◇2002年8月号◇
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】
[見出し]
今月号の特集
竹山広の短歌
性教育は、砂糖が溶けるまでまって
父の俳句
2002.8.1
竹山広の短歌
「短歌」(角川書店)8月号が竹山広特集をしています。
竹山広は、最近「迢空賞」を受賞した歌人です。
自選百首につぎのような歌があります。
一分ときめてぬか俯す黙祷の「終り」といへばみな終るなり
一分の黙祷はまこと一分かよしなきことを深くうたがふ
もうすぐはじまる高校野球。その甲子園球場で八月十五日正午きっかりに、
プレイを中断して行われる黙祷、一年にたった一分の祈り、
上の二首は、その黙祷に違和感をあらわしているのです。何にたいする違和感なのでしょうか。
黙祷のありようにたいしてなか、あるいは、
その背景にある現代という時代にたいしてなのでしょうか。
違和感を持つののは、もちろん竹山広氏です。大正九年生まれだから
もう八十歳を超えています。その竹山氏が、黙祷に違和感をあらわしているのです。
そのことを考えてみたいのです。
もちろん歌にある黙祷は甲子園での黙祷ではありません。
竹山広氏は長崎で被爆しているということを考えると、ここでいう黙祷は、
原爆記念日のそれをさしていると考えるのが妥当な気がします。そこでおこなわれる黙祷に、
違和感を感じているようなのです。違和感はねじれのようなものでしょうか。
過去と現代の感覚のねじれ。
だから、とりあえずは過去から確かめてみるしかありません。
被爆から三十五年をおいて竹山氏のよって歌い出された被爆のようすはつぎのようなものでした。
傷軽きを頼られてこころ慄(ふる)ふのみ松山燃ゆ山里燃る浦上天主堂燃ゆ
松山も山里も長崎の地名。
まぶた閉ざしやりたる兄をかたはらに兄が残しし粥をすすりき
竹山は兄を亡くしているのです。
橋下に死してひしめくひとりひとり面おこし見てうち捨てゆきし
死屍いくつうち起こし見て瓦礫より立つ陽炎に入りてゆきたり
肉親を捜して、ひとりひとり顔をおこして見ては、そのまま打ち捨てて、
かげろうの中に消えていく人たち。
積みあげし死体に移りゆかむ火をふたところより人はつけしか
人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら
被爆の細部を見ていたたしかな目。
この坂のここにこときれゆきたりしひとつの顔をのがれつづけつ
死の前の水わが手より飲みしこと飲ましめしことひとつかがやく
死者の記憶はいまにいたるも生きているようなのです。
おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき
被爆の後もなお、戦意があったと。
被爆時の記憶さえ妻と相たがふ三十五年念念の生
妻は妻の灯に安らへよわが点す灯はみづからに降りゆかむため
竹山広氏は、被爆の歌を三十五年たってから発表しはじめたのです。
その間、彼の心の中で醸されていたものはなんだったのでしょうか。
妻の記憶と自分の記憶がちがっているという発見。そこから、妻は妻の灯、
われはわれの灯をともすしかないという見極め。
そして、現在は、どこにたたずんでいるのか。
孫よわが幼きものよこの国の喉元は熱きものを忘れき
二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな
日本も世界もどこに向かおうとしているのか、というのです。
病み重る地球の声のきこゆると言わしめてただ神は見るたまふ
地球の病みはますます重くなる一方、どこにいますのか、
神はただ見ておられるだけ。
この歌は、たしか昨年、大岡信「折々の歌」でも取り上げられていましたので、
記憶しておられる方もおられるのではないでしょうか。
病み重る一方の地球、熱いものを忘れた日本、それが一分の黙祷への違和感の
源にあるにちがいないように思います。
被爆経験を踏まえた深い言葉がここにあります。それゆえに襟をただして、
聞き取りたい、いつもこの言葉の側に立ちたいと考えてきました。
賢治先生でも原爆の問題を扱ったことがあります
