関根達也先生の思い出


初めて関根先生にお目にかかったのは1979年2月だった.応用化学科3年の筆者は卒研の所属を決めかねて,化学科の先生を訪ねたのである.お忙しい中を他学科の学生相手に1時間以上も研究や進路のことを丁寧にお話下さったこと,教授室は使わずいつも実験室脇の机で学生の仕事を見守っておられることが印象的だった.(もっとも机の上には先生を引きつけて止まない禁断の果実AppleUが置かれていたのだが….)そしてこれがご縁で卒研からの6年間を関根研究室で過ごすことになった.

卒研で抽出平衡のイロハを学んだ後,大学院で頂いた課題は鉄(V)のβ-ジケトンによる抽出速度と経路の解明であった.抽出剤や錯体が有機相にストックされることを利用して,単一水溶液では実験不可能な難水溶性錯体の水相中での生成速度を測定する手法はArizona大学のFreiser教授らによって既に確立されており,当初は楽勝で修士研究が終了すると思っていた.しかしいざ実際に測定するとどうも様子がおかしい.同じ反応でも条件によって反応次数や速度がバラついてしまうのである.これはFreiserらが用いた工業用抽出剤と異なり,低分子量の抽出剤では抽出可能錯体の分配定数が小さく,生成した錯体の一部が水相内に残ってしまうためであった.原因を解明し補正式を提案するまでに3年かかったが,研究の面白さと難しさを学ぶことができた.

当時は長谷川助教授(現教授)の独立,研究室の移転,そしてパソコンの導入など研究環境が大きく変化し,先生ご自身も従来の抽出平衡から抽出速度や有機溶液中での錯形成や酸化還元反応へと研究内容を移行され始めていた時期であった.実験室では鉄(V)やクロム(V)の溶媒和型有機溶媒への抽出機構,β-ジケトンのケト-エノールの分配速度の差から起こる鉄(V)や銅(U)の抽出極大現象,そしてコバルトやマンガン錯体の有機溶媒中での酸化還元反応など,その後の関根研の中心課題となる研究が精力的に行われ,芽吹き始めていた.先生は20人の室員のデータにくまなく目を通し,学部と大学院の授業と毎週の試験の採点と,毎朝8時から12時間営業であった.そんなお忙しい中でも筆者が設備の関係で徹夜実験(事故防止のため先生の方針で本来は禁止だった)をした翌朝には大学の開門と同時に駆け込んでこられる.「無事に終了ですか?」いつもよりもさらに速い足音には,弟子の無事故を願うボスの愛情と実験結果を早く知りたいという学問への情熱が溢れていた.

いよいよ就職という時に餞として頂いたのが「毎日3時間は勉強しなさい」と「自分の発見を世界の財産にするために,苦しくても英語の論文にまとめなさい」であった.1985年に筆者は国立公害研(現国立環境研)に就職したが,生活排水調査の担当ではなかなか恩返しの機会もなく,それどころか汚染物質の分離法をご指導頂くために客員研究員(1987-1990)をお願いする次第となった.この間,筆者のフィールドである霞ヶ浦や手賀沼,団地の排水桝の調査などにご案内した.溶液化学の研究とは勝手の異なる現場の汚い水を,歓声を上げて覗き込まれていた好奇心あふれるお姿が忘れられない.そして霞ヶ浦での銅と有機物との相互作用とアオコ発生要因に関する論文が先生との最後の共著となった.

1999年春に,「新しい職場は応用化学科ですから環境問題にも力を入れないと…」とのお話を伺って,漸く不肖の弟子にもチャンス到来と喜んだのも束の間,恩返しの機会は永遠に巡ってはこなかった.今は,先生の真摯な生き方を模範として,よい研究をすることが唯一の恩返しと考えている.
(国立環境研  稲葉一穂)