メイ水百選

《まえがき》
専門的な知識はさておき,職業柄さまざまな水や水辺の環境を見る機会には恵まれていると思っている.さらにアウトドアが好きとなればかなり多くの水辺を知っていると自負している.そんな中からこれはと思う名水や迷水を幾つか挙げてみようと思う.なお,水の善し悪しの区別は人それぞれであろうが,私の職業的な基準では,調査に出かけて水くみをした後で濡れた手を洗わなくても手づかみでオニギリが食べられるのが名水,手を洗わないと気になってしまうのが迷水だと思っている.この下に,いかにサンプリングとは言え手を濡らしたくないという水も存在するがこれは論外と言うしかない.また,水質調査ではまずお目にかからないが,山登りや魚釣りの折には時にはオニギリのお供にしたくなるような水と出会うことがあるが,これは正に銘水であろう. (2002.10)



霞ヶ浦 (ランク:名水)

霞ヶ浦は日本第2の大きさの湖であり,環境汚染の進んだ湖でもある.そのため我が職場では25年以上も調査船を出して月1回の調査を行っている.私がこの調査に参加するようになったのは1988年からで,途中で海外出張のため1年間抜けているが,年平均4回,14年間で約60回ほどこの湖の水面をクルージング?したことになる.これだけの回数になるといろいろな経験をすることになるのは当然であろう.因みに霞ヶ浦の調査のベストシーズンはと問われれば間違いなく誰もが挙げるのは10月であろう.11月から4月は寒いし,5月は気候こそ良くても筑波山から吹き下ろすスギの花粉で目も鼻も開けていられない.6月7月は雨,8月9月は暑くて,となると10月がベストなのである.なお,汚れているとは言っても,まだまだ「名水」の範疇である.積極的に行動する気はないが,泳げないことはないと個人的には思っている. (2002.10)

漂流
我が職場の霞ヶ浦調査は月1回と頻度は低いのだが,特殊な内容の汚れ作業を行うため一般の船をチャーターしてという訳にはいかない.そこで霞ヶ浦の内部専用に調査船を持っている.この調査が開始されたころは「La Bleaze」という名前の軽快な小型クルーザーを使用していたのだが,通常のクルーザーでは船縁が高く作業性が悪いことから,年月がたって老朽化したことと合わせて94年に新しい専用船と交換した.新しい「NIES94」は双胴船のため船縁が低く,船室部を最小に抑えて後部デッキを広くしたことからまるで食べ残しが付いたままの蒲鉾板か合宿所の便所の木製スリッパのような特異な外観を有しており,その芸のない名前と相まって霞ヶ浦では威容を誇っている.この船は94年の春から使い始め,最初に乗船したのは4月であった.作業性も良く,足も速くて快適だった.そして次の乗船は8月だった.真夏のこととて朝からとても暑い日で,行きがけに昼飯をコンビニで買ってくるのだがドリンクをいつもより多めの1リットルとした位,焼け付くような日差しであった.さて,船の燃料だが,自動車のタンクと違って容量が大きいためそうそう補充することはなく,まだ一度も補充していない状態であった.新しい船ゆえ船長にもメーターの特徴など分かるはずもない.メーターの針はまだ3分の1程度を指していたことから良しとして出航したのだった.

土浦港から1時間ほど走って最下流の牛堀近くまで移動して調査開始.ここから湖心を経由して高浜入の石岡付近まで遡りながら採水,採泥,プランクトンの採集,水温や照度の測定を行うのである.昼前には高浜入最奥の地点まで遡行し,ここで昼食.前の船と違ってデッキが広々としていてランチタイムも気持ちがよい.あまりの暑さに,「これがビールなら・・・」と思いながらドリンクを飲み干す.そして調査再開.高浜から土浦入へと戻りながらサンプルを採取して土浦港に帰港するのである.高浜と土浦を分ける出島の突端を過ぎて,残る採水地点は3カ所となった時だった.それまで快調にジェットを吹き出していたエンジンがヒヨッてきたのである.最初は片方,そうこうしている内に両方とも弱々しい音で低速航行となってしまった.何気なく燃料メーターを見ると,出港時には3分の1を指していた針が赤い線にピタッとくっついているではないか.なんと,ガス欠である.陸上とは違って周りにガソリンスタンドがないから,そう簡単に補充というわけにもいかない.兎に角,燃料を食うジェット走行はせずにゆっくりと進むしかない.そう決めて土浦港を目指したのだが,残りの燃料も底をついてしまったのは土浦入に入ってすぐの美浦沖であった.こうなるとどうしようもない.水面上30cmの高さの蒲鉾板に乗って波間に漂うのみである.時間は午後0時半,真夏の太陽が真上にあって,屋根のないデッキはまるで南国のリゾートのプールサイドである.パンツ1丁になって甲羅干しといければいいが,何時帰れるとも知らず,おまけに女性が一人乗船しているとあってはシャツを脱ぐのも憚られる.救助を呼ぼうにも無線もないし,周りには船も通っていない.

ようやく下流の方に船の影を見つけたのは1時間くらい漂ってからであった.見慣れない新しくて大型のクルーザーが快適に航行してくる.どこの船かは分からないが,兎に角連絡が取れなくては帰れない.恥を忍んで緊急のサイレンを鳴らすと,ゆっくりと近寄ってきた.よく見ると船の側面には「建設省」と書かれ,立派な船室からは視察にでも来たのか背広にネクタイのいかにもといったスタイルのお役人さん達が冷たい視線をこちらに向けている.船長が事情を話して連絡をお願いすると船は静かに離れていった.これで一安心と思ったのだが,救助はいっこうに来なかった.さらに30分も過ぎた頃,浚渫の作業員を乗せた小型の台船が近づいてきた.港までの牽引を頼んだのだが,この小さな船では無理となった.仕方なく,船長が港まで便乗させてもらって牽引用の大きな船を呼んでくることにした.

