◇2002年7月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

性教育「顔の美人さがタイプなんです」

こんな保護者参観はどうですか?

演劇の時代?


2002.7.1
性教育「顔の美人さがタイプなんです」

自分が性教育をするグループが、セックスにもまた恋愛とか片思いなどの話にも あまり興味をしめさない生徒たちが半数をしめる、ということになれば方法も 考えなければならないことになります。
恋愛を想定して人をすきになるという段階に、彼らはまだ達していないのでしょうか。 自閉的な傾向といわれている生徒もいて、もともと人に対する興味が希薄なこともあって、 そのために人をすきになるところまでいかないのかとも考えてしまうのです。
そこで、こころの話をしたりするのです。以前に、目に見えないこころを、 目に見えるようにしようとハート形の「こころ」をつくった試みをここで 話題にしたことがあります。ハート形の「こころ」の上に重ねた円盤を回すと、 「すき」、「きらい」、「友だち」の文字が現れます。
(「友だち」というのは、変な表現ですが、第3項をあらわすうまいことばが思いつかなくて、 「友だち」にしています。いいことばがあれば教えてください。)
その「こころ」を使って、こころの成長の説明をしようというわけです。
赤ちゃんのときは、「すき」と「きらい」だけで、はっきりしています。 お乳をくれて満足をさせてくれる人に向かうこころが「すき」です。 それ以外の人がくれば「きらい」で泣くしかないでしょう。 生徒たちにもそれは分かります。「最初にすきになるのはだれ?」と聞くと、 「お母さん」という答がかえってきます。「じゃあ、つぎにすきになるのは、だれかな?」
「そのつぎにすきになるのはだれ?」
順番にかいてもらおうということになって書かせると、家族がならんできます。 お母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃんと家族がならびます。 妹とかいう答もあります。自分が生まれたとき、妹はいなかったというのは 思いつかないようなのですが、そんなのはかまいません。嫁舅の折り合いが悪くて 両親とうまくいっていない生徒のアンケートには、お母さんがありません。 「おじいちゃん、おばあちゃん」とあって、「お父さん(小さい頃の)」とあります。 生徒の後ろにいつも母親がいるようで父親の影が薄いなあと思っている家庭の子どもは、 たまたまなのか父親を書いていません。生徒の家族のことをいろいろ考えさせられますね。
幼稚園や学校に通うようになると友だちができてきます。 「友だち」というすきになりかたもあるということに気がつくわけですね。
そして、現在の養護学校では、友だちが何人いるかなということで、書いてもらいます。 相手が友だちだと思っていない友だちも列挙されていてなかなか興味深いリストです。
次の時間は、自分がすきな歌手やタレントのブロマイド、 あるいは写真の下敷きなどをもってきて、その歌手のどこがすきなのかみんなの前で 説明するという課題をあたえました。
さて、当日、ひごろ性教育にあまり興味をしめさない生徒もすきな歌手やタレントの 写真をもってきました。
黒板に写真を磁石でとめて、みんなの前で発表してくれました。
「どこがすきなの?」
と聞くと
「顔の美人さがタイプなんです」
とかいう返事がかえってきます。みょうないいまわしですが、意味するところはわかります。
「顔だけか?顔だけというちょっとさびしいな」
とちょっかいを入れると
「顔だけと……頭の色、茶髪の色」
とか、あくまでも外見にこだわっています。
「ふーん、顔の美人さと髪の色か……」
「それがタイプやったんです」
そこで、みんなに同じ質問をしてみました。
「ところでこの学校にあなたのタイプの人はいるのかな?」
と問いかけてみるのです。すると、いままであまりそんな話に乗ってこなかった生徒も 「いる」という答が多かったのです。名前さえあげたものもいます。
「それはまだ不明です」という答もありました。まだその段階にまで達していないようなのです。 でも、さらにつっこんでいくと、学校にもタイプの女の子がいそうなことも言うのです。 でも、彼のいうようにそこらか先はわたしには「不明」でした。 おそらく、彼自身にも「不明」なのかもしれません。そういう意味で彼の答は正直なのです。
しかし、「学校には、あなたのタイプの人はいないの?」と聞いていくと、 以外に名前がぽろっと出てくるのです。歌手やタレントのタイプが呼び水になって、 同級生のタイプが浮かび上がってくるのかもしれません。でも、その「タイプ」の異性を 彼らは歌手やタレントとおなじ距離感をもって見ているような気がします。 具体的にこころの「すきすきサイン」を発する対象とは見ていないようなのです。
そこで、考えました。彼らの多くは歌手やタレントを好きになることで、口では 「顔の美人さがタイプなんです。」とかいいますが、はじめに彼らの中にタイプがあって 歌手がそれにあてはまるんじゃなくて、いろんな歌手やタレントをテレビで見ることによって、 自分のタイプを発見しているんじゃないでしょうか。そんな気がしてきます。 そして、学校の異性にもそのタイプを探しているのです。未発達のものでもそんな 視線はもっているのではないでしょうか。まだまだすきすきサインを発する 段階ではないのでしょう。すきすきサインを発するには、もう一歩の現実感を 手に入れる必要があるのかもしれません。だから、彼や彼女は、 好きなタイプの異性を歌手を見るように遠目にみているだけなのでしょう。 どうもそんな気がするのです。小学校で日頃このような機微を見慣れている先生には 当たり前すぎることかもしれませんが、今回そのことをあらためて考えさせられたのでした。
生徒たちは、そのように段階を踏んで成長していくにちがいないのです。 焦っても無駄ということでしょうか。性教育でも先走りは厳禁ですね。


