書かなかった関根先生の思い出
関根先生は分析化学を志した私の第一の恩師である.先生からは,化学者としての心構えや化学者としてのものの考え方を教えていただいた.でも先生に教えていただいたのはそれだけではない.研究室の中でも外でも様々な場面で,随分色々なことを教えていただいたと思っている.研究の指導については「ぶんせき」の追悼文集に記載したので,これとは異なる面からの関根先生の思い出を残しておきたいと思って追記する.
K会場とステーキ
初めて学会に参加したのは修士1年の1980年6月の高知大学での分析化学討論会だった.やはり初めての発表となる修士2年の今野裕行さんと一緒に学会初日に間に合うように鉄道で高知に入り,1日目から会場に出向いた.関根先生は初日の朝に飛行機で高知に入って,会場で最後の打ち合わせをする予定だったが,来られていなかった.会場で知り合いの先生から,「天候不良で飛行機が松山空港に向かったようだ」と話を聞いてびっくりした.結局,初日には会うことができず,初めての発表をする二人は「もし,先生が来られなかったら・・・」とビクビクしながら前夜を過ごした.
発表当日に会場で先生の姿を見つけたときには私も今野さんもホッとしたが,先生は「大丈夫だよ.君らの研究だろう.自分でやってごらんよ」と笑って言われた.そして発表は無事終了.すると,「では初めての発表が上手くできたお祝いに,K会場にでも出かけましょうか.」会場はDまでしかなかったはずなのにと首を傾げていると,「折角高知まで来たんだから,桂浜くらい出かけましょう」とのこと.K会場とは学会をエスケープして桂浜観光のことだった.普段は学生に対していい加減なところを見せない先生であったから,この申し出には驚いた.初めての学会出席でオタオタしている我々二人を救出しようという温情だったのだろう.
そしてK会場からの帰り道に,「君たちは今夜も高知泊まりですか」と聞かれた.「そうです」と答えると,「では,夕飯はステーキでも食べに行きましょう」と誘って下さった.市内のレストランを探し歩いて,大きなホテルのレストランに入って御馳走になったのだが,ご自身の学生時代やスウェーデン時代の思い出話をされるなど大学で見慣れた厳格なイメージとは違う先生を垣間見ることができたのだった.
器具破損届け
私が卒研生として入ったのは1979年,指導教官は関根先生の他に,長谷川講師,村井助手,日下部助手の4人で,学生が院生と卒研生合わせて19名という大所帯だった.貧乏私立大学の研究室であるから,当然のこととして装置も器具も潤沢とは言えない.装置は朝から順番に使い回すのだが,ガラス器具は一度使ったら所定のコースで洗浄しなければならず,分捕り合戦が激しかった.
そんな中,この年は粗忽者が多く,やたらと器具を壊すのが続出した.最初は関根先生も会計担当の村井さんも笑って見ていたが,春から夏になるにつれて,しだいに笑顔が引きつってくる.そして極めつけは院生某氏が石英の吸光度セル16本の入った箱を落として20万以上の損害を出したことだった.ここに来ていよいよ非常事態.長谷川さんの発案で,器具を壊した人は破損届けを書くことになった.
最初の内は神妙な顔をして大学ノートにちょろちょろと反省の弁を書くだけだったのが,いつの間にか書くことが趣味の人間が集まって,ガラス管の蓋を1個壊したくらいでノート3ページなどという大それた始末書が続くようになった.関根先生は,「本末転倒とはこのことですね」と笑っていたが,それは書き手の中心が大学院へ進学が決まった私と,助教授昇進が決まった長谷川さんだったからかも知れない.
山登りとスキー
関根研究室は「研究は自分でやってみたいと思わなければ意味がありません」という方針で運営されていたので,どれだけ実験するかは本人の自主性に任されており,中には卒業論文にデータが殆どないという猛者もいるが,だからといってそういった遊び気分の人が排除されることはない.空いた時間になると4人組で出ていったり,マンガを読んでいたりと怠惰な雰囲気が漂うときもあるが,先生は自主性にお任せの様子でとやかく言われることはほとんどない.教育実習が終わり,就職活動が終わって秋になると,それまで遊んでいた連中は周りを見回して自分があまりに後れをとっているのに気がつくのである.
