自炊・小屋食・非常食
《まえがき》
本格的に山登りを始めたのは,大学院の4年目からだった.歩くことは好きだったから,それまでにも京都西山の東海自然歩道渡り鳥ハイクや国東半島の寺巡りなどにリュックを背負って出かけていたが,里さんに出会ったのが間違い?の始まりだった.里さんは研究室の3年後輩で,山登りと山スキーを趣味とする超肉体派化学者の卵だった.卒研生として研究室に入ってきた彼から1年間ずっと「ヤマ行きましょうよ〜」と秋波を送られた挙げ句,翌年には彼と共に大学院に進学してきたやはり肉体派の富士さんが研究室に加わり,おまけに卒研生に本格派山ヤの葦さんと軟弱山の会(注)に所属する久里さんまで入室してきた.そこで,半分は仕方なく,半分は喜んで山登りという新たな趣味に足を踏み入れたのだった.ただし,リーダーは里さんであるから,行き先も行き方も彼の趣味で選択される.藪山が好きな里さんは,南アルプスと奥秩父が好みで,早出長足のカモシカ山行,服は質実剛健のジャージに毛シャツ,宿はテントか無人小屋,従って食事は自炊で寝袋持参というスタイルだった.
大学院を出てメンバーはバラバラになったが,それでも夏休みや文化の日辺りの連休を使って祝再会山行をしていたが,次第に個人山行が多くなった.それでも高い金を払って有人小屋の食事を頼もうとは思わなかった.当時でも山小屋の整っている北アルプスや八ヶ岳では,小さなザックを背負ってさっそうと歩く人が多かったが,南や秩父ではまだまだ馬鹿でかいザックを大汗かいて背負うのが常識だった.三つ子の魂百までと言うが,里さんに教えられた山行スタイルは個人山行になっても一向に変化しなかった.変化が訪れたのは就職して6年後であった.縁あってハイキングが好きという女性と結婚することになったが,山登りもしてみたいと殊勝なことを言う.でも,寝袋から食料から全て持っての登山は無理だろう.なにせ,いかな体力自慢の私でも二人分の荷物は背負いきれない.と言うことで,宗旨替えして北アルプスや尾瀬に通うようになり,有人の山小屋で食事を出して貰うようになったのだった.
焼肉は禁止だ! (1983.9)
研究室の控室でいつものメンバーで雑談をしていると,やはり何となく山の話題になってしまう.そろそろ秋の長雨シーズンゆえ,そんなに真剣ではなかったのだが,つい火が着いてしまってどこかへ行こうという話になった.結局,敬老の日の連休に前夜発2泊3日で八ヶ岳天狗から北へ縦走して蓼科までという,いつもの趣味とは違うルートになった.実験の都合でフルメンバーとはいかず,里さんと葦さんとの3人だった.
新宿からの山岳夜行で茅野まで出て,バスで渋ノ湯に上がった.ここから黒百合を経て天狗は3時間の登りとなる.いつものことながら,出だしは晴天である.暦の上では秋とはいっても,9月中旬はまだまだ暑い.朝食の食パンを囓りながらの樹林の中は風も通らず嫌な登りだった.2時間で黒百合平に到着.そのまま東天狗に登る.漸く森林限界を抜けて爽やかな風に吹かれて・・・といきたいところだったが,雨男の集団に現実は甘くはない.すでに東側からガスが上がって,視界はなくなっている.西天狗をピストンして,黒百合に戻ったのは昼前だった.葦さんは我々よりも更にへそ曲がりゆえ,同行せずに東側の稲子湯から入山している.東天狗からの帰り道ですれ違ったので,黒百合で食パンを食べながら1時間ほど待っていた.
そうこうするうちにガスは霧雨に変わっている.雨具を着て,傘を差して,立ったまま食パンを食べる姿はなんとももの悲しいが,行動中の食事とあれば仕方ない.葦さんも追いついてきて,ここからは3人揃って中山,高見石と雨中の行軍を続ける.高見石も展望はなく,あとは今日の泊まりの白駒池までぬかるんだ急坂を駆け下りるまでである.白駒池が近づくと周囲の雰囲気が少しずつ変化してくる.自然の雰囲気は樹林帯に入ってしっとりとしてくるが,国道299号が主脈を横切る麦草峠が近づくにつれて,人の雰囲気は山から観光地へと変わってくるのだ.白駒池の周囲は,大きなザックを背負った山男には少し恥ずかしいようなところである.ハイヒールにミニスカート,ノースリーブのシャツの上からビニールカッパを着込んだ女性達が群れを成して歩いている.こんなところに用はないから,下を向いて小さくなってさっさと通り過ぎた.
さて,今日の幕営地は白駒池の裏側,青苔荘のテント場である.池を半周していくと観光客も少なくなって,再び山ヤの世界へと帰還する.おまけにいつものことながら,展望のない樹林に入ると雨が上がる.何とも恨めしい心変わりだが,それでも雨の日のテントは辛いからホッと一安心である.小屋に場所代を払ってテント場へと向かう.テント場は小屋から少し下がったところにあるのだが,流石は八ヶ岳である.テント1基ごとに板張りのプラットホームが敷かれていて雨が流れても心配ないようにできている.この至れり尽くせりには驚いたが,一抹の不安が頭をよぎった.こんな立派なテント場って,もしかして,ここって山登りのテント場じゃあないのかも・・・.
