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「高野君!! ――前! 前!!」
助手席に座った大沢部長のとんきょうな叫び声で、高野雅之は我に返った。慌ててブレーキを踏む。ロックしたシートベルトが肩にめり込む。タイヤの悲鳴とともに、車体はわずかに向きを変え、赤信号の交差点を完全に通過して止まった。
「た、高野君…」
恐怖のためか、あるいは怒りによるものか、強張った部長の頬はひくひくと痙攣している。その顔を直視できずに、雅之は力なくうなだれた。
「…すみません」
言い訳のしようもない。居眠り運転による完全な信号無視である。ドアミラーを覗くと、さっき横切った道路を車がびゅんびゅん走り抜けていく。運よく大惨事を免れたのは、“ギャンブル王”と呼ばれる大沢部長のおかげかもしれない。雅之は震える手で額の汗を拭いながら呟いた。
「…あの夢のせいだ」
一瞬、彼の脳裏に紅色の炎が揺らめいて消えた。
駅前の繁華街は、昼間の汚れを覆い隠そうとするかのように、眩しいネオンの厚化粧に包まれていた。地下鉄の長い階段を一気に駆け上がり、息を切らしながら街に踊り出た川島千春は、呼吸を整えてから周囲をゆっくりと見回した。
コートの襟を立て、背中を丸めて家路を急ぐサラリーマンの群れ。
売店の前で、タバコを燻らせながら無表情に足を投げ出している学生たち。
携帯を手に目まぐるしく表情を変えながら、寒風の中をミニスカ・生足でさっそうと通り過ぎる女子高生。
彼の姿はない。
腕時計を見ると、約束の8時を3分経過している。
――よかった。
千春はむしろほっとした。このところ、待ち合わせで彼女が遅れてくることが多く、内心申し訳なく思っていたからである。――今日は、彼が現れたら「遅いっ!」と言って、小突いてやろうかな…。その時の彼のはにかんだ顔が頭に浮かんで、思わずクスッと笑ってしまった。
彼に会うのは1週間ぶりだ。付き合い始めて3ヶ月になるが、2人の休日がなかなか合わず、デートの日程調整はいつも難航していた。しかし今日、千春には朗報があった。勤務のローテーションが変わり、来週から日曜に休めるようになったのである。これからは週に1回は丸1日彼と過ごすことができそうだ。
いろいろ考えているうちに、10分近い時間が過ぎていた。――遅い。何かあったのかな…。ずぼらに見えて実は結構律儀な彼が、何の連絡もなしにこんなに遅れたことはない。
不安に駆られて、彼女は携帯を手に取った。彼の番号を呼び出し、コールが始まったとき、背後から聞き覚えのあるメロディーが響いてきた。『スパイ大作戦』――この着メロって…!!
振り返ると、地下鉄の入り口の壁にもたれかかった男が、虚ろな表情でポケットから携帯を取り出していた。
「はい…」
その声を聞くなり、彼女の心には喜びと戸惑いの感情がほとんど同時に沸き起こった。
「――雅之…?」
千春はゆっくりと男に近付いた。彼女に視線を向けて微笑んだ男の顔は、紛れもなく高野雅之のものである。しかし今日の彼は、いつもとまるで印象が違って見える。頬がこけ、顔色が青く、瞳にいつものような覇気がない。――この1週間の間に何があったのだろう。千春は無言のまま、問いかけるようなまなざしで彼を見つめた。
「どうしたんだ? 俺の顔になんか付いてる?」
「ううん。…あんまりいい男だから見とれちゃった」
「ばか」
「さ、行こ。おいしいパスタ屋さん開拓したんでしょ」
千春は雅之の腕に飛び付いた。
身を寄せ合い、人込みをよけながら狭い歩道をしばし歩く。
幸せなはずの時間。――しかし、なんだか落ち着かない。なぜだろう。彼の気配――というか、オーラのようなものが伝わってこない。腕を組んでいるのに、彼が今にも暗闇に消えていってしまいそうな、…そんな不安が頭を掠める。
千春は彼の横顔を恐る恐る覗き込んで、口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「雅之が遅刻するなんて珍しいよね。仕事?」
彼は溜息をつき、面倒くさそうに答えた。