そんな自主性を良いことに,山登りだ,スキーだと遊び回ったのは学位の目途が立った博士課程2年からだったが,関根先生に怒られるかなと思って最初はちょっと緊張した.しかし,先生も山とスキーは学生時代から大好きとのことで,逆に一緒に行きましょうということになった.
最初の山は1983年6月,大学の創立記念日を合わせた3日間で,理科大の天神山荘をベースに谷川岳だった.先生はさすがに学生時代の装備の大方は処分したとのことで,出かける前の週に里さん,富士さん,久里さん,和邇さんと共に御茶ノ水のさかいやスポーツへ買い出しに行った.赤い35Lのアタックザックとキャラバンシューズを買って,先生はとても嬉しそうだった.1日目は天神ロープウェイの麓駅横にある山荘まで入るだけ,高崎でだるま弁当を買ってのんびりと出かけた.夜は里さんと久里さんがカレーを作って前祝いとなった.2日目は早朝からロープウェイで天神平に上がり,天神尾根から山頂へ登った.頂上直下では大きな雪田が残っていて危なかったが,なんとか登頂.オジカ沢の尾根をガスが流れるのを楽しそうに一眼レフで撮影されていた.その後は西黒尾根を下りたが,さすがに日本3大急登で,大ベテランの先生も久しぶりの山歩きもあってか,かなりお疲れになったようだった.夕方に山荘へ戻ってまたも里さんと久里さんの手料理で後祝いをし,夜には外へ出て流れ星を探して楽しんだのだが,先生の楽しそうな顔,懐かしそうな顔が印象的だった.
2回目の山は,7月の終わりに妙高,火打,焼山の頸城三山で,先生の他に里さん,富士さん,久里さんのいつものメンバー,初日に火打直下の高谷池で幕営,翌日に火打と焼山をピストンしてもう一泊高谷池で幕営,そして最終日に黒沢池から妙高に上がって帰るコースだった.幕営ゆえ荷物が多く,テントと食料の分配は大変だったが,特に大変だったのが先生の寝袋で,テントよりも嵩張る重量級だった.先生の話では,朝鮮戦争当時の米軍払い下げをアメ横で買ったとのこと,戦死者を入れて搬送してきた寝袋かも知れないと,なんとも気味の悪い代物だった.
院生4人は重い荷物を担いで夜行で出発したが,先生は体力的なこともあり,前夜遅くに妙高高原駅近くの旅館に泊まられていた.早朝に駅前で待ち合わせ,すぐにタクシーで登山口まで入って,雨の中を七曲がりの急登を登った.高谷池にテントを張って,池の周りをブラブラ散歩したが,折角の高山植物も雨に打たれて写真どころではなく,カメラ愛好家の先生はちょっと残念そうだった.
翌朝は雨は上がったが,展望はなかった.それでも火打に登り,影火打と焼山の鞍部まで進んだが,ガスがひどくなったので先生と私は引き返すことになった.里さん,富士さん,久里さんの若手3人衆は焼山まで急いでピストンすると小走りで登っていったので,先生とゆっくりとテントまで戻った.大分お疲れのようで,お茶を湧かしている間に寝込んでしまわれた.夕方になって完全に梅雨明けとなり,日差しが戻ったので,天狗の奥庭まで散歩に出た.先生もここぞとばかり花の写真を撮られて本当に楽しそうだった.
3日目は大倉乗越から一旦カルデラへ下りて,妙高山へ裏から登った.朝から天気も良く,残雪で遊んだり楽しい時間だったが,さすがに3日目ともなると先生もかなり疲労して,下りの鎖場などではちょっと危ない感じもしてヒヤヒヤした.夕方に駅までついたが,先生はこの日は旅館に泊まって帰られるとのことで駅前でひとまずお別れした.長丁場でお疲れだったようだが,それでも「昔を思い出しました.北アルプスの雲ノ平や南アルプスの甲斐駒ヶ岳が懐かしいですね」と本当に嬉しそうだった.
