「脱・不登校&脱・ひきこもり」
12年の道のり
by 宗守優子

        
            *「我が家の不登校物語」の長男編を詳しく書き直したものです。
               (400字×300枚程度)
            *ノンフィクションですが、子どもの名前は仮名にしてあります。




     序章●願うことは叶う 

<2005年>

六月の気持ちのいい朝だった。私は珍しく六時に目が覚めた。

「望、駅まで(車で)送ってあげようか?」

 昨日、望の自転車が故障した。いつもなら歩いて行ってもらうのだが、今朝は早く起きられたので送ってあげることにした。こんな時、決まって夫も便乗してくる。 

「望、外で待ってるからね。」

私と夫は先に車に乗り込んだ。

「今度はどこに出すんだ。」

と夫が言った。

「感動ノンフィクション大賞。百五十枚のやつ。」

「百五十字じゃなくて、百五十枚?・・・じゃあ、あと百四十九枚書くんだ。」

夫が笑った。う〜、憎たらしい。

「だって、書き出しは大切でしょ。簡単には書けないの。」

私に才能が無いということは分かっている。百五十枚は、無謀な挑戦だ。

「でも、ノンフィクションだよ。アレが治ったんだよ。凄いことやってのけたんだから、大賞、取れるんじゃないの。」

今度は、望がニヤリとした。私は、バックミラーに映ったその表情を見逃さなかった。 

「望、何? 言ってご覧よ。」

「だってさあ、治りましたっていう話より、治らないけど頑張ってますってていう話のほうが感動的かもよ。」

相変わらず、望は冷静だ。いまいましい奴め・・・。私は作家を目指しているわけではない。不登校・ひきこもりの新しい解決法を多くの人に伝えたいだけだ。そのことは、家族もよく知っている。

「まあ、先ずは書いてみたら。批評してあげるよ。」

と夫が言った。

「書いたのを読んで驚くなヨ〜。」

私は啖呵をきった。そして、みんなで笑った。

 車はもう駅前のロータリーへ着いていた。

「行ってきます。」

「いってらっしゃい。」

私は笑顔でふたりを見送った。

 

我が家は四人家族。私は、ちょっと朝が苦手な主婦&フリーの教育カウンセラー。以前は公立小学校の教師をしていたが、望が登園拒否になったのをきっかけに退職した。

長男の望は、全日制高校普通科の三年生。望は、三才のとき登園拒否になってから人生の歯車が狂いだした。小学校四年生の七月から中学を卒業するまでの約六年間は、一日も学校へ行っていない。その間は、「社会的ひきこもり」でもあった。が、高校からは、一気に学校復帰&社会復帰した。毎日片道二時間かけて県内の私立高校へ通っている。 

夫は、仕事に追われるサラリーマン。都内の会社に勤めている。夫と望は途中まで同じ電車に乗っていく。でも、相変わらず、違う車両に乗っているようだ。避けているのは、もちろん望の方。そういう年頃だ。

次男の和也は、中学三年生。地元の公立中学校へ通っている。受験生だというのに、一向にやる気を示さない。

「和也の辞書に、『一生懸命に頑張る』っていう文字はないよね。」

と言うと、ちょっとは神妙な顔になる。

 家族四人、今は、適当に仲良く暮らしている。 

 

その夜、テレビで、事故で両足を失い義足でマラソンをしているという人のドキュメントをやっていた。私も見ていて涙が出そうになった。

「こういう人に勝たれちゃうよね〜。大賞なんて、ムリだね。」

「こういうのが、『感動』なんだよ。これに比べたら、僕の話なんてちっぽけな話なんじゃないの。」

と望が言った。確かに・・・。納得。

 

でも、ちょっと待てよ・・・。確かに、六年間に及ぶ「完全不登校」&「社会的ひきこもり」は、今となっては「ちっぽけな話」になってしまったかもしれない。しかし、よく考えてみれば、六年間もひきこもっていた子どもが、一気に通常の学校生活を送れるようになったこと自体、奇跡といえば奇跡なのだ。