「なに言ってんだ。遅刻してきたのはそっちじゃんか! 俺は8時5分前からあそこにいたんだぞ」
「えっ?」
千春はぞっとした。確かに、彼女が到着したときから、あの場所に男が蹲っていたような気がする。でも、それが雅之であることに気が付かなかったのだ。そして彼も千春が来たことに気が付かなかった。あんなに近くにいたのに、2人が互いの存在に気付かないまま10分以上も立ちつくしていたなんて…。
思わず力の抜けた手が、雅之の腕をすり抜けて落ちた。立ち止まった二人の間を吹き抜ける一陣の風…
「いやあ、悪りィ、悪りィ!」
後頭部に手を当てた雅之が、コミカルなステップで振り向いた。
「っつーか、ごめん、千春!」
今度は両手を顔の前で合わせて、懇願の目に変わった。
「実は俺、5分前に着いたには着いたんだけど、すっげー疲れてて、つい、うたた寝…、いや、正直、…爆酔…しちゃってたんだよね。着メロでやっと目が覚めたってわけ」
千春は表情を崩した。
「んもうーっ。仕事し過ぎ! 目の下、クマあるしぃ!」
「そうなんだよ。ホラ、例のイベント、チーフ任されてるだろ。企画書やら交渉やらでもう大変でさ。神経も体力も限界っつー感じなんだ。ん――まあ、デキる男の悩みってやつ?」
おどけた気取り顔で天を仰ぐ雅之に、千春はツンと背を向けた。
「そお。…それはそれはお忙しい中、わざわざ時間を作ってくださってありがとうございました!」
慌ててその横に回りこむ雅之。
「あ、ご、ごめん。そういう意味じゃなくてさ。…もう、機嫌直してよ。俺、つら〜い仕事でボロボロになりながら、千春に会うことだけを心の支えにしてきたんだから」
「ホント?」
雅之に、チラッと視線を向ける千春。
「ホントにホント。ど〜んな疲れも、千春の顔を見ると吹き飛んじゃうんだ。君の笑顔は、最高の精力剤なのさ!!――いや、ビタミン剤の方がいいかな…」
「まったく。調子いいんだから」
千春はにっこり笑い、彼の手を引っ張った。
「いこっ! 癒し系の千春ちゃんが、最高のサービスしてあげる!」
「マジっすか?」
「ちょ、ちょっと、ヤラシイ意味で言ってるんじゃないからね。…心のサービスよ、心の!」
「え〜っ! そんな分かりにくいものより、形のあるサービスがいいなあ」
「じゃあ――はいっ」
千春はバッグの中から、小さな巾着を取り出して、雅之に手渡した。持ち上げると、ほのかにいい香りが漂ってくる。
「…これって、匂い袋?」
「うん。ショートステイのお婆ちゃんに教わって、私が作ったの」
「へえ、古風だな」
「でも中身は、リラックス効果抜群のラベンダーだよ。癒し系の千春ちゃんからの形あるプレゼントです。えへ☆」
「う〜ん。…うれしいけど、なんかお茶を濁されたような…」
「贅沢言わないのっ!」
二人は小突き合いながら、また路地を歩き始めた。雅之はすっかりいつもの調子に戻っているようだ。千春の不安は、どこかに消し飛んでいた。
「ねえ、あのさあ、雅之」
「ん?」
「いいニュースがあるんだけど」
「えっ、何?」
「なんだと思う?」
意味ありげな視線を斜め下から投げかける千春。しばらく考え込んでいた雅之は、突然、興奮気味に叫んだ。
「あっ! まさか!!」
それからおもむろに千春の腹部を指差し、
「――もしかして、デキた!?」
一瞬の静寂。しかし2秒後、千春は暗がりでもはっきり分かるくらい頬を真っ赤に染めて雅之を突き飛ばしていた。
「んなわけないでしょっ!!」
千春の両手突き――それは、雅之が下品な冗談を言ったときなどに、彼女がきまって繰り出す必殺の攻撃であった。しかし彼女のその渾身の一撃も、この男には通用したためしがない。雅之はいつも笑いながら2、3歩よろけはするものの、「怖え〜」などと言いながら軽く蹴りの反撃を繰り出してきたり、ルパン三世ばりの猫なで声でご機嫌を取ってみたり、あるいはブルース・リー風のポーズで睨み返したりと、様々な手段を用いて千春の頬をゆるませようと挑んでくるのである。