不安は夜になって的中した.山は早寝が原則であるから,夕方4時からアルファ米に火を通して,ボンカレーをかけて慎ましやかな食事を済ませた.そして5時には就寝.この様子なら明日は晴れるかも知れない・・・などと考えていると,6時を過ぎて隣のテン場に客が到着した.随分遅い到着だな.赤岳から縦走してきたのかな.・・・と,突然の花火の音.続いてどこからともなく弾けるようなジュージューという音と,香ばしい油の焦げる臭い.なんと,隣のテントは山ヤではなくオートキャンプの一団だったのだ.
朝,昼が食パン,夜がボンカレーで,この臭いはいけない.花火は許すが,焼肉は禁止だ!
結局,根性の失せた3人は翌日の雨を口実に縦走をピラタスで放棄して,さっさと茅野駅前でビールと焼肉の反省会を開いたのだった.
2年で3個,半日で1袋 (1983.11)
文化の日が連休になったのでどこかへ行こうと相談すると,葦さんと久里さんが雲取から石尾根を縦走しようと言い出した.そこで早朝に自宅を出て,三峰神社へ向かった.
雲取へは三峰神社の横を抜けて,霧藻ヶ峰から白岩山,芋ノ木ドッケを通って頂上に至る長い道のりである.途中のお経平から前白岩と大ダワから頂上までの2カ所が急登で,日の短い11月には時間的にもかなりハードなコースとなる.それでも途中の至る所で紅葉を眺め,ふかふかとした腐植の道を辿るのは気持ちのいいものである.頂上避難小屋には日没直後の17時に到着.すぐにコンロを炊いて食事をするが,あまりの寒さに震え上がった.体温を上げるにはカロリーを取るに限るとばかり,次々に食料を消費するがそれでも寒いままで寝袋に潜り込んだ.(注)
翌朝も快晴.厳しい冷え込みに,5cmを越えるような霜柱が小屋の周り一面にできていた.今日は雲取から七ツ石,鷹ノ巣,六ツ石と跨いで奥多摩駅まで,七ツ石と鷹ノ巣に登り返しがあるが,高差1500Mをほぼ一直線の下り道で,距離的には昨日よりも長い.寒さ対策と長丁場の行程に備えて,今日も出だしから飴だのチョコだのと次々に行動食を口に放り込んで歩いた.それでも葦さんと私は持ってきた行動食の残りを見極めながら食べていたのだが,もう一人はそんなことはしない人である.あっという間に飴もチョコもクッキーも手持ちがなくなっていた.仕方なく,葦さんがザックのポケットから氷砂糖の袋を取り出したのは,まだ七ツ石にも到着していない歩き出し30分くらいだった.葦さんの話では非常食用に2年前に購入し,1回だけ行動中に口にしたとのこと,「3個だけ減っているよ」と言ってほぼ新品を袋ごと久里さんに渡した.久里さんは大喜びで,ボリボリと囓りながら元気よく先頭を歩いていく.いいペースで七ツ石,鷹ノ巣と進んで六ツ石を過ぎたところで急に久里さんが大人しくなった.どうしたのかと聞くと,氷砂糖を食べ切ってエネルギー不足だと言う.なんともはや,葦さんが2年間で3個しか食べなかったものを,久里さんは半日で一袋食べ切ってしまったのだ.登山道から林道に出ると久里さんは食べ物を求めて駅前に向かって走っていった.それにしても,目的地まで到着する前に食べ切っていたんでは非常食とは言えないだろう.もし久里さんが奥多摩駅の手前の交差点で行き倒れていたら・・・,やはり遭難と言うんだろうか?
食パンサンドイッチ (1983.11)
我々の山仲間は,自分達では至極まともな紳士の集団であると自負している.しかし,周りの見る目とは必ずしも一致しているとは言い難い.これは様々な理由があるのだが,やはり一番の問題はその食べっぷりであろう.兎に角,食料が多いのである.この問題点を一人で作り出しているのが最年少,最下級生の久里さんである.その食べっぷりたるや,下界では昼飯にカツ丼を2杯(注)とか,居酒屋の刺身食べ放題でマグロの刺身を40人前(注)とか,見ている方が胃もたれしてしまう.(注)山へ行くとなると,昼飯用にでっかいおむすびを5,6個持参してくる.時には自分のザックに入りきれなくて先輩に担がせるのであるから,その根性も食欲も恐ろしいものである.
11月下旬のその日は,里さん,富士さん,葦さん,久里さんのいつものメンバーに飛び入りで椰子さんも加わって6人での鍋宴会山行,埼玉県小鹿野から清滝小屋に上がって鍋を楽しみ,翌日に両神山の鋸歯を八丁峠まで縦走して志賀坂へ下りるという予定だった.前日に大学近くのスーパーに出かけて,鶏肉,白菜,大根,人参,牛蒡・・・,さらに味噌と日本酒1升と鍋の材料を買いそろえる.翌朝用には残った鍋にラーメンを入れて後始末をし,昼食用には6枚切りの食パンを4斤とカップジャムをイチゴ,オレンジ,チョコ,ピーナツと4個買っておいた.
