トラブルなトラベル
《まえがき》

旅行にはトラブルが付き物である.お茶をこぼしたり,荷物を忘れたり位ならそれも旅行の思い出の一コマとなるが,盗難だの,ましては命に関わるようなものはご免である.それでも,あちこち出掛けていると様々なトラブルを経験する.まして,お仕着せの団体旅行で有名観光地へ行くのが大嫌いとなれば結構不思議な経験もすることになる.今は笑い話で書いているが,もしかしたら命がけだったものもあるのかも知れない.



爆破予告

これまで様々な旅をしてきて,様々なトラブルに会ってきたが,どれが最初だと問われるとはたと返事に困ってしまう.小学2年の夏休みに父の実家へ向かう途中,伊豆急下田から婆娑羅峠経由の松崎行きのバスが梅雨の大雨で橋の流された一級河川稲生沢川を渡るのに,河原からそのままジャブジャブと入っていって驚いたこともあったし,中学1年の冬に横浜駅で国鉄から東急東横線へ切符を持たずに改札を抜けようとして駅員に掴まったこともある.高校1年の春休みに北九州を廻った時には,長崎発門司港行きの各駅夜行で渡哲也みたいなオッチャンに「遊びできていて寝台なんか贅沢だ!」と難癖を付けられたこともある.でもやはりお膳立ての大きさから言っても,この出来事が最初のトラブルだろう.

1975年3月24日夕方から28日夜まで,高校の修学旅行で山陰地方を巡った.夕方東京を寝台特急で発ち,翌朝に防府のザビエル聖堂と秋芳洞を廻って萩に泊まった.翌日は1日かけて萩でのグループ行動,その翌日に津和野から出雲大社へ出て,最終日には日御碕灯台を上ってから,岡山から新幹線で帰京した.萩の大照院の山門の鐘を撞いて和尚に怒鳴られたり,出雲大社で凶を引いて憧れていたN子さんへの告白を諦めたり,帰りの特急やくもで弁当が遅配となったりとトラブルは様々だったが,やはり極めつけは出だしの一発だろう.

我々を乗せたあさかぜ1号は,定刻通り18時25分に東京駅を出発した.多くの同級生にとっては初めての寝台車での旅行であるから,その盛り上がりは凄いものがあった.寝台に足を伸ばして向き合って座り,遅くまでトランプに精を出した.しかしなんとなく列車の進みが遅い.そんな時に車内放送が入って,「沼津と原の間で爆破予告があり,東海道線が停止中.列車は1時間4分の遅れで運行している」との車掌の説明だった.

翌朝は6時過ぎに目覚めたが,予定通りなら広島辺りのところ,はるか手前の岡山を過ぎた辺りだった.特急と言えども朝の通勤列車に囲まれては身動きが取れない.遅れは雪だるまのように膨らんで,広島を過ぎると2時間を大きく超えていた.これを喜んだのが添乗員と我々鉄道好きの面々であった.国鉄規則では特急の2時間遅れは,特急料金全額払い戻しである.4クラス160人の生徒その他で180人が払い戻しを受ければ大層な金額になる.

我々のような所詮はアマチュアの鉄道マニアが知っていることなら,プロフェッショナルが知っているのは当然であろう.それが理由かどうかは定かではないが,それからの国鉄運転手の粘りも凄いものだった.最長で2時間15分あった遅れを取り戻そうと頑張ったのだ.遅れは次第に取り戻され,我々の下車駅防府に着いた時のは10時20分,定刻8時22分の1時間58分後だった.



避難船・救助船

1978年から1983年まで,大学の仲間と毎年8月下旬に伊豆七島の神津島でスキンダイビングをするのが恒例の行事だった.当時は世の中がまだバブルに浮かれる前で,夏休みといっても海外でバカンスをするのは特別なお金持ちばかり.学生や若い勤め人にとって海水浴といったら房総か三浦,ちょっと余裕ができると伊豆でも行こうかという時代で,伊豆七島で泳いでくるといったらなかなかの贅沢だった.ということで,結構憧れの人気スポットだったのである.

さて,神津島へは東京竹芝から,熱海から,下田からと幾つかのルートがあるが,東京住まいの人間にとっては竹芝出発が最も簡単でよい.伊豆七島はカタカナのイの字に並んでいて大島から神津島の「ノ」の字組と三宅,御蔵,八丈の「縦棒」組に分かれている.そのため竹芝からの船もこの2グループに分かれている.「ノ」の字組は通常は夜8時頃に出航して大島,利島,新島,式根島,神津島と全島に停まって折り返す便が運行されるが,夏休みの最盛期では東海汽船もフル回転での営業で,神津島への直行便が出ることになっている.通常の全島便にはさくら丸が就航し,神津島へはかとれあ丸とふりーじあ丸が交代で就航していた.(注)これは,単に竹芝と神津島を往復するのではなく,早朝に神津島に着いたあと下田を往復したり,竹芝入港後に納涼船となったりする関係であろう.

