記憶の破片

人それぞれに様々な思い出がある.いろいろな年齢で,いろいろな場所で,いろいろな人との思い出ができていく.旅の思い出も同じだろう.これまでの忘れられない旅や,今となっては経験することのできない旅の思い出を書き残しておきたい.



(1) 彼方の西伊豆


すみれ丸
私の旅の思い出の最初は昭和36年の夏休み,父の実家の西伊豆へ出掛けたときの船旅である.当時はまだ伊豆急はなく,西伊豆や南伊豆は陸の孤島だった(注1).バスは走っていたが,今とは較べものにならない道路事情で,海へと落ち込む崖の上のクネクネした未舗装路を這いつくばるように走っていた.そんな状態だから,父の実家へバスで行くとなると沼津から狩野川沿いに修善寺まで入り,そこから船原峠(注2)を越えて海沿いの土肥へ,そこから宇久須,安良里,田子と絶壁に囲まれた狭い湾を持つ漁港を嘗めるように抜けて(注3),堂ヶ島から仁科大浜へと入るのだった.ボロボロのボンネットバスで5時間,更に1日数往復のバスに乗り換えて,鮎釣りのメッカ仁科川沿いに30分遡るのだから,1日で行くのも大変な時代だった.昭和37年に伊豆急が出来て,東京から下田まで5時間くらいで行けるようになり,下田から長九郎山の南陵にある婆娑羅峠を越えて松崎から仁科へ入ると2時間,朝7時に自宅を出て,その日の夕方5時くらいには到着するようになったと言って父が喜んだのを覚えている.

道路がこんな状態だったから,海さえ荒れなければ船で行く方が速いし,時間も読みやすい.だから私の初めての伊豆旅行は沼津からの船旅だったのだ.旅行の記憶はこの船の船内から突然始まっている.沼津までどうやって行ったのか,前日は沼津に泊まったのか,そして何時頃の船だったのか,何も覚えていない.でも,船の名前が「すみれ丸」だったこと,乗客の誰かが転勤にでもなったのだろうか,沼津を出る時に本物の紙テープを投げて別れを惜しんでいた人がいたこと,そのテープが羨ましくて,母と姉と3人でちり紙を細く切ってテープを作って,船の窓から手を出して風に流していたことを覚えている.今のような観光旅行が主流ではなかった時代だから,生活の足として,戸田,土肥,宇久須,安良里,仁科と寄港しながらのゆっくりとした船旅だったのだろう.次々と新しい湾に入っては,少しの乗客と少しの荷物が行き来したのも何となく覚えている.

そして,8月のお盆の時期であるから,真っ白に輝く明るい日差しの中で海水浴を楽しむ人達が沢山いたこと,海の中に組まれた櫓のような飛び込み台から真っ黒に日焼けした少年達が次々に飛び込んでいるのを見たのを覚えている.遠くから海岸線の上に山が広がり,砂浜が大きく広がった湾に入っていく途中で見たのだから,土肥の港だろう.まだ4歳にもなっていない子供から見れば,飛び込み台の少年達も,海岸の原色の水着も憧れの世界と言うよりは,単なる知らない世界だったろう.ほんの一瞬に見た,これまでの自分とは違う外の世界.それでも,井上靖の「夏草冬濤」の最後に少年から青年へと旅立つ若者達が詠う「長く長く,汽笛は鳴りて,いざ,土肥と,まなこ上げし空に白き雲あり.」の詩は,時代も季節も違うのだが私にとって正にデジャヴである.


伊豆急行
幼稚園に入ったばかりの昭和38年4月に,父方の祖父が亡くなった.電報を受けて,翌日には出掛けることとなり,初めて伊豆急に乗ることになった.なにせ急な用事であるから指定席などなく,朝一の湘南電車で兎に角熱海まで出ようとなった.熱海からは伊東線に乗り換えて伊東へ,そして伊東からは初めての伊豆急線で下田へと向かった.まだ小さかったし,初めての団体生活に振り回されてすり減っていた時期のことだからほとんど覚えていないのだが,伊東から下田までかなりの時間がかかったこと,車両が混んでいて座れなかったこと,そして定かな記憶ではないのだが先頭車の前の方が荷物スペースになっていて,動物が乗っていてうるさかったことを覚えている.

