ハンデ14からハンデ0までの軌跡 HOME

 第1話

     ハンデ14からハンデ0までの軌跡

私の辿ったハンデ14からハンデ0までの道のりを、記憶を辿りながら書いて行きたいと思います。 

身長 164センチ・

体重 63キロ・

握力 右42左43

運動神経は好い方ですが、駆け足は遅い身体条件は、並以下と言う所でしょうか。

 私が32歳の時から話を始めます。

週に1度近県の県営コースで、プレーをする事を楽しみにしていました。

県営のゴルフ場に、予約無しで一人で行くと、見ず知らずの方と、組み合わせに成りますが、

安くプレーをする事が優先ですから、どんな方と組み合わせに成っても全く気になりませんでした。

安さを優先するゴルファーが集まって来るので、上手な方と組み合わせになる事は滅多にありません、

そんな時ハーフとは言え、パープレーで回った方が、昼食の時にアドバイスをしてくれました。

(A)さん 「君は、競技志向なんだろう」

(私) 「はい、出来れば競技に出たいと思っています」

(A)さん 「それなら、こんな所でプレーをしてたら駄目だ、本当に上手い人は、フリーで県営のゴルフ場には来ないよ、

早めにメンバーシップのゴルフ場の会員に成った方が良いよ。

どんな酷いゴルフ場でもメンバーの内には、とてつもなく上手い人が居るから、上手く成りたいのなら、そう言う人と数多くラウンドする事だよ、

それには早めに会員権を買う事だよ」

上手な方とプレーが出来る機会が有るならメンバーに成るのも良いかなと思い、

友人の勤めている会員権業者から、36ホールあるゴルフ倶楽部の会員権を買いました。

第2話

 私が、初めて貰ったハンデは14でした、ハンデキャップの事を何も知ら無いので、

フロントで聞いた所「スコアーカードを5枚提出すれば2週間位でハンデが取れます。」

と言われたので5回プレーをして5枚提出しました。70台から90台まで平均で85打位だったと思います、そして届いたハガキにHC14と記してあり、

少しがっかりしましたが、まあ月例で入賞してハンデを減らせば良いやと、その時は軽く考えていましたが、現実は、と言うより自分の実力は

ハンデ14をクリアー出来るほど高くはありませんでした。

HC14で結局2年停滞して居ましたが、やっと月例で良いスコアーが出て入賞し

次に貰ったハンデは12でした。

HC12で悩んだのはオバースイングでした、友人が私のスイングを評して、

「綺麗なスイングだけど少しオバースイングだね」と言われ自分でも自覚をしていました。

色々試して来ましたが、一向にオバースイングは直りませんでした。

そんな時に行き付けの練習場で、古くなったパーゴルフの付録の小冊子が目に留まり練習場の主人に、

「貸して下さい」と言った所上げるよと言って呉れたので持ち帰り、

半信半疑で読みました、その本が自分のバイブルになる本だとは、まだその時には解りませんでしたが、

その小冊子が戸田藤一郎プロを知るきっかけになりました。

戸田プロは国内メジャー6勝を達成した名人ですが、プロ会を除名になったりして言動や行動に??が付く人物の為、

実績の割りに知名度は高くありませんでした。

まして右手で振れですから、最初は疑りながら徐々に読み進めて行き読み終わる頃には

(小冊子なので一日で読み終わった)変われそうな自分を感じました。

翌日練習場で試した所、今までスイングのトップ時に左肩越にヘッドが見えていたのですが一切見えなくなり、「これだ」と感じました。

それ以来、今現在まで一度もオバースイングになった事はありません。

自分のスイングで今まで3度革命的に変革した事がありますがこれが最初のスイング革命でした。

右手を積極的に使う打法に変えて3回目位の練習の時にはもう違和感無くショットをしていましたし曲がり幅やミスヒットも減っていました。

第3話


その頃メンバーになったゴルフ倶楽部に友人が5人程出来ました皆HC14からHC12くらいで、

誰が早くシングルに成るか暗黙の競争をしていましたが、

数年後結局私以外、他の方はだれもシングルに成れませんでした。

(私が十数年後に倶楽部チャンピオンに成った時点でも成っていません)