実は、私は、望が中学生のとき、

「この子は、もうダメなんじゃないか。社会生活なんて無理じゃないか・・・」

と諦めかけたことがあった。そんなとき、夫が言った。  

「諦めたら、お終いだ。」

「・・・そうだね。諦めてしまったら、ここで終わりだよね・・・。」

 私たちは諦めなかったからこそ、今日があるのだ。

それだけではなかった。本当に大変だったのは、その前の六年間のほうだった。もっと壮絶な人生があったのだ。ワースト3は、すべて前半だ。

ワースト@は、重症の不眠症になった三才のとき。私にとっては毎日が地獄のようだった。

ワーストAは、小学校二年生で不登校になった後。学校とのバトルは、大戦争という感じだった。

ワーストBは、小学校へ上がる前。小学校との事前の話し合いは、「冷たい戦争」といったところだろうか。何しろ、小児精神科の医師に、

「集団生活を出来るようにするには、小学校入学がラスト・チャンスだ。ここで上手くいかなかったら、この子は、ちょっと冷たくされただけで発狂して、一生を棒に振る。」

と言われたのだ。

 夫が直接関わった度合いのベスト3も、ワースト3の時期とぴったり一致する。でも、望には、前半の記憶がほとんどない。これらをクリアするために親がどれほど苦労してきたかを、望は知らない。 

 

 何気ない日常、平凡な家庭の平凡な幸せが崩れ落ちたのは、なんと望が三才のときだった。登園拒否から始まり、私たちは、あっという間に奈落の底へと突き落とされてしまった。「普通の生活」を取り戻したのは、その十二年後。長い長いトンネルだった。

「十二年間もよく頑張りましたネ〜。」

と、いろいろな人に言われる。夫は、

「おまえだからこそ出来たんだよ。」

と言ってくれる。望も、

「今の自分があるのは、お母さんのお陰・・・。」

と感謝してくれている。なのに、今の望はいつも冷静で中立で、全面的に私の肩を持つということは決してしない。

「よくもまあ、こうも立派に育ってくれたものだ。」

と私はいつもキリキリする。でも、それがまた幸せであったりもする。

 

 「普通の生活」に戻れて良かった!

 

 最近、「普通」という言葉がタブー視されているが、社会生活が難しい人、自立が難しい人、そしてその家族にとっては、「普通に暮らせる」ってことは、凄いことなのだ。

 

 ひとつ間違えば、最悪の結果になっていたと思う。

 

 辛すぎて、思い出したくないこともいっぱいある・・・。でも、我が家の体験記を書きたいと思う。自分が苦しんでいたとき、道しるべになる本があったらいいなあと思っていたから・・・。私は、急遽、「第一回感動ノンフィクション大賞」に挑戦することにした。

(*結局、望の予想どおり落選したが、ここに目出度く「体験記」が完成する運びとなった。) 

 

 

 

あれは、いつだったろうか。とてもイライラしていた望に、つい私は言ってしまった。 

「生まれてこなければ良かった?」

「生まれてこなければ良かった。」

私は、とんでもないことを望に言わせてしまったと、懺悔の念に駆られたことがあった。

 

悪い記憶を残してはならない。小さいときの悪い記憶が残ったら、その子育ては失敗だ。そうならないように育てることが大切だと思って私は頑張ってきた。

望に、前半の六年間の悪い記憶が無いということは、私の子育ては大成功だったということになる。自分で自分を誉めなくては・・・。

「偉い。感動した。」  

 

望は、現在、大学進学を希望している。高校一年のときは、農業に興味があって「大学には行かないかもしれない」と言っていたが、二年生の頃から変ってきたようだ。

「でも、何らかの事情で今すぐ働かなければならないとなったら、働けるでしょ。」

と聞くと、望は緩やかに「うん」と答えた。

「職種は選ばなくちゃだと思うけど・・・。」

「そんなの、誰だってそうよ。」

私は、ほっとする。不登校もひきこもりも、最終ゴールは自立だと私は思っている。 

 

望が高校三年の七月七日。朝八時に私が目を覚ましたら、望はもう帰って来ていた。七泊と車中一泊の修学旅行は、いろいろ体験ができて最高に楽しかったそうだ。私は、ふと思い出した。

「ところで、憧れの夜行列車はどうだった?」

「え?」

東北コース組は、子どもたちのたっての希望で、夜行列車に乗ることになったそうだ。でも、もうひとつ、理由があった。

「三才の時、ブルートレインに乗りたいって、言ったじゃない。

大変だったんだから、あのときは。」

あの日から、真の戦いが始まった。でも、望は何も覚えていない。 

「原稿、進んだ?・・・『オッパイ切りたい』って、これ冗談だったんじゃないの?」

「ノー、ノー、ノー。冗談じゃないわよ。・・・『トンネル掘ろう』ってお乳をガリガリしたり、ねじって『ソフトクリーム』もあったな。」

「え、そんなこと、したの?」

望はケタケタ笑った。屈託がない。月日は流れた。あの「ブルートレイン騒動」から丸十四年になる。 






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