さて,1日目の昼は持ち寄りの弁当で済ませ,夕方早めに清滝小屋に入る.私は最上級生であるから小屋に着いたらあとは何もする必要はない.早速,久里さんに小屋の裏手の岩場から染み出した地下水が作った大きな氷柱を折ってこさせてオンザロックを作り,後輩達が鍋を作るのを牢名主のように見ているだけでよい.2時間ほどかかって鍋は完成.他の客達の羨ましそうな視線を受けながら,味噌味の鍋をつついて日本酒を煽った.
翌朝も晴天.厳しい冷え込みに対抗するべく,昨夜の残りの鍋を温め直しそこに袋ラーメンの麺を放り込んで朝食とした.両神山は関東平野の北西の端に位置して,鋸歯状の岩尾根を連ねる風変わりな山である.岩峰の天辺からは八ヶ岳や上越国境周辺が見えている.足場の悪い岩場の縦走を終えて,下降点の八丁峠に着いた時にはすでに昼食タイムとなっていた.
もうあとは下りるだけ.剣呑な岩場の縦走が終わった安堵から,峠の広場に店を広げて昼食となった.メニューはこのメンバーのいつも通りの食パンである.今回は6人で6枚切りが4斤あるから,一人4枚見当であるが,大食漢の久里さんがいるから一人3枚といったところだろう.ジャムは4種類だからどの味を付けようかなどと考えているうちに,いつの間にかジャムが空になっている.なんと久里さんが1枚にカップ半分づつ,山のように盛り上げて食べているではないか.結局,味がなければ5人で12枚がやっとであった.久里さんはと見ると,すでに1斤を食べ終え,2斤目に突入している.大した食欲である.でもジャムがなくなった今,どうやって残り1斤を食べるのだろうか.皆が興味津々で様子を見ていると「付けるものがないからサンドイッチにしよう」と言うではないか.何を挟むんだと聞くと,「パンにパンを挟んで食べる」と言って3枚のパンを重ねて一気に食べ始めた.これ以来,我が山中間は自分の分の食糧を確保するために,こっそりと自分専用のジャムを持ち歩くようになったのだった.
場違いな登山客 (1985.11)
社会人になって最初の登山は,里さん,久里さんとの3人で西上州の御座山だった.本当は夏休みにアルプス縦走を考えていたのだが,6月に足指を骨折してギブスが取れたのが7月末では夏休みなどなかった.8月末から漸くテニスやキャッチボールで慣らし運転をして,空いた時間に足形を採って貰って登山靴を新調した.そして,復帰第1戦が御座山であった.
早朝に高尾駅で待ち合わせ,小淵沢から小海線に入って小海まで.タクシーで白岩から農道に入って北相木側の物見塚尾根の取り付きまで楽をする.物見塚から主峰へと上がって3時間で頂上の避難小屋へと到着した.小屋の中にテントを張って,いつも通りのアルファ米にボンカレーの食事だが,今回は就職して最初の再会山行であるからこれだけで終わるはずもない.牛缶,鯨缶,ツナ缶から蜜豆缶,さらに魚肉ソーセージにお総菜まで,様々な食い物が出てきて大宴会となった.
翌日は反対側の南相木側へと下山して,バスで小海へ戻った.問題はこれからである.小海線の小淵沢行きはガラガラであった.3人でボックスシートに座り,満足の山行の記念に缶ビールを空けた.窓からは紅葉の進んだ林が見渡せ,少しだけ開けた窓からの風がきりっとして気持ちいい.ここまではまるで青春映画そのものであった.そして,我々が主役だと思っていた.松原湖,海ノ口と進むとザックを背負った山男が次々と乗ってくる.我々とは宗旨の違う八ツ族である.彼らもまたボックス席を占領して,ビールを飲んでいる.列車は更に進んで野辺山,清里へと到着する.ここは山ヤの領域ではない.乗ってきたのはキャピキャピとした女の子達(注)である.車内は既に山ヤで結構埋まっている.女の子達は仕方なく,山ヤが占領しているボックス席の空いている席に腰掛ける.でもどこでもいい訳ではないらしい.必ず席を選別している.
我々も八ツの奴らも缶ビールを飲んでいる.我々はいつも通りのジャージに毛シャツである.奴らは流行のクライミングズボンに新素材のラグビーシャツ(注)である.我々は首に手拭いを巻いている.奴らは首にバンダナを巻いている.我々は焼き鳥缶をつまみに食パンを手で千切って食べている.奴らは首から提げたビクトリノックス(注)で切ったフランスパンとチーズを食べている・・・.
結果は予想通りだった.どうやら青春映画の主役は我々ではなかったようだ.その証拠に,我々の座ったボックス席の1席は結局小淵沢まで空席だった.立ち席の女の子もかなりいたというのに・・・.
