暗闇の中で灯す物語と文明のアカリ/

 時は一九八〇年代末。オンとオフの記号が「言葉」に変換されて、何かにつけて伝わることが速くなってきた黎明の頃。背筋を伸ばしてつま先から指先まで自分をシャンとして、心を込めて文字を書くというような、インクの匂いと思念が混じり合った独特の感覚を、人々が少しずつ忘れ去っていっているような。そんな頃の話である。


 プロローグ/

 昼下がり。静希草十郎(しずきそうじゅうろう)は悩んでいた。悩みの元は、学校から出された休暇期間中の課題が難しい、ということである。
 少し弁明しておけば、蒼崎青子(あおざきあおこ)の尽力もあり、草十郎の学力は上がっている。同年代の平均点以上、とまではいかないまでも、中学レベルの学力+アルファという状態からは脱しつつあった。指導者がいいのか、本人の努力か。
 しかし今回出された課題は、これまでの青子のテスト前にまる暗記式の学習では、いささか対応できないものである。出された課題は英作文である。テーマは具体的には指定されず、何でもいいから自分の日々の雑想を、標準的な手紙の分量以上の文字数で書きなさい、というものだ。そんな、少々投げやりにも感じられる課題内容が草十郎に戸惑いを与えていた。
「む。蒼崎、出かけるのか」
「そ。商店街の方に行くから、お昼は私の分は考えなくていいわ」
 青子が休暇の前半を、件の論文写しのバイトに充てていたのを草十郎は聞いている。この様子だと、バイト料は即金で入ったらしい。
「夜には帰ってくると思うけど」
「蒼崎」
「何?」
「少し聞きたいことがあるんだ」

  ◇◇◇

「英作文が難しいって、つまり文法が分からないとか、そういう話?」
「いや、そうじゃない」
 外出前の僅かな時間。身支度という自身の行動を優先しながらも、尋ねられたことには律儀に答えるのが青子という少女である。
「蒼崎には感謝してる。最近は少し長めの文章を書いたりできるし。文法っていう言葉の仕組みもそれなりに理解できてきたと思う。授業も分かるから楽しいよ」
「じゃあ、問題ないんじゃないの? 辞書も使っていいヤツよね。私の所でも出たから分かるわ。草十郎も、及第点の文章を書くのがそんなに難しいとは思えないけど?」
「内容が思いつかないんだ」
「自由でいいんじゃなかった?」
「む。それが難しいんじゃないか」
「ははあ。『徒然なるままに日暮し、硯(すずり)に向かいて』が、逆に草十郎には難しいってことか」
 青子は何かを得心したように、少し瞳を見開いた。
「何だっけ、それ」
「『徒然草』ね。この前の古文のテストの範囲だったから、草十郎も少しは読んだと思うけど」
「む。蒼崎の古文の成績はわりとピンチだと聞いている」
「あんた、そういうどうでもイイ情報持ってるのね」
 それはひとえに、我らの生徒会長様が学内では有名人過ぎるから、そんなプライベートな話まで昼時の噂話に消費されているからだが。
「ああでも、あんたならそうなのかもね。兼好法師(けんこうほうし)って人の、日常のその日暮らしの中で思い浮かんだことを、書き記してみますね、みたいな文章で始まるわりとこの国では有名な古典よ」
 そうか。この少年には、自分たちが子供時代から思春期にかけて学校で読まされるような共通体験としての物語の記憶も、非常に少ないのか。そんなことに改めて思い至り、前提がない人間にも要所だけ分かるように、少々乱暴にまとめて伝えてみる。
「何で、思ったことをわざわざ書き記すんだ?」
「それは兼好法師に聞いてちょうだい。でもそうね……」
 いつもの白いコートを着て、青子はだいたい身支度を終えてしまったようだ。
「この話、案外あんたにとっては根深い問題なのかも。だから、裏ワザだけ教えてあげるわ」
「おお」
 青子はそれに頼るかは別として、裏ワザというような発想を蓄積し、使いこなすのに長けている。それは何度か行われた試験前の特別指導で実感していたので、草十郎は普通に青子の言葉を頼もしく思った。
「本を読んで、その感想、ううん、そこまで大げさじゃなくてもツッコミでいいわ。それを短い文章で書く。それを繰り返し書く。あら不思議。いつの間にか課題も完成よ」
「おお!」
 語り口こそ軽いものだが、青子の言葉にはその場限りの軽薄な思いつきとは一蹴できない重みがある。青子自身が幼少期から試行錯誤してきた、ある種の蓄積が背後に感じられる。それゆえに草十郎は一つの信頼の形を元に、提案を受け入れるのだった。
「なんか、それは何とかなりそうな気がしてきた。ありがとう、蒼崎。その方針で行ってみるよ」
「本は有珠がたくさん持ってるから借りるといいわ。機嫌が良ければお勧めくらい見繕ってくれるかもね」
 そう言い残して青子は久遠寺邸を後にする。
 冬と春の境界線上の頃の季節。丘の上の屋敷の敷地内をうっすらと覆う積雪が、外出先の街で降雪に遭遇する可能性を示唆している。
 それでも天候については、そんなに深く考えない。傘はまあいいか、と装いは軽く。
 情報が少ない分、よく言えばありのまま、卑下して言えば出たとこ勝負。それで案外世界は回っていた。そんな時代の話でもある。

