遊覧飛行
飛行機を使っての空からの展望は雄大である.それをいいことに金儲けに走る観光会社が数多くあるのは事実である.軽飛行機を使ってグランドキャニオンを巡る旅,ジェット旅客機によるエヴェレスト周辺の山岳展望フライト,さらに近年は南極へのフライトもあるという.いずれも世界屈指の景観を誇る地域で観光飛行にはもってこいのところであろう.実際に1989年の黄金週間にクーンブヒマラヤへトレッキングにいった際にはカトマンズとルクラの間のツインオッター機からガウリサンカールをはじめとするランタンやロールワリンの高峰が連なる様(注1)を感動して眺めたし,帰国の途についたロイヤルネパールのバンコク行きのジェット(注2)がカトマンズを離れてすぐに,北方に壁のように並んだ数多の高峰,西はダウラギリ,アンナプルナ,マナスルから中央にチョーオユー,エヴェレスト,ローツェ,マカルー,そして進行方向である東にはカンチェンジュンガと8,000メートル峰がそびえ立ち,さらにカンチの手前には怪鳥と恐れられたジャヌーが両翼を拡げてその名の由来を示しているのがはっきりと見えて思わず機内からどよめきが起こったのを覚えている.
ヒマラヤやグランドキャニオンの景観はいくら払ってもいいだけの価値を持っている.しかし,高い金を払って,当然の感動を手に入れるだけがアウトドアではないだろう.日常での偶然の発見こそがアウトドアの楽しみなのである.飛行機からの展望もまた然り.最初にそんな思いにさせてくれたのが1990年6月の佐賀での学会の帰りに乗った福岡からのフライトであった.
この日は梅雨に入っていたものの実によい天気で空には雲一つなかった.機は昼過ぎに福岡空港を飛び立つとゆっくりと高度を上げ,そして機首を東へと向けた.連れがいるわけでもなく,何することもなかったし,運良く窓側の席に座っていたので何気なく下界を見下ろしていた.暫くの間は眼下は陸地だったが,やがて青い海が見え始める.陸地が海の青の中に丸く食い込んで境界線を作っている.国東半島だった.大学3年,二十歳の夏に石仏と国東塔の風景を求めて歩き回った思い出の地が眼下に広がっている.そして青い海が視界を支配したと思う間もなく前方から海に差し込まれた剣のように続く細い陸地は佐田岬.小学校の社会科で日本地図を見ていた頃から頭に刻まれたその地形が今ようやく本当に実在するものとして確認されているのだ.機はさらに東へと進む.四国の東はずれと隣の島を結ぶ白い糸は大鳴門橋だ.そして巨大な陸地は紀伊半島.これを抜けると遠州灘,そして伊豆半島の先端,石廊崎から機首を北東に上げて羽田へと到着したのだった.この時から飛行機で窓際に座ると窓に額を付けて真下の風景を眺めるのがいつものパターンとなった.
次に下界の風景を楽しむ機会(注3)を得たのは1993年2月にアリゾナを去る時であった.朝9時半にツーソン飛行場を飛び立ったデルタ航空機はいつもは南西に向けて飛び出して直ぐに西へと向かうのだが,この日に限っては風向きのせいか逆方向の北東へと飛び出し,そのまま高度を稼ぎはじめた.空港は町の南の外れにあるから,当然のこととして眼下には空港から市内へと北上するキノハイウェイ,その先には屋根の上に白くBEAR DOWNと描き込まれた古い体育館,巨大なフットボールスタジアム,緑の芝生に赤煉瓦の建物が点在するアリゾナ大学のキャンパスが見えてくる.さらにその北にはつい数日前まで住んでいたランチョモンターナアパートが見えるのだった.機はその後ゆっくりと西へと方向を変えてツーソンの西に広がるサグアロの林からゲートパスの岩山を越えていく.既に高度はかなり上昇しているが,サボテンの荒野の中に砂漠博物館がはっきりと見えた.この日のデルタ航空機はまるで帰国する我々へのはなむけのように,1年間の思い出の詰まった町の上空を旋回したのだった.