お盆休みも明けた8月下旬と言っても,学生にとってはどっぷりと夏休み中であるし,まだまだ残暑は厳しい.しかし,この時期になると島には減るものと増えるものが現れる.減るものの代表は何と言ってもビキニのお姉さん達である.8月ともなれば先取り傾向の甚だしいファッション雑誌は既に秋の装いであるからして,センスのいいお姉さん達はとっくに水着をタンスに仕舞っている.この時期にやって来るのは休みを取り遅れた出遅れ組か,未だアバンチュールが成就していない再チャレンジ組だけである.一方,増えてくるものの代表はやはりクラゲと台風であろう.東京都は思えない水の澄んだ神津島でも流石にこの時期となるとクラゲが発生し,泳いでいる腕にチクチク絡まったり,波打ち際の砂地に層を成していたりするようになる.と言っても内房や三浦の海水浴場とは較べものにならないのだが・・・.やはり問題は台風である.これとて毎年毎年被害があるわけではない.そもそも出かける前には天気予報に注意して,可能な限り日程調整をしておくから,直撃で閉じこめられることはまずない.しかし,時には日程を消化し切れぬうちに強制的に帰らされたり,船が出なくて出発を遅らされたりすることはある.この,強制退去で乗せられる最終船が「避難船」,台風通過後にようやく出ていく一番船が「救助船」と呼ばれる特別な船である.

避難船
避難船に乗ったのは1980年だったろうか.いつものように多幸湾ロッジに4泊の予定で予約を入れて,竹芝から出航した.遥か南の海上に台風はあったが,大きくもなく,心配するほどでもなさそうだった.到着初日は特に問題はなかった.幸いにも他の宿泊客はなくロッジは貸し切り状態.ダイビングの後はロッジの食堂を独占してビールを空け,久しぶりの再会を祝してから近況報告をしたりして過ごした.ところが2日目から次第に波が高くなってきた.3日目の早朝,ロッジの管理人のおっさんが慌てて部屋に来て,「今朝の船で帰れ」と言う.なんでも台風が急速に発達して影響が出始め,明日以降は船が入港することはできないから数日間は島に缶詰になってしまうとのことだった.島の住民にしてみれば,台風から自分達の生活を守らなければならないから,のんびりと遊びに来ている連中の世話などしていられない.船が来なければ食料も不足するし,客だって外にも出られないのでは「宿代を返せ」と言いたくなって,喧嘩になるのがおちである.そこで件の強制退去命令となった訳である.言われるままに至急で荷物をまとめ,朝食もそこそこにおっさんの軽トラックの荷台に乗り込んで島の反対側にある前浜港に向かった.

前浜港は桟橋が人で溢れていた.多幸湾は国民宿舎が1軒あるだけで,人は住んでいないからおっさんに急かされた我々だけが客であるが,前浜には沢山の旅館や民宿がある.ピークを過ぎたとはいえ,まだまだ夏休み中となれば海水浴客は大勢いたのだ.一方,海はというと既に白波が立ち,沖堤を越えて港内にまでうねりが押し寄せている.多幸湾は島の裏側で波裏となっているのか,目立った波はなかったのだが,前浜は凄まじい状態になっていた.避難船ふりーじあ丸は波が高くて接岸することができず,湾の外で待機している状態で,桟橋に出ている東海汽船の職員や島の警察,消防団の連中が「ハシケでピストンするしかないだろう」と相談していた.桟橋の客はと見ると,どの顔も恐怖感が漂い,強制退去への不満など消し飛んでしまっていた.

船が接岸できないのでは仕方がない.乗船はハシケ作業に決まった.喫水が浅く何とか接岸できる小型の漁船が用意されて,20人位ずつピストン輸送をしていく.接岸といっても大波の中ゆえ,職員,警察,消防団などが総出でロープを押さえ,岸壁と漁船との距離を測る.そして「それ,いけ!」の合図と共に漁船の船縁を飛び越えて乗り込むのだ.満員となったハシケは漂う枯れ葉のように波に揉まれながらエンジン全開でなんとか避難船までたどり着く.ふりーじあ丸は最も下にある第1甲板のゲートを開いているが,小さな漁船からではとても届く位置にはない.そこで,漁船内の職員が大きな波のタイミングに合わせて数人で船縁から客を押し上げ,ゲートにいる船員が手を引いて引っ張り上げるのである.