5人の中で才能的には自分は3番目位でした。一人は30歳位で如何にもスポーツマンと言う感じで

バランスの良い体でボールも良く飛びました、もう一人はHC12で少しオーバースイングですが

やはりボールも良く飛び、毎週土日の週2回ラウンドをしていたので大変羨ましく思っていました、

私は、週に一度のラウンドが精一杯で(平日休みでした)月例は休みを貰って参加していました。

そんな仲間の一人にとても変則スイングの若い人が居ましたが数年後にゴルフを止めてしまいました。

性格も真面目でゴルフに、とても真剣に取り組んで居たのに本当に残念でした。

ゴルフは、恋愛の片思いみたいな物でいくら自分が好きでも 一向に振り向いてくれないし、

辛く当られてしまい自分が傷付いてしまう事もシバシバと言うより

殆どの方が思う様に行かないスイングやスコアーに絶望し希望を失い、

本来楽しい筈のゴルフが苦痛になり、やがて止めてしまうか情熱を失ってしまいます。

私と其の若い友人との違いは、常識に捕らわれず何でも試して見る少しの冒険心だったと思います。


私は、何時も上手くなろうとアンテナを広く張っていたので

偶然に戸田プロの小冊子を発見し右手の活用を知り、シングルになれましたが、若い友人はそれなりに努力をしたのですが、

其の友人は、自分に大切な何かを、発見出来なかったのだと思います。ゴルフを止めると聞いた時に、

不遜ですが若い友人が真剣に取り組んで居たのを知っているだけにとても可哀想な気分になりました。

その当時は私も、何時シングルに成れるのか全然見当も付かず、ひたすら正しいと思われるスイングを求めて試行錯誤を繰り返して、

練習するたびに開眼と失望の連続で、月に一度の月例に参加しては打ちのめされる事の連続でした。

右手の活用スイングをし始めて、70台でラウンドする回数も増えて来ました。

その当時の問題点は、飛距離不足・バンカーショット・ 時々出るシャンクなどで、右手を活用し始めてから

アイアンの精度が上がりだしてミスヒットする事が減り、小技が上手いウエッジプレーヤーに成っていました。

     第4話


試行錯誤のひとつの成果としてシャンクの克服がありました。

シャンクの経験の有る人がほとんどでしょうが、恐怖のショットです、私の場合多い時には、

グリーン回りで2打連続でシャンクが出て其の日1日戦々恐々でボロボロでした。

そんな恐怖を無くす為に研究しました。

まず、どの様な状況で出るのか・どのクラブで出るのか・

を考察し練習場で再現して見ました、案の定時々シャンクが 出ます、

今度は其の現象を見極める為に目を凝らした所


「シャンクの瞬間が見えました」原因が解れば、解決方法は

見えて来ます、それ以来シャンクとは無縁です。

今私は、レッスンプロですが、私の処方を実践された生徒

さんは、シャンクを直ぐ克服し2度と悩まなく成ります。


私が深く多く、悩んだ分生徒様には簡単に説明出来るのだと思います。

右手の活用を研究し始めてから少しずつ成果も出て

上手くなっている実感は有るのですが、月例でつまづいてしまいます。

其の当時バブルの少し前位でしたのでコース側も強気で中々バックティーで打たせてくれません、

バックティーを使用するなら「1500円余計に払えと」今では信じられない様な強気でした、

何しろ倶楽部の従業員の社員旅行が「香港」何て時代でしたから。

何時もフロントティーなのに月例だけバックティーなので何時もの通り、何んてわけに行きませんし、

それにまるで知らない人と回るのですから緊張もします。 倶楽部に入会して3年ではまだ新顔です。

結局HC12で又2年を過ごしました。

     第5話


HC12に成って二年目の終わり頃はアイアンが得意になりウッドが苦手、特にドライバーで無理をする為にトラブル

になる事が多く3Wやその当時でも珍しい1番アイアンを多様していました。(完全にアイアンマンでした)

月例でその問題のドライバーが、まぐれで上手く打て70台で回る事が出来HC10になれました。

シングルにリーチの状態に成りましたが、不安だらけでした。

ドライバーに不安が有り・バンカーショットも自信が有りません・パターも日替わりで・

それに何よりサラリーマンですから時間も金も足りません、

当時のシングルさんは皆ベンツなどの外車や国産高級車に乗っている人達だらけでしたので気後れもしていました。

(因みに当時私が乗っていた車は、トヨタの大衆車カリーナの中古でした。)

シングルに成っても維持出来るのか、一緒に回った人に 「あんなに下手でシングルかよ!」と言われたら嫌だな何て、

不遜にも思っていましたのでHC10になってから暫く月例に出ませんでした。

半年近く出場を控えていましたが、黙々と練習を重ね、出来る事と出来ない事が明確に無り少し自信も出て来た頃、

練習場仲間にスイング理論の事で論争になり

友人が「俺はHC8だが君はHC10だ」と言われ、その場では反論できませんでした、しかしその友人と一緒に回っての戦績は

自分の方がかなり勝っているのですがハンデの事を言われれば一言も無く、争い事の嫌いな私でも悔しくなり「シングルに成ってやる」

と自分の迷いを振り切りシングルに成る決心をしました。

      第6話


自分の周りに居るシングルと比較して見ても私が見劣りしては見えず、ローカルの試合では時々上位に入賞し始めていました。

アイアンも切れていたし小技も自信が有ったので、シングルに成れると思いましたが、月例競技の試練は続きます。

ここでも倶楽部側は強気で、簡単にはシングルにしてくれま せん、会員権の値段が安い割にはコースが難しく36ホール有る為に、

県の強い人が集まり県の倶楽部対抗では、何度も優勝していました。

HC10の場合、シングルに成る為には月例競技で3位までに入賞して2アンダー以上を出さないとシングルにはしてくれません。

倶楽部ハウスに掲げてあるハンデキャップボードで一番

多いハンデはHC10〜HC13の層で、大きな高い壁に跳ね返されて足踏みをさせられて居る人々の不満が聞こえて来そうですが、

其れこそがこの倶楽部の強さでした。

ここと他の倶楽部の会員権を持っていて、他ではシングルに

成ったけど、ここはしてくれないと言っている複数人と回りましたし聞きもしました。

結論から先に言えばシングルになると決心してから10ヶ月掛かりました。

この時期が生涯で一番練習をした時期で、1日置きに200発から300発練習していました。

練習量からすればもっと練習している方は大勢いるでしょうが、サラリーマンとしてはかなりの犠牲を払って練習を重ねました。

練習をした次の日はインナーワークでゴルフ理論を考え体を休めます、次の日は、

前日考えたゴルフ理論を練習場で実践して試して見ます、良い物は残し実践に合わない物は消去の繰り返しです。

第7話 

    
週に一度のラウンドは会員権を購入してから続けていましたが年間45ラウンドを超える事は有りません、

ライバル達は年間70回100回と言う人はザラにいました

努力をし続けると大概の壁は乗り越えられます、上達すると又壁は其の時々に現れます、

その壁はとても高く厚く見えますがコッコツと努力をしていれば、

光は見えて来ます。

1つのテーマで数年も掛かる事も有りますが、必ず乗り越えられますし諦め無いで続ける事が、自分の長所なのだと思います.