ようやく事態は動き出し幾らか安心したのだが,安心すると思い出すのが生理的欲求である.小さな調査船ではトイレもないし,同乗の女性に至ってはもはやパニック寸前である.もともと年長の同僚の放尿を見る趣味など持ち合わせていないが,「絶対見ないでよ」としつこく言われると猜疑心と心の狭さにむかついてくる.こちらは心も広く,「見ても構わんよ」と声をかけて艫の足場から溜まったものを一気に湖面に放出してすっきりとした.幸か不幸かドリンクの類は全て消費し終わっていて更なる尿意の元は絶たれているが,そうなると無性に咽が渇く.サンプルを入れたクーラーボックスには出がけに氷を入れてきているのだが,あまりの暑さと時間の経過にほとんどが融けてしまっている.湖水混じりのクーラーの中を掻き回して融け残りの氷を見つけて口に運ぶ.釣り竿でも持ってくれば良かったと思いつつ,することがない1時間を過ごしてようやく迎えの船の登場となった.内水面用としては大型のクルーザーからロープを垂らして調査船の錨のロープに結びつけて牽引開始.ゆっくりと,慎重に土浦に向かって進んでいく.途中,残り2カ所の採水を行い,土浦港に到着したのは4時過ぎであった.

僅か3時間,しかも360度周りの岸辺が見える湖の中,どこへ流されたって湖の中といういわば保険付きの条件での漂流,言葉にすればたったこれだけのことではあるが当事者には結構ドキドキものの遭難騒ぎであった.これが外海での正真正銘の遭難だったら一体どんな気持ちになるのだろうか.絶対に答えを探したくない疑問である. (1994.7)

Never Never ご乗船
新しい船になって半年あまり,漸く調査にも馴染んできた頃にまたまた新たな事件が起きたのは10月だった.爽やかな秋晴れの青空の下で快調に調査は進む.下流から高浜入,そして土浦入に戻って土浦港手前の最後の地点も難なく終了.港内に差し掛かって船はスローになる.船上では調査用品の後始末を急いで済ませ,接岸準備である.絡まったままの係留ロープを整え,高速航行の邪魔にならないように船内に回収しておいた保護用のボンデンを船縁に垂らそうと水面に顔を向けて中腰に構えた瞬間だった.足下の水面が俄にざわめき,手にしたボンデンと同じ位の太さと長さのものが飛び上がってきたのである.銀色をしたそいつは私の顎をかすめて船縁を乗り越え,太股に当たって船内へと乱入した.まるでユニバーサルスタジオのトラムツアーでジョーズを見ているような感覚だった.腿に残った重たい感触と船内でバタつく巨大な銀色の丸太.「何だこれ〜.」呆気にとられて皆が立ちつくしている目の前には70cmを越えるかという巨大な魚が暴れていた.丸々とした身体は背中が青みがかった銀色に腹は白と塗り分けられ,まるで養殖ハマチのような魚である.為すすべもなく見ている内に苦し紛れに口から大量のアオコを吐き出して船のデッキは一面に緑色のペンキを垂らしたようになってしまった.我に返った一人が慌てて艫のゲートを開けて湖面へと蹴り出したが,後に残ったのはアオコまみれとなった調査用品の山であった.

後で分かったことだが,奴の名は「ハクレン」,レンギョの仲間で甘酢あんかけ用に中国から輸入して利根川に放流している魚らしい.産卵期などには1m近くジャンプすることで有名なのだそうだ.それにしても図鑑には出ていなかったのだが,奴の身体は一面ネバネバに覆われているのが判明した.直撃を受けた私のズボンは太股から膝下までネバネバに覆われて糸を引き,気色悪いことこの上なかった.もう二度とこんなネバネバなお客の乗船はお断りである. (1994.10)

髭剃りは必需品
1995年,平和な世の中は新年早々阪神地方を襲った巨大地震でひっくり返らんばかりの大騒ぎであった.そしてその騒ぎも漸く収まるかに見えた3月,オウム真理教のテロ事件で仰天した.テレビで連日のように中継される有機リン系の軍事用毒物の話題に目は釘付けとなり,毎日毎晩ワイドショーの梯子というのが生活習慣になった.この年の4月の調査はこんな時期に行われたのだった.

ワイドショー症候群のなせる技か,これだけの大事件が続くと職場にいても情報が気になる.そこで実験室の机の脇にあるラジカセのスイッチを捻ってラジオを聴きながら仕事をするのが当たり前のようになった.そして4月になっていよいよ山梨県上九一色村のオウム本部に捜索が入ることになり,連日大勢の警察官が投入されるが親分の麻原某は見つからない.敷地内には狂った教祖とその一味が潜伏し,毒物や爆発物,さらに銃までこしらえていると言うからワイドショーの観客も目が離せない.しかし調査船は調査船,当然ラジオもテレビも積んでいない.下世話な話題に化学のエッセンスが混ざって,科学者という職業の人種にも興味の尽きない内容ではある.そこで調査の合間にラジオが聴けるようにと登山の時に使っている携帯型のラジオを持っていくことにした.このラジオは就職で山中間もちりぢりとなって一人で入山するようになったために危険回避の目的で持ち歩くことにしたもので,名刺ケースほどの大きさである.防水のために白い半透明のジップ袋に入れて,ライターや蝋燭,予備の電池と共にタッパーケースに入れてザックのポケットに忍ばせている.普段なら山から帰ると直ぐに山道具の小物を入れる箱に戻すのだが,阪神大震災の直後ゆえ非常持ち出し品を纏めたばかりである.プリムスやザイルと共にザックに仕舞ってあるはずと,押入からザックを出そうとしてふと見ると小物箱にそれらしきビニール袋が入っていた.あわててザックを押入に仕舞い直して,袋を調査用のデイパックに放り込んで家を出た.

職場から土浦港までのカーラジオでは早くも今日の捜索の模様が中継されている.「残す建物は本丸のみ,今日あたり教祖の顔が拝めるのでは」と解説されている.車内の話題は当然オウムである.ラジオを持ってきて正解だったな〜.思わず他のメンバーに「ラジオ持ってきた?」と聞いてしまう.誰もそこまでは考えなかったらしい.「え,いいなあ.逐一報告してね」と言われてちょっと鼻が高い.土浦港で道具を積み込み,調査に出発.さて,すぐにラジオと行きたいところだが,桜が咲いたとは言ってもまだまだ朝の湖面は冷たく,一旦ポケットに突っ込んだ手がなかなか出せずにラジオを取り出すことが出来ない.グズグズしている内にやがて調査開始となってラジオのことは後回しとなった.いつも通りに作業を進めて石岡で昼食タイムである.さて,いよいよラジオを出して・・・.何となくウキウキとデイパックから取り出した半透明のジップ袋には名刺ケース大の黒い箱が入っている.「さあ,スイッチを入れるぞ.」袋の中に手を入れて手探りでスイッチを探すが上手くいかない.なんか変だな.スイッチがないぞ.嫌な予感.思わず袋から取り出してみた手のひらに乗っていたのは,泊まりで山登りに行く時に持ち歩いている黒い名刺ケース大の電池式の携帯用髭剃りであった. (1995.5)