その後,父の実家へ行くときは,行きは東京駅から下田まで直通の準急で,帰りはバスか船で沼津へ出て東海道線の鈍行でというのが定番となった.行きは午前中の列車で昼過ぎに下田,帰りは朝のバスで昼に沼津となれば,行きは小田原か熱海,帰りは沼津で駅弁の昼飯となる.私が駅弁の「たいめし」通(注4)になったのはこのスケジュールが大きいだろう.

もう一つ,伊豆急ができて数年経った頃にNHKの「みんなのうた」で東伊豆の蜜柑山の景色が流れていたのを覚えている.歌のタイトルは忘れてしまったが,「歌え小鳥,蜜柑の山で,走れ子犬,蜜柑の山を・・・」という歌詞の一部と,白黒のブラウン管の画面に映った蜜柑山の麓を伊豆急が走っている映像だけ覚えている.


沼津と三島
今となっては沼津と三島を較べるのも憚られるくらい三島が大きな町になってしまったが,これは新幹線の駅ができたことが大きいのは言うまでもない.私が小学校の頃は三島と沼津はそんなに差があるような印象はなかったし,井上靖の小説に出てくるようなもっと昔には,三島は伊豆の入り口の寒村で,沼津が東海道に面した都会だった.これは丹那トンネルの出来る前,御殿場線が東海道線だったことも理由の一つだろう.まあ,今でも東海道線の始発は三島ではなく沼津であるのはこの頃からの名残だろう.そんな御殿場線が華やかだった頃の名残を見つけたのは,小学校の2年生の春休みだったと思う.

父と二人で寝たきりになっていた祖母さんの見舞いに行った帰り,沼津駅のホームで湘南電車の来るのを待っていた.今は新幹線に合わせて,東海バスの終点は三島駅だが,当時は三島から更に沼津へとつながっていた.そして,終着の沼津の駅前食堂で昼ご飯を食べてからホームに入ったのだった.昼下がりののんびりとした構内で,小一時間の待ち合わせだったが,山側の貨物ヤードで出たり入ったりしていたのは蒸気機関車だった.おそらくは御殿場線に配備されていたD51だろうが,特急電車が走る東海道線で蒸気機関車が入れ替えをしているのを見たのは,後にも先にもこの1回だけである.

反対に,少しでも東京に近いからといって三島でバスを降りて,来る電車来る電車いずれも始発の沼津で満員になって座れなかった経験もある.あの頃は,ちょっとした帰省や海水浴くらいでは新幹線を使うなんてことは考えもしなかった時代だったのだ.


川を渡るバス

バスが川の中を走るのを見たのは,小学校の2年生の夏休みの出来事である.

伊豆急下田を出た婆娑羅峠経由の松崎行き東海バスは,駅の裏手から狭い道を抜けて蓮台寺の方へと戻っていく.そして稲生沢川に突き当たると川沿いに上流へと向かって行くのだが,この年は突然道路から外れて砂利混じりの河原へと下りていった.そして,仮設の通路から川の中へとジャブジャブと入っていって,そのまま渡りきって対岸の道路へと登ると,後は何事もなかったように走っていくのだった.

おそらく梅雨末期の豪雨があって,天城山から下田に注ぐ稲生沢川が暴れて,橋が流されたのだろう.バス通りは今とは違って伊豆急の線路の西側の細い道を走っていたように記憶している.稲生沢川を渡るのは今の中村大橋のような下流ではなく,もっと上流だったはずである.だから,川幅も水深もなくて,こんなことができたのだろう.こんなことがあったことを,今住んでいる下田の人たちが,そして東海バスの人たちがどのくらい知っているのだろうか.


保土ヶ谷,戸塚
東海道線を使って伊豆へ出掛ける時にいつも思っていたのは,「なんで保土ヶ谷と戸塚はお味噌なんだろう」ということだった.湘南色の東海道線は保土ヶ谷と戸塚には停まらない.スカ色の電車だけが停まるのである.大森や蒲田は京浜東北線という都市内の各駅停車があるから,停まらなくても仕方ない.と言うよりも,もともとホームすらないから停まりようがない.でも,保土ヶ谷も戸塚も同じ線路で走っている東海道線と横須賀線なのに,なんでなんだろう.