こんな練習をしながら毎月の月例競技に挑戦する事10ヶ月目、夢を適える事になるラウンドでの事です、

最終ホールまで2オーバーで来ていましたが、それまで好調だったショットが曲がりダボにして仕舞いましたが、

其のホールを終えると、同伴競技者が「シングルおめでとう」と手を差し伸べてくれましたので

「ありがとう御座います」と握手をさせて頂きました。

76打で優勝タイスコアーの2位でした

優勝した方はHC6で最終ホールをバーディーで上がったそうです、其の時感じたのは嬉しいのはもちろんですが、勝つ

人と2位で終わる人の差でした、自分は最終ホールをボギー でホールアウトしても優勝だったのだと思うと、

喜んでばかりは居られないと少し反省しました。

帰りの車の中では嬉しくて嬉しくて幸せでした。

第8話


2週間後HC9のハガキが届きました。

念願のシングルですが、相変わらず下手で苦手だらけです。

当時の問題点は、ドライバーの飛距離不足及び不安定・バンカーショット・バンカーショットなどは

今回の月例競技でも逃げまくりました。

バンカーに入ってしまうとダボになる可能性が高い為大袈裟に逃げまくりました。

  1. ミドルアイアンでのバンカー越え禁止
  2. 左にガードバンカーが有ればグリーンセンターより右に乗せるかグリーンを外しても構わない。            

 左にバンカーが有れば其の逆の狙い

  1. バンカーに囲まれたグリーンなら度胸を決めてグリーンのセンターのセンターだけを見てショットする

しかし何時までも逃げて居る訳に行かないので研究を始めました。

私の所属する倶楽部のバンカーは砂が硬く薄いのが基本ですが時たま砂の多い場所があり

ホームランを警戒するとザックリでバンカーから出ないと言うダボのパターンです。

今でもそうですが小技は得意ですので、アプローチの打ち方でバンカーも対処しようとしていた事がそもそもの間違いでした。

ここでも大変悩んで、研究した結果バンカーショットも克服出来、止めるショットもランさせるショットも打てる様になり、その後は悩んでおりません。

HC9に成ってから、自分のHC10を振り返って見るとやはり足りない物が多く力不足だったなと思います。

     第9話


この頃バブルの最中で月例競技に申し込んでもキャンセル待ち、日曜日に一人で、予約をしないでコースに行くと36ホールも有るのに、

プレー出来ずに帰される事もありました。   

当時平日が休みの自分でしたが、旗日に休みが重なった場合は、7時の開場前に入り口に並び、

キャンセル待ちをして11時にやっとスタートした事も度々有ったので、危機感を持っていました。

それで近くに、もうひとコース会員権を買う事にしました。


メインは現在のコースですがプレー出来ずに返された時の 保険のつもりで買う事を決めました。

今回のコースは山岳コースで、とても狭くやたらとOBの多いコースでした、買ってから失敗を悟りました、

一度位視察プレーをすれば良かったのに、自分の軽率を反省しましたが、5年のローンだけはしっかり重く圧し掛かっりました。

バブルの頃はプレーを楽しみたい自分にしてみれば大いに迷惑その物、何の恩恵も受けませんでしたが、

今のデフレに比べれば自分の周りの人が生き生きと感じられました。

話がそれてしまいましたが、新しく買ったコースの効略法を考えるにやたらOBの多いコースの為インテンショナルに

ボールを曲げないと攻略出来ないのでインテンショナルに曲げる事を熱心に練習しました。

(インテンショナルに曲げるショットで最後まで上手く打てなかったのは、低いフェードでした。

打てる様に成ったのはHC3に成ってからでした)

     第10話

 シングルになってからは毎年の様にハンデが減りました。

シングルに成る為に過ごした10ヶ月の練習の遺産の様な物で、1年もしない内にHC8に成り、

翌年HC7のハガキを受け取った時、とても不安になりました、HC7+72=79回

常に70台で回るゴルフをするなんて!その時の自分には不可能でした。

文章では凄く順調の様に書いていますが、ゴルフに対して

バーンアウト(燃え尽き症候群)の経験も有ります。

HC7の時でした、プレーをしても、つまらなく感じられ、

冷めている自分に気付きました、3ヶ月間練習もコースも行かずに過ごし、手に出来ていたタコも消えていました。

原因は、フェード系の球筋の為アイアンは安定しているので良いスコアーは出るのですが、

飛距離不足でかなりの年上の方にもアウトドライブされてしまい、

顔には出せませんが、情けない事この上無く、悔しい思いを度々して居た為に

バーンアウトしてしまったのだと思います。

バーンアウトして3ヶ月過ぎ季節は秋の始まりで、ゴルフに絶好で他にする事も無いので仕様が無くゴルフに行くと、

良くフリー同士で一緒になる方との組み合わせになり、気楽に和気藹々とプレーをして「ゴルフて楽しいね」と言った所、

その方が「何言ってるの、ゴルフは楽しいに決まってるよ」

その会話で、何故か吹っ切れましたスコアーは80台後半でしたが、憑き物が落ちたとでも言うのでしょか、

やる気になって居ました。 それから球筋をドローにする研究をし、間も無くドロー打ちに成り、10ヤード以上飛距離が伸びました、

上を見れば切りが有りませんが240ヤードの飛距離が有れば何とか凌いで 行けます。

次の目標は年間平均70台を目指す事にしました。

     第11話


この頃ホームコースに一人で行くと、他の人と組み合わせになるのですが、ほとんど負ける事は無くなっていました。

HC7に成ってから月例競技には出なくなりました。

仕事を替え、平日休みは同じですが日曜日には休め無くなったからです。

月例競技には出ませんがラウンドの時には、何時も1人月例のつもりでプレーをして、

同伴プレーヤにはOKを出しても自分は完全ホールアウトをしていました。

試合では30センチのパットを外す事もあるわけで、気を抜かないプレーを週1回続けて行きました。

(このプレースタイルが後年試合で生きました)

2年連続で「年間平均80.05打」前後での苦しみを経て。

年間平均70台の目標を定めてから3年目に1年間で42回プレーをして「年間平均79打」を初めて達成しました。

初めて年間平均79打を達成した翌年ピンチでした.

