†† 夢 守 教 会 ††  第一話「少女のケニング」3/(1)

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 それが何であるのか分からないけれど、何か生温かいものを潰してしまった感触が、僕の左手を伝った。
 拳を。僕は拳を握りしめていた。
 この僕は誰だろう。白い袖口が見える。
 白い。そう、この袖口は空手着だ。
 空手だ。僕は空手をやっていたんだ。勿論覚えている。十五の夏までだ。
 思い出した。僕が放ったのは左中段突きだ。気の遠くなるような時間をかけて練習して、もの凄く得意だったんだ。
 右手を、相手との距離を測るようにかざし。
 左拳を、弾丸を込めるように左脇にそえた。
 砲台となる左足を徐々に右足に近づけてバネをためる。
 やがて、その一瞬が訪れる。
 僕だけが相手を殺せる一瞬。
 僕だけが全てを統べる一瞬。
 僕が、相手の意識にすら上らない一瞬。

――痛い。

 思い出した。
 その時、僕は痛かったんだ。
 その痛みが誰のものなのか分からないほどに。
 僕は、痛かったんだ。

  ◇

「モトムラくん?」
「そう、既にネット上ではそういう仮称で呼ばれてる。今回の事件の、まあ被疑者だけどね」
 僕の問いかけに対して、画面に向かったまま菖蒲さんがカタカタとメインPCのキーを叩く。
 いよいよ、重大な事件が起きた。楽器にウサギと続いて、昨晩、葉明学園構内で、ついに女生徒が後ろから刃物で切りつけられるという事件が起こったのだ。
 幸い命に別状は無かったらしいけれど……。
「ついに人間にまで手を出しちゃったんだねぇ」
 菖蒲さんが何やら軽い調子でつぶやく。
「それで、菖蒲さんはブレイン教会の仕業だと思ってるわけ?」
 壁際の本棚に寄りかかったままの理子が口を開く。あれから一週間、例によって菖蒲さんの部屋でのことである。久しぶりに会った理子は少しだけ以前よりも大人しめの印象を受けたが、それでもこの事件に関しては積極的な興味を示しているようだ。
「そうだね、教会が組織ぐるみで行っているとは思わないけれど……。というのは一つの新興宗教が総力を挙げて行ってる活動にしてはやってることがいかにも稚拙だからね。私がブレイン教会の名前を挙げたのは、絡んでるという意味でだよ。そうだね、この事件にはきっとブレイン教会の思想が絡んでる。一週間前に君たちが聞いた宗教講演の内容を聞いてますますそう思ったよ」
 僕の眉がぴくりとつり上がる。正直一週間前の講演のことは思い出したくない。理子にも情けない姿を見せてしまった。
「本当の自分が何処にあるかっていう話のこと?」
 そんな僕の内面の揺らぎには気づいて貰えなかったようで、理子は一週間前のあのピアスの男の話を蒸し返す。
「そうだよ」
「菖蒲さん、それなんだけどね。私、具合悪くなった島谷を追って帰る前に、あのピアスの男が何か結論らしきことを言いそうな雰囲気を感じたんだけど……、その辺りはいったいどうなってるの? あいつの言ってた通り、脳ってのは分散的なんでしょう? だったら、今こうしている『私』っていうのは脳のどこにあることになるの?」
 その問いを聞いて、菖蒲さんは少しだけ何かをせせら笑うような表情を見せると、こう答えた。
「まず、その男がそのままその講演で結論を喋ったかどうかは疑問だということ。本当に信者予備軍が知りたいことはすぐには教えない。知りたかったらどうか入信して下さい、そうもっていくのが新興宗教の勧誘のつねだから。その場も適当に話術をこねくり回して入信しないと本当の答えは分からないとでもいうように持っていったと考えるのが妥当だと思う。そういう意味では君たちはとても良いタイミングで帰ってきたね。で、その上で、そのピアスの男の頭の中にあった答え、ブレイン教会の上位の地位にあるものだけが知らされていると思われる、『自分』が我々の脳のどこにあるかという問いの答えだけど、……君たちから貰った情報、及び私が独自にWEBで調査した結果から言うと、どうやら松果体(しょうかたい)という答えのようだよ」
「松果体?」
 僕と理子が同時になんだそれはという顔をする。