思わぬもので・・・
学生時代から体力勝負で他人に負けたことはあまりなかったし,特に背筋力は220Kgを越えていた時期もあったので,重いものを担いだり持ち上げたりという操作にはいささかの自信があった.そこで霞ヶ浦の調査でも錨の上げ下ろしや底泥コアサンプルの採取など,腰を使って重いものを持ち上げる操作は率先して担当してきた.1991年4月に野球の練習中に腰から転んで最初のギックリ腰をやってからも,2ヶ月くらい安静にして痛みが引いてからは治った気でいて,この担当は変わらなかった.無理をすると腰が張ってきて動きにくくなるが,別に特段の注意を払うことはなかった.ところが,2005年4月に車から降りた拍子に2回目をやってしまって事態は急転した.医者に勧められてMRIを受けてみると完全にヘルニアになっていて,いつ最悪の状態になるか保証できないと宣言されてしまったのだ.外科の医者なんて趣味が手術で,カモが欲しいからわざと悪く言ってるんだろうと思ったが,何となく不安になって,調査でも畑仕事でもいくらか自重するようになった.

その後,5月,8月と2回の調査を無事に終えて,11月の調査だった.この日は何となく腰が張っていて,ちょっと危ないかなという感じだったので,注意しながらの調査だった.とは言うものの,操作の分担は決まっているので,いつも通りにカラム採水を担当した.これは2Mのアクリルパイプの採水器を船縁から降ろして2M分の水を採取するというもので,長いし重いので結構腰に負担が掛かる.注意しながら採水を繰り返し,メンバー全員分の水を汲み上げて操作終了.次はプランクトンネットである.これはプランクトンの鉛直方向の総数を調べるもので,船縁からネットを真っ直ぐにボトムまで降ろして,それをゆっくりと引き上げてくる.プランクトンネットはネットと言う通りのザル状態であるから,採水や採泥とは異なって水の抵抗もなく重みもほとんどない.冗談半分で「こんな軽いのでギックリいったら恥ずかしいよね・・・」と言っているそばから,「コキッ!」という音がした.なんと,3回目のギックリ腰は思いもよらぬスケスケ,スカスカのネット引きで発生したのだった.

その後,1ヶ月ほどで一旦は快方に向かったのだが,この年の寒さは尋常ではなく,冬の間中再発を繰り返し,結局,翌年2月と5月の調査はパスすることになり,プランクトンネットでギックリ腰になった軟弱者として大恥をかいたのだった. (2006.8)

往きは7人,帰りは5人
霞ヶ浦は内水面ではあるが結構な面積を擁しているし,関東平野の東の隅っこにあって,日光や赤城山,そして筑波山から吹き下ろす北西風の影響をもろに浴びるため,冬になると波が高くなって船の運航に問題が出ることがある.調査で事故があってはいけないので,前日の天気予報は勿論のこと,当日の朝にも湖岸の美浦村にある臨湖実験施設の風速計を確認してから出る出ないを決めるのだが,メンバーの仕事が忙しくなると代わりの日の設定もままならず,仕方なしに出てしまうこともある.2008年2月の調査がそんな状態だった.

夜半から北風が強くて,寝ながらもピューピューという風の音が聞こえていたので,今日は当然中止だろうと気楽に研究所へ出掛けると,既に調査用具一式が運び出されている.慌てて着替えをして,防寒具と長靴を抱えて玄関まで出掛けると,メンバーが集まって相談中であった.寒いし風も強いしということで,どの顔も「行きたくないな〜」と言っているのだが,スケジュールの都合もあって,兎に角土浦港まで行ってみようとなった.

土浦港に着いてみると既に調査船は係留場から水面に降ろされ,船長の佐藤さんがエンジンをかけている.船長が行く気満々であれば,船員は当然行くしかない.皆で調査用具を積み込んで,急いで出港した.土浦港から牛堀まで普段は40分程度だが,今日は波が高くて1時間以上かかった.おまけに調査地点に着いても波にあおられて錨が効かない.調査地点#12は普段なら15分位で済むところに倍以上の時間がかかった.波はますます高くなり,湖面はまるで洗濯板のようになっていた.この波ではジェット走行はできないので,上流を目指してノロノロと進んでいく.GPSの画面を見ても,いつまで経っても船の位置が変わらないほどの低速走行である.それでもなんとか進んで#11を終わらせ,湖心の#9に着いたのはいつもよりも1時間以上遅れた11時過ぎとなっていた.広い湖の中心部分で強風と波にあおられて,船は木の葉のように漂っている.湖心は調査内容が最も多くて普段でもかなり時間がかかるのだが,今日のように足場が悪いとさらに時間がかかってしまう.そうこうしている内に,メータの数値を読む係の女性二人が船酔いでダウンしてしまった.こうなると,残った人間で分担を増やすしかない.ますます時間はかかり,湖心の調査を終えたのは12時近かった.

船酔いの二人はと見ると,真っ青な顔をしてもはや完全な死人状態である.このまま調査を続けるとしたら,今日のペースではあと4時間は必要だろう.かと言って引き返すにしても,さらに1時間近く船上の人でいなければならない.死んだまま死体で転がっていてくれればまだ良いが,さらに悪化してゾンビになって動き回られたらえらいことである.そこで船長と相談の上で,早々に死体を陸揚げしようということになった.湖心から最も近い港は出島の歩崎港であるが,漁船が係留されている船着き場があるだけで,風を避ける小屋もトイレもない.こんなところに死体を2体も転がしておいたら警察沙汰になってしまう.そこで,少し時間はかかるが,霞ヶ浦大橋の下にある霞ヶ浦ふれあいランドの船着き場に荷下ろしすることにした.

洗濯板のような波を掻き分けてゆっくりと進むこと20分.漸くふれあいランドの船着き場に接岸すると,二人の死人は思ったよりもしっかりとした,それでも明らかにユラユラとした足取りでふれあいランドのトイレへと向かっていった.後は,陸地にいる連中に携帯で死体の回収を依頼して,一件落着となった.残りは高浜入と土浦入の7カ所の調査である.7人で分担していたものを5人で済ませるとなると,いつもとは違う作業も引き受けなくてはならないし,既に1時間以上の遅れが出ている.時間的にも人数的にもこれ以上のロスは許されないとなれば,いつもなら船上の楽しみとも言える昼飯も封印して作業をするしかないか・・・.と考えている横で,さすがは船長である.操縦をしながら菓子パンを頬張っている.しかもその隣で残りの紅一点Yさんがデカいおにぎりをパクついているではないか.恐るべし,Y姉さん.真冬の大間でマグロ釣りの漁師になれそうな強さに,一同開いた口が塞がらなかった.