最初のハシケ作業が進行している間に,桟橋からそれを見ていた避難客から恐怖に引きつった声が漏れてくる.中にはしゃがみ込んで泣き出してしまう女性もいる.そして,次第に,着実に,自分達の順番がやってくるのだ.我々の仲間はハシケ作業はこれまでにも経験しているし,船にも強い.おまけに朝から着替えもそこそこに慌てて出てきたので,ジャージにTシャツという出で立ちであるから,波を被ろうが,船内でコケようが何の問題もない.漁船に乗り込んでからも「いやー揺れますなあ」などと余裕をかましていた.港内から出るとそこは更なる別世界.本当に立っているのもやっとという大揺れに,船内はもはや阿鼻叫喚の世界となっていた.それでも雑談をしていると,恐怖でクチャクチャになった若い夫婦から「この子を頼みます」と小学生くらいの子供を預けられてしまった.「言うことを聞いて,船員さんに掴まってるのよ」と遺言されても,我々は船員ではないのだが・・・.

ふりーじあ丸まで何とか辿り着き,乗船を開始するが,これがまた一苦労である.「今だ!」と言われても,「ダメだぁ」という軟弱者がズラリと並んでいる.件の夫婦も自分の世話もできない様子で,子供どころではない.とは言っても乗船は一人ずつだし,本物の船員に任せてさっさと乗船した.その後も軟弱者の大量発生で乗船は手間取り,竹芝に向けて出航したのは定刻よりもかなり遅れていた.船内はそれほど混んでいることもなく,快適に過ごせるかと思ったのだが,次の問題が持ち上がっていた.避難船と言う位であるから,当然のこととしてよく揺れるのである.たかだか3トンクラス(注)のハシケと違って,2000トン級の船であるから,揺れると言ってもたかが知れていると思うのだが,軟弱者たちがあっちでもこっちでも船酔い騒ぎを起こしているのだった.こんな船室にいたらこちらまで付き合いで気分が悪くなってしまう.幸いにも天気は良いので上部甲板に避難して,誰も寄りつかない売店でアメリカンドッグにビール,焼きそばにビール,カレーライスにビール,ビールにビール・・・と宴会を続け,波穏やかな竹芝沖でついに沈没したのだった.

救助船
救助船に乗ったのは,1982年だったろうか.お盆過ぎに台風が来て船は暫く欠航となり,我々も出発を2日遅らせた.ようやく出航するということを聞きつけて合宿開始,竹芝に行ってみると流石に救助船で遊びに行こうという勇敢な人間はそれほど多くはないようだった.今日は神津島への直行便はなく,さくら丸による全島停りの便だけなのだが,乗船口の列は短かった.これだけ客が少ないと,いつもはギュウ詰めで足の踏み場もないような絨毯張りの2等雑魚寝部屋がやけに広々と感じる.これ幸いと大の字になって明け方までぐっすりと寝込んだ.

何となくざわついた感じで目が覚めたのは何時くらいだったろうか.最初の寄港地の大島に停泊している様子だった.と,周りを見回すとやけに人が増えている.それも両手に大きな荷物を抱え,その顔は疲れ切って無表情,まるで幽霊かボロ切れのような連中ばかりである.どうやら島に足止めとなっていた連中らしい.この船は各島に食料などの物資補給をしながら神津島まで行って,折り返しで島に足止めとなっていた連中を連れ帰る一番船となるのだが,大島は帰りの便では最終寄港地となるために乗りこぼしがあるかも知れない.そこで往復の運賃を払って行きの船に乗り込んできているのだった.

その後の寄港地でも同じような疲れ切った集団が乗り込んできて,船内はどんどん異様な雰囲気になってきた.我々を含めたこれから遊びに行く連中は,港に停まる度にマイノリティとなっていき,食事をするのも,これからの1週間をどのように過ごすかの相談をするのも憚られてしまうような,そんなテンションの低さであった.そしてようやく神津島港に到着して嬉々として荷物を纏めて下船しようとする我々は,このボロ切れのような連中の刺すような視線を受けながら,救助船から夏のバカンス地へと足を踏み出したのだった.



初めての海外旅行

もともと英語が大の苦手で,中学の頃から苦労していたのだが,大学入試で苦労のピークに達した後は教養の授業は大したこともなく,なんとなく4年生になっていた.研究室でも先ずは実験を覚えることから始まって,ようやく渡された英語の文献も鉛筆書きで書き込まれた先輩の和訳の跡が残っていた.結局,卒業論文の英文要旨で「さて!」となったが,教授が「これは大変だ!」と言いながらも直してくれて事なきを得た.その後も学会誌に英文の論文を投稿する度に「さて!」となったのだが,その度に教授が直して,と言うよりは一から書き直してくれたので問題なかった.卒業してからはどうしようかと思って心配していたら,飲み友達でケンカ友達だった助教授の長谷川佑子さんから,「お金を出せば英文添削って言う便利なものがあるわよ」と入れ知恵されてちょっと安心していた.そんな大学院卒業直前の1984年12月のハワイのことだった.