不思議な気持ちで保土ヶ谷を過ぎて,窓の外を見ていると,丘陵地には牧場(注5)が広がって,いよいよこの辺りから,「田舎へ出掛けるんだ」と気分が盛り上がってくる.そして,戸塚(注6).いつしか線路はどっぷりと田舎の風景に囲まれ,さらにわくわくしていると,それを笑顔で迎えてくれるのが大船の観音様だった.


クマゼミの戦い
毎年夏休みの伊豆旅行は,父にとっては実家への帰省と墓参り,母にとっては実家への義理立てという大切な理由があるが,子供にはそんなことは関係ない.別にお盆の宴席に大人しく座っていたって,正月休みではないからお年玉は期待できない.それならば,家の前を流れる仁科川での川遊びと,夏休みの自由研究の昆虫採集が一番の目的となる.

川遊びは一人で行くのは危険だから,父や叔父が朝10時と昼3時になると子供達をまとめて連れて行ってくれる.でも,昆虫採集は個人行動である.いや,はっきりと言えば戦いである.参加者が増えてもターゲットが増えることはないのだ.従兄弟達よりも一歩でも早く虫に網を被せなければ獲物は手に入らない.川へ行くのと違って,家近くの水路沿いや裏山のお墓の前までなら,一人で出掛けても怒られることはない.だから実家に着くと,挨拶もそこそこに納屋に仕舞ってある虫網を引っ張り出して裏山へと走っていくのだ.セミとカミキリムシに熱中していた私にとって,この最初の一歩がその年の勝負を決めることもある.グズグズしていて,従兄弟に虫網を取られてしまうと,もはやその年の収穫は期待できない.大切な勝負の一瞬だった.

この期待と不安に満ちあふれた気持ちを,さらに高ぶらせてくれたのが,当時は東京にはいなかったクマゼミである.温暖化の進行と共に,年々生息地が北上し,今や多摩川を渡って利根川に迫ろうとしている状況(注7)であるが,当時はまだ相模川を渡っていなかった.冷房のない湘南電車の窓を開けて,太平洋からの風を受けながら冷凍ミカンを食べるその耳に,茅ヶ崎,藤沢までは聞き慣れたアブラゼミとミンミンゼミの声が入ってくる.そして,相模川を渡ると,懐かしいが普段は聞くことのない声が轍の音に混じって微かに聞こえてくる.そして,「シャワシャワ・・・」という大合唱がはっきりと聞こえて,夕方には起こるであろう戦いに向けて高揚するのは,いつも大磯駅のホームの桜の木だった.


奥伊豆レジャー号
中学3年の夏休み8月12日に,一人で出掛けることになったのは,その年の春休みに初めての夜行列車に乗って,薄呆けた電気の灯る車内から見た夜の闇の不思議さをもう一度味わいたかったからである.

そもそも伊豆への旅行に夜行などあり得ないのだが,この時代には東京を夜に発って夜中に下田着,そのまま朝まで車中泊で朝から行動するという「奥伊豆レジャー号」なる不思議な列車が走っていた.21:00東京駅発とのことで,20:30に出掛けてみると既に車内は通路までぎっしり満員であった.座席どころではなく,ドリンクの買い出しも,トイレも行けないほどのラッシュ状態だった.快速運転のため,停まるのは横浜,小田原といった幾つかの駅であるが,ドアから乗るのはもはや不可能,仲間内で誘い合わせた連中は,窓から乗り込むものまで現れる始末だった.

のんびりと車窓を眺めて,下田に着いたら朝までゆっくり寝ていようとの目論見は残念ながら失敗だった.24:30に下田着.座席も通路も空きがないとなれば,ホームへ出るしかないだろう.乗客の半数は車外へ出て,ホームや待合室のベンチを確保したり,改札付近の壁沿いに新聞を敷いて寝場所の確保である.こちらも負けじと出札下に新聞を敷いたが,駅員が来て,「朝イチの客の迷惑になるから,そこは止めてくれ」と言う.仕方なく,土産物屋の前に移動するが,既に2:00を過ぎていた.

