「環境にやさしい」抽出系の開発
1 はじめに
「水と油」と言えば相容れないものの喩えとして何となくネガティブな印象の言葉であるが,この二つの溶媒を積極的に組み合わせて有効な分離・回収法としたのが溶媒抽出法である。読者の多くは学生時代に分析化学実験で,キレート試薬を用いた重金属イオンの溶媒抽出−吸光光度法を行った経験をお持ちのことと思う。環境ホルモンをはじめとする環境分析の前処理でもジクロロメタンなどによる溶媒抽出操作が含まれているし,有機合成の場でも生成物の回収に溶媒抽出操作は必須である。このように溶媒抽出法は化学の基本操作の代表と言えるものなのである。
しかし環境負荷の低減を目指す化学(グリーンケミストリー)が重要視されるようになって状況は変わった。溶媒抽出法で使用するクロロホルムやベンゼンなどの有機溶媒の多くは発ガン性などの毒性,引火性などの危険性を有しているために「環境にやさしい」操作法とは言えないからである1)。そこで溶媒抽出法の利点を維持しながら,有機溶媒の代替となる「環境にやさしい」抽出法の検討が行われている。本稿では最近報告されている幾つかの代替抽出系について,その特徴と課題を整理してみることとする。
2 代替抽出系に望まれる能力
まず初めに溶媒抽出法はどのような原理に基づく分離・回収法なのかを簡単に説明してみよう。水と油という全く性質の異なる二つの溶媒間の溶質の分配平衡は,それぞれの溶媒への溶質の馴染み易さ(親水性,親有機性)と馴染み難さ(疎水性,疎有機性)という4種の因子に支配されている。馴染み易さとは溶質が溶媒とどれだけ大きな相互作用(水素結合や溶媒和など)を持てるか,馴染み難さとは溶質が溶媒−溶媒相互作用(水や溶媒が作る網目構造など)からどれだけ疎外されるかと言い替えてもよい。水と油の二相間での溶質の分配平衡はこれら4種の力のバランスで定まるのだが,これらの力は溶質の構造や性質によって異なるため,分配平衡は溶質ごとに固有の値となる。この違いを利用した分離操作法が溶媒抽出法なのである。
有機溶媒に代わる抽出媒体を開発するにあたっては毒性や危険性などの面で「環境にやさしい」媒体であることは言うまでもないが,上述の分配の原理に基づく分離・回収効率と同程度の性能を有することが必要である。さらに溶質の抽出や両相の分離操作が手早く簡便であることも実用上必須条件といえる。溶媒抽出ではキレート形成のような化学反応を伴わない場合には両相を数秒から数分程度激しく混合するだけで分配平衡に達し,比重の異なる水と有機溶媒を組み合わせているので静置または遠心分離で素早く相分離が可能である。新たな抽出系でもこのような迅速かつ簡便な操作性が望まれる。また,目的の溶質を共存する物質から分離・回収したり濃縮したりできることも分離分析法への応用に際して重要な要素となる。このような条件を満たす代替媒体にはどのようなものがあるのだろうか。
3 代替抽出系の候補達
早くから研究がなされてきたのが,ミセルを利用する方法である2,3)。ミセルは水中で数十から数百個の界面活性剤分子が親水性部(オキシエチレン鎖や荷電部など)を外側に,疎水性部(アルキル鎖など)を内側に向けて凝集したラグビーボールのようなものである。熱力学的に非常に安定で,しかも疎水性部が作る内部の空隙に水に難溶の溶質を溶解することができる。この可溶化能力を代替系として使用するのである。ミセル溶液は微視的には二相系であるが,均一水溶液と同様の取り扱いができるため,抽出操作は機械的振とうを要せず放置だけでよい。そのため,キレート抽出−吸光光度法のように水に難溶の溶質の溶解度のみを上昇させればよい場合には有効な操作法である。しかし環境ホルモンの分析のようにHPLCやGC/MS測定の前処理で使用するには,溶質を取り込んだまま水溶液中に分散しているミセル相を回収しなければならない。擬似的均一溶液であるミセル溶液を水相とミセル相に分離するにはそれなりの労力を必要とする。
ミセル相を分離するには曇点を利用するのが一般的である。非イオン性界面活性剤は曇点と呼ばれる温度を境にして水への溶解度が著しく変化し,曇点以上に加熱すると濃厚界面活性剤相と水相に分離できる。この方法では曇点が室温に近いトリトンX-114やトリトンX-100などが広く用いられており,金属キレート錯体や有機化合物を濃厚界面活性剤相に濃縮し回収した報告が多くなされている。また,単一の界面活性剤ではなく,幾つかの界面活性物質を混合することで分離性能を向上させる研究もなされている。一方,限外濾過によってミセルを濃縮する方法も報告されている。この方法では非イオン性界面活性剤のみならず陽イオン性,陰イオン性の界面活性剤によるミセルも使用可能であるが,あくまでもミセル溶液を濃縮しているに過ぎず,濾過に要する時間も長い。また,これらの方法で分離された界面活性剤相の体積はかなり大きいため,濃縮法としての利用には限界がある。さらに,共存する大過剰の界面活性剤をどのように処理するかが以後の分析の精度などに大きく影響する可能性があること,界面活性剤の多くは環境汚染物質であることを考慮して分解性が高く毒性の低いものを使用する必要があることなどに注意を要する。