ポテトになったチーズバーガー
初めての成田空港(注),初めてのパスポート,初めての海外,初めてのスチュワーデスさん(注),初めての機内食,初めての国際学会,初めての英語発表と初めて尽くしで頭の中はパニック状態だった.学会主催のツアーのエコノミーコースゆえ,泊まるホテルはワイキキの外れのオンボロだったが,初日はホテルのチェックインタイムまで市内観光がついていたから移動と睡眠と食事には事欠かなかった.しかし翌朝は早速自分で朝食を確保しなければならない.ワイキキのビーチサイドにあるマクドナルドに入って,金髪の外人さんの間から恐る恐る注文をしてみた.すると「この時間はモーニングのセットメニューだけよ」とニベもない扱いとなった.仕方なく壁のメニューを見直して一番発音しやすそうなセットを注文した.慣れないドル札で支払いを済ませ,レシートを持って並んで待っていると,店の女の子がレシート番号を呼んでくれた.カウンターには同じような袋がいくつも並んでいたが,さっき応対した娘が袋を渡してくれたのでそのまま持ってホテルへ戻った.

部屋へ戻って開けてみると,注文したチーズバーガーとコーラのセットではなく,山盛りのポテトが入っていた.どう考えても1ドルや2ドルは損しているが,かと言って持って帰って来た以上はいまさら文句も言えない.まあ,ポテトでも食事には違いないし,後は洗面の蛇口の水でも飲んで済ませばよいと諦めた.これを良い教訓として,その日の夕方,近くのスーパー(注)でジュースとビスケットを買ってきて,朝は買い置きで済ませることにした.

強面のいるカウンター
同室は希望があればセットで申し込めるというので,隣の研究室の修士2年だった板東君と組んで貰った.彼は父上が海外勤務とのことでヨーロッパに行ったことがあるとのこと,まくら銭だのチップだのは知っているのだが,悲しいことにやはり同じ理科大生,英会話はからきしである.初日の夜には二人でステーキを食べに出かけたが,デブっとしたウェストレスのウェートレスにサイドディッシュを2つ選べと言われて訳も分からず2つ指さしたら,まるまる1個のベイクトポテトとまるまる1個のチーズ懸けベイクトポテトが出てきてさすがに二人とも疲れ果てた.

翌日はワイキキで夕方まで泳いで(注)気分は湘南片瀬江ノ島,「晩ご飯は海の家でラーメンにしよう」と冗談で盛り上がった.ホテルで着替えて町へ繰り出し,裏通りにある安そうな店を覗いているとサッポロと書かれた暖簾の下がったラーメン屋を見つけた.即決でこの店に決めて中に入った.細長い店でテーブル席はなく,10人ほどが座れるカウンターだけの店だった.客は1人だけ,入口の席で新聞を見ながらビールを飲んでいた.奥に席を取って早速カウンター越しに見える壁の短冊メニューから板東君がラーメンと餃子,私が冷やし中華を頼んだ.コップの水を飲み干し,「やっぱり海水浴の後はラーメンだねえ.それにしても日本語で注文できるって幸せだよね」などと言いながら何の気なしにカウンターの隅にあった値段入りのメニューを見るとラーメンが5ドル,餃子も5ドル,冷やし中華に至っては9ドルである.当時は1ドル=250円だからラーメンが1250円,冷やし中華は2250円である.二人とも貧乏学生で1週間で250ドルくらいしか持ってきていないのに,なんてこった・・・.さっきまでの湘南気分はすっかり抜け落ちて,気分は網走,釧路,稚内である.さらにカウンターには小さな字で「ハワイはアメリカ,アメリカは外国です.外国と言ったらチップ.チップは支払いの30%が当たり前です.」と書かれているではないか.「カウンターの店でチップが30%かよ」と海外経験者の板東君がブツブツ言うと,入口の方からバサッと新聞を叩く音がした.振り返るとさっきまで入口でビールを飲んでいた男が白いジャケットの上にアロハの襟を出して黒いサングラスをかけて睨んでいた.客かと思ったら用心棒だよ.これでは帰るわけにはいかない.仕方なく不味いラーメンを残らずたいらげ,二人合わせて19ドルにチップが6ドル,合わせて25ドルを払ってそそくさと出てきたのだった.