そして今日も、普段と同じくコミカルな展開を予想していた千春は、目の前で起こったことをすぐに理解できず、しばし立ちつくすことになった。手のひらには、雅之の胸の感触がかすかに残っている。行き交う人々の好奇の視線の先には、ブティックのショーウィンドウに張り付いて伸びている雅之の姿があった…。
「ちょっと…、どうなってんの?」
我に返った千春は、慌てて彼のもとに駆け寄った。彼女の頭の中で、直前の記憶が再構築されていく。両手が胸に命中し――薄っぺらいベニヤ板を押したような手ごたえがあり――まるでワイヤーアクションのように雅之が吹っ飛び――ショーウィンドウに激突!――背中からぐったりと崩れ落ちて動かなくなった…。
今、彼の顔はガラス越しの光が通り抜けそうなほど青白く、あらゆる表情を失ったまま固まっている。――打ちどころが悪かったのかもしれない! 自分はなんてことをしてしまったのだろう…。千春は焦り、必死になって彼の名を呼び、肩を揺すった。すると、まもなく眉が動き、口から声が漏れた。
「う〜ん、…いたたた」
「ま、雅之!」
ちょっと苦しげな表情を見せた後、彼は不思議そうな目で千春を見返した。
「あ、あれ? 何かあった?」
「何って…、大丈夫? 頭打ったんじゃない?」
「頭?」
彼は自分の後頭部をさすりながら、
「そういえば、ここはいったいどこ? 君は誰??」
「…な!?」
「バ〜カ!!」
最高のおどけ顔を突き出した後、彼は瞬時に立ち上がった。それから子供のようにバタバタと駆け出し、振り向くなり勝ち誇ったように叫んだ。
「や〜い、騙された、騙された〜っ、はは〜ん!」
「ばっかみたい…」
千春は額を押さえながらそう言って、ゆっくりと歩き始めた。呆れ顔で雅之の後を追いながら、千春はちょっと複雑な心境になっていた。
――良かった! いつもの彼みたい。でも…、何なんだろう。いつもと何かが違う気がする…。
一抹の不安を消しきれない彼女の網膜には、青白い雅之の表情が焼き付いたまま離れなかった。
店にはすぐに着いた。
エントランスに用意された椅子に、5、6人の客が座って順番を待っている。一度店内に入っていった雅之は、ブツブツと毒づきながら入口に戻ってきた。
「ちぇっ、15分以上遅れたから予約は無効だってよ! もうちょっと待っててくれてもいいのに!」
「しょうがないよ…。他のお客さんもいるんだし。今、待ち時間どれくらいかな」
「20分待ちぐらいだって。…どうする? 別の店にしよっか」
「待ちましょうよ。せっかく来たんだし」
「…そうだな」
2人が椅子に座ると、エントランスは満席になった。
控えめの照明。静かな曲のかかった落ち着いた店内。ラベンダーの心地よい香り…。
雅之が何気なくレジの方に視線を向けると、ちょうど1組の客が支払いを済ませるところだった。女といちゃつきながら財布を取り出す男。その横で、なにやらオレンジ色の光が揺らめいた。
その時だった。
視界が歪んだ。
オレンジ色の光がひときわ大きくなった。
頬に熱風が当たると同時に、レジの男がみるみる炎に包まれ、火達磨となった! 炎は爆発的に膨れ上がり、隣の女を、店員を巻き込み、床を走って雅之の足元にまで迫った。
「うわああああ!!!」
雅之は立ち上がった。
後ろにあった観葉植物の大きな鉢が倒れ、壁の額縁が派手な音を立てて落下した。
雅之に好奇の目が注がれている。
レジで支払いを済ませた男が、女と腕を組みながら横を通り過ぎた。その後ろで、長方形のハロゲンヒーターがゆっくりとオレンジ色の首を振っている。遠くから千春の声が聞こえてくる。
「…ねえ、大丈夫? ねえ、雅之!? 雅之ってば!!」
「あ…」
控えめの照明。
静かな曲のかかった落ち着いた店内。
…どこにも火の気はない。
「い、今、今さ、…その辺に、火、火、火が燃えてなかった…か?」
「火? …って、何言ってんの? 何も燃えてないよ…」
「だよな…」
雅之は、表情を失くしたままコトンっと椅子におさまった。すぐに店員が駆けつけ、張り付いた笑顔で大丈夫ですか?、お怪我は?みたいなことを言っている。反応が虚ろな雅之に代わって、千春が店員にペコペコ頭を下げ、それから雅之を引っ張り上げて、店の外に連れ出した。