(「地球でクラムボンが二度ひかったよ」)。
わたしは戦後世代であり、広島、長崎とこれといったゆかりもありません。
だから、どういうふうに原爆の問題を劇化するかはむずかしかったのです。
そこで思いついたのが、宮沢賢治が銀河鉄道で地球から五十五光年離れた駅にいて、
そこから望遠鏡で地球を覗いていて、広島、長崎の原爆のピカを見てしまうという設定でした。
地球は惑星ですから普段は光らないのですが、原爆の閃光は宇宙からも見える光だったのです。
ピカの光がその駅にくるまでに五十五年かかったということです。
だから、宮沢賢治は、そのときはじめて、被爆を知ったのです。
賢治は、昭和八年に亡くなっていますから、原爆のことは知らずに銀河鉄道の旅に
旅立っていったのです。その賢治に、五十五年かかって、被爆の光景が届いたのです。
賢治のところに、被爆から五十五年たった今、被爆の今がやっと届いたのです。
その状況は、現代の子どもたちが、原爆の話をきくという体験をする、そのことの比喩です。
例えば、語り部の人の話を聞く。それは被爆の日を現在のこととして、現前させるわけです。
それは、原爆の光景が五十五年かかって子どもたちの心にいまとどいたという状況と
言えなくはないと思います。そんなかたちでしか、いまの子どもたちは原爆を
体験することができないのではないでしょうか。想像力を精いっぱい働かせたとしても、
それがもっとも良心的な現代っ子の「被爆体験」のような気がしたのです。
それが「地球でクラムボンが二度ひかったよ」という劇を書いた理由です。
「地球でクラムボンが二度ひかったよ」の思いつきなど吹き飛ばしてしまうかのように、
竹山氏の短歌は、
事実としてのすごさをもってわたしに
迫ってきたのです。被爆から三十五年、竹山氏の心の中で、発酵していた被爆体験は、
観念ではなく、一つ一つの事実の手触りをもって、自ずから立ち上がるように、
歌となって立ち上がってきたようなのです。上で見ていただいたように、
それらは、決して難解な歌ではありません。一人でも多くの人にその歌が読まれることを願って、
簡単にですが、自分なりの紹介をさせていただきました。
追伸
ちょうどこの「うずのしゅげ通信」を書きあげたつぎの朝、偶然、
「天声人語」(2002.7.30)に
竹山さんのことばが取り上げられていました。
「最近のことばから。
『戦争中、私たちは勝った勝ったと喜んでいた。戦争賛美の歌など二度と作りたくない。
その裏返しに、平和賛美だけの歌も絶対に作らないぞと思いますね』と語るのは
短歌の賞をトリプル受賞した竹山広さん。」
竹山さんは、いつのまにか短歌の賞をトリプル受賞していたのでした。
2002.8.1
性教育は、砂糖が溶けるまで待って
性教育というのは、実際のところ何を教えるのか、と考え込んでしまうことがあります。
以前、この「うずのしゅげ通信」でも、苦しまぎれに「性教育はこころの教育?」
などというテーマで取り上げたこともあります。たしかに性は、さまざまの裏情報があって、
それによって歪められて入ってくるので、そうではない、人間の生そのものともいえる
大切なものであるということを知ってもらいたいということに発しているようにも思えるのです。
そのために、性教育が陥りがちな弊害として、性教育が、生徒の成長にくらべて
先走ってしまうということがあります。性教育の先走りの危うさ、ということを感じられたことは
ありませんか。性情報に汚される前にということもあるのでしょうが、また教師の性(さが)
とでもいうのでしょうか、ついつい性を先走って教えてしまうのです。
先走ってしまうということと、性教育は何を教えるのか、ということに関して、
おもしろい文章があったので、取り上げて、考えてみたいと思います。
加藤典洋著「言語表現講義」(岩波書店)の中に見つけました。
そこで加藤氏は小浜逸郎氏の文章(「消費文化のエロス」)を素材に
おもしろい議論を展開しています。
(だから小浜氏の文章は孫引きということになります。)
小浜逸郎「消費文化のエロス」「先日、ある酒の席で、
話がたまたま学校教育のことになった。(中略)私が、そういえば何年か前に