2002.7.1
こんな保護者参観はどうですか?

鶴見俊輔と中学生たち著 「みんなで考えよう」シリーズは、 なかなかおもしろい企画です。鶴見俊輔の寺子屋に集まった中学生との 「しゃべりば」の実況中継といったようなものでしょうか。ざっくばらんで本質的。 たいへん勉強になりました。とくに「大人になるって何?」(晶文社)は、 おもしろかったのです。
そのなかの一節。
「実際に80歳まで生きてみると(これは鶴見俊輔のことば)、自分の子どもっていうのは、 生涯で自分に大きな影響を与えた人なんだね。」
これには、不意をつかれました。夏目漱石や大江健三郎の影響を受けた、 とかいうのならわかりますね。子どもが「生涯で自分に大きな影響を与えた人」だというのです。 でも、考えてみると、自分にとってもこれはあたっているような気がするのです。 いままで、考えたことがなかったので、虚をつかれたような感じでした。 子どもに関連していえば、自分が子どもにどのような影響を与えたか、 与えられなかったか、という方向でしか考えてこなかった。 でも、たしかに自分のことを振り返ってみても、子育ての中で、 自分が子どもから影響を受けるといったことがしょっちゅうだったということに思い当たるのです。 子どもが大人になってからは、なおさらです。だからこの一節に出くわしたとき、 思わず「うーん」と唸ってしまいました。
さらに、こんな一節があります。
鶴見「だけど、自分の親にむかって、『あなたは、わたしから何を学んだ』ときくのは、 ものすごく恐ろしい質問だ。何をいわれるかわからないしね。」
「親に『あなたは、わたしから何を学んだ』と聞く。」というのです。 親として、子どもからこんな質問を突きつけられたら、どう答えればいいのでしょうか。 実際に質問されたわけではないのですが、思わず戸惑ってしまったのです。
そこでこんなイメージが浮かんだのです。
養護学校の生徒が、親に、「あなたは、わたしから何を学んだ」という質問をする場面。
健常の子どもでさえ学ぶことは大いにあるはずです。まして、いわんやこの子たちならばこそ、 学ぶことはもっと多かったはず。
実際の場面としては、子どもたちはこんな質問をつき付けはしないでしょう。
だから、そんな場面を教師が準備するのです。 あらかじめアンケートを配っておいて、保護者参観のとき、 親御さんたちに自分の子どもから何を学んだかを 子どもたちを前に発表してもらう、という企画を夢想してしまったのです。 いま、わたしは担任ではありません。この企画を実施することはできないのですが、 担任をされている養護学校の先生方、どうでしょうか。もちろん、同時に教師もまた このクラスを担任して、子どもたちから何を学んだかを話さなければなりませんが……。


2002.7.1
演劇の時代?