結局,関根先生を加えての登山はこの2回きりになってしまった.その後,何年か経って,例のメンバーとの山登りの話をしたら,「懐かしいですね.また行ってみたいけれど,体力的にも時間的にも,もう行けないですね」と寂しそうに笑っておられたのが印象に残っている.
1回目のスキーは1984年の春,水上から入った奥利根国際スキー場だった.この時は里さん,富士さん,久里さんのいつものメンバーの他にスキー狂の井川さんも参加,井川さんと富士さんの車2台で大学前を夕方に出て夜半に旅館に到着した.次の日は朝から雨,仕方なく尾瀬の方までドライブに出かけ,夕方から晴れたので滑り始めた.先生はご自身がスウェーデン仕込みと言うだけあって,ストックの突き方などノルディックと言うか,歩くスキー的で安定した滑りを見せておられた.翌日は快晴で,昼過ぎまで滑って帰京したが,ほとんど転ばれるところを見ることもなく,ストックを振り上げて「ヤッホー」と叫ばれたり,久しぶりのスキーを満喫されたご様子だった.
2回目は1985年2月に越後中里で,この時は研究室をあげてのスキー旅行となり,総勢20人の大部隊だった.上野から朝の上越線で出かけたが,すでに車内から盛り上がって大騒ぎ.そんな中でも先生は静かにレポートの採点をしておられた.民宿に泊まってナイターまで楽しんだが,先生はことのほかお元気で,ナイターにも参加されて,ストックを振り上げて気持ちよさそうに滑っておられた.前年の奥利根国際に較べて中里はコースが広く,傾斜も緩めのため,のんびりと滑るには手頃だったようで,本当に嬉しそうにされていたのが印象的だった.
その後は私や里さん,富士さんらが就職してしまい,誘う人がいなかったようで,何年か後に「最近の学生さんは誘ってくれないんだ」とちょっと寂しそうな顔をされたことがあった.
お宅で飲み会
関根先生は,学内での学生に対する模範にとてもうるさい方だった.毎年4月の最初のセミナーが終わると,その年の学生さんを自宅に全員招待してパーティを開催されるのが恒例だったが,その席ではワインを飲まれて,麻雀もされるのだが,神楽坂では研究室のコンパなど決められた時以外にはお酒を飲みに行くこともなさらなかった.夏の大掃除の後に研究室でビールの会をしていた時に,OBが遊びに来られて「混ぜて下さい」となったのだが,「今は研究室の宴会で飲み会なんだ.君は今は外部の人だから,学内で飲むのは許可できないな」と断られた.でも,すぐ続けて,「僕はもうすぐ帰るから,ちょっと待ってなさい.その後は学内で飲んでも君の責任だ」という温情裁定が付いてきたのだが.
そんな先生から「飲みに来ないかい」と誘われたのは博士課程1年の夏休みだった.この年は新6号館の完成に伴う研究室の移転があって,卒研生はすでに夏休みだったが,院生は毎日移転の準備に追われていた.D1の私とM2の高橋修君の二人で夜まで片づけをしていたら先生が実験室に来られて,「今日は誰もいないから我が家に来て飲まないかい」と誘って下さったのだった.もともと飲んべえの二人だから喜んでお宅に伺うことにした.高橋君はバイクで来ていたから直接お宅へと向かい,私と先生は秋葉原駅ビルでケンタッキーのバレルを買ってから田端まで向かった.お宅に着くとすぐに先生が「好きなのを持って行って始めていいよ」と笑いながら冷蔵庫を開けて下さった.二人で相談の上,帰りのこともあるのでビールにしようということで,リビングに運んで栓を抜いて準備をした.先生はレタスとキュウリを出してきて,「僕はコックの息子だからね」とおっしゃりながら手際よくサラダを準備して下さった.準備完了して早速飲み始めると,「学生さんが家に来て一緒に飲むのは久しぶりですねえ」と目を細めてビールを空けられた.この年は高橋君の抽出洗浄によるクロムの中間錯体の検出法,私の無極性有機溶媒中での配位子交換反応など新たなテーマが実り始めて先生は嬉しかったのだと思うが,この夜はいつもよりも饒舌で,自分からワインを出してこられていいペースであおりながら今後の研究の期待などを語って下さった.それでも11時を過ぎて我々がおいとまする時には急にいつもの厳格な教師の顔になっておられ,「高橋君はバイクを置いて電車で帰りなさい.そうでなければ泊まっていきなさい」と厳しい顔でおっしゃられたのだった.