ある小学校の女の先生が、生身もブタを一頭教室のなかに持ち込んでみんなで解剖し、
それを料理して食べるという授業を行ったという話をした。」
それに対して、「一人の若者が聞きとがめ、猛然と異を唱えた」らしいのです。
「そういう授業をするのは、子どもにポルノを無理に見せようとするようなものだ。
必要もないのになぜそんなことをするのか。自分は身に着けたり口に入れたりする目の前の商品が、
どういう流通経路をたどってきたかなどを知らなくても一向に困らないし、
自分の生活や問題意識に直接関係のないことを、あえて知ろうとは思わない。」
これが若者の言い分です。
そして、それについて、加藤典洋氏は、つぎのように述べています。
「僕の考えをいうと、僕はほとんど、この若者と同意見です。このブタの解剖の授業に、
どこかあやういものがるとすると、それは、これが子どもにポルノを見せるか、
それに類したことをするのと似たような危険があるということに、この先生が気づいていたかどうか、非常に心もとない、という点だと思うからです。
ポルノ、というのは、こういうことです。これはブタの解剖ですが、
性教育で、教室に二人の男女を連れてきて、今日は子どもがどんなふうにできるか、
教室で考えてみましょう、とやったら、どうか。
みなさんの誰もが、これは、ちょっとまずいんじゃないか、と思うでしょう。」
(ここで、「みなさん」というのは、講義を聴いている大学生のことです。)
なぜ、「ちょっとまずい」と感じるのか、その理由を加藤氏はつぎのように述べています。
「皆さんは二○歳ですから、いまでは、子どもがどうして生まれるかをみんな知っているでしょう。
いつ、どんなふうにして自分が知ったのだったか、ちょっと考えてご覧なさい。
ここにいる四○人が四○人、みんな違う道筋をたどって、そのことを、最初はうすうす、
それから、びっくり、ドキドキしながら、知ったのじゃありませんか。もちろん、
そんなのは面倒だから、一気に小学校の一年の最初の授業で教える、
という考え方もあるでしょう。」
しかし、この「一人一人が自分の手で、それぞれに暗中模索してそのことを知る、
という時期」、「びっくり、ドキドキ」の時期が思春期であり、
省いたりすることができない時期なのにもかかわらず、そこをとばして、
一気に大人になることにしよう、となれば「それはまずい、そう誰もが感じる。」
その「まずい」が、さきほどの「『ちょっとまずい』という感想の理由」だというのです。
「能率的に無駄を省く、というわけにはいかないことが、
この生きるということのなかにはあります。」というのが加藤氏の結論です。
「しかし、ちょっとまってください。」と、ぼくは考えてしまったのです。
「能率的に無駄を省く、というわけにいかない」から、性行為は
、あるいはポルノは見せるわけにはいかないのでしょうか。
「『ちょっとまずい』という感想の理由」は、ほんとうにそこにあるのでしょうか。
「それは、ちょっとちがうんじゃないか」というつぶやきがどこかから聞こえてくるのです。
人生には、自分でどうしようもないことがらがあります。たとえば、生き死にの問題。
これは自分でどうこうしようがありませんね。だから、何かにその決定を預けて
しまっているようなところがあります。自分が、いつ、どのように死ぬかは、
知ることができませんね。そもそも自分がなぜいまここに生きて存在しているのかもわかりません。
生き死にのことは知りようがないのです。
学校で教える分野にはいろいろありますが、その中にはこれらの生き死にも問題に触れる
分野もありますね。その分野のことにはあまり近づかないようにしているのではないでしょうか。
たとえば、科学的な知識を教えるといったことなら可能でしょうが
(事実避妊の方法なども教えていますね。)、しかし、一歩間違うと、その生き死にの、
生きのほうの問題に触れてしまうのではないでしょうか。死に抵触する内容もあるでしょう。
医学部を除いて、人間の本当の死を学校で扱うわけにはいかないのです。
ブタの解剖の授業はかなり禁忌に近づいているのです。それがカエルだったら