No Coke! OK?
4日目は午後から発表で,朝から食欲もなく緊張しまくっていたのだが,関根先生に遊びに行こうと誘われてビショップ博物館に出掛けた.その帰りに会場のホテル手前のウェンディーズで昼食をとることになった.ハンバーガーではすでにマクドナルドで痛い目にあっているので,戦々恐々として注文を始めた.喉が渇いていては慣れない英語の発表を20分も出来るわけがない.兎に角,先ずは飲み物を確保,それからシンプルにハンバーガーにしようと決めて,深呼吸をしてから「Coke, and one humburger please!」とゆっくりと言った.すると何故かカウンターのお姉ちゃんが顔を真っ赤にして早口でしゃべり始めた.何を言っているのかは分からないが,どう見てもちょっと怒っている感じだ.苦労して早口の英語の分かるところだけつなぎ合わせると「No Coke!OK? We serve Pepsi!」と言っている.どうやらウェンディーズはペプシチェーンでコカコーラチェーンではないから「コークなんか注文すんなよ!」と怒っているのだった.「Pepsi OK?」と言うから「OK!」と答えると続けてゴチャゴチャ言った後から「Small or Large?」と何回も聞いてくる.ペプシのサイズだろうと思って「Large please!Large please!」と繰り返すとお姉ちゃんは満足そうにレジを打ち始めた.何となく高めの金額だが,日本でも当時はウェンディーズはマックよりも高かったから,こんなもんかと思っていた.そして少ししてお姉ちゃんから渡されたのは,ピクニックに持っていくような馬鹿でかい水筒に入ったペプシと,トレー一面に頼んだ積もりのない山盛りのポテト,そして本来の注文のハンバーガーはポテトの山の中に埋蔵金のように埋もれて見えなくなっていた.



臭いですよ

クーンブヒマラヤにトレッキングに出掛けたのは1989年のGWだった.山に入る時には不要品はホテルに置いていけるので,往きからでかいザックを背負っていくほどのこともない.そこで貴重品などの手荷物は30Lのサブザックで持ち込み,メインの荷物はスキー用のキャリーバッグで出掛けた.キャリーバッグのシューズケースに60Lのザックと登山靴を詰め込んで持って行き,トレッキング出発時にはザックを出して荷物を詰め替え,行き帰りの着替えなど不要なものはキャリーバッグに詰め込んでカトマンズのホテルに預けることにした.

2週間のトレッキング中,風呂もシャワーもなかった.運動する以上は汗をかくから一旦はシャツやパンツが濡れるのだが,空気が乾いているためすぐに乾いてしまう.おまけにトレッキング中には地元民と同じ目線で動いているから,ヤクの糞の上に乗り上げたり,座ったりするのは当たり前.その結果として,乾いたウンチがズボンやセーターにこびり付いている.これも乾燥しているので臭いもしないし気にならない.ところがカトマンズへ下りてくると,湿気のためか急に汚れと臭いが気になるようになった.とは言っても,洗濯をする訳にもいかず,汚れ物をそのままキャリーバックに詰め込んで帰りの荷造りを終了した.

朝の成田空港はGW明けのためか結構な混雑だった.ちゃんとした会社のツアー登山だし,何にも言われないだろうと思って人数の少なそうな列に並んで順番待ちをした.スムーズに流れるかと思っていたら,前に並んでいたハワイ帰りのお姉ちゃんが税関の持ち物検査で手間取っていた.個人旅行で友人宅に1ヶ月泊まってサーフィンとくれば,白い粉を疑われるのも無理はない.持ち帰ったサーフボードはX線検査に回され,荷物は全開になっていた.コンビニのビニール袋に無造作に丸めて突っ込まれた下着までパンパン叩いて検査しているのだ.結局何も出てこなくて無罪放免だったが,カワイめのピンクの下着が多かったような・・・.

いよいよ自分の番がきた.「どちらから?」と聞かれて「ツアーでネパールヒマラヤへ」と答える.続いて「善からぬものはありませんか?」と聞くので,ついいつもの調子で「ずっと山に入っていたので,残念ながらそんな暇ありませんでした」と答えると,「開けていいですか」と言われてしまった.もちろん,汚いシャツやパンツや靴下がゴロゴロしているだけでやましいものは何もないのだが,つい嫌な顔をしてしまったら,検査官はそれを見逃さずに「じゃあ失礼」と言って,ジッパーに手をかけた.仕方なく「構わないですけど・・・,本当にいいんですか?2週間風呂入らなかったから,すっごく臭いですよ」と言った.検査官は一瞬びっくりして,「分かりました.やっぱり止めときましょう」と言って通してくれたのだった.



パソコンの証明

1992年3月3日から1993年3月2日まで,米国アリゾナ州のアリゾナ大学へ出向した.行っている間もいろいろあったが(アリゾナ滞在記参照),帰りにも一悶着あった.帰りは最後の休暇を4日間取って,ホノルルで時差調整と称して1年ぶりの海水浴や韓国焼肉にお刺身を楽しんだ.そして帰国日となる3月1日の朝のことだった.

個人旅行のため,ホテルからタクシーでホノルル空港に向かい,JALのチェックインカウンターへ行った.公用パスポートゆえ,JALの職員は何も聞かずにフリーパスで送り出してくれた.アリゾナのステッカーが一面にベタベタ貼られたトランクも,周りの客の好奇心の目は避けられなかったが,特に問題なく流れていった.