「君たちが知らないのは無理はないかな。その男が言うように、脳科学についてなんて学校の授業もメディアも何も教えてはくれないからね。逆にいえばブレイン教会はその情報の格差をついているのだとも言えるのだけれど……。松果体っていうのはね、脳の中心にある唯一ペアになっていない脳の器官のことさ。君たちも脳に右脳と左脳があることくらいは知っているだろう? 松果体以外の脳の部分は全て二つあるのさ。それだけじゃない、人間ってのは目も手も耳も外的な知覚器官は全部二つづつあるでしょ? ところが、今こうしている『私』は一つだし、私達は一時点に一つの事柄に対してたった一つの考えしか持ち得ない。そういった事実を踏まえるとね、『私』を司ってる脳の部位は、自然と他の部位と違って一つのみの部位であるとした方が妥当なワケ。すなわち二つの知覚器官から入ってきた情報が一つに統合されて『私』を形成する唯一の器官が存在する。それが松果体だよってワケ」
「そ、そういうものなの?」
 理子が目を細めながら訪ねる。
「フフ、少しでもそれで納得してしまったら、君たちは新たな宗教を作るのを諦めてブレイン教会に入信してしまった方がいいかな。優希には言ったけどね、宗教をやる時はこの世でもっとも『確かなもの』が本物かどうかを見極めるのが大変なのさ。松果体はブレイン教会にとっては『確かなもの』の一つなのだろうけどね……。ふざけた話さ、現代の脳科学では松果体っていうのは神経内分泌器官であり、本当の『自分』に関係しそうな神経伝達や意識には何の役割も果たしていないことが分かっているのさ……。とんだ誤謬。そして、この辺りの理論武装の甘さが、ブレイン教会がターゲットを低年齢層に絞ってる理由だよ。大人でそれなりに情報収集能力があって頭のいい人は、こんな嘘、すぐに見破ってしまうからね」
「バカにしてる!」
 僕は怒気を宿して拳を作り本棚を叩いた。情けないことに、僕を苦しめる『自分』という問題に対して、もしかしたら簡単な解答が得られるかもしれないと期待しながら話を聞いてしまっていた自分がいたのかもしれない。
「そんなの、まるっきりインチキじゃないですか!」
「そうだね、だけどそんなインチキが、今の世界にはとてもとてもまかり通っているのもまた事実なんだ。そのことは踏まえて、君たちは宗教をやらなければならないよ」
 いささか興奮気味の僕の心を冷ますように、いたって冷静な口調で菖蒲さんは答えた。
「島谷、気持ちは分かるけど少し落ち着け」
 理子にまでたしなめられる。普段なら理子の方こそこのような巧妙な騙しに対して怒りを顕にするような気がするのだけど、今日の理子は何故か落ち着いている、というよりも沈み気味に見える。
「それで、そういったブレイン教会の思想が、今回のモトムラ君の事件とどう関係があるんですか?」
 落ち着きを取り戻すように僕は話題を元に戻す。
「うん、君たちが聞いた講演のようなブレイン教会の教義を聞いてそれまでの自分の中にあった『本当の自分』というものの存在を壊されてしまった者が取る道は二つあるんだ。一つは、さっきも言った通り、松果体という答えを求めて入信する者……。コレは中々にステキな選択詞だ、きっと、ステキに偽りな幸せが得られるよ。人間つらくても真実の側にいたいという者は少ないからね、それはそれでまあイイ。だけどね、もう一つの選択肢を選んでしまった者の方が怖い。もう一つの選択肢っていうのはね、自分が自分であることの責任を放棄してしまうという選択肢なんだ」
「どういうことですか?」
「つまりね、こういうことだよ。一分前の自分と今の自分は同じ自分じゃない、だとするならば、一分後の自分に対しても、今この瞬間の自分はなんら責任を負うことはない、こういう発想さ。この発想を突き詰めるとね、自分というものから生じるあらゆる束縛を解き放つことができてしまうんだ。例えばそう、人が大事にしている楽器を壊すのも、ウサギを殺すのも、女性徒を斬りつけるのも、それはイケないことだけれど、そんなイケないことをやっていた自分は本当の自分ではないのだから許される。そんな論理が成り立ってしまうんだ。これはすなわち、全ての行動を欲望のままに解放できるという、理性消失の論理なんだ。この論理を振りかざすのが、とっても危険なもう一つの選択肢」