次に先生から「飲みに来ませんか」と誘われたのは,翌年の秋のことだった.この時は私とM2の斉藤隆君がターゲットだった.私と斉藤君が「実験の後始末にもう少しかかります」と言うと,「先に帰って準備しておきましょう」とウキウキしながら帰っていかれた.少し遅れて二人でお宅を訪ねると,すでにテーブルにはビールやワインが山のように並んでいて「すぐに始めましょう」となった.斉藤君は大のクラシックファンであるから先生とは同好の士,先生ご自慢のレコードコレクションを引っ張り出して,「あの演奏はど〜だ,この指揮者はこ〜だ・・・」と音楽談義に突入した.私はもっぱら聞き役でただただワインを飲んでいたら,奥様が帰宅された.すぐに奥様も参加されたが,奥様は音楽よりも文学系で私と話を始めた.この時は萩原井泉水の随筆について話をしたのだが,ワインの酔いでどんな話になったのかは覚えていない.時間は12時近くになり,もはや終電でも帰れない時間となっていた.二人で歩いて帰ろうかと考えていたら,「泊まっていきなさい」と先生の声がかかって,1泊お世話になることになった.2階の客間から掛け布団を出していただいて,リビングの絨毯の上で横になった.心地よいワインの酔いの中で,久米正雄辺りに出てきそうな古き良き学生生活に浸っているような気分だった.
ハワイでの思い出
1984年12月に第1回環太平洋化学会議で発表のため,ホノルルへ出掛けた.この時は行き帰りと宿泊は一番安いツアーで隣の研究室の修士2年の院生と同室にして,自分の発表以外はハワイ島やワイキキの浜辺で遊んでいた.発表は4日目の昼からで,朝から会場で先生と待ち合わせた.当然朝のセッションに参加と思いきや,「昼までどこか遊びに行きましょう」と誘われた.そこで市バスに乗ってビショップ博物館へ行くことになり,二人で出掛けた.のんびりと展示を見てワイキキに戻り,ウェンディーズで昼食を取った.先生はさすがに英語でスムーズに注文し,さっさと食べ始めているのだが,私は注文でもたついて時間がかかった上に,頼んだ積もりのなかった超山盛りのポテトフライをトレイから通路にこぼしながら席に着いた.先生は「君は変な食事をするんだね」と笑っておられた.
初めての英語での発表は無事に終了し,セッション終了後に一息入れていると,先生が「稲葉君,ちょっと来なさい」と声をかけてこられた.傍へ行ってみると,体の大きな外人の先生と話をされていて,「アーゴンのダネシ先生だよ」と紹介して下さった.少し話をして廊下へ出るとアリゾナのフライザー先生が日本人の先生と並んで座って話をされていた.またも先生が「東大の不破先生ですよ」と紹介して下さった.不破先生は公害研の部長もされていたので,「稲葉君は4月から公害研に就職することになってるんですよ」と更に紹介して下さった.普段の学会では特に多くの先生に引き合わせて下さったということもなかったが,今回は多くの先生を紹介して下さったのは,博士課程を修了して研究者になる私への餞だったのだろう.その夜には,長谷川先生と3人でモアナ・サーフライダーホテルのダイニングでディナーをご馳走になったが,いい発表だったことを褒められ,「新しい職場でも頑張って,いい論文を英語で書きなさい」と励まされた.嬉しかったけれど,でもその後で「4月から研究室が寂しくなるなあ」と言われたことの方がずっと心に染みて今も残っている.