†† 夢 守 教 会 ††  第一話「少女のケニング」5/(2)

  ◇

 醜い男はご丁寧に後ろ手で扉を閉め直す。
「ごきげんよう、あなたがモトムラくん? ちょっとコレは非道いんじゃないか? ラブホテルのベッドというのも情緒がないと私は常々思っていたけれど、ここはさすがに最悪だろ。不衛生過ぎる。野生動物の方がまだマシなところで交尾をするよ」
 まいった。できるだけ冷静を装ってみるが、退路が断たれている。適切な脱出手段が思いつかない。
「ぁあぁ。ボクの彼女。どうしてオきてる? 眠っていたでしョ、オマエ」
 背筋にウジ虫が走るような不快感を覚える。おまけに、言葉が通じないタイプときた。状況が悪化していくような情報しか手に入らない。
 月明かりに浮かぶその相貌は緩慢にたるんだ肉に不機嫌に伸ばされた髭という有様で美貌と言うにはほど遠く、髪の生え際は微かに禿げ上がっている。菖蒲さんの見立てでは同じ高校生だということだったが、だとするならば実年齢よりも十も二十も老け込んで見える。
 服装は上下共に黒の作業着のような地味装で、流行も廃りもない。前でとめるボタンに多少凝った装飾が施してある以外は、囚人の着る作業用ジャージとなんら差がない。
 だけど私を最も不快にさせたのはそういった表面的な外装ではない。私は見た目ではあまり人物を判断したり評価したりしない方だ。私が気にくわないのはこの男の瞳。
 たれた肉の合間から漏れ出た細い濁った切り瞳だが、何やら私を見ているようで私を見ていない、いや、この世界というものを知覚しているようで知覚していない、そんな、外部との有機的な接触の全てを拒否せんとするかのような自意識に閉じこもった瞳だ。コイツの知覚している世界に根を置いたコイツの行動は、全てがコイツの自慰行為なのではないか。そんな印象が私を激しく不快にさせる。
「ぁあぁ。ボクの彼女。オきてるならオきてる方がイイ。シンだかと思って。デきないかと思ってイライラしてた。ホラ、シンでると、気持ち悪いでしョ?」
「私はあんたの彼女じゃないぞ。頭は大丈夫か、お前。仮に彼女だったとしても、自分の彼女にこういう仕打ちをするのはあまり薦めない。嫌われたくなかったらな」
 強気を装い、私は拳を握りしめる。しかし反面冷や汗が止まらない。この仮称モトムラ君、背丈こそ高校生男子の並だが、身体の全貌を眺めるとかなりの肉厚があるのだ。なるほど、何か道具を使えば楽器やウサギを破砕するほどの力はありそうだ。女であり、また病魔に蝕まれている自分を呪う。戦闘で打ち倒して脱出するという選択肢もかなり厳しそうだ。
 と、そこまで思考したところで眼前に不快でどんよりとした殺気が迫ってきた。
「嫌われたりぃぃぃ」
 嘘だろう?
「しないでしョッッ!!」
 モトムラくんが何かを振り抜いた。
 私は反射的に後方へと一足飛びでその物体をかわす。前髪の何本かがハラりと宙に舞い上がる。
 ナイフを、モトムラくんはナイフを全力で振り抜いたのだ。
――マジかよ。
 私の炭素鋼のナイフではない。モトムラくんが持参したサバイバルナイフだ。こんな、身体回りが太い男子と病弱な女子という力の差がありながら、なおナイフに依存しているその在り方にも苛立つ自分が抑えられないが、それよりも何よりも私を驚愕させたのは、コイツが今、本気でナイフを振り抜いたことだ。ここまでキてるヤツなのか。まったく、どうしようもない状況だコレは。
 こっちには炭素鋼のナイフがある。こっちも斬りつけて応戦するか……? イヤ、このナイフは自分を殺すためのナイフだ。他人を傷つけるためのものでは……。
「ぁあぁッ」
 その躊躇が命取りになる。
 モトムラくんがもの凄い勢いで私に体当たりを仕掛けてきたのだ。否応なく私は吹き飛ばされ、その衝撃のまま炭素鋼のナイフも手からはじき飛ばされる。
「ぅぅ……」
 重く壁に叩きつけられ、地面へと昏倒した私に、モトムラくんが覆い被さってくる。右腕が押さえつけられ、徐々に私の自由が奪われる。
「コレ、このボクは本当の自分じゃナイから、こういうこともしてイイ。本当の自分は、きっともっと可愛い奥さんと、幸せに家庭をモつ……仮だかラ、今は仮だかラ、仮だかラ……」
 重い。この体重に上に乗られては為す術がない。
「お前!」
 左腕で最後の抵抗の打撃を加えながら私は叫ぶ。
「これでイイのかよ! こんな、無理矢理……こんなんでそんなにお前は癒されるのかよ!」
 ジャンパーの下の絹のシャツが力任せに破り取られる。
「なんデ? 本当の自分だとウソついてヤる奴も世の中にイッパイいる。ボクは、今の自分が本当の自分じゃないとワカってやってる分、ソイツらよりも、うんと崇高……」
 必死にもがき、暴れながら、私の思考は巡る。
 ちくしょう、こんな所で、こんなヤツに……。
 そうだ。ここまで追いつめられてハッキリと分かる。私は、まだ死にたくもないし、陵辱されるのもゴメンなんだ。
 だから、ずっと助けを求めていたんじゃないか。いつか街を一人で歩いたのも、誰かに助けて欲しかったから。宗教を始めようと思ったのも、誰も助けてくれないなら、自分で助けるしかないと思ったから。
 助けて欲しい。
 しかしながら、こんな時、助けになってくれる人を私はこの世でたった一人しか知らない。
 その人は、私にとってこの世で最も信用できる大人で、同時に私がこれまで出会った中で最も頭がいい女性だ。
 だけど、今ここにその人はいない。
 私は瞳をつむりかけた。こんな男に、私の涙を見せたくなかったから。瞳をつむって、この現実を拒否してしまえば、楽になれるのかもしれないと、何処かにいる弱い私がささやきかけたから。
「――」
 それでも、それでも何か、捨てきれない何かが私の中にひっかかって、私がもう一度瞳をはっきりと見開いた時、シンとしていた空間に轟音が響き渡った。
 数瞬、思考を失う私に、欲情の発露を止めるモトムラくん。
 私の衣服を破り取る作業をやめてはたと顔を上げるモトムラくんの、その視線の先に私は目をやる。
 ドアが、私をこの暗闇に閉じこめていたドアが倒されていた。
 先ほどの轟音が、このドアの破砕音であったことを私は理解する。
 ドアは開けられたのではない。何らかの強力な衝撃により正面からブチ倒されていた。
 そして破砕されたドアを踏み抜くように慄然と立ちはだかる少年が一人。
 少年がハシリと勢いをつけて左拳を握りしめると、この闇の空間そのものが圧縮されたかのようなパンという乾いた音が響いた。
 少年は残った右手で傲然とモトムラくんを指さすと、こう言ってのけた。
「おい、オマエ。オレはオマエを知らない。だが誰であろうと、ウチの教祖様を傷つけるヤツをオレは許さない。オマエは倒す」
 私を、モトムラくんを、そして闇へと落ちたこの世界を正面から見つめながら、しかと外的世界との関係性を望まんとするような、凛とした瞳を掲げた島谷優希がそこにいた。
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