その後は飛行機に乗る機会にも,また乗っても天気に恵まれず眼下の展望を楽しむ旅の機会はなかなか訪れなかったが,遂に絶好の機会となったのが1996年9月にアリゾナへ出かけた時のフライトであった.折角窓際の2席を確保したのだが,夕方に成田を発つユナイテッドは夜の闇に向けて一直線に進んでゆく.夜行便では眼下の展望もなく,さりとてUFOとやらの接近遭遇を期待するほどのロマンチストでもない.おまけにこの飛行機は古いのかやたらあちこちで軋むような音がする.起きていて恐い思いをするくらいならと運を天に任せて機内食を食べるや早々に寝込んだ.ところがあいにく隣の席が米軍の兵士で,どうやら一時帰国するらしく嬉しそうに一晩中はしゃいでいる.おまけにやたらとデカいヤツのため肘掛けを取られて明け方には寝苦しくなって睡眠どころではなくなってしまった.後2時間弱でLA到着とあればもう一度寝込むほどのこともない,仕方なしに目を開けて窓の外を見ると機はすでにメインランドの上を飛んでいた.これまでに何度も頭の中の地図帳を使って日本からLAまで飛行機を飛ばしてきたが,いつも想像の飛行機はLAの直前でアメリカ本土に到達し,実際にこんなに早くメインランドに着いているとは考えたこともなかった.いったいどの辺かと辺りの窓を見回すと左後ろに高い山がそびえているのがはっきりと見えた.北カリフォルニアの名峰シャスタ山だ.そして眼下には陸地に大きく入り込んだ入江が見えてきた.北に入り込んだサンパブロ湾と南に食い込むサンフランシスコ湾だ.陸地は一面に建物が並んでいる.サンフランシスコからオークランドの町並みが見えてきたのだった.あいにくLA付近はうっすらとガスがかかっていて展望はなかったが,地球が丸いこと,球面の2点の最短距離は弧を描いていることを思い知らされたのだった.さて,そうと分かれば次の楽しみである.帰りのフライトは昼間の便であるから地形図と首っ引きでどこを飛んでいるのか確かめてやろうと1週間後の帰国の便を手ぐすね引いて楽しみにした.
帰国はチケット予約の関係でフェニックスからとなった.フェニックス・スカイハーバー国際空港はゲートの数から土産物屋の規模まで同じ州内のツーソン国際空港とは比較にならない立派な飛行場であった.そして未だにツーソンには接続していないLAとのシャトル便が運行されている.我々もこのシャトル便に乗り込んだのだった.フェニックスからLAは陸上の大動脈,インターステイト10号の上空(注4)を飛んでいくのがよく分かった.そして,1992年の滞在時にLAへとドライブしたルート上の原子力発電所,州境のコロラド川,巨大な塩湖サルトン湖が次々に視界を横切っていく.荒涼とした砂漠に何重もの厳重な塀が取り囲んでいる刑務所を見下ろし,丘陵地帯に一面に風力発電の風車が並ぶサンバーナージノを越えて,やがて彼方に摩天楼が見え出すと巨大都市LAの上空となり,赤煉瓦の平屋作りの家々の庭にあるヤシの木をかすめて空港へと降り立つのだ.今から150年前,フォーティナイナーと呼ばれた西部開拓団の一団はこの荒れ果てた灼熱の地を,今ならジェットであっという間の距離を,命をかけて進んできたのだ.その旅の果てに見た太平洋は彼等の目にどう映ったのだろうか.カリフォルニアの底抜けに明るい雰囲気は彼等が味わった苦労の後の大きな安堵とは無縁ではないだろう.
LAからは往きと同じユナイテッドである.運良く窓際の席をキープし,ワクワクと離陸を待った.しかし往きと同じ機体は相変わらずのボロ(注5)で,乗客が乗り終わったのに全然動き出さない.ようやく滑走路に乗ったのは定刻から1時間半ほど経っていた.一抹の不安を胸に,ともあれ無事に離陸.機は巨大都市LAの海岸沿いを北上する.天候も往路よりも良く視界は良好である.
陸上での移動では,LAからサンフランシスコは2通りのルートが知られている.時間勝負の大型トレーラーや忙しいビジネスの移動ならインターステイト5号でおよそ8時間であるが,のんびりと旅を楽しみたい人には美しい海岸線に沿って走る州道1号である.この州道はLAからサンタバーバラ,SLOを経由し,モントレー半島へとコースト山脈の西側の海岸線を走っている.アメリカでも屈指のシーニックルートとして知られたモントレー半島は最高級のゴルフ場で有名なペブルビーチ,ジャズ祭で知られたモントレー,芸術家の町カーメルなど小さいが個性的で落ち着いた町を経由していく.そして飛行機はまさにそのシーニックルートの真上を飛んでいるのだ.