 僕は身震いする。ブレイン教会の話に多少なりとも影響を受けた僕としては、それはあり得たかもしれない自分の選択肢のようにも思えたから。
「次は? 菖蒲さんは次はなんだと思っているの?」
 そこに理子が口を挟む。
「楽器、ウサギ、傷害と来て、そのような自分の責任を放棄した人間が取る次の行動はという意味かな?」
「まさか」
 僕の想像力が不気味な方向性へと加速する。
「殺人ですか?」
「モトムラくんの欲望の根元に、加速度的な他者否定の願望があるとしたらね。でも私はモトムラくんはちょっとそういうタイプじゃないような気がするんだ。人を殺すということは、自分が死ぬこと以上に重いことだからね。いかに自分という責任を放棄したからといっても、その一瞬の偽りの自分でさえその重みに耐えられるかどうか……。彼は、仮称モトムラくんは、最初に楽器破壊なんて辺りから始めているようにいかにも小物だ。そんな小物の彼が次にたどり着く衝動は、もう少し高校生らしい欲望で、それでいて普通の人にとっては自分という責任の名の下に束縛されている欲望じゃないかな」
「高校生? モトムラくんは高校生なんですか?」
「そうだね、その可能性が高い。さっきも言った通りあまりに大人だとブレイン教会の思想に騙される可能性は低くなるからね。そして事件は全てこの葉明学園高校内部で起こっている。よってブレイン教会に接触した葉明学園内部の生徒、さらにはどんな道具を使ったにせよ楽器を破壊できるだけの力があるから男子生徒の可能性が高い。ここまで言えば分かるかな」
「強姦(ごうかん)ってこと?」
 理子がしれっとした口調で口にする。
「ご、強姦って……」
「女の子がそういう言葉を堂々と口にするんじゃないよとか、その類の感想か? こういうのはオブラードに包んで言ってもしょうがないだろ。男子高校生の束縛された欲望、そんな辺りが妥当なんじゃないのか」
 僕は口をつぐむ。
「島谷はそういうの見ないのか? 本とか、ビデオとか色々出てるだろ。あからさまに女に制服着せたりして。メディアになってアレだけばらまかれてるってことは需要があるってことだろ。それだけ需要があるってことは、何かしら根元的な欲望だってことなんじゃないのか?」
 僕は返答に困る。実はここ数ヶ月、飲み続けてる薬の副作用で僕は性欲が抑えられ気味になっている。今その手の話に男子高校生代表として意見を求められても困る。さらには一度そのことを相談したことがある菖蒲さんの前なので、なおさら気まずい。
 僕はちらりと菖蒲さんを見やる。
「まあ、その手のビデオを見たがるのは男子高校生限定ってわけじゃないけどね」
 苦笑いを浮かべながら、菖蒲さんが微妙な助け船を出してくれる。
「怖いな、私のような美少女はいつ狙われるか分からない」
 僕の心理動向など気にもとめないように理子が続ける。その理子を狙う男ってのは僕じゃなくてモトムラくんのことを指しているんだろうな、と突っ込みを入れようと思い至った所で理子が衝撃的なことを口にする。
「実は私もここ一週間くらい誰かにストーキングされているんだ」
 僕は理子の顔を凝視する。
 同時に、何か、凝った目眩のようなものを感じる。
「何だって? それは本当のことなのか?」
「ああ、良くは分からないんだが、ねちねちと、後方から私を観察しているヤツがいる」
 僕は理子の肩に力強く右手をかけ、口調を荒げる。
「なんで、そんなにしれっとして言ってるんだよ? どうして僕に言わなかった? 危ないじゃないか! 僕らの宗教云々とか言ってる場合じゃないだろ! そっちの方こそ可及的に危険な問題じゃないか!」
 僕の語調の強さに驚いたのか、しばらく理子は困惑の表情を見せたが、やがて僕の手を振り払うと語調を荒げ返して答えた。
「な、なんだよ、そんなに怒るほどのことじゃないだろ! だいたい私と島谷は会ったばかりでそんなになんでも話すような間柄ってワケじゃない! 島谷に言わないことだってあるよ! 心配しなくてもちゃんと親にも相談したし警察にも話してあるってば!」
 僕の目眩が強くなる、先ほどの目眩は気のせいじゃない。これは例のアレの予兆だ。