1990年代に入ってからミセル系の曇点抽出に類似した方法として注目されるようになったのがポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)に代表される感熱性高分子の利用である4)。この高分子は常温では水溶性であるが,臨界温度(LCST)以上では相転移を起こして不溶となりガム状沈殿として析出する。この際に水中に共存していた疎水性の溶質を沈殿内部に取り込んでしまうのである。抽出操作はミセルの場合と同様に極めて簡単であり,LCST(約40℃)以上まで加温した後に析出してきた沈殿を効率よく凝集させるために10秒ほど振とうするだけでよい。生成した沈殿は容器の壁に付着するので,上澄液を傾斜法により分離することで相分離が完了する。このガム状沈殿はLCST以下の温度では水やアルコールなどに再溶解することができる。この際に要する溶媒の容量は元の溶液の1%以下で充分なため,濃縮効率はかなり高い。この方法を用いて多環芳香族化合物や脂質等の生体関連物質など様々な化合物の抽出が報告されている。この高分子は細胞培養の培地にも使用されており,安全性が高いと考えられるのも利点と言える。しかしこの方法でもミセル系と同様に水相から分離した抽出回収相に残存する高分子の測定への影響が問題となろう。
最近になって研究例が増えてきたのがイオン性溶媒を使用するものである5)。イオン性溶媒とはイオンのみからなる液体であり,以前は溶融塩のように高温状態でのみ存在する特殊な液体であったが,最近になって常温でも液体として存在する有機イオンが合成されるようになった6)。イオンとは言うものの合成の際に様々な疎水性置換基を導入することで水に不溶とすることができ,従来の有機溶媒と同様に扱えるものが既に作られている。代表的なものに1-ブチル-3-メチルイミダゾリウム・ヘキサフルオロリン酸塩があり,金属キレート錯体や有機化合物など水に難溶の溶質を抽出できることが報告されている。イオン性溶媒は蒸気圧がゼロであるため高温でも蒸発しないことから,有機溶媒のような揮発に伴う健康や安全に関する問題は起こらない。この方法ではミセルや感熱性高分子と異なり二相系であるから,溶媒抽出法と同様に振とうして抽出し,比重差で相分離する。操作性もよく,様々な溶質について有機溶媒による抽出と同様の抽出・分離性能を示すことから今後の発展が期待される。しかし溶媒に揮発性がないため,一旦抽出した溶質を濃縮したり回収したりするのが難しい点が問題と言えよう。また,ルーチン分析で使用するには今のところコストが高めであることも問題である。以上述べてきた各抽出法の特徴を表1にまとめて示す。
表1 様々な抽出法の特徴の比較
抽出媒体 抽出操作 相分離 溶質の濃縮 溶質の抽出媒体からの回収(注1) 問題点 有機溶媒 振とう 放置または遠心分離 水−溶媒の体積比で濃縮可能
溶媒の揮発濃縮が可能蒸発乾固 安全性 ミセル 放置 加熱または限外濾過 ミセル相への濃縮比は低い 難しい 低濃縮率
溶質と界面活性剤の分離が難しい
界面活性剤の安全性感熱性高分子 加熱後振とうして沈殿析出 傾斜分離 沈殿への濃縮比は高い 難しい 溶質と高分子の分離が難しい イオン性溶媒 振とう 放置または遠心分離 水−溶媒の体積比で濃縮可能
溶媒の揮発濃縮は不可能高蒸気圧化合物は揮発回収が可能 低濃縮率
高コスト注1: ここでの回収とは抽出された溶質をそのままの形で媒体から取り出すことを意味している。溶質が金属キレート錯体の場合には,いずれの系に於いても抽出媒体相を酸で洗浄して錯体を解離させることで金属イオンとして回収することは可能である。
4 おわりに
有機溶媒を用いた溶媒抽出法の代替となりうる幾つかの方法について,その特徴と限界を比較してみた。この他にも超臨界抽出や固相抽出など様々な方法が検討されている。しかし現状ではすぐに溶媒抽出法に取って代わるほど使い勝手のよいものはなかなか開発されないのも事実であり,改めて溶媒抽出法の簡便さや効率性を知らされた気もする。本稿に取り上げたような方法がさらに発展して,環境負荷の少ない究極の抽出法が開発されることを期待したい。
参考文献
1) 辰巳敬,化学と教育,47, 378 (1999).
2) W. L. Hinze and E. Pramauro, Critical Rev. Anal. Chem., 24, 133 (1993).
3) 荒巻賢治,化学と工業,55, 55 (2002).
4) 齋藤徹・松原チヨ,JASCO Report, 40,5 (1998).
5) J. G. Huddleston et al., Chem. Commun., 1998, 1765 (1998).
6) 大野弘幸,化学と工業,55,869 (2002).
稲葉 一穂 INABA Kazuho
(独立行政法人国立環境研究所 水土壌圏環境研究領域 主任研究員)
[連絡先] 305-8506 茨城県つくば市小野川16-2(勤務先)