陸地は太平洋へと突き出たピノス岬で大きく東へと向きを変え,次第にサンフランシスコ近郊の町へと入っていく.機はモントレー湾を跨いで西海岸のアカデミズムの総本山スタンフォードの本拠地パロアルトの上空へと入っていく.パロアルトは高い木を意味するが,その由来であるセコイアの森はどこにあるのだろう.その森の中で赤い鳥カージナルは今日もさえずっているのだろうか.パロアルトを抜けるといよいよサンフランシスコのビルの群が視界を覆い尽くす.そしてその大都会に食い込んだ入江を跨ぐ幾筋かの橋.そして二つの湾の入り口を結んでいるのは紛れもない金門橋であった.
機はサンフランシスコを過ぎても未だにメインランドの上空を飛び続ける.大都市が姿を消して北カリフォルニアの田舎町を幾つも越えてようやく海の上に出たのはユーレイカ近くであった.後は一面の大海原の連続である.高度8,000Mから見ているわりには周期的に波が続いているのが良く分かる.幾つかの小さな波が合わさって増幅と減衰を繰り返しながら大きな波を構成していくという物の理りが見えているのだろうか.
一面の青い海を見飽きて一息ついていた時に機長から思わぬアナウンスがあった.「今日は天気が良くて最高だ.真下にアリューシャン列島が見えているよ」というお知らせだった.真っ青な海に点々と島が連なっているのがはっきりと見えた.アメリカ西海岸の最南部LAから成田に向かう飛行機は紛れもなくこの北の果ての島々の上を飛んでいたのである.アメリカから日本に向かった大韓航空機がサハリンなどという北の空で撃墜された理由は,やはり実際の風景と地図とを照らし合わせて初めて理解できるのだ.
空から見た我が家
学園都市から空を見上げると,多くの飛行機が北から南へと横切っているのが分かる.進路が南であるから,目的地は羽田であることは確かだろう.とすれば千歳や旭川をはじめとする北海道や東北からの便であろう.それならば乗る機会も充分にあるし,上空から学園都市が,うまくいけば我が家が確認できるのではないかと思っていた.
航空路は左側通行ゆえ,羽田から千歳へのフライトはずっと西側を通るために期待はできない.そこで千歳から羽田の帰りの便では窓側を予約することにしていた.何回か千歳から羽田のフライトはあったが,出張の帰りの便となれば既に夕闇が迫っていろことが多く,さらに天気にも見放されたりして,なかなか展望は得られなかった.そして漸く条件が揃ったのは2006年10月14日であった.
前日に十勝清水で検討会の現地視察と会議があり,帰りは後泊であるから大手を振って午前中の便で千歳を飛び立つことができる.進行方向右側の窓際を確保して,今日こそは学園都市を確認するぞと気合いが入る.定刻10:05に千歳を離れたJAL1008便は高度を上げて南下していく.すぐに洋上に出ると一旦陸地にかかって再び海へ.そしてまたすぐに陸地に入り込んだ.下北半島から陸奥湾,そして青森の内陸に入る.すぐに右下には湖が二つ見える.大きな方は丸い形にヘビの頭のような食い込みがふたつ.小さい方は丸い形.十和田湖と田沢湖だ.目を凝らすと,さらにその遥か彼方には八郎潟と男鹿半島が見えた.
さらに南下を続けると,蔵王の山並みにかかるが,蔵王より南には低い雲がかかって吾妻連邦や磐梯山,猪苗代湖は見えない.ヤキモキとした時間が過ぎる中,突然視界が開けたのは那須から八溝山の辺り,関東の北の取り巻きを超えたところであった.気がついた時にはすでに加波山から筑波山の塊の上を越えている.窓に額をつけて必死に覗き込むと,同じ大きさのアパートが同じ向きに沢山並んでいる地区が見える.筑波山南側でこんな集合住宅といったら,学園の公務員住宅しかない.そして,その南側に赤茶色の建物がいくつもまとまっているのは産総研中央だろう.とすると、その隣には気象台の鉄塔から我が職場となるはず・・・.予想通り,マッチ棒のような紅白の鉄塔とコンクリート色の我が職場,そしてその敷地の奥には我がホームグラウンドがはっきりと確認できた.何度も試みてきたが,ようやく初めて上空から学園都市を確認することができたのだ.とするとこのまま南側へ進めばJR常磐線を越えて我が家の上空である.学園からの東大通りと西大通りを目印に,常磐線のひたち野うしく駅を探すと,線路上に大きなドームが目立っていた.ここまでくれば後はたやすい.駅前からの住宅群の端に,我が家がはっきりと見えていた.ベランダで娘が鯉のぼりでも振っていれば,それも充分に見つけられたかも知れない.残念ながら連絡しておかなかったので確認はできなかったが・・・.