その後も風と波に邪魔されながら,なんとか作業を続けた.土浦入に入るとさらに波は強くなったが,土浦入に入れば帰れなくなることはないという安心感が湧いてきた.そして最後の地点での作業も終了.乗組員を2名失い,予定よりも3時間近く遅れて,それでも全ての任務を全うしてヨロヨロと帰港する我々の目に母港の土浦港が見えた時には,まるで爆発事故から軌跡の生還を果たしたアポロ13号の乗組員のような,連帯感と達成感が満ちあふれたのだった. (2008.2)



牛久沼 (ランク:名水)

牛久沼も霞ヶ浦と同様,利根川水系の湖沼であり,この二つの湖沼は15kmほどしか離れていない.いずれも生活排水によって汚染されているのだが,霞ヶ浦ではアオコの発生が顕著なのに対して,牛久沼は余り目立っていない.この違いを調べようと言うことで1987年の春から1年間にわたって隔週で調査を行った.調査地点は主な流入河川である西谷田川の細見橋と沼の最下流地点の水門付近である.細見橋は両岸が一面のアシ原に囲まれた静かな場所で,橋の上からバケツを投げて水を汲むだけであるから特に問題もなかった.周りを見回しても暇そうに竿を操るヘラ鮒釣りのオヤジがいるのみである.尤もアシ原の中には明らかに人為的に造ったと見られる不自然な平地が幾つもあって,丸めたティッシュが落ちていたりすることからして夜にもなればアベックがむき出しの白い尻や足を蚊に刺されながらイチャついているのは明白である.とは言っても調査は昼にするものであるから面白い逸話は何もない.昼間はただ黙々と学問に身を捧げたのみである.しかし水門地点となると話が違う.なにせ日本有数の幹線である国道6号線のすぐ横,そして観光客が出入りする老舗鰻屋「伊勢屋」の駐車場の前で水を汲むのである.様々な視線を受けるのは当然である.「お兄ちゃん,何してんの?」は日常茶飯,「きったねぇなぁ」と怒られたり,「そのうちマシな仕事にありつけるから頑張って」とトンチンカンな励ましを受けたり色々である.でも,視線を送ってくるのは人間だけとは限らない.

もうすぐ梅雨明けという7月のこと,その日は時間が早かったせいか伊勢屋の駐車場には誰もおらず,気楽な気持ちで車のトランクからバケツとポリ瓶を出して駐車場の端から湖岸へと下りたのだった.店の裏手にはちょっとした広場があって,観光客へのサービスのつもりかアヒルが餌付けされている.誰もいない時間帯で餌を漁るのに夢中になっていた奴らは突然バケツを持った男の出現に一瞬たじろいだが,すぐにこちらに向かって歩き出した.「アヒルの行列よちよちよち〜」と傍目には微笑ましい光景であったが,実際には奴らは餌を取られないために必死の形相で,瞳の中には星飛雄馬の如く炎が燃えさかっていたのだ.サンプリングの準備をしている間にドタドタという足音が間近に迫り,気がつくと大きなアヒル4羽に取り囲まれているではないか.そしてガアガアという声を挙げると黄色い嘴を突き出して威嚇を始めたのだ.いかに大きいとはいえ,たかがアヒル,いざとなったら首を捻ってやると思ったのだがそうはいかなかった.見かけによらず素早い動きで次々に尻や太股に噛みついてくるのである.奴らの嘴が平べったくて分厚いのは知っていたが,かみ合わせにギザギザがついているのはこの時まで知らなかった.兎に角痛い.半端でなく痛い.仕方なくサンプリングを諦めて駐車場に上がると,奴らは勝ち誇ったようにガアガア言いながらケツを振り振り広場へ帰っていった.職場に戻っても痛みは引かず,夜になって独身寮の風呂場の鏡で振り向いて見るとGパンの上から噛まれたのに尻や足に青タンがしっかりと付いていた.風呂場で出会った同僚から「どうしたの?」と聞かれたが,いくら何でも「アヒルに噛まれた」とは恥ずかしくて答えられず,「彼女と喧嘩して・・・」と答えておいた.どうせ尻や太股に着けるのなら,女の子に抓られた痕か,アシ原で蚊に刺された赤タンの方がずっとマシと言うものであろう. (1995.5)



綾瀬川 (ランク:論外)

多くの日本人は綾瀬川と言ってもどこにある川かは知らないけれど,兎に角日本一汚い川という方程式を持っているのではないだろうか.そのくらい,汚い川として有名である.水源部については知らないが,少なくとも調査地点となった中流部について言えば,その発想はまったく正しい.多くの工場や家庭からの排水が流れ込んで水は黒く濁って澱んでいるし,様々なゴミが堆積して生き物の痕跡すら感じられないような川である.しかし調査期間中に,そんな死の川で生きたフナやカメを見たのは驚きだった.よく頑張っているなあと思った.そして極めつけは給食センターの排水路に溜まったご飯粒混じりの腐泥の中に沢山のドジョウが群れているのを見たことだった.しかしここまでくると,もはや生命力の逞しさと言うよりは浅ましさ,厚かましさを感じてちょっとショックだった.

埼玉県桶川市から埼玉県南東部を抜けて東京都に入り,中川に合流して東京湾に注ぐこの1級河川の調査を行うことになったのは,研究テーマが「環境調査」ではなく「汚染調査」だったからで,期間は1993年から1995年までの3年間である.新しい場所での調査は初動の準備が面倒だし,面白い現象もなかなか見つからないしでいつも初めの内はイヤと思うのだが,1年も続けると愛着を感じて足繁く通うようになるのが常である.しかしこの川は最後まであまり良い印象はなかった.それはメンバー全員での下見を済ませ,各自の調査地点の設定を終えていよいよ単独で出かけ始めた3回目の調査から3回続けて悲劇が待っていたからである. (2002.11)