待合室で大宴会 (1987.11)
就職して3年,仲間との賑やかな山行が恋しくなって計画したのは11月の吾妻連峰縦走であった.メンバーは里さん,富士さん,久里さんとの4人.夜行で福島に入り,浄土平から吾妻小富士を後ろにして一切経山から家形山,兵子,東大顛を縦走して明月湖避難小屋に1泊,翌日は中大顛から西吾妻山へ抜けて天元台に下りて温泉に入って帰るというなかなか盛りだくさんの山行になるはずだった.
もう何度も一緒に出かけた仲であるから装備の分担は阿吽の呼吸である.それぞれが自分の得意分野の装備を持ち寄り,上野駅で夜行が出るのを待つ間に重さの調整を済ませて準備完了となった.今回は避難小屋の中にテントを張っての自炊のため,鍋というわけにはいかない.それぞれが好みの缶詰だのお総菜だのを持ち込んだ.
金曜の夜に上野駅で待ち合わせ,夜行で福島へ.ホームの待合室で夜明けを待ってタクシーで浄土平へ上がった.下界はまだ秋であったが,登山口はすでに冬,雪が5cmほど積もっていた.雪は止まないが,それほど悪くなりそうにもないので,雨具を着込んで出発した.一切経山に登ると東側に吾妻小富士がきれいな形を見せてくれる.そして縦走路は北側へ回り込む.と,そこは膝下までの積雪だった.スパッツを着けるが,重い雪で歩きにくい.さらに天気は悪化し始め,昼というのに暗くなって,雪も激しい.縦走路から姥湯への分岐点で4人で相談.ここを過ぎると明月避難小屋までエスケープはない.翌日のルートも北面のため雪は多そうでエスケープは厳しい.こんなところで遭難騒ぎはご免だし,避難小屋では雪に濡れた服の乾燥もままならない.折角の再会山行も寒さに震えていたのでは面白くないということで,下山を決心する.その代わり,姥湯に泊まってノンビリしようということになった.
話が決まればあとは早い.昼食も取らずに一気に下山となった.樹林帯の中のエスケープはあまり踏まれていないのか,思ったよりも道が悪くて時間がかかった.それでも3時近くになって車道に到着.姥湯温泉を訪ねるが,生憎満員とのことで宿泊は断られてしまった.こうなるともはや駅まで下りて帰るしかない.1時間ほどダラダラと歩いて奥羽本線の峠駅へと下った.
峠駅は無人駅である.次の福島行きは1時間以上ある.ホームには古いが待合室がある.他に客はいない.これだけ条件が揃えば,何も問題はない.早速ザックからコンロを出して,明月で食べる予定だった缶詰だの,ラーメンだのを調理する.しんしんと雪の降る中,辺りはすっかりと暗くなり周囲に点在する家々も戸締まりを済ませているのだろう.出歩く人影もない.ホームを照らす小さな電球の明かりの下で,冷えた身体をラーメンで温めながら近況を話し,思い出を語る.登山としては失敗であったが,山行としては充分満足のできる雪の吾妻連峰縦走であった.
憧れの稲荷寿司 (1988.8)
小さい頃から稲荷寿司が好きだ.子供の頃,遠足の弁当は必ず稲荷寿司を作ってもらった.大人になってからはあまり食べる機会もなかったが,学園に来て一人暮らしを始めてからは食事を作るのが面倒な日には稲荷寿司や海苔巻きを買って帰って済ましていた.ちょうど,どこかのコンビニが「夜中に急に稲荷寿司を買いに行く」と言うCMを流していた頃だが,そんなコピーを聞く前から夜中に買いに出る(注)こともあるくらい好きである.と言うことで、日帰りの山行の時にはコンビニで稲荷寿司を買って昼食にしたりしていたが,泊まりがけとなるとなかなか食べることはできなくなる.好きなものを他人が食べていると無性に食べたくなるのは当たり前だが,そんなちょっとイライラしてちょっと悲しい経験をしたのは白峰三山縦走の時だった.