後は出国ゲートの身体検査と持ち物検査.ここも公用パスポートならノーチェックでOKだろうとたかをくくっていると,馬鹿でかい図体の検査官に呼び止められた.ヤツは手荷物のビジネスバッグを指さして「何が入っているんだ?」と聞く.仕方ないので鞄を開けて,「パソコンだ」と見せると,「なんでそんなものを観光客が持ってるんだ」ときた.公用パスポートをヤツの目の前にちらつかせて,「公務で1年間滞在していたんだ.帰国の途中だ」と言うと「公務できているヤツがなんでそんな格好しているんだ」と返してきた.別にアリゾナならこんな格好は当たり前で何てことはないが,確かに短パン,Tシャツにビーチサンダルで公務旅行中とは変かな・・・.でも最後の休暇できてるんだし,ここはハワイなんだからいいじゃないかともう一度ごねると,「そのパソコンを立ち上げてみろ.中に爆弾が入っているなら立ち上がらないはずだ」とのたまわった.いかにノートパソコンとはいえすでにツーソンを出て5日,とっくに充電は切れかかっているから,下手に立ち上げて機内で電池切れでピーピー言い出しても困る.(注)大体,もし爆弾だったら立ち上げたらこの場でボン!じゃないか.こいついったい何考えてるんだ.そこで「No!」と断ったら,「別室に来い!」とついに怒り出した.仕方ないのでその場で立ち上げることにしたが,このままではシャクなのでわざと一太郎のソフトを立ち上げてやった.ヤツは覗き込むなり「ダメだ!別のをやれ」と言う.さすがにこの辺が限界かと思って,WORDSTARを起動させたらやっと安心したのか「OK!」と言ってようやく通してくれた.

最後にパスポートを返しながら,「何しにきてたんだ」と言うから,「アリゾナ大学で1年間Visiting Professorをしていたんだ」と答えた.するとヤツは「アリゾナのProfessorがなんでハワイでそんな格好しているんだ.おかしいぞ」と言って,ニヤニヤしながら送り出してくれたのだった.



しない観光

1995年の12月に3回目の環太平洋化学会議でまたしてもハワイに仕事に出掛けた.今回は仕事ゆえカミさんもついてきた.学会のツアーは知った連中ばかりで,カミさんを連れての仕事となれば,ちょっと気後れしてしまう.そこで同じ近畿日本の別枠のツアーに入って,観光客のような顔をして出掛けることにした.キャリアはコンチネンタル,いつものUAとどこが違うのか楽しみでウキウキしながら乗り込んだ.ただし,別に何を期待していた訳でもないのだが,機内食は当たり前の機内食だったし,スチュワーデスさんも当たり前のNW(注)だった.

コンチネンタルのホノルル便は成田から一番早く離陸するから,途中で落ちたりしない限りはホノルルにも一番に到着する.いつもなら,もう日が高くなって蒸し暑い時間に到着して,じっとりべったりとしながらWikiWikiバスに乗り込むのだが,朝6時に着いては勝手が違う.ようやく朝日の差し込む空港ビルの出口で現地のツアーガイドと集合した.ホテルのチェックインは12時のため,午前中は市内観光で時間を潰すことになっているらしい.早々に冷房がギンギンに効いたどデカバスに乗り込んだ.しかし,運転手もガイドも眠そうな顔をしているこんな時間からどこへ行くんだろう.

バスはまだ朝の渋滞すら起きていない高速を,ホノルル市内に向かって快調に走っていく.そして,ダウンタウンから山の方へ折れると明るい芝生の丘に向かっていった.米軍兵士の墓地,パンチボウルだった.初めて来た時にも,2回目の時にも,市内観光ツアーで中に入って白亜の女神像の写真を撮った.2回目の時にはチャレンジャー号の爆発で散った日系人オニズカ飛行士の墓を見学した.でも,ガイドが言った.「ここがパンチボウル.米軍兵士の墓地です.まだ,ゲートが開いてません.」その後もどこへ行っても「開いてません」,「閉まってます」の連続だった.そして,滑り込んだ駐車場で無理矢理降ろされた.新しくできたショッピングモールで,どうやら24時間営業らしい.「ここで1時間自由行動です」と言われても,到着早々買い物なんかする気にもならない.仕方なくドールの試供品のジュースを入れ替わりで飲んでいたら,店員に怒られる前にお腹が痛くなった.

「さあ,そろそろ行きましょう」とガイドが呼んでいるのでバスに乗り込むと,もう日が高い.やっと市内観光かなと思ったら,連れて行かれたのはワイキキの免税品店.「ここで2時間買い物タイムです.その後はホテルに送ります」でガイドのガイドは終了した.一応,仕事で来ているんだから,チェックインもする前から免税品なんか買えませんと言うことで,入り口のベンチで昼寝をして市内観光をしない見事な市内観光が終了したのだった.



大丈夫?