始まりは氷点下
第1の悲劇は草加市の中心部,槐戸(さいかちど)橋の下で突然起こった.1994年2月上旬のその日は冷え込みも厳しく,調査と言うよりも新興宗教か体育会系応援団が合宿で行う根性養成活動のようであった.調査は越谷市と草加市にまたがる7カ所で水温とpHを計り,水を汲んで持ち帰るというものである.川の代表値を採るために流れの中心部の水を汲むのが理想であるが,これが結構難しい.橋の上から汲める場所はいいのだが,そうもいかない場所では川縁からロープを付けたバケツを投げるのである.しかし,かじかんだ手はなかなか動かず,狙ったところに投げるのは至難の業である.何度も繰り返すうちに濡れたバケツで指が痺れ始めていたその時,左手で握っていたはずのロープがするりと抜けていきそうになったのだった.ここは7カ所ある調査地点のまだ2カ所目である.ここでバケツを流してしまう訳にはいかない.執念で身体を捻ってロープの端を掴み直したのだが,折からの冷え込みで凍結した急斜面に足を滑らせそのまま川の中に腰から落ちていったのだった.根性でロープを掴んだお陰でバケツは流されなかった.残り5カ所の採水も問題なかった.でもとても冷たくて悲しかった.Gパンから水が染み込んでパンツまでビチョビチョである.当然のこととしてその中のモノはいつもより縮小して凍りかけていた.不思議なことに大して臭くはなかった,その時は.しかし凍りつきそうに冷たいGパンを乾かすために暖房を強めた車の中は身の毛もよだつ地獄の悪臭であった. (1994.3)

そして悲劇は繰り返す
第2の悲劇はまたも槐戸橋であった.GWが明けて,季候も良く正に調査日和という5月,橋の袂の土手は勢いを増した雑草が茂って川岸への下り口も分からないほどだった.それでも土手の上から下りるのは容易いことである.バケツとサンプル瓶を抱えてエイヤッと突き進めばよいことである.そして何なく採水終了.前回の暗い思い出も払拭されたと思ったのはほんの一瞬だった.さて,土手に上がるには雑草を掻き分けていかなければならないが,下からではルートが探しにくい.結局,下りた時よりも5mばかり上流から上がることになった.そして急傾斜の土手を駆け上がって雑草のジャングルから脱出して・・・踏みしめた土手にあったのは馬鹿デカい犬のウンチであった.気づいた時には既に遅し,青いスニーカーは焦げ茶色のデコレーションにこってりと飾られ,染み込んで来つつある湿気が靴下越しに足先まで伝わってきていた.どうしよう.まさかこのままで車に乗る訳には行かない.かといって洗う気もしない.とうとう下した決断は靴を捨てていくという最後の手段であった.

1994年5月9日に槐戸橋の袂に青いスニーカーを揃えて置いていったのは私です.いいえ,決してウンチを踏んで悲観して身投げした訳ではありません.ただ何となく,橋の袂までいってから靴を脱ぎ,お行儀良く揃えて置いてきただけなんです.そしてこの環境庁職員にあるまじき行為に対する報いは残り5カ所の調査を靴下のみ,靴無しの裸足にサンプルを入れるビニール袋を履いて行うという荒行であった. (1994.6)

源は汗と涙と思い出と
3回目は9月である.最後の悲劇の場所は綾瀬川と古綾瀬川の合流点,綾瀬新橋の下であった.流石に前2回の悲惨な経験から多くを学んだし,暑い時期でもあり,今回は移動用には裸足にサンダル履きとして調査用のゴム長を車のトランクに積んで出発した.9月初旬の残暑は厳しく,裸足で履くゴム長は蒸れて気持ち悪いが調査自体は快調であった.鬼門の槐戸橋を終えて,何の心配もなく6番目の綾瀬新橋へ着いたのは11時過ぎである.

橋の脇に車を止めてゴム長に履き替えると,既に中はムレムレでツルツルしていた.それでも気にせず川岸へ下りる.ここは7地点の中で最も汚い地点であると共に,最も粘土質の泥が溜まったところである.古綾瀬川の水を汲むには護岸から河原の粘土に下りて20mほど上流へ遡らなくてはならない.酸欠で黒くなった粘土というより腐泥の中には投棄された自転車やビール瓶が埋もれている.「あぶね〜な〜,川にゴミ捨てんなよな〜.」足場を選んで一歩一歩慎重に遡行,そして採水.力一杯バケツを投げて,ロープで回収.流れるように作業を終えて,さあ帰ろうと思ったのだが右足が動かない.粘土の中にゴム長が沈んで抜けなくなってしまったのだ.右手には野帳とpHメータ,左手にはサンプル瓶とバケツとロープを持っているから手を使って抜き出すことはできない.仕方なく足先を曲げて引き上げようとしたのだが,汗で滑って全く抜けない.それどころか手に持ったサンプル瓶が滑り落ちそうになってきた.気は焦るばかりで上手くいかない.とうとう力任せに引き抜いてみたが,予想通り抜けたのは汗まみれの足だけだった.兎に角,荷物を安全な護岸まで運ばなくては.仕方なくゴム長の左足と裸足の右足を交互に動かして20m先の護岸までようやく辿り着いた.

さて,ゴム長を救出に向かうか.でもそのためにはまた最悪の泥の上を裸足で歩かなくてはならない.暑くて,臭くて,悲しくて,そして恥ずかしくて,根性が失せるのは時間の問題だった.もういいや.この川で1.5足目となる靴を見捨てて,橋の袂の護岸に座って,最悪の粘土でドロドロになった右足をその汚い泥の上を流れてきた最悪の川水でゆっくりと洗った.心の涙と,ムレムレの足の汗と,そしてすべての嫌な思い出が流れていくように.一級河川綾瀬川の一部となって流れていく私の汗と涙と嫌な思い出.さようなら.こうして川は色々なものを集めて,今日も流れていく. (1994.9)



湯の湖 (ランク:名水)

現在の職場に来て初めて出た現場が湯の湖である.この湖は奥日光にあり,中禅寺湖から戦場ヶ原を抜けて群馬県境へと登り始めたところに位置している.湖とは名ばかりの周囲4km程の小さな池であるが,湯元温泉郷,湯元スキー場と観光資源に恵まれ,沢山の観光客で賑わっている.とりわけ多いのが林間学校の小学生である.

最初の調査は85年5月の連休明けであった.研究室の先輩に無理矢理連れていかれて,ボートから泥の採取,流入河川と湧き水の採水,湖岸の下水処理場の排水の採水,そして湯滝の手前で流出水の採水と流出量の測定であった.雨の中でボートに乗って泥を採っていると,周囲の遊歩道を列を作って散策する遠足の小学生から声がかかる.「おじさ〜ん,何してるの〜.」なめたガキ共である.27才の若者にものを聞くのにおじさんはないだろう.「お兄ちゃん達は水の調査してるんだよ〜.」しかし奴らは観光バスを何台も仕立ててきているのである.数百人が1列縦隊で歩いてきて,同じところで立ち止まり,木霊のように同じことを聞いていくのだ.人が変わればこちらの忠告も意味を成さない.なめた聞き方は同じままである.ふざけるんじゃない.ガキは花や鳥を見て,大人しく歩いていればいいんだ.