その禁忌に触れる心配はなかったのに。しかし、最近は果敢にホスピスなどを訪問するといった
授業の試みもありますが、最新の注意がいるのではないでしょうか。
そういうふうに考えると、性行為やポルノを見せるというのは、人間の死にざまをみせるのと
同様の禁忌に触れるおそれがあって、それで、「これは、ちょっとまずいんじゃないか」
と感じてしまうのでしょう。
でも、養護学校の場合、拭いがたく本物志向があります。性教育でも、
ぎりぎりまで本物で教育したいという気持ちがあるよう思います。
本物に向けてのせめぎあい、それが養護学校の教育というものの方向性のような気がします。
もしかすると、普通学校の教育より養護学校の教育の方がその傾向は強いかもしれません。
そのために内容の普遍性がそこなわれるようでも、あえて具体性、本物志向でいこうと。
それが、養護学校の性教育にどんな影響をもたらすか、
もうすこし考えてみたいと思います。
2002.8.1
父の俳句
以前、父の俳句で、気に入ったのが二つあるという紹介をしたことがあります。
秋の蚊の妻の乳房につまづける
目づまりの印二つ捺す夜学生
二つともに発見があり、またどこかおかしさもありますね。
それが、二つを選んだ理由です。
一周忌を期に父の俳句(浅田素由句集「万年青(おもと)の実」)を読み返してみました。
そこで、目に留まった句のいくつかを掲げてみます。
青瓢十の貌(かお)して眞顔なり
瓢は「ふくべ」、ひょうたんのことですね。青びょうたん。
十あれば、十の貌が見て取れて、
それぞれが眞顔だというのです。そこには諧謔がありますね。
妻の歩に銀河は遠し万歩計
晩年の母は、歩行が遅かった。足が上がらなくて、
ゆるゆると歩を運ぶのみでした。普通の速さであるいても銀河は逃げるのみ。
まして母のゆるゆるとした歩に銀河は無限の遠さです。
それでも万歩計を付けて二人で歩いていたのでしょうか。そんな光景が目に浮かびます。
「追いかけて追いつけぬ夢冬銀河」といった句もあります。
嘘と云ふ一抹の悔いとろろ汁
生きている限りまぬかれない嘘というもの、
それにはいつも一抹の悔いがともなわずにはいません。
その悔いが、嘘を吐いた口にとろろ汁のように粘つくといった感じでしょうか。
惜命の悟りは遠し生姜酒
惜命は、「せきめい」で命を惜しむ。命が惜しくて、悟りは遠いと。
そういえば、晩年、「いくつになっても悟れんものや」と悔しそうに
言っていたのを思い出します。
河内野によき闇ありて遠花火
(PL花火)
8月1日はPLの花火大会。昨年は病院にいて、
当日は食堂も閉まるというので、看護婦さんが付き添いの弁当の予約を取りに来ていたのですが、父は、
花火を見ることもなく、逝ってしまいました。
「生涯に残すものなし耳袋」と詠んだ父ですが、
なかなかそうきっぱりとはいかないものですね。遺骨は叡福寺と西方院に納めました。
付録 遊びコーナー
以前(もう、二十数年前になりますか)、栗田勇著「一遍上人−旅の思索者−」
(新潮社)を読んでいて、そのなかの「一遍聖絵」、「第八巻・第五段
聖徳太子の御廟に参詣」に、わたしの家の近くの叡福寺を見つけたのでした。
【上の写真】
叡福寺は、大阪府南河内郡太子町にあり、聖徳太子の御廟があります。
そして、叡福寺のたたずまいが、現在とそんなにかわっていないことに深く感動したのです。
しかし、考えてみると、場所がかわっていないのだから、同じ配置なのはあたりまえなのですが、
それでも七百年前のたたずまいが絵として残っているのをみるのは、ふしぎな気がしたのです。
(親鸞もおまいりしておられるはずですが、絵伝としては残っていないのじゃないでしょうか。)
「一遍聖絵」に描かれた聖徳太子御廟と現在の叡福寺のたたずまいの写真を並べてみました。
むかしそのままだということが納得いただけるでしょうか。
【右の2枚の写真が現在の叡福寺境内】
写真にあるように、石段を上ると仁王門があって、本堂や塔が立ち並ぶ境内がひろがっていて、
さらに石段を上がると御廟の丘があります。「聖絵」そのままですね。
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