飛行場の間近に住んでいるのなら簡単だが,充分な高度の飛行機から我が家を確認した人はそんなには多くないだろう.もっとも,そんな上空から我が家を探そうなんていう奇特な人も多くないだろうが.
雲の隙間から
時々は飛行機も利用していたが,なかなか窓際の席が取れずに,真下を見る機会がなかった.ようやくチャンスが来たのは,2013年8月末の水俣出張の羽田−熊本の往復だった.
台風15号と秋雨前線の影響で,雲の多い空模様だったが,8月29日早朝のJAL1803からは小さな低い雲越しに地表が見えた.羽田を離陸した飛行機からまず最初に見えたのは,今飛び立った羽田の滑走路.朝のラッシュ時間で,テイクオフ前の飛行機が列をなしているが,飛行機の長さに比べて滑走路の長さが以外と短いのが分かる.機体は50Mくらいだから,2000Mの滑走路は40倍か・・・.もっと短く見える.
続いて見えるのは川崎扇島の製鉄所.横浜上空から内陸に入って,右手には津久井湖と相模湖がうっすらと見えるコースを取った,丹沢からさらに内陸に入って,見えてきたのは山中湖,河口湖,西湖だった.河口湖には河口湖大橋が架かっているのもはっきりと見えた.富士山の真上を飛んでいる飛行機からは,残念ながら富士山は見えなかった.そして,南アルプス上空へ.東から鳳凰三山から早川尾根,そして甲斐駒への尾根.続いて白峰三山の山塊,その西には仙丈から塩見への仙塩尾根が長い.その南には,荒川,悪沢から明石への尾根が続いているのがよく見えた.こうしてみると,塩見が思ったよりも大きい.名古屋上空に近づくと,低い雲がかかって,展望はここまでだった.
帰りは31日の昼の1810便.台風が玄界灘を進んでいて,フライト自体が危ぶまれたが,無事にオンタイムの離陸となった.離陸から30分ほどは真っ白な雲の中で,そこそこ揺れる機内で大人しくしていたが,雲が薄くなってきたので下を見下ろしてみると,進行方向に大きな川が流れている.熊本−羽田のコースと同じ方向の大河といったら吉野川だろうと判断がついた.その気になって探すと,徳島空港も見つけることができた.機体は真っ直ぐに海上に出て,紀伊半島に到達し,横断していく.紀伊半島からの出口は志摩半島だった.英虞湾の特異な形と半島東端の大王崎がはっきりと見えた.
その後は太平洋上のフライトでのんびりしていたが,伊豆七島が見えるとの副操縦士の放送が入ってまた車窓に釘付けとなった.地図から考えると見えてくるのは大島から神津島辺りか・・・.一番右に少し背の高い島.すぐ左には小さな島.その隣に大きくて平たい島.その左にはこんもりとした小さくて丸い島.これだけ見えれば,神津島,式根島,新島,利島だと分かる.懐かしい神津島は,毎年ダイビングをしていた多幸湾をこちらに向けて,天上山が聳えていた.そして神津島の遙か彼方に三宅島と御蔵島がうっすらと見えていた.それにしても驚いたのは,それぞれの島の距離が近いこと.学生の頃に東海汽船の全島便さくら丸で神津島に通ったが,島と島の間は遙か彼方だった.飛行機が発達して,世界の距離が縮まったというが,まさか実際の距離も縮まった訳ではないよね・・・.
房総館山から外房上空で左旋回し,亀山湖から千葉上空へ.マリンスタジアムと幕張メッセ,そして浦安のネズミ王国の横を抜けて,無事に羽田に到着した.