その後さらに何回か先輩の付き合いで出かけたが,翌々年の4月初めが最後となった.湖面には氷が張ってその上に雪が積もっている.長靴を履いた足で雪を掻き分け,氷を割って湖へと入っていく.氷に隠れて見えなくなっている湧き水の出場所を求めて,長靴の口から水が入らないようにゆっくりと湖岸沿いに歩いていく.寒さで足先が痺れてくる.背後の山の斜面からはスキー場のBGMと女の子達の歓声が聞こえてくる.自分の背後には幸せな世界,きっと入水自殺する人って,こんな感じなんだろうな.そんなことまで考えてしまう,侘びしい調査のフィナーレだった.

都合5,6回の調査で現場での作業の仕方を覚えたのだから,この湖には感謝すべきだろう.でも,やはり調査はアウトドアである.アウトドアの成否はシチュエーションだ.場所と時期そして同行者は選ばなくてはというのがここでの一連の調査で手にした最大の収穫である. (1995.1)



八郷町の谷地田 (ランク:迷水,一部は論外)

土浦から国道6号を北上し,恋瀬川を渡って国道365号へと入って暫く行くと,筑波山の東側,そして筑波山から南東に派生する風返峠から不動峠へと続く尾根筋に囲まれたような地区に入っていく.その入り口にある羽鳥の町の隣に八郷町山崎の集落がある.ここには1986年正月から3年間,休耕田の芦原で生活排水を処理する実験を行っていたモデル地区がある.

台地の外れにある小さな谷筋の上流側に25軒,谷に面した斜面の桑畑の奥に20軒の一戸建てがミニ開発された住宅地があり,そこからの生活排水が側溝を通して休耕田の横を流れる小さな沢へと流れ込み,最後は園部川から霞ヶ浦へと注いでいる.この生活排水を谷筋にある休耕田に流し込んで浄化してみようという実験であった.

最初は1986年正月,プロジェクトリーダーの室長と,ここでの実験を取り仕切る先輩と共に下見に出かけた.下見ゆえ,特に着替えも長靴も持たず,研究所のクラウンに運転手さんを付けて優雅なドライブのつもりだった.ところが,最年少ゆえ,休耕田のあっちこっちと見に行かされ,挙げ句に畦を踏み抜いてズボンの膝から下が泥だらけ,「所長の送迎用クラウンにその格好で乗る気か」と運転手さんからは怒られるし,近くの民家で水道を借りて洗ったら,寒さで凍り付くし,えらい目にあったというのが第一印象である.

2回目は1986年3月初め,いよいよ本格的な調査の開始で,この時には上流側25軒から出る生活排水の量を側溝の最下流部で,さらに谷の側面からの水量を休耕田横の沢で10分おきに測定した.10分おきに24時間というと結構な労力ゆえ調査会社に協力を頼んで,先輩と3人で朝10時から測定を始めた.昼の内は良かったが,夕方,日が陰ると一気に気温が下がる.しかし,気温の寒さと共に,排水の暖かさに驚いた.17時を過ぎると辺りの家に電気が灯り,排水には味噌汁や醤油の臭いが混じるようになる.そして20時を過ぎると今度はやけに暖かい排水がシャボンの臭いの湯気と共に溢れるように流れてくる.それでも23時を過ぎると家々の電気も一つまた一つと消えてしまい,側溝には水は流れなくなる.ようやく慌ただしさも一段落して,調査会社が回してくれたワゴン車の中で1時間ずつ交代で仮眠しながら調査を続けた.外に出ると空にはオリオン座がきらめき,25軒の家々に囲まれながら真っ暗で物音一つしないなんとも寂しい調査だった.それでも時折,民家の電気が1カ所つくが,すると少しして,ちょっとだけ水が流れてくる.誰かがトイレに立って,洗面の水道を開いたのだった.一方,斜面から浸み出した沢水は一晩中流れ続け,さらに明け方近くになってガマガエルが大量に現れて蛙合戦状態になった.徹夜で調査しているそばから,おまえらは何をやっているんだと嫌な夜明けだった.側溝の排水は朝6時には流れ始めて,7時から8時過ぎには食事の臭い,そして9時を過ぎると大量の泡立った水が流れるのだった.

その後は,地元住民への説明会,休耕田へのアシやガマの植栽と進めて,夏から本格的な調査となった.二ヶ月に1回,同じような24時間調査を繰り返した.最初は嫌だなあと思っていたが,季節変動が得られて論文になりそうな結果が増えてくると,何となく楽しくなった.結局,24時間と短時間調査を合わせて40回くらい通っただろうか.夏には夜になるとセミの幼虫が羽化していたり,台地の上の養鶏場から堆肥の臭いが流れてきたり,冬には雪となって水路が霙のように凍ったこともあった.私の初めての本格的な環境調査の論文はここでのこの時の結果によるものだから,今となっては懐かしい青春時代の思い出でもあるし,このプロジェクトには感謝している.それでもこの調査地の評価は迷水であり論外である.それはやはりあの最初の24時間調査の際の暖かな排水のシャボンの臭いと,そして夏場に排水桝の中でヘロヘロと泳ぐアブの幼虫の大量発生を見てしまったからである. (2008.4)



千曲川(信濃川)水源 (ランク:銘水)

1986年11月最初の週末に,久里さんと富士さんと3人で出かけたのが奥秩父の名峰甲武信岳であった.金曜夜に新宿駅に集合,山岳夜行で小淵沢へ,翌朝始発の小海線で信濃川上まで移動する.駅前で毛木平までのタクシーを探すが,あいにく出払っているので駅前で小休止.インスタントラーメンが煮えた頃にタクシーが戻ってきて,相乗りで入山となった.

毛木平からは東沢に沿って東に進むと主脈から北に派生する武信白岩の尾根の中心となる十文字峠,西沢に沿って南へ進むと千曲川水源から主脈へと一直線の登りとなる.今回は西沢沿いの道を上っていく.9時半に歩き出して1時間,見たこともないようなきれいなナメ滝が現れ,小休止.さらに1時間上がったところで昼食休憩とした.あまりの天気の良さと夜行明けの眠気に,思わず沢の中の岩に上ってトカゲを決め込んで1時間ほど昼寝をした.そして,いよいよ道は落葉松の林の中へと入って主脈への急登となっていく.

