、二十一世紀、その分野がどうなっていくかを 予測させた文章を集めています。
さっそく、ざっと目を通してみたのですが、 そこに知的障害の問題は取り上げられていませんでした。 しかたがないので自分で考えることにしました。
知的障害者の問題を考えよとすれば、その基盤としていろいろ考えなければなりませんね。
社会はどうなっていくか?
家族はどうなっていくか?
科学はどうなっていくか?
しかし、いくら考えても迷路に迷い込んでいくばかりなのです。 そのうちに変な光景が浮かんできたのです。

西暦2020年12月
七十を越えた久米宏のニュースステーションに、 ゲストとして黒柳徹子(年齢まったく不詳?)が登場します。
例によって年末恒例のユニセフの絵はがきの売り込みです。
よる歳なみ、さすがの黒柳徹子も、早口がいささか遅くなってようです。 入れ歯を気にしながら、カメラに語りかけます。
「今年はこんな絵はがきを用意しました。一セット三千円です。一セット買っていただけると、 南の国の十人の女性の妊娠直後の遺伝子診断ができます。ご協力いただけるかたは、 インターネットで申し込んでください。アドレスは……」
おばさんになった渡辺マリさんが、テロップを掲げてアドレスをしめしてくれる。 後ろには、七枚の絵はがきセットが飾られている。

ブラックユーモアのしてもあまりセンスのいいものではありませんね。 いかに科学が進歩してもこんな光景は見たくないものです。

「これからどうなる21」を読んでいて、一カ所だけ、気になる記述にゆきあたりました。
芹沢俊介氏の「二十一世紀家族について」の中の記述です。
「家族の個別化がすみやかに進行していることは間違いなく、 家族の絆とう言葉を用いれば、家族の絆は確実に緩んで弱くなってきたという 結論に導かれるだろう。(中略)良くも悪くも家族が個別性の様相を深めてくるにつれて、 その向こうからもう一つの家族像がせりだしてきたように思われる。」
「もう一つの家族像とはじつは「グループホーム」のことである。 グループホームは福祉の観点からは、痴呆性老人や知的障害者などの、 自分だけで生活することが困難な人が数人集まって、地域の中の住宅を使い、 世話人と一緒に共同で生活する形態をいう。わたしの構想は、 この福祉の観点を一般の家族像にまで拡張しようというものである。」
「グループホームは福祉の従来の施設観を百八十度転倒させたところに出現した考え方である。 簡単にいうと、従来管理の対象であった知的障害者や痴呆性老人が、 生活の主体になるのである。グループホームには世話人が不可欠であるのだけれど 、世話人は管理者ではないのだ。管理的な眼差しでもってメンバーを見たり、 扱ったりするのではなく、いうなら主体であるメンバーの援助者の位置に立つ。」
「グループホームを知ったとき、私は直感的に古典的な家族像を超えられるかもしれないと思った。 個別性を尊重した、つまり個人であることの便宜を十分に設計図に書き入れた共同生活体、 愛情を絆とする共棲生活体、二つを統一した家族あるいは家族を超えた家族を 構想できるかもしれないと思った。」

もし、家族がこんなふうな緩やかな共同体になるのなら、 知的障害者のありようもまたそれに応じてかわってくるのだろうか。 現在のように家族があまりに強い絆で結ばれていることに起因する 知的障害をもった子どもたちのまわりに起こる悲劇、それらは避けることができるかもしれない。 障害をもった子どもは、共同体の支援のもとに育てられる可能性も考えられる。
考えて、考えて、その辺りで、迷路の先が霧の中に見えなくなった。また、迷路の霧が晴れたら、 そのことに触れることにしたいですが、いつ晴れることやら……。


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