年末になり、年内あと2回プレーを残してギリギリの平均79点台後半でした、

冬で寒いし・風が吹くし余りに厳しい天気条件ならプレーを止め様かと思う程、ギリギリの状態でした、

「残り2試合を残し首位打者をキープする為にスルーする野球選手の話も有りましたが」スケールと事の重さが違いますが凄く良く解ります、

「1年間頑張って来たのです残り2試合くらい、良いだろうと」

しかし両日ともマズマズの天気でしたので、逃げる訳にも行かず、覚悟を決めてプレーをし、

何とか両日とも70台でプレー出来この年も年間平均79打をギリギリ記録出来ました。

それ以来毎年楽々とクリアーしています。

    第12話


HC6に成りましたが、

相変わらずドライバーは不安定でした。

この頃に自分にとって2度目の革命が起こりました

下半身主導のスイングに開眼出来たのです。

これまで何度も何度も下半身主導のスイングに挑戦して来ましたが、何回挑戦しても上手く行かない、しっくり来ない

ここ5年来研究して来ましたが、やっと自分の物にする事が出来、その効果たるやドライバーが曲がりませんし叩く事も出来ます。

それまで朝イチ番のティーショットは不安で不安で成功の確率は40パーセント位でしたが、

下半身主導にしてから朝イチ番の成功確率は90パーセントと言える程失敗しなく成りました、飛距離も少し伸びました。

 もう少しゴルフに係わりたくて、工房併設のゴルフショップを開店しました。

店名を「ビッグキャリーゴルフショップ」としました。

元々クラブいじりは、好きでしたしヘッドを削ったり自分の 扱い易い様に加工していましたが、

開店の少し前から本格的にクラブ作製・修理技術を習いました。

教えて呉れた長沼さんにはとても感謝しています。

長沼さんはBSのプロサービスカーの初代リペアーマンとして候補に挙がった人でプロゴルファーとの係わりも多く面倒見の良い方です、

今は引退して居ますが残念です。

開店当時はリシャフトのブームが始まった頃で、友人のゴルフ仲間が尋ねて来てくれ、売り上げに協力をしてくれてとても助かりました。

       第13話


1994年7月20日が開店記念日で今年2011年で17年に成ります、工房ショップとしてはもう老舗?の部類です。

開店するに当り思ったのは、ショップを軌道に乗せるまで

「もう試合に出る事は暫く無いな」と思いました。

実際に競技会に出場したのは、開店から4年目の事でした。

下半身主導のスイング変換が成功しHC5に成りました。

年間平均も78打に成り一層の安定感が出て来ました。

当店のお客様に、年間平均スコアーを聞いても70台の方は何人もいません、

70台を記録されている方は大概、何処かの倶楽部チャンピオンの経験者や公式戦で何時も上位に居る方でした。

私の住んでいる県で県アマチュア選手権の決勝が行なわれるコースの倶楽部チャンピオンが年平均77と言っていました、

そのコースは7000ヤードを越える丘陵林間コースでコースレート73です。

私のホームコースは丘陵の6700ヤード・コースレート71です。

その倶楽部チャンピオンとラウンドを何度もしましたが、ある時

「河野さん何故クラチャンに出ないの?」と聞かれ

「店が安定するまで試合には出ないつもりです」と答えましたが「それよりも自分では力不足です」とも付け加えました。

「そんな事ないですよ技量的には十分です」

と言って呉れたので、自分の行なって来た練習は間違いでは無いなと、少し自信を持たせて頂ました。

しかし現実問題としてホームコースには其の県の強い方が沢山居るのでとても無理だと思い聞き流していました。

数年後、私も倶楽部チャンピオンに成るのですが、その方に

「クラチャンに成れたでしょ、俺見る目が有るんだから」と言われ、ただただ脱帽でした。

       第14話


仕事柄他人のポテンシャルや力量は、人いち倍見る事が出来ても、自分の事は見え難い物で、

後年レッスンを始めてから3年で8名の倶楽部チャンピオンに関われたのも、その方の力量を正しく認識し、

道筋を見付けてあげれば、その方の成り得るベストに導く事は出来ます。

8名の中には「とても自分には成れない」と言っていた人も2名居ましたが、

私の目から観て十分に倶楽部チャンピオン に成る要素を持っていましたので

「目指しませんか?」と レッスンのお誘いをして、お二人共見事に倶楽部チャンピオンに成りました。

他の方は、弱点が有り、どうしても克服出来ないので、相談を受け、弱点克服レッスンを経て倶楽部チャンピオンになりました。

以上は、後年の事で又話をHC5に戻します。

下半身主導のスイングに馴れて来たので限界に挑戦して

ドライバーを万振りした所、背中にグギと強烈な痛みを感じ

翌日お医者様へ行くと、「全治3ヶ月」と言われ、覚悟はしていましたが愕然としました。

起こって仕舞った物は、どうする事も出来ないので、この際 フルショットは、出来ませんがグリーン周りを想定した

小技なら出来そうだったので、小技の研究と練習をしようと思い経ちました。

      第15話


自宅の庭に、マットを置かず、直接土の上から打てる場所(キャリーで5ヤードくらい)を作り、

お店に行く前に30分から1時間位、週5日「全治3ヶ月」の間続けました。

3ヶ月が過ぎて、痛みを余り感じなく成ったので、久し振りに練習場に行きボールを打ってみました、左程、違和感無く

振れたので、其の週の休日にラウンドをして見ました、ドライバーは、少し飛距離が落ちていましたが、普通にプレーできました。

スコアーは、79打で御一緒した方に「3ヶ月間ラウンドをしていないし、フルショットしたのも、先日から3回目です」

と言っても信じて頂けませんでした。

朝ベアーグラウンドからの小技練習の時感じて居たのですが、30分ベアーグラウンドから打つだけで

実際にラウンドしたのと同じ効果がある様に思います。

の3ヶ月の思わぬ小技特訓の御蔭で、ただ勘だけで打っていたアプローチでしたが、厳しい状態のボールを打つ事により、

アプローチの理論を確立出来ました。

不思議なのは、怪我前と3ヶ月後のラウンドでそれ程飛距離が落ちて居ない事です、筋力も落ちている筈なのに??

下半身主導のスイングをしていても「未だ飛距離を出すスイングに到達していない」

その当時は、何と無く釈然としないながらそう思いました、答えらしき物が出るのは、それから10年後です。

       第16話


ビデオカメラを購入したのもHC5の頃でした。

それまでは、友人のビデオカメラで撮って貰う為に1時間近く掛けて友人の家に通っていました。

動画で観るスイングは色々な事を教えて呉れます、私のスイング映像で残っている1番古い物は1990年の物です。

その時のスイングを観れば、自分がどんな事を考えて居たのか良く解ります、

自分のスイングを観続けた事が今レッスンで非常に役に立っています。

ビデオを頻繁に使える様になったので、スイングの無駄な部分を省く作業をして

、シンプルでコンパクトなオンプレーンスイングにする事に専念しました。

シンプルでコンパクトなオンプレーンスイングは、緩みが無いので再現性が高く、緊張感の中でも同じ動きが出来ます、

究極のスイングに近いのでは無いかと思って研究していました。

スイングを小さくすると飛距離が落ちますが、ある気付きで克服出来、飛距離を落とす事無く

コンパクトなスイングを 身に着け無駄の無いスイング変更に成功しました。

HC5で2年過ごしHC4に成りました。

       第17話


店舗契約が切れるのを機に、現在の川越市平塚にショップを移転しました。

自宅兼店舗です。一階が店舗・工房・試打室・二階が自宅です。 

前から自宅兼試打室付きのショップを作るのが夢でしたので又夢を実現出来ました。

店は、プレハブで良いと思って居たのですが、女房の尽力で店舗兼自宅を建てる事が出来ました。

優秀な伴侶を持つと人生が楽です。

ショップを移転する、少し前からパソコンの勉強を独学で始めました。ワープロで、お客様管理をしていましたが、

限界を感じて居たので、パソコンを導入して事務を楽にこなせる様になりたいと思い勉強しました。

「目標は3ヶ月でホームページを立ち上げる」

友人の助言で、「ホームページを作る為にはPCに必要な全てが必要だから良い勉強になるよ」と言われホームページ作成を目標にしました。

ここでも、自分の好きな事には、夢中に成れると言う特性が発揮されて、

パソコンに夢中になり夜中の2時3時まで店 (ビッグキャリーゴルフショップ)に居るので、

度々女房から 「良い加減にしたら」と電話が掛かって来ました。

静かな深夜、急に鳴り出す電話の呼び出し音には肝が冷えました。

パソコンの本を見ながら操作方法やソフトの使い方を勉強して3ヶ月でホームページを立ち上げる事が出来、

その時点でブラインドタッチにも成れました。 得るものが有れば失う物も有りで、視力は1.2有ったのですが、

長時間パソコン画面を見続けた結果0.8まで落ちてしまいました。

パソコンを覚えたお陰で、後年レッスンを行う時に、パソコンに生徒様のスイング動画を取り入れる事により、

説得力の有るレッスンが出来て居ると思っています。

       第18話


サブとして買った山岳コースの研修会に入会させて頂きました。(開店してから4年目でした)