「ねえ、雅之…」
「あ…」
潤んだ千春の瞳を目の当たりにして、雅之はやっと正気を取り戻し、状況を理解した。さっきの映像がいわゆる「白昼夢」であり、自分はとんでもない醜態をさらしてしまったのだ。――さすがにこの場面をうまく取り繕うことはできそうにない。
「千春…ごめん!」
彼は執事のように深々と頭を下げ、そのまましゃべり続けた。
「俺、今日、もう限界みたい。…実言うと、ここんとこ仕事が忙しくて、ほとんど寝れてないんだ。本当は、千春と少しでも一緒にいたい。今日のデート、すっげー楽しみにしてた。だけど、…だけど、今日の俺、空回りばっかで全然楽しい空気作れないし。…これ以上一緒にいても、君をがっかりさせるだけだと思う!」
彼女は、彼の腕にそっと手を当てた。
「いいよ。…今日は帰りましょ」
「――すまない」
「そのかわり――、今夜は仕事のことを忘れて、きっちり早く寝ること! それから今度会うときまでに目の下のクマ、治しといてね! 約束よ」
「ああ…」
千春はにっこり笑った。
無言のまま駅まで歩いた2人は、軽く唇を重ねて別れた。
「ごめんよ、千春…」
満員の電車に揺られながら雅之はむなしく呟いた。ふと窓に目をやると、やつれ果てた自分の顔が生気を失った目でこちらを見ている。その時、がくんという衝撃が車両に伝わり、彼は大きくよろめいて危うく転びそうになってしまった。――なんてざまだ。いくら吊り革に掴まっていなかったからといって、毎日電車を通勤に使っている者がこの程度の震動に耐えられないなんて、なさけない。予想以上に体力が落ちているようだ。このまま“眠れない生活”が続いたら、一体どうなってしまうのだろう。仕事も私生活も、全てを失うことになるかもしれない…。雅之の脳裏にふっと千春の顔が浮かんだ。彼女の潤んだ瞳が自分を心配そうに覗き込んでいる。
…
『…今夜は仕事のことを忘れて、きっちり早く寝ること…』
『…約束よ…』
…
雅之の胸に後ろめたい思いが沸いて出た。さっきはなぜ彼女に本当の事を言えなかったのだろう。『仕事が忙しい』なんていうのは嘘だ。全てはあの忌まわしい夢のせいなのだ…。
どんよりとした思いを抱えてアパートに帰ってきた雅之は、コートも脱がず倒れ込むようにして椅子に身を沈めた。首の後ろから肩胛骨にかけてずっしりとした疲れが残っている。もう何も考えたくない。目を閉じ、肩を落として深い溜め息をつくと、そのまま眠りに吸い込まれていった。
薄暗い校庭。真っ白い野球帽をかぶった少年たちが立っている。雅之もまた、その少年の中の一人になっていた。
「おら、サード、いくぞー!」
監督のノックが始まる。やがて、大きなフライが雅之のところに飛んできた。大きく下がったが、ボールはまだはるか頭上にある。ゆっくりと、ふらふらと、空中を漂う白球を追って、ひたすら後退を続ける雅之。しかし、ボールは彼のグローブに収まる前に、ガチャンという音をたてて校舎の窓ガラスに飛び込んでしまった。
「こらあー、高野! 何やってんだぁ! 早くボールを取って来い!」
「は、はいっ!!」
――ムチャクチャだ。悪いのはカントクじゃん!
ふてくされながらも、雅之は窓の位置を確認して木造の校舎に駆け込んだ。きしむ廊下を抜け、階段を上がる。二階の3番目の教室――ボールが飛び込んだのは4年1組だ。
――明日、先生におこられるだろうなあ。…カントク、ちゃんとあやまってくれるかな…。
そんなことを考えながら教室の戸に手を掛けたが、建て付けが悪いのかビクともしない。渾身の力を込めて引いたが、全然動かない。おかしいな、と思って手元をよく見ると、入り口には幾つもの南京錠がかけられていた。それどころか、その木製のガラス戸全体に何重にも鎖が巻き付けられている。――どうなってんの? 誰がこんなイタズラをしたんだ!? 慌てて、もうひとつの入り口のほうに走ったが、やはり厳重に閉鎖されていた。――そんな…。途方にくれて、おろおろと教室の前を行ったり来たりしているうちに、だんだん周りが暗くなってきた。
――そうだ、おうえんを呼ぼう!
