私が手に入れた二つの大切なもの

本日はこのような席を設けていただきありがとうございました.何か経験談を話せとのことですので,この10年間の研究所生活で私が手に入れた二つの大切なものについてお話しします.

10年前,私は水質土壌環境部陸水環境研究室に採用になりました.当時の陸水研は,私の他に6名の研究者がおりましたが,微生物や水処理が専門の方ばかりで,生活排水の微生物処理が中心テーマでした.私は溶液化学という分析化学の基礎研究が専門でしたので,当初は非常に戸惑ったのを覚えています.専門が違うというのは恐ろしいことで,分析を行うためのきれいな実験室や測定装置はおろか,分析化学には不可欠のメスフラスコやホールピペットすら数が揃っていないという状態でした.最初の2年間はこれから何をしていけばいいのかも分からず,水処理の仕事の手伝いをしたりしていましたが,3年目の春に,自分の得意な分野を生かさなければ研究者として研究所にいる意味がないと思い,何はともあれ自分の実験室を作ることを決心しました.当時は独身でしたから余っていたボーナスをつぎ込んで,それまで使っていた居室の机と本棚を処分してできたスペースに3ヶ月かけて25℃の恒温実験室を手作りしました.わずか2M四方の実験室でしたが,こぼれた活性汚泥などからくるコンタミを気にすることもなく細かな分析実験ができるようになった時のうれしさは忘れられません.この実験室では界面活性剤の新しい分析法の開発や,有害化学物質の界面活性剤ミセルへの可溶化の実験などを行いましたが,組織改革の時に取り壊され,代わりの実験室を作っていただいて今に至っています.実験科学者が仕事をする上で不可欠なものは何といっても実験室ですから,この実験室を作ったことは私にとって一番意味のある大切なものだったと思っています.

もう一つの大切なものは,研究を行う上での精神的なものです.研究所に来て環境の研究を始めてからしばらくの間は,自分の研究のレベルに不安を持っていました.大学では同じ分野の人が身近にいて常にディスカッションすることで自分の研究方針が正しいかどうかが分かりましたが,ここでは一人一人の専門が異なり,考え方も異なりますし,相談する相手もなくて研究方針がこれで良いのかが分からなかったのです.勿論,論文を投稿すればきちんと印刷されますから,内容は間違っていないのは確かですが,はたして読者をエキサイトさせるような研究ができているのかどうかが分からず不安がありました.そんな気持ちを持っていた時期に1年間アリゾナ大学へ留学する機会を得ました.向こうでは元々の専門の溶液化学の研究をすることになっていましたから,仕事は順調に進みそれなりの自信も持てましたが,環境の研究について持っていた不安は解消されず,逆に帰国後のことを考えると不安は増していました.ちょうど半年くらい経った頃,アパートへ帰るバスの中で何気なく前に座っていた学生が膝の上に広げていた沢山の論文のコピーの中に,見覚えのある論文のコピーがありました.それはその年の夏に印刷された,湿地での界面活性剤の挙動解析についての私の書いた論文でした.勿論,彼が私の論文をどのように評価したのかは分かりませんが,少なくとも私の研究に興味を持ち,真剣にフォローしてくれている人がいることが分かって,何となく自分の環境研究の方針に自信が持てるようになりました.

研究を職として10年も経たない駆け出しの頃の拙い経験ですから,研究の大先輩からは笑われるかも知れませんが,これらの二つのものは研究を発展させる上での必要条件と十分条件であると思います.研究をするためには実験室は不可欠ですが,それと同時に自分の研究に対して自信がなければどんなによい設備を持っていてもすぐれた研究には発展しないと思います.今,この10年を振り返ると,大学院生だった頃に「アカデミックポジションについたら毎日研究ができるのだから,毎年このくらいの数は論文が出せるだろう」と考えていた数の半分くらいしかできていないというのがこの出だしの10年の印象です.折角,研究ができるポジションに就職して,研究のための大切なものも手に入れたのですから,今後はさらに努力して想像していた以上の成果を出していけるようにしたいと思います.