1988年の2回目の夏休みは,8月最初の週末に絡めて南アルプスの白峰三山縦走に決めた.翌年のGWにヒマラヤへトレッキングに行く計画を立てていたので,自身の体力を判断しておこうということもあり,単独行で自炊・寝袋の荷物を持ってある程度の高所で縦走というルートを取りたかったからである.新宿を山岳夜行の1本前の列車で発ち,甲府まで.甲府駅前で広河原に入るグループを捜して割り勘の交渉をし,タクシーで広河原に入る.広河原のバス停付近は既にかなりの登山者がテントを張ったり,待合室に入ったりして朝が来るのを待っている状況だった.こちらも雨具を着込んでバス停横の空き地に横になって朝を待った.3000M級に挟まれた谷底は明けるのが遅い.5時でもまだ暗かったが,そろそろ周りも動き出しているので起き出して準備をする.準備といっても雨具をしまって菓子パンを食べるだけのことであるから15分で終了する.広河原小屋へ向かう吊り橋を渡り,小屋前で水を補給して大樺沢沿いの道を登り始める.登るにつれて朝日を浴びるようになり,草すべり分岐では既に暑いくらいの日差しとなった.草すべり経由の道を採って小太郎尾根から北岳肩の小屋まで一気に登った.いつも通り,初日の登りは好天で甲斐駒や仙丈が八ツをバックに颯爽と見えていた.この日は肩の小屋自炊小屋泊.(注)
翌日は3時起床.ゆっくりとラーメンを作って身体を温め4時出発.北岳頂上までは展望があったが,そこから先はいつも通りの「ガス→霧雨→土砂降り」と急速に悪化していく.北岳山荘では雷雨注意の表示もでていてのんびりとしていることはできなかった.中白峰,間ノ岳,西農鳥,農鳥と3000M峰を展望もなく通過していく.雨は更に激しくなり,昼食もままならないので,歩きながらロールパンを囓っていく.大門沢の下降は土砂降りの雨が流れて田んぼの様になった道を滑りながら下りていく.途中何回ころんだろうか.雨具は仕方ないとしても,下着までびしょ濡れになって大門沢小屋にたどり着いた.
かなりのペースでとばしてきたので小屋はガラガラだったが,夕方になるとかなりの人数になった.さすがは南ア,ほとんどが自炊者用の小屋に入ってくる.どの人も皆まずは寝袋を伸ばしてスペースを確保し,夕食の準備を開始する.夕方になって雨も上がり,狭い谷筋の小屋から見える細長い空が青くなったので,小屋前の広場で炊事を始めた.とは言っても,当方は今日もインスタントラーメンゆえ,あっという間に調理も食事も終了である.まだ夕暮れには時間があるし,折角の青空を楽しもうと何となく広場でノンビリしていると,どこからともなくいい臭いがし始めた.何となくソワソワするような酢の刺激と甘辛の油揚げの香ばしい臭い,それは我が愛する稲荷寿司の臭いである.こんなところで・・・.周囲を見回すと6人ほどのグループが缶詰の揚げをコッヘルで煮直し,かやくの入った酢飯を団子にして揚げの中に詰めているではないか.そうか,この手があるのか・・・.このままだと悲しくなるから,小屋に戻ってすぐに寝袋に入った.でも頭から稲荷寿司が離れない.南アの山奥1500Mとなれば,一番近い人里まで3時間はかかる.近くにコンビニがないから夜中に買いに行くこともできず,悶々とした夜を過ごして翌朝早くに奈良田まで駆け下りた.さらにバスで2時間.身延の駅蕎麦で食べた稲荷寿司は実に美味しかった.
その後,あちこちのスーパーで缶詰の稲荷寿司セットを探したが,いずれも3人前とか4人前で単独行ではとても食べきれない量だった.自炊で登れるくらい元気なうちに,有志を募って稲荷寿司を食べる会を開きたいと今でも思っている.
賞味期限? (1988.9)
4月から10月までの週末は,夏休みを除いてほとんどが職場の野球部の試合が入っているからなかなか山登りには使えないが,天気予報が悪くて試合の予定が入らなかった.予報は雨だが,出掛けてみれば晴れるということもある.そんなお気楽な気持ちで突然出掛けたのは9月の週末のこと,行き先は奥秩父の名峰金峰山と瑞がき山だった.金曜日の夜に車で麓まで入って車中泊,翌日に富士見に車をデポして金峰山を往復,富士見小屋に泊まって翌日に瑞がき山をピストンして車を回収して帰るというハードスケジュールだった.
急に思い立っての山行ゆえ,準備はいい加減だった.金曜の朝,出勤前にザックを出して,必要なものを詰め込んで職場に向かった.そんな調子だったから,食料もザックの中に入れっぱなしになっていたアルファ米と,戸棚に転がっていた菓子パンを適当にザックに入れただけだった.夕方6時に仕事を終わらせ,職場の食堂で夕食を食べると,そのまま常磐道から首都高,そして中央道に入った.週末の夕方で大渋滞しているが,なんとかその日の内に甲府の双葉SAに入った.そして,そのまま朝まで仮眠した.
翌朝は曇っているが雨は降っていない.これならOKということで,須玉インターから増富温泉を通って富士見下の瑞がき山荘前に車を止めた.そのままザックを背負って,富士見平から大日岩を通って,金峰山へと登っていく.雨が降り出したので,雨具を着込んで先を急ぐ.食事も歩きながら菓子パンを囓った.数日前にコンビニで買ったカレーパンだが,何となく不思議な感じがする.カレーの臭いはするのだが,何となく色が濁っている.カレーって黄色かったような気がするけれど・・・,ネズミ色が混じったような色をしている.別に,こんなもんか・・・,と思ってそのまま完食して,金峰山の頂上を往復した.雨は次第に土砂降りとなって,カレーの色どころではなくなっていた.そして,富士見小屋に到着.コンロを出してアルファ米を暖めながら,何気なくゴミ袋の中にあったカレーパンの袋を見ると賞味期限の日付が随分前に過ぎていた.