「まあ、落ち着きなよ、優希、それに理子も。優希、私や理子くらいの美少女になるとストーキングされるなんてことはままあるんだよ」
 菖蒲さんの仲介にも僕の乱れ始めた心は治まらない。菖蒲さんはもう少女じゃないだろうという突っ込みも今はする気力もない。
「理子……」
 僕はよろめくようにソファに倒れ込み、振り絞るようにしてかすれた声を挙げた。
 ここで、ようやく菖蒲さんも理子も、僕が例の発作に襲われているらしいことに気がついたようだ。
「大丈夫か島谷!」
 理子があわてた表情で僕の顔をのぞき込む。
「ああちくしょう、見てやがる……。お前は一体誰なんだ? 分かってる、お前は僕なんだろう? だとしたらここにいる僕は一体誰なんだ? だけど今はそんなことはどうでもいい。理子、確かに僕と君はまだあんまり親しいとは言えないけれど、この三週間あまりのつき合いで、僕は君が何者かに、ましてや強姦魔なんかに傷つけられるのがイヤだと思えるくらいには君のことを親しく感じ始めているんだ。こんな、ときどき倒れてしまうような僕だけど、まだ浅いつき合いの僕だけれど、とりあえず、自分が危険な時くらいはそのことを話してくれないか?」
 理子が僕の手を握りしめる。
 その口から漏れ出るのは、病人に対する同情の言葉だろうか、それとも純粋に宗教という同じ目標を掲げる仲間に対する慈しみだろうか。
「ああ、分かった。コレからは話すよ。さっきはキツい口調で言ってしまって悪かった。安心して休め。大丈夫だ。私も菖蒲さんもいる。しかし、本当に唐突にやってくるんだな。お前の発作は」
 僕は袖口で顔を覆った。もしかしたら、自分は泣いてしまっているかもしれないから。
「優希、薬は?」
 菖蒲さんが尋ねる。
「寄宿舎に置いたままです。アレ、もうほとんど効かないんで」
「イヤ、それでも無いよりはマシなんだ、優希の気づかないところでそれなりに薬も頑張ってくれてるものなんだよ。戻って飲んだ方がイイ。その後で、具合が悪いようならまた来ていいから」
 本心を言えば、菖蒲さんの前だから発作は起こらないだろう、起きても大丈夫だろうとタカをくくって薬は持ってこなかった。自分はあさはかだ。
「理子、優希に付き添ってやってくれるかい?」
 うなずくと理子は僕の脇の下に自分の肩をあて、負傷者を背負うようにして僕を支え上げた。僕自身の力も添えて、僕は不安定に立ち上がる。少女に支えられる男。惨めだ。
 一歩一歩、ゆっくりと菖蒲さんの部屋の出口に向かう僕と理子。理子は普段は明朗な彼女らしくもなく無く無言だ。いっそ、この状況を笑い話のように笑い飛ばしてくれれば少しは楽になるかもしれないのに。
「優希、そのままで聞いて……。優希は、ブレイン教会の話を聞いてしまって、優希自身も『本当の自分』というものに対して不安なんだろう?」
 菖蒲さんが、ドア口にさしかかった理子と僕に対して後ろから声をかけた。
「その昔、広津和郎という文学者がね、リンゴの皮を剥くようにして『本当の自分』を捜してみたんだ。『自分』という存在を様々な部分、素性に分けて、自分の中のこの部分は『本当の自分』じゃない、この部分も『本当の自分』ではないというようにチェックしながらね……、薄皮を少しづつ剥ぐようにして『本当の自分』を探し続けた。あたかも、リンゴの皮を剥いで、実をそいでいけば最後にリンゴの芯が残るんじゃないかという希望を持つかのように、最後に『本当の自分』が残るんじゃないかという希望を持ってね……」
 僕は理子に支えられたままその話に耳を傾ける。
「だけどね、結局、広津和郎の試みは失敗に終わってしまったんだ。リンゴの芯が残るようにはいかなかった。全ての『自分』候補をチェックし終えた時、そこには『本当の自分』なんてものは何も残らなかったんだ」
 菖蒲さんは僕の顔を見ないままに、その話をこう締めくくった。
「この話の示唆することはね、優希、『本当の自分』というものは、何処かにあるものでも、いつか見つかるものでもなく……」

――ある時点で自分でそう決めなければならないものだということなんじゃないかな。
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