経緯は、お店の定休日に山岳のホームコースに行った所、上手そうな人達が何組かスタートする所でした、そのコンペの中に、

前に御一緒した方が居たので「何のコンペですか」と聞いた所「研修会」との言葉でしたので「会員なら入れるのですか?」と聞くと、

入会条件を教えてくれました。

  1. HC10から入れるが年間5回以上出場出来る方。
  2. 開催日は日曜日6回・平日6回・の都合12回・平日は火曜日に開催する事が多い事。
  3. HC10〜HC5までは推薦者2名・HC4は無条件で入会出来る事。

自分は、HC4で火曜日は、お店の定休日なので条件はクリアーしているし、都合が良いので入れて貰いました。

この山岳コースはフリーで来ても上手な方と回れる事は殆ど無いので、上手な方と回れるならこのOBの多いコースにも来る気になるだろう、

くらいな気楽な気持ちで入会させて頂きました。

この研修会が、開店から4年目の久し振りの試合でした。 

入って3回目の研修会の時に、倶楽部チャンピオンで研修会会長と同じ組になり色々話をした所、倶楽部対抗に出場する為に、

研修会を立ち上げたそうで、この研修会は倶楽部対抗のメンバー選考会でも有るとの事、そして「現在トップは君だ」と言われ、吃驚しました。

    第19話


研修会入会初年度は、4回の出場でスコアーはトップでしたが、回数が足りない為に控えの選手になってしまいました。

研修会入会初年度は、4回の出場でスコアーは (パー72打のコースです)

3月(火曜日)研修会74打 (入会)

5月(火曜日)研修会69打

8月(火曜日)研修会72打

11月(火曜日)研修会69打でした。

其の年以降、5年間在籍し、毎年倶楽部対抗の選手に選ばれていましたが、本戦では中々活躍出来ませんでした。

(何時も6名のチームの中間の成績でした)アマチュア時代の心残りは、チームプレーで有る倶楽部対抗で

もう少し、良い成績を残したかった事です。
私が、練習ラウンドと同じスコアーで本戦をプレーをして居れば関東倶楽部対抗決勝戦に

1度ならず2度も出場のチャンスが 有ったのです。

6名のチーム戦で、その中間の成績ですから、誰も私を、責めませんが、不甲斐ない自分がとても、情けなかったです。

倶楽部対抗の当日の応援は、他の倶楽部よりも多数の応援団が駆け付けて盛り上がり、選手を応援してくれました。

永い間1人で行動していた私を、仲間として受け容れてくれた、研修会の仲間と共に決勝進出を喜びたかったのですが、残念に思っています。

夏に、この山岳コースで「倶楽部選手権」俗に言う倶楽部チャンピオンの決定戦が行われます。

倶楽部競技は、日曜日に開催されるので、経営しているゴルフショップを、休みにするとお客様に、

御迷惑を掛けてしまいますので、当初参加する気は有りませんでしたが、「研修会員は全員参加を義務付けられている」との、

会長の一言で参加致しました。

       第20話


試合方式は、予選27ホールスクラッチ・決勝27ホールスクラッチで行われます。

結果、初出場でメダリスト(メダリスト=予選をトップで通過した選手)でした。

予選の時はショートパットが入りましたが、決勝では、大事なパットを、ことごとく外してしまいました。

結果2位です。

ショートパットは、この後3年間悩み続ける事になります。

翌年の倶楽部チャンピオンも2位でした、2年連続で負けましたが、相手は同じ人ではありません。

山岳コースで有りながら、強く上手い人が揃っており、毎年の様にチャンピオンが代わる面白い戦国時代でした。

2年連続2位の、この翌年辺りから花水木の花を目にすると「胃がキュと締まる」感じになる様になりました。

花水木の花が咲くのは、私の住んでいる関東地方では、5月初めから中頃です、その頃までにスイング調整を終え、

戦える準備が出来ていないといけません、花水木の開花が、その気持ちに関連付けられてしまったようです。

後年クラブチャンピオンに成ってからは花水木を見ても「胃がキュと締まる」事は無くなりました。

      第21話


年間平均76に成りました、HC4に成ってから4年間掛かりましたが、HC3になりました。

メインの「丘陵コース」では無く「山岳コース」でした。

HC3に成りますと、関東月例に出場する事が出来、前から1度は、出て見たい試合でしたので、HC3の通知を受けて直ぐ出場のお願いを、

倶楽部の方に申し込みをお願いしました。

関東ゴルフ連盟主催の試合は、個人の直接申し込みは出来ません、倶楽部を通しての申し込みになり、

関東ゴルフ連盟主催の試合で何か不都合を行った場合、即座に倶楽部側に注意と供に通報されそれなりの処分を受けます。

ここで先の(第13話)倶楽部チャンピオンから忠告を受けました、

「河野さん山岳のコースから申し込むのですか?」

(私)はい。

「関東ゴルフ連盟(KGA)主催の試合では、選手は簡単には所属コースを変えないから、慎重に考えた方が良いですよ」

(私)・・?

良く聞いてみますと、昔からの慣例で、心ある方は、簡単には所属コースを変えません、変えると、何か其のコースに居られなくなったのか、

何かトラブルを起こしたのかと、見られるそうです。

「河野さんの場合、山岳コースは知名度が低く、誰も知りませんが、丘陵のコースは、有名だから丘陵コースから出た方が良いですよ」

(私)別段そう言う事にはこだわりませんよ。

「関東月例は一都六県のHC3以内の方が集まるので、個人を区別する為に、コース名+名前(山岳コースの河野)と呼ばれますよ」

(私)「何と呼ばれようと、こだわりませんよ。それより有名な強い方と回れるのが楽しみです」

     第22話


それから色々レクチャーを受けました以下です。

  1. コース入場時に、ブレザーを着用(着用していない場合、試合に出場できません、出場した場合2ヶ月出場停止)後日、
  2. 当店のお客様で、初めて関東月例に出場する方に、アドバイスをしたのですがブレザーを忘れて行って、帰宅させられた上に、
  3. 出場停止1ヶ月を言い渡された方も居ます。

其の方には、関東月例は遠方で行われる事が多く、何か有ると困るから一緒に行きましょうと言ったのですが、一人で行きその様な事になってしまいました。

  1. 革靴
  2. 携帯の使用禁止
  3. 倶楽部ハウス内での脱帽

関東月例に出て来る様な方は、倶楽部を代表して出て来ている積りで行動して下さいとの、お達しだそうです。

「河野さん、倶楽部対抗のメンバーに選ばれた時バッジをわたされたでしょう。?」

(私)ええ、貰いました??