少しウトウトするが,海から入ってくる風はかなり冷たい.明け方になって身体が冷えて目が冴えてきたので,もう後はドリンクでも飲みながらのんびりと起きていようと座り込んで明るくなるのを待っていた.さすがは夏の海のバカンス第一夜である.あちこちでアベックがピッタリとくっついて話をしている.中には抱き合ってキスを始めるのもいる.それでも次第に空が明るくなると,二人の距離が離れていく.そして,完全に空が明るくなると,列車の中からバス停へと人が流れ始め,アベック達もただの二人連れに変わっていく.

バカンスにお金をかけることのできなかった時代.恋人同士でも堂々と泊まりがけの旅行ができなかった時代.あの時代,あの列車だから経験できた不思議の一夜.今もしこんな列車があっても,駅で見られる光景はまったく異なるものなのだろう.




(2) 小私鉄の王国

茨城の鉄道と言ったら,当然JR常磐線が第一の鉄路であるが,この常磐線の各駅から,実に趣のある小さな私鉄が沢山出ている(一部は「出ていた」になってしまったが.)茨城県人になって,しかも常磐線の駅まで歩いて5分のところに住んでいれば,ついつい乗りに行きたくなってしまうのは仕方ないことだろう.「鉄の血」を受け継いでいる娘も一緒に行きたがってくれるとなれば,廃止の声が聞こえる前に是非乗ってこようか.


関東鉄道筑波線
筑波線は土浦から筑波山の麓を抜けて,下妻へとつながっていた路線である.私が学園の住民となった85年にはまだ走っていたが,次の年くらいに廃止になってしまった.

85年12月に筑波山を登りに行くために,土浦から乗ったのが後にも先にも唯一の経験である.土浦駅1番ホームの先端にちっぽけなホームが切られていて,可愛い気動車が停まっていた.ただし,20年以上前のことゆえ,どんな色だったのかも覚えていない.あの頃は,常磐線に「こだま」型の「特急ひたち」が健在で,各停も旧式の近郊型車両だったし,古い車両には事欠かなかったから,見るべきものが多すぎて注目しなかったのだろう.今考えると残念なことである.


日立電鉄
日立電鉄を初めて見たのは,野球部の仲間と北茨城へ海水浴に行った帰りだった.国道沿いに鮎川の車両基地があって,昔の東急池上線のような小さくてごつごつした箱の車両が沢山止まっていた.

初めて乗ったのは2003年11月23日だった.カミさんが夕方まで水戸で仕事があるとのことで,それなら水戸の近くで遊んでいて,帰りは一緒に帰ろうと決めて,娘を連れて朝から常磐線の大甕まで出かけた.大甕で1日乗車券を買って鮎川へ.鮎川で一旦下車してコンビニを探したのだが,駅の周りに店がない.娘と二人で「お腹空いたね〜」と言いながら,自販機で缶ジュースを買った.日立電鉄は鮎川から大甕を通って常陸太田まで1時間ほどの路線である.刈り取りが終わってすっかり秋が深くなった田舎の景色の中を,2両編成の電車はノンビリと常陸太田まで走っていった.娘と二人での初めての小旅行は,お腹は空いたけれどとても楽しい思い出となった.

2回目は2004年9月20日.この頃には2005年3月末での廃止が決まっていて,「その前に是非もう一度乗っておきたいね」と娘と話して再びの乗車となった.残念ながら家を出るのが遅くなったので,大甕から鮎川には寄らずに常陸太田へと向かったが,廃止が決まったあとのため「鉄」の人たちが沢山乗っていて,結構混雑していた.なんとなくざわついていて,ちょっと不満の残るお別れ乗車となった.

廃止になった後も,地元の高校生などを中心に復活運動があったのは聞いていたが,残念ながら叶わなかった.その後はすっかり忘れていたのだが,2007年3月に娘の習い事の合宿が常陸太田であって,初めて車で出かけてみた.すると,常磐道南太田の出口から常陸太田に向かう道の左手にずっと土手が続いている.そして小さな水路の上には,錆びたガーター橋が残っていた.ああ,ここが日立電鉄だったんだ.娘と二人で「懐かしいね.でも悲しいね」と話をした.一緒に乗っていたカミさんは「鉄の人」ではないのだが,残骸を見て寂しげな顔をしていた.


