性懲りもなく大胆仮説

「神」と呼ばれた者は、幽界の奥深くに在り人を慈しみ守る偉大な存在の霊力であった。
その存在は地球上のさまざまな宗教、宗派の断絶を超越して存在する存在.。つまり
「神はキリスト教もイスラム教も選ばない、どんな宗教でも定義できないたった一つの存在である」
というとわかりやすいだろうか。
これは日本人的ですね。
フローラがシールケに「ガッツとの出会いがどういう意味を持つか見てきなさい」
みたいなことを言ってた意味が、なんとなく見えてきた。
基本的にはファルネーゼと同じ構図でしょう。
宗教観の違いはあれど祈る人達である。もちろんほとんどの迷える子羊がそうであるように。
宗教を信じていない人だってモノローグで祈ることって結構あると思うよ。
「どうか合格してますように」とか「どうか内定とれますように」とか(^_^;)
ガッツはこれに対して祈らない人だ。ほとんどの子羊に真似のできないことをやってのけるという、ウルトラマンにも通じる典型的なヒーロー像ですね。

でもこれでシールケがガッツに傾倒して魔法を放棄しちゃったりしたら、話のふくらみが
全然なくなってしまいますから、そんなことはないでしょう。
ガッツを語るときに表現される「もがく(あがく?同じ漢字だけどフォントが出ないわ!)者」
運命に逆らい予言を覆して生き延びてきた者というキャラ。
作者がそのためにガッツに与えたのは強力な自我だった。
ちょっと(いやかなり)荒っぽいが、現世と幽界を分けるのは自我の有無である、と仮定。
さて、グリフィスが受肉して世界が変わり始めた。幽界の住人が現世に現われるこの世界。
現世が幽界化していくというのは人々から自我を奪うということだろうか。

ここからは書きながらどんどん勝手に思いついてるので収拾の程は保証しません(笑)

繰り返し供されるグリフィスを神化する言葉。
「一枚の絵のよう」「神話と呼ばれる領域」など。
逆にフローラは鷹を恐れていた。忌忌しきことだとばかりに。
鷹の復活で世界が恐ろしい方向に変わっていく予感。
あと、気になってることがある。23巻の「星降る夜」で、戦場で死んだ者がグリのところに集まってくる。
死んだ家族に別れをいいに、遺族もグリのところに集まってくる。グリのために死んだものと
グリのために家族を失ったものが、グリの傍で最後の別れをいい、ありがたそうにグリを眺めている。
これは、独裁国家でその指導者を神格化し全てを差しだすように洗脳された北○鮮よろしく
自我を喪失している状態なのではないのか?
グリが作ろうとしている「千年帝国」は、幽界の亡者と生きながら自我を失った亡者でできた国なのかもしれない。

ここで、ずいぶん昔になるがベルセルクにはYAには掲載されてコミックスで割愛された
幻の83話というのがある。ここで、深淵の神が登場しているのだ。
私はその頃ベルを読んでいないので実体験ではないが、WIRED OF BERSERKというサイトさんで概要を紹介してくださっていたのでそれを拝見させてもらった。
その意味が、今まではわからなかったのだが、これを書きながらなんだか漠然と繋がってきた。
イデアとは魔の源形(原形でないところが作為的?)とそこでは言われている。すごい厭世的だ。
詳しく書くと先方の管理人さまの著作権に触れそうなので控えるが
なんか、三浦先生が描こうとしているのは、
人間の本質は魔で、心の闇が神を生んだ。神は意志なき意識の集合体であるアストラルを形成した。
そんな中で覇王ガイゼリックのように時折幽界から自立して強い自我を持った人物が国をつくるが
人の心の闇という力がその牙城をも崩していく。
歴史は繰り返されて、今またミッドラントが消えるかもしれない。
この展開に私が持っているイメージは、
「するべきことが見えてるのに、高速道路は全部作らずにはいられない人たち」とか、
「実はあまり需要がないのに干拓工事を始めてしまう」とか
「いけないことだとわかってるのに国産牛肉と偽ってしまう社員」
「市民のプライバシーを護るはずの個人情報保護法が、政治家の汚点を暴露するのを規制するメディア規制法に化ける」
などの実際この世にあるカラクリのことなのです。
世間で、真実やモラルや良心が、大きな無言の意識に飲みこまれてなし崩し的に瓦解することって
よくあるじゃないですか。
フィクションというのは現実世界がモデルになってることが多い。(作者は自分が吸収して肌で感じることを、作品と言う形に変えて放出することが多いから)
三浦先生の中にこういう人間の中に潜む魔を意識しているんじゃないかな、なんてのは深読みに過ぎるだろうか。
最近飽きるほど報道される呆れたニュース。信じられない怠慢の官僚、他人まかせ、思考停止、隠ぺい工作、偽装…。
そして受動的に受ける情報、ヒットチャート、流行。(私が一番怖いのが、思考停止だ。)
なんだか日本が腐っていく感じしない?
この今の日本が、実はグリの作る「千年帝国」のモデルだったりして?(笑)
『まんが魂』で以前「ベルセルクの背景は日本です」って言ってたしな〜。

いいのか日本、このままで! とそこへその流れに楔を打ち付けるのがガッツ。
強力な意志の子。
そして彼に感化された仲間たち。祈る人たちが自我を持ち出した。
逃げ惑う村人も戦いだす。
ガッツの周りで、少しづつ、意識改革というかグリの「世界まるごと千年帝国化」(笑)という野望を阻止する下地が生まれつつある。
「外務省の意識改革」と言う風に、人間の意識改革というのが一番思うようにいかないものだ。
意識改革が起こって、グリ化する日本がガッツ化する、それこそが大いなるファンタジーだなんてことにならなければいいが(汗)
以前”『聖魔戦記の章』は序章? ”で触れたグリと対峙する勢力が、私の中で少し具体的になっている。
イデアが魔なら、聖魔というのは「聖魔という新しい魔」ではなく、やはりガッツサイドが聖ということなのかもしれない。
人間の本質は魔だ。魔と言うのはたぶん巨悪とかではなく、
悪を産む人間の弱さや汚さということだろう。
ところで、シールケが呼んだありがたい霊的存在というのは、深淵の神ではない。
過去に、聖なる者ととして幽界の奥深くに潜ったものがいるのだろうか。
ガイゼリックや髑髏以外に何かあったっけ?
いや、もしかしてあれも深淵の神なのかも。
欲望の祈りを叶える存在。ただ勝手な欲を叶える神だったりして。
シールケは偉大な存在である霊が、実は人間の本質である魔の中で、人間の都合で生まれたものだと知る。
それこそがフローラの言う「この出会いが何を意味するのか」の意味だったとしたら―――?

う〜む、やっぱり収拾つかなかったな。
とにかく私は、三浦先生は一見すごい厭世的な設定を用意しながらも、ガッツというヒーローを投じることで、かっこ悪くても自分の考えと意志で生きるもう一つの生き方を、やんわりと提示しているのかな〜
なんて思っているのですv。

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