「関東月例に出場する時にはして行った方がいいですよ」

(私)何故ですか

「皆さんしてますよ、ステータスなんですよ(笑)、俺は倶楽部の代表選手なんだぞ、と言う」

(私)子供みたいですね

本当に、多数の方がそのバッジをしていましたし、何年も前の物をしている方も、結構いらっしゃいました。

当然私も2回目からして行きました。

関東月例でも3試合目にポイントを取る事が出来ました。

その後も何回かポイントを獲得したので、下位ながらランキング入りしました。

ある日、山岳コースの支配人に

「河野さん、ありがとうございますと言われ、」

(私)「何ですか?」

「ゴルフ場協会の会報に、当山岳コースの名前が載っています、河野さんのお陰です」

関東月例で、下位ながらでもランキング入りしたお陰で普段挨拶程度で、親しく話もした事の無い支配人に、感謝される

とは、思いも寄らぬ事です。

年間平均75打になりましたがHC3は其のままです。

     第23話


翌年、私がメインにしている丘陵コースの倶楽部選手権に初出場しました。

予選は、1日で36ホール行われ、予選の1ラウンド目は81打をカットラインとして2次予選に出場出来ます、その後上位20名により決勝が翌週行われます。

1次予選の組み合わせで、懐かしい人と組み合わせになり、当日を楽しみにしていました。

私が、この丘陵コースに入会して間も無く出来た、友人との組み合わせでした。

「河野さんばっかり上手く成っちゃって」

と少し皮肉を言われながら、楽しくラウンドさせて頂きました。友人は、20年前と同じスイングでした、あらためて、

人間は変われない物なんだなと、つくづく本当につくづく思いました。

途中から彼の応援団に成り、切れそうになる彼を、励まし続けましたが、最終ホールをボギーにしてしまい、

友人は82打でした。1打オーバーで予選落ちです。

(友人)「俺、予選落ちだけど、久しぶりに良いゴルフが出来たので満足です」と私と、握手しました。

私から見ると、彼のゴルフは、もったい無い事だらけで少し改善すれば未だ、いくらでも上手く成れそうに感じましたが

多分変われ無いだろうなと思い、少し悲しみを覚えました。

私の方は、最終ホールをバーディーとし1アンダーの71打で1次予選トップでした。

第24話


次の2次予選も手堅くパープレーの72打で回り、2ラウンド143打の1アンダーで又もメダリストに成りました。

倶楽部ハウスに表示された順位表を見て、トップの河野てだれだ?の声が聞こえて来ました、

それに答える様に「川越市でゴルフショップをやっている人らしいよ。」

平日ゴルファーで月例に10年以上出ていませんから、まるで無名のプレーヤーです。

翌週の決勝ラウンドは、アゥエーでした、丘陵コースの研修会がプライドに掛けて、研修会のプレーヤーを応援しますし、

負けたヒガミでしょうが、倶楽部側もその様な風に見えました。

予選上位の4名が最初の組で以下成績順の組み合わせです、私がボギーを打ったり、スコアーの変更が有ると、

直ぐに後続組みに伝わり、驚きと、アゥエー感を感じました。

予選はメダリストでしたが、追いつかれて・抜かれ・又追いついて・プレーオフで負けて又2位でした。

このプレーオフでの事ですが、初めてアドレナリンで飛び過ぎると言う経験をしました。

プレーオフのひとホール目は、サービスロングですが、私は何時も5Wで刻みグリーンの手前に有るバンカーには、

一度も入れた事は、有りませんでした。

バンカーに入れさえしなければ、かなりの確立でバーディーを獲る事が出来ていました。

このサービスロングは、予選・決勝の4ラウンドで3回バーディーを獲っているホールです。

それもバンカー手前に刻んで獲ったバーディーです。

もう夕方で外気も冷えて来て居ますから、絶対にバンカーには届かないと思い、普通に何の躊躇も無くショットしました。

相手はロングアイアンでナイスショットしてツーオンさせた様な感じでした。

カートに乗って先導していた研修生が、グリーン方向から我々の所に帰って来て、

私に向かって「ボールはバンカーです」と言いました。

とても信じられませんでしたが、バンカーに入っていました。

それもボールのライはグリーン寄りのアゴの下(考えられる最悪の所)で「あれは出ないよ」と言うギャラリーの声が聞こえて来ました。

      第25話


不思議でした、これが良くプロの試合で言っているアドレナリンなのかと、冷静に何時もの通り5Wで普通にショットをしたのに飛び過ぎました、

信じられませんでした。

そのバンカーから、ピンまで5m.の所に3オンしましたが、相手が50センチに寄せてOKバーディーです。

この5m.を入れなければ負けです。

プレーオフのキャディーさんは、今日一日、一緒に回った優秀なキャディーさんでは無く研修生でした。

2人で読んだ通りにパッティングしましたが、思った程切れず、私のパー、相手のバーディーで決着してしまいました。

悔しいです、コースは違いますが3年連続2位です。

完全にシルバーコレクターになってしまっています。

 3年連続2位の最大敗因で有るショートパットの研究を初めました。

当店のお客様に、プロも一目置くパターの名手が、お二人居られますので、色々お話を聞かせて頂きましたが、お二人供言う事に、

共通している処が少なく、それぞれに天才なんだなと思い、やはり、自分で確立して行くしかないと思い、最優先で考え続けました。