懐かしのアリゾナで乗馬とドライブを楽しもうと,カミさんと出かけたのは1996年9月だった.いつも通りのUAとくれば,機内食もいつもの通り.となると後は寝るだけ.ぐっすり寝ていこうと思ったのだが,機体が期待外れのボロだった.あちこちでギシギシいう音が聞こえて,その内に揺れた訳でもないのにハットラックがバコーンと開いてきた.真下の乗客はびっくりしてジュースはこぼすわ,大声上げるわで大騒ぎだった.それでもなんとかオレンジとワインとビキニの楽園についたのは,予定の時間だった.

その後は特に何もなかった.懐かしのアリゾナを満喫して,1週間を過ごした.

さて,問題は帰りである.帰りはフェニックスからLAへ出て,往きと同じUAの成田便だった.搭乗開始の放送が入って,機内でベルトをして待っているのだが,いつまで経っても動き出さない.放送では滑走路が込んでいるとのことだが,30分ほどしてようやく動いたと思ったら,「エンジンが不調のため格納庫の前で修理します」という機長のアナウンスが入った.機は滑走路から格納庫の前へと移動し,作業員がタラップ付きのトラックでやってきた.ちょうどこちら側のエンジンだったので窓に顔をくっつけて,どんな修理をするのかと覗き込んでいたら,トラックの荷台の昇降式タラップに登った作業員がエンジンのカバーを外した.そしてもう一人から受け取った竹竿を手に持つと躊躇も遠慮もなくエンジンをガンガン叩き始めた・・・.

そして,機は1時間半遅れで,何事もなかったように大空に舞い上がった.



世紀末の12日間

人生100年としても,一生に1回しか経験することのできない世紀末,さらにミレニアムとなれば,ノストラダムスでなくても何かが起こりそうな気になってくる.そんな2000年12月にホノルルとツーソンで国際学会があってハシゴをした.この12日間は正にそんな世紀末の旅行であった.

飛べない理由
トラブルはいきなりだった.12月13日成田発19:55のUA826は予定通りにゲートに固定され,定刻には搭乗が始まるものと思っていた.乗客はほとんどがホノルルで13日から開催の環太平洋国際化学会議への参加者だった.知った顔も多く,仲良しと集まって談笑していると,19時前に突然搭乗延期の放送が入った.放送では「機内通路の非常灯が1個点灯しないので,至急交換する」とのこと.お詫びに搭乗券を提示して売店でソフトドリンクを1杯交換して待って欲しいとのサービスも付いた.どうせ通路の非常灯なんて懐中電灯の電球を換えるようなもんだろうしと,サービスのコーラを飲みながら(注)たかをくくっていた.

しかし,いつまで経っても事態は変わらない.そのうちに放送で「部品が成田の工場になかったため,現在羽田から陸路輸送中です」との連絡.時間はどんどん過ぎてとっくに離陸予定時刻を廻っていた.成田は離陸時間に制限があり,22時以降のフライトはできない.さらに放送で「首都高速湾岸線が大渋滞で身動きが取れない」との連絡が入って,次第に乗客の顔色がなくなっていく.特に到着日に発表のある参加者は真っ青になって慌てている.21時半を過ぎた頃,「渋滞を抜けて成田まであと15分」との実況中継が入って,「22時丁度のフライト許可を取りますから,急いで搭乗して下さい」との放送があった.なんとか日本を離れたのは22時をとうに過ぎており,機内食は23時であった.

「ファイヤー!」
ホノルルでの4泊は,定宿にしているアラモアナホテルを取った.ショッピングセンターに近いし,バスセンターも目の前,プール広くてきれいとなれば,多少高くてもここに泊まってしまう.初日は成田でのトラブルで到着が遅れたとは言うものの,まだ午前中であるし,個人旅行であるからチェックインまで待てと言われて,荷物を預けてショッピングセンターのブランドショップの前のベンチで昼寝をした.昼過ぎにチェックインしてその日は何事もなかった.

関連のセッションは翌14日からなので,朝からメイン会場のシェラトンで1日を過ごした.15日は午前のセッションで口頭での発表があるので,フードコートで早めの夕食を済ませ,スーパーで朝食用のビスケットとドリンクを買い込んだ.そして部屋に戻って数回ほど発表の見直しをして,早めにベッドに入った.

「Fire! Fire!」というけたたましい放送が入ったのは深夜0時半頃だった.続けざまに「この放送は訓練ではない!至急非常階段で2階ロビーまで下りるように!」と繰り返し放送している.最初は英語放送だったが,そのうちに日本語や中国語も入って,どうやら非常事態らしいと飲み込めた.さて,火事はどこなのか,この階近くなら本当に逃げなくてはならないが,もっと上なら慌てることもない.下手に非常階段に飛び出してホールドアップなども考えられる.ドアの覗き窓から廊下を見ても特に問題はなさそうなので,部屋の中で対応策を考えた.先ずは貴重品.貴重品は電動の金庫に入れてあるから出せなくなったら面倒である.すぐに鍵を開けて中身を出し,持ち出すものと置いていってもいいものに分けた.そして翌日の発表資料,さらにはツーソンでの発表資料である.着替えをして,持ち出す荷物を持って,辺りを窺いながらゆっくりとドアを開ける.廊下には煙も臭いもない.それでも「避難しろ!」という放送は続いている.他の部屋から人が出てくる気配もない.