  /プロローグ


 Side.Alice/

「でも読書感想文と、『徒然草』のような雑想って、少し違うと私は思うけれど」
 二人だけの簡単な昼食後。青子いわく機嫌が良かったのか、久遠寺有珠(くおんじありす)は有名所ならこのあたりでしょう、と何冊か本を選んでくれた。
「む。そうなのか?」
「学校の宿題程度の話だから、今回は誰もそんなに厳密にはこだわらないと思うけれど」
 別に青子を批判するような意図でもないのだ、というニュアンスで有珠は語る。
「内側から湧き出てきたものに方向性を与えることと、そうしてできた作品を批評することは、やはり少し違うと思う」
 久遠寺邸の居間で有珠と二人きりで向かい合っている形の草十郎だったが、最近ではこういう時間も自然に持てるようになった。例によって有珠は、自分の読書半分、草十郎との会話半分、といった様子であるが。
「基本的な質問、いいかな」
 無言で読書を続ける有珠の態度は否定とも肯定とも取れない。有珠との交流は普段からこういうものなので、草十郎は構わず続ける。
「そもそも、何で本に書き記したんだろう。有珠の言い方は難しいけど、言ってることは何となく分かる。でもその内側から湧き出てきたものに方向性を与えるにしろ、それに対して何か言うにしろ、口で言えばよくはないか?」
「静希君は着想が面白いわね」
 言葉の通り興味を引いたのだろう。有珠は本から視線を引き上げる。
「哲学的な話を始めたらきりがないかもしれないけれど、まず、文字に書いて本に記した方が、『残る』わね」
「うん?」
 美術品としての静止画を思わせる独特の空間を周囲にまとったまま、有珠は有珠なりに、自身の言葉を大切にしているように語る。
「さっき言ったように湧き上がってきたものに方向性を与えることまでは口頭でもできるでしょう。実際に、古代の神話や伝承は口頭で語られてきたわ。吟遊詩人が英雄譚を語るイメージは静希君の中にもあるかしら? でも文字が発明されて、人類はそういった物語を文章という形で封じ込めることを学んだのね。封じられたものは文字さえ読めれば誰にでも開封が可能で、さらには時間を超えることができるようになった」
「時間を超えるっていうのは?」
「例えば、今、私と静希君がこうして話している言葉は、この場限り、この瞬間で消えてしまうものよね」
「そう言われると儚いな」
「でももし、文字にして書き記しておけば、後になってもう一度開封することができるわ。明日でも、明後日でも。それこそ、残っていれば十年後でも」
「ああ、分かってきたかも」
「その先にあるのが、さっき貸してあげた本という形ね。さっきのは百年くらい前に書かれた物語、というか小説だけど。でも、『残って』いるでしょう?」
「グーテンベルク?」
「そうね、活版印刷機が果たした役割が大きいとこの国の世界史では習うわね。おかげで私たちは時間を超えた物語にある意味支配されたり、逆にそれを糧にしたりしている」
「なるほど、有珠の話はためになる」
 話は一区切りした、といった様子で、有珠は再び本に視線を戻す。
 手元に借りたばかりの本もあることだし、どうやら今日の午後は久遠寺邸の居間で有珠と向かい合って読書をして過ごすことになりそうだ。
(有珠の言う通り、雑想と読書感想文は違うのかもしれないけれど)
 とはいえ草十郎には、ゼロから湧き出てくる気持ちを「徒然」に記すなんて器用な真似は今の所できそうもない。とりあえずは、青子が与えてくれた作戦に従って、本の感想を記してみる方向で行こうと思う。それには、何はともあれまず本を読むことである。
 穏やかな午後の時間が始まった。