翌日は土砂降りで,瑞がき山は諦めて帰路に着いた.別に腹痛もないし,吐き気もない.そのまま甲府の蕎麦屋に入って,大盛キノコ天ざるを食べて帰った.若くて体力もあって,しかも一人暮らしでいい加減な食事ばかりしていたから,生命力が強かったのだろう.賞味期限なんて大したことはないと思っていたが,よく考えてみると私の山行の中で最も生命の危機と近い極限の山行であったのかも知れない.
エベレストを望む牛缶おにぎり弁当 (1989.5)
1989年のGWはネパールのクーンブヒマールでいわゆるエベレスト街道のトレッキングを楽しんだ.ツアーへの参加だから,ガイドもポーターもコックもすべてセットされており,空身でただただ歩くだけという極楽な天上散歩だった.ただし,標高が2600〜4500Mと高いのと,食事の味付けが現地風,さらには味のベースがヤクの肉とニンニクと岩塩のためか,人によっては下痢と吐き気の昇天散歩といった感じであったが・・・.
毎日の食事は,朝がパンケーキとお粥,ゆで卵そしてチベッタンヌードルの入ったスープにコーヒーか紅茶,昼は朝の残りのパンケーキと茹でたジャガイモにゆで卵,夜はご飯にヤク肉のシチューが基本であったが,時にはディナーにヤク肉の入った餃子や,日本から持ってきたインスタントラーメンが登場する.たまに日本製のラーメンやカレーが出ると食欲が増すのだが,やはり10日も同じようなメニューとなると結構きつい.そんなある日,幕営地のパンボチェから今回の最高点のタウチェカルカをピストンしたが,日程の都合でそのままパンボチェを通り過ぎてタンボチェまで下りることになった.ポーターやコックは一緒に上を目指すとタンボチェで幕営の準備ができないということで,珍しく昼はお弁当となった.
タウチェカルカに登って景色を堪能した後に,ゆっくりと下山を開始した.時間は十分あるし,眺めのいいところでゆっくり食事にしましょうと誰からとなく話が出て,てパンボチェからタンボチェの中間地点ミリンゴの谷で食事タイムとなった.シャクナゲのブッシュがあって風が防がれて暖かく,エベレスト,ローツェ,ヌプツェの岩壁,優しい母のように両手を広げたアマダブラム,すぐ目の前にはタムセルクとカンテガがそそり立ち,最高のランチタイムである.そして出がけに一人ずつ受け取っていたランチボックスを開けると,プラスチックのお椀の中におにぎりが3個,そして日本から持ってきた牛肉の大和煮の缶詰が小分けして入っていた.
久しぶりのおにぎり,久しぶりの牛肉大和煮,まるで日本の山にいるような懐かしいメニューに,皆なにも喋らずに夢中になってのランチだった.どこへ行っても,どんな絶景を見ていても,やはり日本人にはおにぎりと牛缶は山のお供,安心感の源なのだろう.
パッ缶にはご用心 (1989.9)
ヒマラヤトレッキングから帰って4ヶ月,高地順応というほどのこともないが,この年の夏は絶好調だった.7月には台風の影響で豪雨の中,塩川から三伏峠に上がり,塩見を往復したが,三伏まで標準登り5時間のところを3時間半,塩見往復7時間のところを5時間,そして三伏の下りは3時間のところを1時間半で駆け下りた.2週置いてお盆休みには会津駒へカモシカ登山を敢行した.この調子ならどこでも行けそうというのが実感で,9月に挑戦したのが2泊3日で甲斐駒表参道から早川尾根を経て,鳳凰三山縦走というロングコースだった.この時も体調は絶好調,竹宇から七丈まで7時間のところを4時間で登り,翌日も仙水峠まで甲斐駒を跨いで2時間ちょっとのペースだったが,結果的には敗退した.ルートに負けたのでも,荷物に負けたのでもないのに.
前日夜に山岳夜行で新宿を発ち,韮崎からタクシーで竹宇駒ヶ岳神社まで入る.ここからは名だたる甲斐駒表参道黒戸尾根の2400Mの急登となる.途中2回ほど眠気で休憩したが,あとは快調に七丈小屋に到着した.すぐに古い方の自炊小屋に入り,食事を作り始めた.今日は初日ゆえ重いものは早めに食べてしまおうと考えて,ジフィーズの牛飯に缶詰の牛肉大和煮をトッピングして食べることにした.ご飯も炊けて,あとは缶詰である.そのままでは冷たいから,パッ缶を少しだけ開けてコンロに乗せて加熱した.冷たくて固まっていた脂肪分と煮汁がグツグツと泡立ってきて加熱終了.パッ缶の蓋を開けて中身をコッヘルの牛飯にかけて・・・.右手のパッ缶の蓋から煮汁が垂れかかってきた.勿体ないと思って,パッ缶の蓋を嘗めたらメチャクチャ熱かった.「アッチ〜」となった途端にパッ缶の蓋が口の中に入って・・・.蓋が口の両側に当たって,口蓋の両側が切れて血が滴っている.何と,まるで口裂け女のようになってしまった.と言うか,実際に口が裂けている.
