ZONEな体験
古くは打撃の神様川上哲治氏が「ボールが止まって見えた」と言ったし,長野オリンピックで金メダルを取った清水宏保選手は,「コースに光る道が見えた」と表現したが,このような現象を最近は「ZONE」と読んでいるらしい.彼らのような超一流のスポーツマンならば起こってもおかしくないと思わせるものがあるが,別に一般人でも起こらないとは限らない.凡人である私がこれに近い経験をしたことがあるからである.
最初のZONEは高校の時のサッカーの試合中だった.0対0の後半,相手にPKを取られて追い込まれた.ゴールキーパーだった私は,反射神経には自信があってそれまでにも何回かPKを止めたことはあったが,確率的には絶体絶命であった.私はPKではヤマを張らない主義であるから,キッカーが蹴る瞬間までタイミングを計り,身体を浮かせながら方向を選ぶという守りかたをしていた.主審の笛が鳴り,キッカーが助走を始める.当然,全神経をボールに集中させる.その瞬間,視界にある全てのものの動きがゆっくりと流れるようになった.そんな中で思考回路だけが異常に冷静に,そして興奮状態にある.キッカーの足がボールに触れて,ボールが勢いよく自分の左側に向かってくる.その時,頭の中で,視神経が発する「ポストの外だ!」という声がした.「その通り!」と頭の中の冷静な私が反応した.するとすぐに興奮した方の私が,「一応跳んでおけ!跳んだ方が格好いいぞ!」と叫ぶ.そして,その声に反応するかのように運動神経の私が左に向かってダイブすると,ボールは指の先をかすめて,ポストのすぐ外を通過していった.時間にすればほんの0.2とか0.3秒の話であるが,確かに私の頭の中には,運動神経の私の他に,冷静な私と,興奮した私が存在し,時間はゆっくりと流れたのだ.
次は,アリゾナへ出張していた時のことである.3月からスタートした最初の実験は,夏休み前には終了して,論文を書くのみとなっていた.しかし,どうしても解析がうまくいかない.試薬が水よりもミセル中に存在しやすいこと,ミセル中で二量体化することは分かっているのだが,その定数は未知である.しかも金属の抽出操作で試薬の全量が減少するのが無視できない.これら全てを補正しない限り,論文にはならないのである.朝から夕方まで助手とディスカッションを繰り返し,家に帰ってからも,食事中も入浴中もダブルベッドの中でも上の空で理由を考え続けた.するとある日のこと,夢の中に数式をいじって考えている私がいるではないか.彼は黙々と考え続け,ついにはこれまでとは全く逆の方法での解析を試みている.これまで試薬の解離を無視するためにpHの低い方を標準としていたのだが,金属の抽出効率を優先させてpHの高い方を基準にして解析法を編み出そうとしている.夢の中の私のこの操作を見守る眠っている私.そしてうまくいきそうな予感がした瞬間に目が覚めた.すぐにパソコンを立ち上げ,夢で見た解き方のプログラムを作成する.真夜中の3時,眠い目を擦りながら慌てて入力するプログラムは、何回かSYNTAXを出しながらようやく動き始める.解析は完璧であった.翌朝,プログラムと計算結果を持って大学へ向かい,論文作成の第一歩がスタートしたのだった.
上の二つは私が経験した事実である.ここに関しては「ノンフィクション」である.私はサイエンスの研究者であるから,心が豊かになる夢は楽しんでも超能力やオカルトを信じることはない.ZONEというのは別に超能力でも超常現象でもない.一生懸命努力した人が,集中してハイテンションを保ち続けたとき,例え凡人であっても,恐るべき力を発揮できるということなのだろう.