「千曲川信濃川水源地標」と書かれたモニュメントは鬱蒼とした落葉松の林の斜面に,ひっそりと立っていた.辺りは薄暗く湿っているが,沢は見えない.最初の1滴は厚く積もった腐葉土の下を流れているのだろう.日本一長い川の最初の一滴が,いま自分の足下を流れ始めるのだ.小さな流れがきれいなナメ滝となり,幾つもの川を合わせて大河となって日本海に注ぐのは何日後なのだろう.落葉松がキラキラと吹雪く中で飲んだ,ナメ滝で汲んできた水は刺すように冷たくて美味だった. (2008.4)



赤城山大沼小沼 (ランク:名水,個人的には論外)

赤城山は大きな裾野を持つ外輪山の中に幾つもの火口丘がそびえ立つ複式火山である.このカルデラ内の頂上付近にある二つの火口湖が大沼と小沼である.なお,これらは「おおぬま」「こぬま」ではなく,「おの」「この」と読むのが正しい.大沼は湖岸まで自動車道が達しており,売店や貸ボートがあるような観光地であるが,小沼は人気のない小さな沼である.

この湖の調査に出かけたのは,1996年11月,所属していた化学物質健康リスク評価研究チームの特別研究が最終年度となっていた時であった.次年度以降の研究テーマの発掘を兼ねて,湖の底の泥の歴史的な検討ができるかどうかを確認しようという目的で,予備的な調査を始めたのだった.室長と,二人の学生さんと四人で出かけたのは,紅葉も見頃となった晴天の秋の日であった.

調査自体には特に感想はない.そもそも予備的に場所の選定を目的としたものであったのだから,現場を見るだけで充分であった.水は特別汚くもなく,調査をするのに不満もなかった.ただし,この調査には個人的に大いなる不満があって,二度と行きたくない調査対象となったのである.ことの発端は研究所を出るのが少し遅くなったことであった.運転手として車を出した私は,遅れを取り戻すため,いつもの国道125号ではなく,県道筑波吉沼線に入った.そして,下妻方面へ曲がろうとする直前の交差点で,突然車が大きな振動を起こしたのだった.慌てて路肩に止めると,左後ろのタイヤからシューっという大きな音がしている.なんと,タイヤの横っ腹に大きな鉄片が刺さっていたのだった.大急ぎでテンパーに取り替えたが,大人4人に調査道具を積んで,赤城山往復はとてもできない.仕方なく,古河の手前でタイヤ屋に乗りつけ,新品のタイヤを購入となった.新車で購入して4ヶ月,まったくなんてこったであった.

しかし,悲劇は一度で終わらない.赤城山からの帰り道,国道50号で眠気覚ましにガムをかんでいたらぽろっと歯が抜けてしまった.同乗の三人は笑い転げているが,痛いし,血は止まらないし,まったくなんてこったであった.

となると,二度あることは三度ある.不幸というのは連続するから不幸なのである.なんとなく悪い予感をしながら,でも二回で止まったかなと思って家に帰って着替えをしようとしたら,靴下の先にでっかい蛾の死骸がくっついていた.どうやら昼に蕎麦屋で靴を脱いだ時に,断りもなく靴の中に入ったらしい.まったくなんてこったであった.

こうして,予定通り不幸を三回繰り返して,赤城山の調査は終了した.この論外の湖へはその後一度も行っていない. (2002.10)



神津島天上山からの谷川 (ランク:銘水)

大学3年から大学院の4年目までの6年間,仲間とスキンダイビングの合宿に出かけたのが伊豆七島神津島である.伊豆七島は夏場は海水浴のメッカとして有名であったが,特に新島はナンパスポットとして有名で,サーフィン野郎が昼は波,夜は女の子に乗りまくっているとのもっぱらの噂であった.神津島もその方面では結構有名で,神津島村のある前浜の海岸の渚橋は「なんぱばし」と振り仮名が振られる位だったらしい.「らしい」と他人事のように書いたのは,我々は真面目にスキンダイビングをするため,村とは反対側の多幸湾に一軒だけポツンと建っていた国民宿舎多幸湾ロッジに宿泊していたからである.昼間は村とのバスがあって,ビキニのお姉さん達が泳ぎに来るが,夕方4時にはバスがなくなってしまうため,日が傾くと浜には人っ子一人いなくなっている.よって,例え昼間に色よい返事を貰っていたとしても,夜のスキンダイビングは不可能というものである.

さて,伝え聞いたようなナンパ話はさておき,この島の特徴は島の大きさの割に標高の高い天上山が聳えていることである.このため山の頂上付近では毎日のように雨が降っており,島の四方八方に谷川となって流れている.多幸湾にも天上山からの渓流が流れてきており,炊事から風呂やシャワーに至るまでこの水が使い放題であった.ロッジの管理人のおっさんの話では,高い山のない新島では水不足のため民宿の風呂は週1でしか交換しないから,湯船の下に砂が堆積しているとのことだった.神津島では水がありすぎて簡易水道の水栓は開けたままである.閉めると圧力がかかって壊れてしまうのだそうだ.なんとも贅沢な話であるが,その水がまた,真夏の一日を遊びまくって火照った身体には凍えるほどの冷たさだったこと,乾いた喉にえも言えぬ旨い水であったことが印象に残っている. (2008.1)



手賀沼 (ランク:迷水)

日本中の人が知っている位,手賀沼という名前はメジャーである.ただし,いい意味ではなく,日本一汚い湖沼としてであるが・・・.20数年前にこの職場に来て,まずは手始めに水質汚濁の歴史について勉強を始めたのだが,新聞記事によれば手賀沼には柏,我孫子といった東京通勤圏の新興住宅地から大量の生活排水が流入し,大量のアオコが発生したのだそうだ.湖畔の坂の中腹にある我孫子市役所は夏になるとアオコの腐敗臭で窓も開けられない状態だったそうだ.私が初めて調査に行ったのは1985年の夏で,悪名高いアオコはやはり大発生していた.湖面は一面にペンキを流したような緑色で,風と波で岸辺に打ち寄せられたアオコはストローのように巻き上がるほどの密度だった.

最初の年に2回ほど先輩の調査の付き合いで出掛けたが,船外機付きのボートで湖面を走ると意外と風光明媚,特に手賀沼大橋よりも下流側は開発も進んでおらず,のんびりとした雰囲気だった.