それでも何とか食事をし,メンソレを塗って寝たが,なかなか血が止まらない.翌朝も起きた時には止まっていたのだが,食事で口を開いたらアウトであった.口の両側から血を流しながらそれでも甲斐駒の頂上に立ったが,周りの登山者から変な目で見られているのが分かる.大体,何を食べても痛くて堪らない.とうとう仙水峠で痛みに負けて北沢峠へとエスケープした.でも,本当は痛みに負けたのではない.パッ缶の蓋に負けたのである.
垂涎のハンバーガー (1991.8)
ハイキング好きのヨメさんを貰って最初の夏休みは,のんびりと縦走しながら大展望を満喫しようということになった.シロウト半のヨメさんの実力からいって,白峰三山だの裏銀座だのはまだ無理だろう.鳳凰三山は可能だが,小屋がよくない.(注)そこで宗旨替えして北アルプスの常念から蝶ヶ岳の縦走となった.結婚して初めての2泊3日の縦走だから,朝夕は小屋食にすることにして荷物の軽量化を図り,昼は少し凝った食事を作ろうと考えた.
東京を夜行バスで発って,早朝に穂高駅着.そこからタクシーで一の沢登山口まで乗り入れる.一の沢沿いの登山道は常念乗越への最短ルートである.梅雨明け十日の焼けつく日差しを受けた結構な傾斜ではあるが,咲き誇る高山植物と30分おきのおやつの配給でヨメさんも何とかついてきている.常念から前常念へのどっしりとした稜線が見えるとすぐに常念乗越,今日の宿,常念小屋は目の前だった.小屋のテラスにコンロを持ち出して昼食.今日のメニューは高級インスタントラーメン(注)にハムだのソーセージだのを豪華に載せて,デザートはフルーツゼリーとなった.この日は東側はスッキリと晴れていたが,西側はガスがかかって残念ながら槍穂高の岩の屏風は見ることができなかった.
翌日は小屋食を食べて6時出発.まずは常念岳の頂上に立つ.抜群の展望と言いたいところだが,一面のガスで何も見えない.さらに蝶ヶ岳への縦走を始めると激しい雨となった.雨やみをしようにも,森林限界を超えて岩稜帯を縦走中となれば吹きっ晒しで場所もない.それこそ雷でも来たら大変である.慣れない岩稜帯の縦走に四苦八苦しているヨメさんに「蝶ヶ岳まですっ飛ばすぞ」とハッパをかけて一気に縦走した.
今日の泊まりは蝶ヶ岳ヒュッテである.すっ飛ばしてきたために,昼前での到着となったが,常念山頂で写真を撮ったきり,植物観察どころか写真も撮っていない.幸い雨が上がったので,サブザックに食料を詰め込んで,昼食を兼ねて蝶ヶ岳山頂周辺のハイキングへと出かけた.蝶ヶ岳山頂は常念とは異なり,どこが山頂か分からないような広々とした台地である.そこここに高山植物が咲き乱れ,伸びやかな気持ちのいい頂上のきれいな花に囲まれた一角に腰を下ろして,昼食の準備を始める.今日の昼食はこれまでどうしてもやってみたかったスペシャルメニューである.ロールパンを取り出し,ナイフで切れ目を入れてバターをたっぷりと塗り込む.缶詰のポテトサラダを開けて,切れ目の間に薄く挟んでおく.そして,コンロで湯を沸かし,レトルトのハンバーグを温め,パンに挟んだ.用済みのコンロのお湯は,コーンスープと砂糖たっぷりの紅茶に変身し,デザートにはコーヒーゼリーを奮発した.
準備完了.スペシャルハンバーガーランチの出来上がりである.山でのパン食といったら,ジャムかチョコクリームとなるが,一度はこんな豪華なパン食がしてみたかったのである.想像通り,いや,想像よりも遥かに美味しい至福の山ご飯となった.
さて,こんな食事を済ませて,花の写真を楽しんだあと小屋に戻る.小屋食を取ってお茶などしているうちに,すぐに就寝時間となった.小屋は2段の蚕棚,我々は到着が早かったこともあり,下の段の端っこに並んで寝ていた.とは言っても,まだ9時前ではなかなか寝付けるものではない.すると,上の棚から数人のグループの声が聞こえてくる.若い男性のグループゆえ,「腹減ったな〜」は仕方ないだろう.「下界に降りたら何が食べたい」だのと食い物話に花が咲いていた.するとその中の一人が思い出したように,「今日の昼に山頂で見たハンバーガー,旨そうだったな〜.」「そうそう.」「山で見ると旨そうだよな〜.」ひとしきり盛り上がった話題となったのは,我々が食べていた特製ハンバーガーランチであった.
スティックシュガーで元気はつらつ (1992.10)
1年間のアリゾナ暮らしで,折角だから記念にどこかの山に登ってみたいと思っていたのだが,今にも崩れそうな岩山が多くてどこに行ったらいいのか分からなかった.そこで夫婦揃ってハイキングが趣味という助手のR氏に相談したところ,「グランドキャニオンのインナーがいい」と勧めてくれた.ただしこれは「山登り」ではない.谷の天辺にある台地から最初に谷底まで下りて,帰りに谷底から登ってくるのだから正確には「谷下り」と呼ぶべきものだろう.ともあれ,10月にグランドキャニオンのロッジが予約できたので出かけてみることにした.