と,ゆっくりと前の部屋のドアが開いた.怯えたように廊下を覗き込んでいるのは,いかにもアメリカ本土から観光に来た女子大生といった感じの金髪娘であった.人気に気付いた彼女は何か聞きたそうな顔をしてこちらに出てきたが,スケスケのネグリジェにノーブラ,ノーパンで大きなオッパイと下の金髪が透けて見えている.向こうが気にしていないようなので,じっくりと観察しながらも,廊下に響いている放送を指さして「Is this true?」と言ったらにっこり笑いながら部屋に戻っていった.

彼女の行動で,残っているのが自分だけではないことが分かって幾らか安心した.そして少しすると,「火災報知器の故障だった.部屋に戻って眠ってくれ」との放送があった.安心して荷物を片付けると時間は既に2時過ぎ,明日の朝は6時には起きようと思っていたので,今から寝たらちょっと危ない.大体,あんなご立派なものを見てしまったら,眠ってくれと言われても心が火事で眠れない.結局,朝まで悶々とした時間を過ごして学会を迎えたのだった.

誰のサインだ!
悶々とした夜も明けて,無事に発表も終了し,16日は1日会場と土産物屋を往復して過ごした.翌17日の夜行便でLAに飛ぶことになっていた.16日の夜はフードコートで食料を調達して,部屋で一人で祝杯を挙げた.そして翌朝はノンビリとホテルのレストランでベルギーワッフルの朝食とした.

ルームキーで会計をツケにして,部屋に戻ってチェックアウトの準備をした.チェックアウトぎりぎりまでノンビリしてから,荷物を持ってフロントへ行った.チェックアウトを頼むと,何だか異常に長い請求書が付いている.請求額を見ると,考えていた額よりも200ドル近く高くなっている.これでOKかとやたら急かすので,ちょっと待て!と言って細々と調べてみると,今朝食べたレストランの請求が毎朝付いている.「冗談じゃあない!14日と昨日は朝マック,15日は部屋でビスケットを食べたんだ!」と文句を言うと,「おまえのサインが付いている」と言い出した.日本人は英語が苦手だから個人旅行の客はいいカモ!まさか英語で喧嘩はできないだろうからブッタ食ってやろうというのが見え見えだった.カチンときて,「こちとらアリゾナで1年間も暮らしているんだ.英語の喧嘩も何度も経験済みよ!」とばかりに「フロントのマネージャーを呼べ!レストランのマネージャーにそのサインを持って来させろ!」と大声で請求した.すると野郎はいきなりヒヨって「一寸待て」と言って奥に入って1,2分.出てきた時には下を向きながら,「サインが違っていました」ときた.「私のでないのなら問題ない.間違いはあるよ」と一応許して支払いをした.でも,その直後に,「飛行機が23時なんだけど,夕方6時までこの荷物を預かってくれない」と彼にお願いするのは結構勇気が必要だった.

恐るべし 中国人
ツーソンでの学会も無事に終了し,日本からの参加者は皆,翌朝のツーソン発のLA便で帰国するのだが,私はへそ曲がりである.折角のMy Home Town,無駄にすることはないとレンタカーを借りてフェニックスまでドライブを楽しみ,翌朝フェニックスからサンフランシスコ経由で帰国することにしていた.

まだ暗いうちにチェックアウトを済ませて,朝食のソーセージビスケット(注)を買いにマックに寄ってから空港横のガレージにレンタカーを返しに行った.フェニックス空港は何回か使っているし,特に問題はなかった.サンフランシスコは新しいビルに変わってきれいだったが,12月23日の土曜日ということで大混雑だった.便は13:30発のUA837,今回は定時に離陸できそうだった.

機内へ入ってみるとサンフランシスコという土地柄か,中国人がやたら多い.そもそもこの飛行機が成田から上海へ飛ぶのだから仕方ないだろう.それにしても,中国人の生命力には圧倒される.この日はエコノミーは満席だったが,二人分の席に転がって,アテンダント(注)に「英語は分からない」という女性,何回もビジネスに潜り込んではつまみ出される若い男・・・.幸い公用パスポートだったため,満席でビッシリの本来の席からビジネスのすぐ後ろの席に隣を空けて移動させてくれたのだが,この空席までがターゲットになってしまって,入れ替わり攻めてきてはアテンダントに追い返される.さらに,泣き出した赤ん坊をすぐ後ろの通路であやしながら,立ったままで機内食を食べる父親まで現れて,のんびりと眠ることもできないとんだ世紀末の幕締めとなったのだった.