このお二人に共通しているのは、良い転がりだと言う事です

一緒にラウンドしたグリーン上の事ですが、パターの天才AさんとAさんの友人が、同じラインになったので見ていますと、

Aさんの友人のボールは左右に微妙に揺れながらカップを外れましたが、Aさんのボールは横揺れせず一直線に、

ネズミが穴に入る様にカップインしました、同じラインでも、これ程転がり方が違うのかと強烈なショックを受けました。

      第26話


そう言えばAさんと以前、バリバリの高麗グリーンでラウンドした時でも、ネズミが穴に入る様にカップインさせて居た事を思い出し、

その場でヒラメキました。 後半の私のパッティングを見てAさんが

「良い転がりをする様になった」

と声を掛けて呉れました、私を一番悩ませていたパッティングに開眼出来た瞬間で、その後パッティングに必要な理論も次々に見えて来ました。

*転がりの良さ

*ヘッドコントロール

  1. 再現性の正確さ
  2. 距離感

 以降パッティングで悩む事は無くなり、今では、パッティングの上手いプレーヤに分類されて居ます。

ラウンドを重ねる毎に、パッティング理論の自信を深めています、確かな理論を持つ事が、ゴルフの上達には、大変重要です、

只闇雲に1万発ボールを打っても、中々上達出来ないと思います。

もう亡くなりましたが、ベンホーガンは、80歳を過ぎても、月に1度のラウンドでパープレーでラウンドしていたそうです。

インタビューアーにコツを聞かれて。

「新しい事は何もしない」と答えたそうです。

作り上げたスイング理論の確かさが、80歳でパープレーを 成さしめているでしょうし、

ゴルフは、本当に大事な少しの部分を守るだけで、良いのでは無いかと思います。

真理はシンプルで美しい、スイングもシンプルで美しく見えるのが本物だと思います。

     
第27話

{パッティングに開眼してから7年(2011年現在)経ちますが「たぶん、この先もパッティングには、悩まない」だろうと思っています。}

この年も年間平均75打でメインの丘陵コースからHC2の通知が届きました。


話を元に戻します。

しかし不幸は続きます。

メインの丘陵コースの倶楽部チャンピオンでまた2位でした。

これで4年連続の2位です。

今回の試合は最終ハーフを残して1打を追う立場でした。

ショットは好調で、セカンドショットは5m.前後に付くのですが、パットを入れ切りません。

相手はしのぎのゴルフになっていて、崩れそうなのですが、しっかりパーを拾って来ます。

このハーフ程、1打の重みと、遠さを感じた試合は経験した事がありませんでした。

その時の感覚は、この先何ホールプレーをしても、私は、ボギーを打つ事は無いだろうと言う感じと、

1打を縮める事が出来ないジリジリとしたもどかしさを体の芯で感じていました。

私は、勝てませんでしたが、其の時感じて居た感覚こそアスリート達が勝つ時に感じる「ゾーン」だったと思います。

しかし、私に力量が無い為にパーを獲るまでの「プチゾーン」にしか入れなかったのでしょう。

細心の注意をしながら攻める、優勝争いこそ技量を向上させるのだと、試合直後に思いました。

良い経験をしました、しかし又負けてしまいました。

第28話
4年連続の2位、良く言えば安定している、悪く言えば勝つ為の何かが欠けている、これは勝つまで答えは出ません。

この年私は、48歳でした、50歳に成ったら、シニアプロに挑戦する決意を固めました。

店の方も、固定客が有り、従業員は雇わず独りで気楽に営業していますから、ある程度自由が利きます、試合の日は、

女房にお店を見て貰えるので、翌年1年間だけ、お客様には申し訳ありませんが、試合経験の為出られる試合はなるべく数多く出る事にしました。

  平成16年に出場した全ての試合戦績

*4月埼玉県・研修会初出場・霞ヶ関カンツリークラブ3位

  1. 第17回埼玉社会人テレビ選手権・森林公園予選メダリスト・決勝20位対翌年シード
  2. 山岳コース倶楽部対抗選考順位1位
  3. 第35回日本社会人ゴルフ選手権・船橋カントリー倶楽部予選5位対・決勝・浜松シーサイドゴルフクラブ75位
  4. 関東ミッドアマチュア選手権・第三ブロック予選・武蔵カントリークラブ・豊岡コース3位通過、決勝・腰痛の為棄権
  5. 第26回埼玉県アマチュア選手権・予選・鶴ヶ島カントリー倶楽部・初出場5位通貨
  6. 山岳コース・倶楽部選手権予選メダリスト・ 決勝プレーオフにて2位・これで5年連続の2位です。
  7. 丘陵コース倶楽部選手権予選・2位・決勝1位

 この年49歳でしたので、最後の最後でやっと倶楽部選手権で勝つ事が出来ました。

第29話

山岳コース倶楽部対抗選考順位1位に成った時に、事務局からハンデの変更を告げられました「HC0に成ります」

(私)「このコースで、HC0に成って居る人は、皆さんクラチャンの経験者ですから、自分もクラチャンを取ってからHC0にして貰います」

不遜ですがその様に告げてHC1にして貰いました。

結果は上記の通り2位でしたが、これも心に残る試合でした

ので記します。

予選は、私がメダリストでしたが、決勝では研修会会長の調子が良く決勝戦の最初のハーフをスリーアンダーの33打で回り、逆転されました。

私は、最初のハーフで久し振りにOBを打ってしまい(記憶に無い位久し振りにOBを打ってしまいました)