前月号の「うずのしゅげ通信」、「母の声」で、現在は視覚優位の風潮があり、 そのために生の実感から一層疎外されているのではないか、という危惧について述べました。 だから、聴覚の優位性を取り戻すことが、とりあえずは生の実感を得るための方法ということに なります。
文学においてもそのことが成り立つように思われるのです。
わたしたちが黙読で読書をするようになったのは、いつごろなのでしょうか。 黙読が主流になれば、文章にも視覚的な要素(たとえば、漢字の過剰に美的な使用など)が 重きをなしてきます。
短歌においてもそのようなことがおこっています。前衛的な短歌に頻出する難しい漢字を 思い浮かべれば、過剰な視覚への寄り掛かりということが分かっていただけるでしょうか。 かつては朗詠されたはずの短歌ですら、視覚的に読まれてきた、ということなのです。
そんな行き過ぎへの反動からか、いまや黙読の時代がおわり音読が復活しつつあるようです。
そのことに関して、朝日新聞の文芸時評で関川夏央氏がおもしろいことを書いていました。 (朝日新聞、4月25日夕刊)
「ちょうど百年前の明治三十年代、読書は音読から黙読へ移った。 家族が朗読で共有する『物語空間』は滅び、個人が著者や主人公に共感・同化して、 小説を小脇にひとり散策する孤独な読者像が定着した。」
「そういう黙読的読書の、また近代文学が必須の教養科目と考えられていた時代の末端に 位置する団塊の世代」は、いま文学を軽視しているというのです。
「一方青年たちは、ケイタイで他者とのはかない接触を四六時中行っている。 軽やかな言葉が跡もとどめず消えて行くそこには、文学黙読の根源的動機であったはずの 『孤独』が見当たらない。」
そして、最後につぎのように締めくくります。
「演劇の実践に心ひかれがちな青年たちの昨今の傾向とあわせ、音読の『場』への回帰、 または『日本語の身体化』がひそかに願われているかのごとくだ。 近代文学的『私』の耐用年限はついに切れたということか。」

ことばは孤独な黙読の場から、声に出される音読の場に引き出されようとしているというのです。 それを「日本語の身体化」といった表現で呼んでいます。日本語を身体によって 発声される場に連れ出せと。
そういえば、最近音読する章句を選んだアンソロジーが売れているようです。 短歌も発声されることを本質的にもっている短詩形ですから、朗誦が復活するかもしれません。 事実、詩や短歌の朗読が観客の前でボクシングのような闘いの形式で行われたりしています。 若者を中心にした演劇の隆盛もその潮流の一つなのでしょうか。演劇のことばはまさに舞台で 身体化されなければ意味がありません。(こんなことを聞くと演劇に肩入れをしている ぼくとしてはうれしくなってくるのですが……。)
もし、関川氏のいわれるような潮流が見て取れるのなら、ぼくとしては、 黙読の孤独な『私』に未練をもちつつ、言葉の復権をめざすために諸手をあげて 賛成するべきなのかもしれません。現代はあまりにもことばが軽くなりすぎている、 内面と遊離したことばが氾濫しているに思うのです。生の重さを込めた 音読にたええることばのみが人を撃つという原点に戻るべきではないでしょうか。
時代は、生の実感を求めて、聴覚優位の潮流が動き始めていると、 そんなふうに考えていいのかもしれませんね。
「母の声」でも感じたように音があたえる現実感、リアリティーは、 影像とはくらべものにならないように思います。 そのことで、きょう(02.6.29)の天声人語につぎのような一節を発見しました。 戦争のリアリティーは《音》として受け継がれていくのでしょうか。
「『見たことのない戦争を想像してみる/す 『追伸』
ると真っ青に晴れた雲一つない空の米軍機の爆音が響きわたる/(中略 )/戦争はまだ《音》として残っていた』。沖縄全戦没者追悼式で高校生の名護愛(ちか)さんが 自作の詩を朗読した。」


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