彼は、またバタバタと階段を駆け下りて、校舎の外へ出た。
灰色の校庭。
しかし、そこには誰もいない。
「カントク…、みんな…」
カラスの群れが空を舞う中、雅之は底知れない不安につき動かされて、校庭のあちこちに人影を探し回った。うんていやバスケットのゴールを横切り、体育倉庫を通り過ぎて裏庭に回った。
『タカ…』
突然、後ろから声が聞こえてきた。雅之は振り向いたが、どこにも声の主の姿はない。
『タカ…』
声は裏庭の隅から聞こえてくる。
『タカ…、タカ…』
その方向にあるのは焼却炉だけだ。雅之はブロックを積み上げただけの3m四方の焼却炉にゆっくりと近付いた。
『タカ…』
声は炉の中から聞こえてくる。嫌な予感がふっと頭をよぎったが、好奇心に駆られて彼は中を覗いた。
その瞬間、焼却炉が発火した。
雅之の鼻先を掠めた猛炎は、たちまち何メートルもの火柱になって空にそそり立った。
驚きの余り、雅之は腰を抜かして目を見開いた。炎の中にはまもなく微妙なトーンの変化が起こり、黒い陰影がくっきりと人の形となって現れた。
『タカ…』
その影が、雅之に話しかけている。焼却炉の縁に手を掛け、人形は炎に包まれたまま、外に出ようとしている。
『タカ…』
「やめろ! 来るな!」
『タカ…』
「うわ!」
火達磨になった怪人は焼却炉を飛び出し、とてつもない恐怖とともに雅之に襲いかかった。
そこで、目が覚めた。
瞼の裏には炎のオレンジ色がくっきりと焼き付いている。全身汗まみれになり、心臓が飛び出さんばかりに脈打っている。
「畜生、…またあの夢か」
時計を見ると10時を回ったところだ。眠りに落ちてから30分も経ってはいない。だが、今夜はもう眠りたくない。いくら夢でも、あんな恐怖を味わうのは二度と御免だ。珈琲をドリップして少し痛む胃に流し込んだあと、雅之は近所のビデオレンタル屋さんに足を運んだ。
名画一本、アクション物一本、ポルノ一本を抱えてカウンターに行ったら、店のオヤジがにこにこ笑いながら話しかけてきた。
「お客さん、学生さんかい?」
「えっ、どうして?」
「…いや、ただなんとなくね」
オヤジはただ笑うだけでそれ以上突っ込んでこなかったが、彼がなぜそんな事を聞きたくなったのか、雅之には分かる気がした。毎晩毎晩ビデオやDVDを3本も4本も借りて帰り、翌日にきちんと返却してくる客が一体どんな生活をしているのか、彼が興味を持つのはごく自然なことであった。あの夢にうなされるようになってから、雅之は1日平均2時間程度しか寝ていない。その間、一体何十本の映画を見たことだろう。
レンタルの袋を抱えてアパートの前まで戻ると、ドアの近くで黒い人影が動いた。
「雅之!」
それは千春だった。
「…千春!? …おまえ、どうしたんだ?」
彼女は目に涙を溜めている。
「…タクシー飛ばしてきたの! …今日の雅之、かなり疲れた様子だったし、いろいろ考えてるうちにどんどん悪いこと想像しちゃって。…それで、気になって電話したらずっと呼び出してるし」
「うん。…携帯、部屋に置いてきたから」
そっけない彼の返事を聞いて、千春の声が一段と高くなった。
「雅之、イタ電が嫌いだからって、いつも寝るとき携帯の電源切ってるじゃん!…だから、呼出音を聞いてるうちに、悪い胸騒ぎがして…。何かあったんじゃないかってすっごく心配したんだから!」
千春の瞳から涙が零れ落ちた。それを見て、雅之の胸にも熱いものがこみ上げてきた。
「そうか…、俺が倒れているかもって心配してくれたんだね?」
「そうよ。本当に心配したんだから。…ねえ、どこ行ってたの?」
「ああ、ちょっとビデオレンタル屋さんにな…」
DVDの詰まった袋を見て、千春の顔色が変わった。
「ちょっと、それどういう事? 休みたいから早く帰ったんじゃないの? それとも、私と一緒にいるよりもビデオ見てるほうがいいってわけ?」
「いや、違うんだ千春。そうじゃなくて…」
「もう知らない!」
千春は駆け出した。雅之は後を追おうとしたが、すぐに息が切れてへたってしまった。
――やはり、千春には本当のことを話しておくべきだった…。
しばらく走ってから、千春は止まり、呼吸を整えた。バッグの中から、かすかに音楽が聞こえてくる。彼女は携帯を取り出し、相手を確認するなり電源を切って、またバッグに投げ込んでしまった。電話で言い訳なんか聞きたくなかった。――理由があるなら、何で後を追ってきてくれないの? あなたの私に対する想いって、その程度のものなの…?