ひとホール置いてまたOBを打ちその後バーディーを3個取りましたが、もう一つボギーを打ち、38打でした。

次のハーフで立ち直り、ワンアンダーの35打としましたが 会長も35打でラウンドして、会長は68打で回りました。

最後のハーフで会長が崩れを見せ、後2ホール残しで1打差に追い詰めました。

前年に丘陵コースでの、1打差の経験が有りましたし、流れは、少しですが私に向きつつ有る感じでした、

しかし記憶に無い位久し振りにOBをしかも2発も打つくらいですから本調子では無く、中々追い詰められませんでしたが、

会長の3連続ボギーで、結果的に追い着いきました。が、最終ホールを、私がパーを取れば勝ちの場面でしたが80センチを外してしまい、

二人供ボギーにしていまい、 またプレーオフです、会長はさすが経験豊富なだけあり、プレーオフになって、開き直っているのが見て取れました。

2ホール目のロングホール、会長がツーオンをさせて来ました。

パターの得意なプレーヤですから、必ず悪くてもバーディーは取って来る筈です。

第30話

私のボールは残り40ヤードのフェアウエー中央ですが、左足下がりの難しいライでしたが何とか2m.に寄せました。

会長のファーストパットが1m.残しです。

私が、2mを外し会長が緊張の中で1mを入れて、私が、負けた試合でした。

5年間で、山岳コース5回と丘陵コース3回、都合8回の倶楽部選手権に出場して5年間連続2位と言う記録は、

辛い記録では有りますが、最後の最後で勝った事により、とても価値の有る5年連続2位でした。

 最後の最後に勝った試合はメインの丘陵コースでした。8打差の優勝でしたが、最後のハーフが始まる時には1打差しか、有りませんでした。

3打差で追って来る方が、最後のハーフのスタートの時 「もう河野さんで決まりだな」

私が、崩れそうに無いので、言葉によるザ・ニードル(アメリカのゴルフ用語で「針の一刺し」と言われるライバルを殺す方法)を仕掛けて来たり、

極限の場面になると、人間性が現れます、私は、冷静でしたので。

(私)「何を言ってるの1打差なんて、何の意味もないですよ」

案の定1ホール目の10番で、私が、ボギーを打ち2位の方と並んでしまいました。

其のホールは、打ち下ろしですが、477ヤード有りボギーになり易いホールです。

私のボギーで並びましたが、振り出しに戻っただけで冷静でした。

並んだ方が崩れたのは、13番でした、其の方は13番を苦手にしていて、3ラウンド目もボギーでしたので余程嫌いらしくこのホールを、

ダブルボギーとして、私と2打差に成りました。

ここで又「河野さんで決まりだな」

(私)「まだ解りません」

第31話


14番の打ち下ろしのショートは、全員難なくこなし15番の短いロングです、3ラウンド目は、私以外3人がツーオンか、グリーンエッジまで運び、

楽々バーディーを取り、私1人ボギーだったホールです、奥に切ったピンをPWでデッドに狙った所、少しグリーンをオーバーしてしまいました。

ボールのライは、不幸にも点在して在るベント芝のラフで、鳥の巣の様な状態でしたので、寄せきれずボギーでした。

しかし、今回は3人がパーで、私1人がバーディーを取る事が出来ました。

少し楽な気持ちに成りましたが、 しかし油断は出来ません、何しろこれから始まる16・17・18番ホールの事を、

通称、地獄の1丁目2丁目3丁目と言う位油断の出来ないホールが続きます。

16番ホールは全体が一本の半島に成っていて左右OBでティーから240ヤード先は、くびれて狭くなります、

私は、何時も安全に左ラフから軽いフェードで240ヤード少し手前に置く様にプレーを心掛けていますが、

このラウンドでもそれが出来、難なく通過しました。

この時点で4打差に成りましたが、次は地獄の2丁目の17番です、短いのですがの狭い、飛ばし屋ならワンオンも出来るが、

少しでもプッシュアウトすると右にOBが在る、追って来る、飛ばし屋の人達にとっては悩ましいホールです、

私は、何時もの通り、フェアーウエーセンター右に狙いを定め、そこにストレートの球筋で打つ事が出来ました。

すると、又ここで、今度は別の方から「河野さんおめでとう」の言葉が掛かりましたが、(私)「まだ解りません」

最後の最後まで気を抜く積もりはありませんでした。

        第32話


17番を終えた時、一番警戒していた方から「おめでとう」と言われましたが、「まだ解りません」とだけ答えました。

18番は、少し打ち上げのロングホールです。

予定通り2打目を残り100ヤードに置き、3打目で、右手前のピンをピッチングの軽いフェードで狙い

1ピン横に付けた時に又「河野さんおめでとう」と声が掛かりましたので、

(私)「ありがとう御座います」とお答えしました。

初めて勝利を実感した瞬間でした。

初優勝です。

クラブハウスに戻ると、大勢のキャディーさんが迎えて下さり

祝福してくれ、とても感激しました。

今まで、多数のクラチャンの誕生に立ち会ってきましたが、大勢のキャディーさんが祝福で、迎えてくれたのを見た事がありませんでしたので、

感激しました。 表彰式では、相変わらずアゥエーでしたが、充実感一杯で楽しませて頂きました。

 HC0は自分で辞退してしまいましたが、HC0に到達する事は出来ました。

何事も目標を持って、コツコツと努力をしていれば本当に道は開ける物なのだと実感しています。

翌年50歳に成りPGAのシニアプロテストに挑戦しました。

プレ予選は上位で通過しましたが、1次予選で敗退しました。

リベンジをしようと例に拠り、コツコツと努力を重ねて居ましたが、翌年PGA側からシニアプロテストは、行わないとの発表がありました。

残念ながらシニアツアー参戦の夢は適いませんでしたが、これからもコツコツと努力して次の目標は

「日本一解り易い教え方をする、レッスンプロに成る」いや、言うだけなら自由なので

「世界一解り易い教え方をする、レッスンプロに成る」事にします。

 

    「追記


丘陵コースに入会して、直後の夏に見た、倶楽部チャンピオンのスコアーが4ラウンドパープレーでした。入会当初は、

いつか自分も、倶楽部チャンピオンに成りたいと思いましたが、

ラウンドを重ねる毎に、その困難さを実感し「とても無理」と直ぐに悟りました。

シングルにさえ成れるかどうか、先は全然見えませんでした。 入会して何年か後の月例でしたが、

倶楽部チャンピオンの決勝と重なり、当日の朝フロントで

「本日倶楽部チャンピオンの決勝戦ですので、5組程パスさせて頂きます」

と告げられていた通り、13番ホールで倶楽部チャンピオン決勝戦組に追いつかれ、待機して見学をしていますと、

流石に決勝に残るプレーヤーだけあり、どなたもミス無くあっさりと打って行きました。

それを観ていた私と同じ組の人が「いつかあの組に入ってプレーをしたいな」他の2人もその言葉に、深くうなずきました。

その出来事から15年近く掛かりその場に立つ事が出来ました。

その道のりはとても遠い物でした、それは答えの無い、正解か不正解か、良く解らない道を行きつ戻りつした為です。

ゴルフは、どの様な打ち方をしても、そこそこボールに当ってしまうので、努力を続けて行けば、何とか成ると思いがちですが

20年30年続けてもシングルプレーヤーに成れない方がほとんどです。

私の様に遠回りをしないで、ゴルフ人生を楽しみたいのならば、良い先生を探し出して集中的に習う事です、

ゴルフは上手な人程、永く・深く・楽しめるスポーツなのですから。


 「私の生徒に成りませんか

長い間色々なライバル達を見て来ました、羨ましい位にボールの飛ぶ人、次々に新しいギアを購入して試せる人、

毎日の様にラウンド出来る人など羨ましい限りでしたが、シングルに成れる人は稀でした。

今レッスンの仕事をしていますが、ゴルフを止めようとしている人を何十人もゴルフに復帰させ、

前よりも高いレベルに成るお手伝いをする事が出来ています。

変則スイングの人には、真面目な人が多い様に思います、本も良く読んでいたり、スイングオタクだったりします。

情報が多過ぎて複雑に入り組み、必要な事と不必要な事がごちゃ混ぜになり

無駄の多いループを描いたりカット軌道になっている方が多くみ受けられます。

本当に上手く成りたければ、自分が悩んでいる技術を、「簡単に説明してくれる」信用の置けるレッスンプロを見つけ、

定期的に診てもらい、自分の 技術的な穴を塞ぐ作業と長所を伸ばす事が良いと思います。

自分1人で悩んでも、答えは正しい処に行き着くとは限りません、答えを知っている人に聞いた方が、結局は近道です。

遠方の方でも、是非私の生徒になって下さい。

遠くの方ならば、メール及び動画の遣り取りでもレッスン致します。本文を掲載してから多数の問い合わせを頂きましたので、

本文中で、私が悩んだ箇所の克服法・練習法なども「河野メソッド」として小冊子を販売しています。

小冊子をテキストとしてメールなどの遣り取りを行えば、遠くの方でも「河野流」を身に付けられます。

  永い文を読んで頂き誠にありがとうございます。

          ビッグキャリーゴルフショップ

                  河野和之

電話0492-32-9494

メール kkouno@silk.plala.or.jp

本を出版しました。

「楽天ブックス」様の検索ボックスに 河野和之 とご入力くして頂ければ掲示されます。(下記URL )

https://books.rakuten.co.jp/event/e-book/store/

 

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