いつもの山登りなら雨具,防寒具,食料,水,コンロ,非常用品をまとめて準備完了となるのだが,出先となれば同じようにはいかない.雨具は持ってきたが,コンロは持っていない.谷底は台地の上よりも気温が高いので防寒具は要らないとのことで,残る準備は水と食料だった.水筒など持ってきていないから,普段は買わない1Lのペットボトルに入ったコーラを買って,飲み干して水筒を作った.コンロなしでは調理するものは無理なので,行動食はクリームサンドのビスケットとチョコレートにした.いざという時のためにライターと地図を買って,デイパックに詰めて荷造り完了となった.
グランドキャニオンはさすがは世界一の国立公園である.アッパーキャニオンのトップから見るインナーの規模は圧巻だった.「これはかなり気合いを入れていかないと大変だ」と言うのが最初の感想である.何しろ深さが半端ではない.R氏から1日で谷底まで往復は難しいと言われていたが,忠告されれば意固地になるのがへそ曲がりの所以である.最初は谷底まで往復しようと思っていた.でも実物を見たらさすがに気が変わった.どう見てもとても無理そうだったのだ.そこで中段まで下りて,コロラド川を見下ろせるプラトーポイントまで往復することにした.それでも標高差1300M,下り3時間,登り5時間である.
出だしは快調だった.何といっても下り一方の道であるからドンドンと進んでいける.途中の休憩舎も素通りして2時間でインディアンガーデンという休憩地点まで到達した.10月中旬で台地の上は寒いくらいだったが,谷の中は異常に暑い.後ろを見上げると,1200Mの赤い壁がそそり立っていて,「帰りにこれを登るの?」という気分になった.プラトーポイントまでは1時間だが,ここでカミさんの顔色が青くなっている.どうやら暑さでバテてしまったらしい.兎に角,一休みをしようとビスケットを取り出すが,乾いたビスケットはなかなか喉を通らなかった.この状態ではもはや進むのは不可能で,引き返えそうとなったのだが,カミさんはエネルギー切れで歩くのもフラフラしている.仕方ない.奥の手を出すしかあるまい.カミさんに口を開けるように命じて,スティックシュガーを一袋分放り込んだ.昨日の夜,非常食としてロッジのカフェテリアから一掴み盗んできておいたのだ.水筒の水で流し込んで10分もすると顔色が良くなってきて元気に立ち上がった.この機を逃すと正に死の谷になりかねないから,大急ぎで荷物をまとめて出発した.それからは何度も休憩を入れて,ゆっくりと登っていった.休憩の度にスティックシュガーを1本ずつ口に放り込んで・・・.そして,4時間と5本を費やして,漸くロッジに戻ったのだった.
山頂のしゃぶしゃぶ餅 (1994.11)
夏はやっぱり残雪のあるアルプスの縦走,その後は文化の日くらいまでは奥秩父でのんびりと小屋泊まりの峠越えなんかがいいが,11月も勤労感謝の日くらいになると,奥秩父でも2000Mで雪になる時もあって結構手強い.軟弱登山家のカミさんを連れての登山となれば,この時期には西上州辺りが無難となる.
そんな訳で,GWと勤労感謝の日過ぎは西上州の御荷鉾山,赤久縄山,オドケ山辺りが楽しい.南面には神流川を挟んで叶山や両神山,北面は荒船の艫岩や鹿岳を越えて雪を被った浅間が大きい.この山域の中でも御荷鉾山はアプローチもよく,頂上の展望もよいのでお勧めの山である.毎年のように登ったが,朝イチで筑波を出て,熊谷から長瀞,鬼石を抜けて万場へ入ってスーパー林道へと登ると10時過ぎには登山口に到着する.後は1時間弱の落ち葉の登りで祠のある山頂となる.
いつもは途中のコンビニでおにぎりとお総菜を買っていくのだが,この時はちょっと違っていた.数日前に筑波のダイエーで「しゃぶしゃぶ餅」という薄べったい餅の真空パックを見つけたのだ.裏の説明を見ると,「お肉や野菜と一緒にしゃぶしゃぶと2,3回鍋の中を潜らせるとOK」と書いてある.これは面白そうだということで,この時の山頂の休憩はレトルトの汁粉を温めて,しゃぶしゃぶ餅となった.日差しはあるが浅間颪の北風が冷たい頂上のカヤトに座って,背中を丸めながらコンロに掛けた鍋の汁粉でしゃぶしゃぶすると,身体の中から暖まってなんとも幸せな気分になった.
夏山で大汗かいてガツガツ縦走するのも楽しいが,こんなのんびりとした山行も時にはいいもんだ.帰りには志賀坂峠を越えて小鹿野から秩父に入り,新蕎麦粉の天ざるを食べて帰れば,充分に満足の初冬の一日となるのだった.