本格的に通うようになったのは1987年からだった.研究室の室長が替わって,生活排水の窒素とリンから陸水学的なアオコの発生要因にテーマが広がり,溶存する銅の濃度を測ることになって毎週通うようになった.とは言っても,船で湖面に出た訳ではなく,大橋下にあったボート屋さんに車を停めて,大橋の真ん中からロープを付けたバケツを降ろした.瓢箪形をした沼の中央のくびれの上で上流と下流を見ると,どうして結構大きな沼であることがよく分かった.

2年ほど,毎週のように通って,その後はすっかりご無沙汰だったのだが,再び調査に向かったのは15年ほど経った2003年のことだった.同室の土井妙子さんと,底泥に分布している化学物質の年代測定をしてみようという計画だった.まずは下見ということで二人で出掛けてみると,なんと手賀沼大橋は位置を少しずらして新しいものに掛け替えられ,橋の袂にあったボート屋さんは跡形もなかった.橋を渡った先には道の駅と日帰り温泉ができて,それこそ秩父路か日光かと思うような驚くべき観光地化であった.仕方なく沼を半周して別のボート屋さんに入って話を聞き,ついでに大堀川と大津川の水を汲んで帰途についたが,あまりの変わりように声もなかった.後で千葉県の環境センターにいる大学の先輩に聞いたところでは,県や柏市などが下水道や浚渫など積極的に浄化をはかり,水質自体もかなりの変化を遂げているようであった.

ところで,初めてこの沼に調査に出掛けた時に,下流からの放水路に更に下流で合流する小さな流れがあること,これを南手賀沼と呼んでいることを教わった.その時には天気が悪かったために近くまでいっただけだったが,台地を一つ跨いだ谷筋に,沼とは名ばかりの用水路のような流れがあるのが分かった.昨年,偶然近くを通った時に寄ってみたら,この南手賀沼の辺りは今でも鄙びた雰囲気を残しているのが分かった.これからもあんな雰囲気が残っていけるのだろうか,ちょっと心配ではある. (2008.4)



外房茂原の深井戸 (ランク:公表不可)

心ならずも地下環境研究室に移動し,室長から外房茂原の地下水調査を誘われたのは2002年春のことだった.外房茂原は地下から天然ガスが発生しており,これを採集するために2000M規模の深井戸があちこちに掘られている.当時の室長は地盤沈下や液状化が専門のため,深井戸の中の層構造に興味はあるのだが,水質の化学分析は詳しくない.そこで私が誘われたのだった.

室長と共に打ち合わせに出かけて幾つかの井戸を回ったが,いずれも直径10cm位の鉄管であった.素人としては,井戸というのはバケツが入るような太さという印象があるが,この既成概念が完全に覆された.となると,はたして2000M下の水はどうやって汲むのだろう.これが疑問であった.この疑問が解けぬままに,6月には調査に出かけた.井戸を保有する会社の人たちと共同での作業となったが,水汲みはタイマーの内蔵された専用のステンレス製採水器を管上からワイヤーでつり下げて行うとのことだった.まるでヤリ投げのヤリのようなステンレスの採水器には小窓があって,これをタイマーで自動開閉するのである.2000Mともなると安全を見越してタイマーも15分などというスケールになる.投入に10分,採水後にウインチで巻き上げるのに15分,全体で30分以上かかるという大変な操作であった.引き上げたステンレス管を解放すると,天然ガスが泡となって放出され,その後にお目当ての地下水が現れる.これをポリ瓶に詰めて,急いで研究所に帰って成分の分析を行った.

外房茂原の天然ガス採取用深井戸の水についての記述は,ここまでである.分析結果も得られたし,現場での個人的な感想もメモしてある.しかし,調査から2週間後に茂原地区の天然ガス開発企業体から,「当企業体の保有する井戸に於いて採水した試料の分析結果を公表することは認められない」との申し入れ文書が一方的に送られてきたからである.様々な場所で調査を行ってきたが,水質のみならず世の中には色々あるんだなあということのみ記載して,申し入れ文書に従うこととする. (2002.7)



東京理科大2号館の排水桝 (ランク:論外)

今でこそ水環境の専門家のような顔をして仕事をしているが,何を隠そう,研究所に来るまで本格的な環境水の測定なんぞやったこともなかった.唯一の経験といえば東京理科大2号館の排水桝の水を汲んだことである.大学院の4年目の頃だったか,下水道局の査察の際に化学系研究室の廃液垂れ流しが発覚した.事態を重く見た大学当局は排水処理委員会を通して,2号館排水のpH測定を行うことにしたのである.ちょうど私の指導教授が排水処理委員だったこともあり,研究室の大学院生が分担して測定を行うことになった.水汲み用の真新しい柄杓を購入し,月1回の測定と相成ったが,調査とは名ばかり,柄杓の中の排水にpH試験紙を浸すだけの操作を数回やっただけで終了した.何のことはない,垂れ流し事件に便乗して,アルバイト料を貰ってままごとのような簡易測定をしただけのことであったが,それでも,自分たちの出している排水がいかに汚いものなのかを体験する良い機会になったのは確かである. (1997.10)



仁科川 (ランク:銘水)

仁科川は狩野川と並んで伊豆の鮎釣りのメッカとして知られる清流であり,天城山と長九郎山の間の稜線上の仁科峠を水源としている.そして,私の父の出身地は,この川の中流域にある小さな村である.私が初めて川遊びをしたのは,父の故郷のこの川である.父の実家へ初めて訪れたのは4歳の頃で,この時は川遊びはしなかったのだろう.川遊びの記憶があるのは,6歳の頃からである.

今でも私の記憶のアルバムには,この川での様々な出来事が仕舞われている.箱メガネで川底を覗きながら,小さなタモ網を被せて川ハゼを捕るボッチャ捕り,河原の石を集めて積み上げ,川の流れをせき止めて魚籠に鮎を追い込む川ッポシ漁,毛針を使った鮎のドブ釣り・・・.捕った魚を河原の焚き火で焼いて食べる時に感じた野生の息吹,酒と醤油と砂糖の煮立った鍋に,捕ってきたボッチャを生きたまま入れた時の鍋蓋にぶつかる断末魔の音,小さな堰の下でウナギを追いかけていて滝壺にはまった時の恐怖・・・.水を吸った箱メガネの独特の臭い,早く泳ぎたい気持ちを抑えて水中メガネを草の汁で磨く時のはやる気持ち・・・.この川は私の川遊び,水仕事の原点である. (1997.10)