  ◇◇◇

 夕刻。まだ日が落ちるのが早い季節である。久遠寺邸の居間には電灯の明りが灯っている。街の方から見ると、山中の館は夕闇の薄暗さの中にポツンと存在している小さな光である。そんな文明の孤独な明りの中で、穏やかな時間は続いている。
「蒼崎は、大丈夫かな」
 久々に言葉を口にした草十郎が憂えているのは、時々光る雷の明滅と、ゴロゴロという重低音の響である。雨音も大きくなりはじめた。この季節、降雪は予想しても、ここまで天候が乱れるのは、一般人は中々予想しないものである。
「いざとなったら、ビニール傘でも買って帰ってくるんじゃなくて。なんだか、懐も潤っていたようだし」
 途中でティータイムに炒れた紅茶のセットが置かれたテーブルをはさんで、有珠がさして気にもしていない様子で答える。
「本は読み終わったの?」
「ああ。空想は大事だけど、それだけでもダメだ、みたいな話だったと思う」
「慧眼(けいがん)ね」
「さて」
 草十郎が外に出る身支度にかかる。
「せっかく傘はあるんだから、届けてくるよ。あと、昼食はいらないって言ってたけど、夕食については何も言ってなかった。ついでに三人分何か、買い出してくる」
 会えるかしら? とは有珠は尋ねない。意外と会えるものである。人々がそんな不思議な確信を持っている時代でもあった。
「お」
「あ」
 その時、数瞬の明滅の後、久遠寺邸の居間が暗闇に覆われた。
「停電、か」
 草十郎がこの文明社会に出てきてから初めての経験という訳ではない。時々生じるこの現象に、星や太陽の明るさに比べて、この世界を駆動している明るさは不安定なものだな、などと草十郎は思ってる。
「どれくらいで直る、かな?」
「さあ。でもたいていは二、三時間くらいかしら、ね」
 本をテーブルに置いた有珠を見て、草十郎が声をかける。
「有珠。さっきの話だけど、文字として本に封じられた物語は確かに凄いけれど、明りがないと読めないね」
 有珠は少しだけきょとんとして、しげしげと草十郎を見つめる。暗闇にまだ目が慣れず、自然と声を頼りに相手の存在を認識する形になる。
 ゆっくりと、鈴の音のような声で有珠が口にしたその音色が、暗闇の中で有珠がそこにいるという証明であるかのようである。

「Alice was beginning to get very tired of sitting by her sister on the bank, and of having nothing to do: once or twice she had peeped into the book her sister was reading, but it had no pictures or conversations in it,」

 有珠が発している英語の内容が、有珠が暗誦している小説か何かの内容まるごとであることに草十郎が気づいたのは、有珠の詠唱がしばらく続いてからである。
「有珠、暗記、してる、のか?」
「何冊かは、ね」
 どこまでも穏やかな音色で有珠は語る。
「静希君。さっきの話だけど、例え文字や本が消失しても、灯りが消えてしまっても、消えない物語も、あるのよ」
 ここに、有る、とばかりに、有珠はそっと人指し指で自身の胸を指差した。

  /Side.Alice


    "Side.Aoko"につづく。

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