鹿島鉄道鉾田線
鹿島鉄道は石岡から鉾田をつなぐ鉄路であるが,最初のうちは霞ヶ浦の高浜入に沿って走っている.30分に1本くらいの頻度だが,霞ヶ浦の調査船の上から時々見かけていて,いつか乗ってみたいと思っていた.間近から初めて見たのは,2003年11月に娘と二人で日立電鉄に乗りに行った時だった.偶然に石岡の駅の反対側のホームに可愛い気動車が停まっているのを見て,「あ〜,かわいいね」と娘と二人で釘付けになった.日立電鉄も良かったけれど,何といっても鹿島鉄道は家から近いのが楽でいい.朝食をゆっくり食べてから家を出ても,半日で乗ってこられる.このメリットを利用して,その年の12月23日に日差しが暖かくなってから娘と二人で家を出た.

あらかじめインターネットで調べたところ,新車が3台,古い箱形が2台,そして古い湘南窓が3台あることが分かった.湘南窓のうちの2台はクリームに赤とクリームに緑の「金太郎塗り」が施されている.娘は「金太郎塗り」という名前が気に入ったのか,是非これに乗ってみたいと騒いでいた.

残念ながら,この日は新車が走っていて,金太郎は2台とも車庫に止まっていた.ガッカリした娘は駅員さんに「なんで金太郎じゃあないの?」と泣きそうな顔で聞いていたが,そう言われても駅員さんも答えようがない.「もう一度来てみようね」と言って,鉾田駅前のコンビニでお菓子とジュースを買ってノンビリと冬枯れの霞ヶ浦の風景を眺めながら帰ってきた.

どうしても金太郎塗りに乗ってみたいという娘のリクエストに答えるために,次に出かけたのは2004年6月20日だった.石岡の駅に着くまで,「金太郎だといいね」と二人で話していたのだが,ホームに着いて見ると,赤い方の金太郎塗りが停まっていた.娘と二人で「わーい!」と跨線橋を駆け上って,古びたモケット張りのシートに座りこんでわくわくしながら発車を待っていた.すると車内を見回していた娘が「この電車,パパと同じ年だ〜」と言い出した.言われた方を見ると,運転席の上に「昭和32年」と書かれたプレートが貼り付けられていた.

石岡を発車して暫くの間は住宅街を通過するが,そのうちに霞ヶ浦の湖岸を走るようになる.いつも調査の時に見ている景色とは逆からになって随分とイメージが違うが,何といっても霞ヶ浦がこんなに広いとは思わなかった.湖岸から離れると高浜入と北浦の分水嶺となっている台地に向かってエンジンの音が高くなる.鬱蒼とした林を抜けると再びノンビリとした田園風景となって鉾田に着くのである.

駅前のコンビニは潰れてしまってなかったが,駅舎の中の売店で鯛焼きが売られていた.娘と二人で缶ジュースと鯛焼きを楽しみながら,帰りもまた赤い金太郎塗りだった.

その後も東海の原研への出張の行き帰りや娘の習い事で日立まで出かける時,そして年4回の霞ヶ浦調査の船上から,鹿島鉄道の姿を楽しみに見ていたのだが,ついにこの好ましい鉄路にも廃止の話が現実のものとなった.廃止は2007年3月末日.そこで最後の思い出は桜咲く季節にしようと,娘と二人で出かけることにした.廃止一週間前となれば,週末は込んでいて乗れるかどうか分からないから,娘が春休みになった3月26日に休暇を取って出かけた.

往きの常磐線から既にそれらしい風体の変な連中がうろついている.石岡に着くと,ぞろぞろと「鉄」の集団が下りてきたが,残念ながらホームに止まっていたのは金太郎ではなく,新車だった.「鉄」の中には新車には興味がない人種が多いのか,車内はそれほどの混雑ではなかったが,それでも充分黒字路線であった.列車は思い出をかみしめるように石岡から国道沿いの桜の花の横を抜けて,ゆっくりと鉾田へと進んでいった.

鉾田で一旦外へ出て,町の中を散歩してお菓子を買い込み,戻って次の列車を待っていると,到着したのは赤い金太郎だった.明らかに新車よりも大勢の客を乗せてやってきたが,改札口に先頭で並んでなんとか座席を確保でき,お菓子を食べながら最後の赤い金太郎を満喫したのだった.

次の週末が最後の日となった.この日は娘の習い事の発表会の日で,夕方まで日立に出かけていた.車で出かけたのでもう見ることもないと思っていたが,娘が「かしてつの最後の日だね」と言うので,石岡駅に寄ってみることにして常磐道を下りて雨の6号を南下した.夜8時過ぎ,激しくなった雨の中,駅の南側にある6号の陸橋の上には沢山の「鉄」がカメラを構えていた.そしてホームの方が明るく見えていたが,これが最後の姿となった.娘も「金太郎とサヨナラだね」とちょっと寂しそうだった.


関東鉄道竜ヶ崎線
竜ヶ崎線は常磐線佐貫からわずか2駅のまさに盲腸線である.普段,常磐線に乗っていてもほとんど気が付かなかったが,竜ヶ崎の駅ビルで娘の習い事があって出かけた時に,いかにも地方の小私鉄と言う車庫の風景を見てちょっと気になっていた.

出かけたのは2003年12月27日.正月前の忙しい時期で,カミさんが「朝から掃除をするからどこかに出かけてきて」と言うので娘と二人で8時頃に家を出た.佐貫まで10分,佐貫で待ち時間があったが乗ってしまえば10分である.竜ヶ崎についてもまだ店も空いてない時間だし,寒くて長居は無用.二人でそのまま帰ってきたら,9時半だった.

それでも冬枯れの農村風景の中をゆっくりと走っていくのはのどかで良かった.竜ヶ崎というとニュータウンばかりが眼について,町中が都会のような気がしていたが,こんないい景色もあったことが分かって嬉しかった.


茨城交通那珂湊線
県内の私鉄は2003年までに日立電鉄,鹿島鉄道,竜ヶ崎線を制覇したが,まだ関鉄常総線,鹿島臨海鉄道,そして茨交那珂湊線が残っている.2004年の冬になって娘にどこに行きたいか聞くと,古いのに乗りたいという.常総線と臨海鉄道は新しい車両が多いし,通勤路線だからそんなに面白くはないだろうということで,那珂湊線に出かけることにした.12月4日のことである.

いつも通りに駅前のコンビニでお菓子とジュースを買って,娘と二人で常磐線に.席は右側.これなら石岡で鹿島鉄道の金太郎を見ることができる.そして,水戸から勝田.勝田で下車して始発の特急が止まっている立派なホームの裏にある一段低くて幅の狭いホームで列車の到着を待った.

待つことしばし.入線してきたのは昔の国鉄キハ20タイプだった.色はクリームに赤で国鉄時代の上越線115型タイプの塗り分けになっていた.狙い通りの古い車両で娘もご機嫌.鹿島鉄道のような内陸の路線ではなく,海へ向かう鉄路であるから風景が違っているが,ガタゴトという感覚は変わらない.那珂湊を過ぎると海辺の町となって,少しだけ海が見えた.終点阿字ヶ浦は海水浴場として有名ではあるが,最近は車で出かける人が多いし,まして今は真冬.ここを目的地としてくる人もほとんどなく,駅前にも観光地らしい風情は全くなかった.

そのまま折り返して那珂湊へ.娘と下車して,市場まで散歩し,でっかいエイだのアンコウだのを見て廻った.小学校1年の娘は何事も奥手で,生ものなど余り得意ではないから,寿司屋で昼飯という訳にも行かない.寒ビラメのエンガワでビールを1杯・・・というのが魅力ではあるが,残念ながら娘の趣味に合わせて菓子パンを買ってホームに戻った.

娘と二人,ホームで北風に吹かれながら待っていると,到着したのは同じキハ20タイプのクリームに青の塗装だった.「また古いのだ」「でも違う色だね」二人でラッキーと言いながら勝田までノンビリと揺られて帰った.