それから、夜の住宅街をぼんやりと彷徨った。自分のアパートまで歩いて帰れる距離じゃないことは分かっていた。でも、駅に向かう気にもなれなかった。暗い路地にさしかかったとき、金属のきしむような音が後ろから聞こえた。振り向くと同時に、体がものすごい力で引っ張られた。
「きゃっ!!」
バランスを崩し両手をつきながら、暗闇の中で自転車のスポークが微かに光りながら遠ざかっていくのが見えた。立ち上がったときには、自転車の気配は跡形もなく消え去っていた――ヴィトンのバッグと一緒に!!
「もう、――最悪!!」
翌朝、雅之は携帯を握り締めたまま、リビングの椅子にもたれかかっていた。
「――おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていません」
夕べから、この音声を何回聞いたことだろう。彼はメッセージも入れずに、力なく通話を切った。――まいった。千春の奴、相当怒っているらしい。ちゃんと話せばすぐに分かることなのに…。がっくりと肩を落とした雅之の疲労は、極限といえる状態に達していた。食欲もなく、仕事に行く気分にならない。しかし、まさかこんな理由で会社を休むわけにもいかず、彼は無理やり気合いを入れてアパートを出た。
太陽が眩しい。真っ直ぐに歩くことすらできない。
駅の発車ベルが頭に響く。満員電車では何度か意識を失いそうになり、気が付くと、駅を2つも乗り越していた。
会社に行ったら行ったで、仕事にも全然身が入らなかった。締切りの近い企画書を仕上げるためパソコンの前に座っていても、すぐに心が別のところにいってしまう。突然、頭の中を何人もの笑い声が飛び交い、画面に夕べ見た映画のシーンが現れて、ぎょっとして立ち上がったら、お茶を運んでいた女子社員にぶつかってしまった。
もう限界だ。
雅之は課長席の前に立った。
「すみません。午後早退させてください!」
雅之は病院に足を運び、精神科の医師の診察を受けた。
「ほお。…その夢を毎晩のように見るわけですね。一体いつ頃からですか」
丸眼鏡を掛けた年配の医師は、ソフトな語り口で事務的に問診を進めた。
「昔から時々は見ていたんです。それが…、2週間くらい前からほぼ毎日になりました」
「2週間…。眠るのがが怖くなるほど恐ろしい夢なんですね」
「それはもう…。怖いなんてものじゃありませんよ。全身炎に包まれた人影が低い声でつぶやきながらこっちに迫ってくるところなんていったら、どんな恐怖映画だってあれほどのものはないっていうくらいです。…先生、なんとかならないものでしょうか。こんな生活を続けていたら、俺、死んじゃいますよ」
医師は眼鏡を直した。
「1つお聞きしますが、過去に火事に遭われたことは?」
「ないです」
「大やけどをしたとか、火にまつわる恐怖体験などは?」
「…いえ、まったく。キャンプファイヤーなんか、結構好きだし!」
医師は頭を掻きながら、少しの間考え込んでから言った。
「まあ確かに、夢というのは現実以上の現実感を伴うものです。感情の起伏も普段の生活よりも激しい。場合によっては痛みや暑さを感じることもある。…しかし、しょせんは夢なのです。現実の世界じゃない。あなた自身が作り出した世界だ。…そう思うことです」
「…と、言いますと?」
「怪人に立ち向かいなさい。その悪夢に打ち勝つのです」
「そんな…。とても勝てそうな相手じゃないんです」
「それがいけない。だから負けるのです。…考えてもごらんなさい。あなたはその怪物の生みの親なんですよ。あなた自身が作り出したものをあなたが倒せないわけがないでしょう」
「はあ。…それはそうですが…」
「絶対に勝てます。…そう信じることです。そうすればもう同じ夢を見ることはなくなりますよ」
医者の言葉には説得力があった。たかが夢のためにこんなにも毎日苦しんできた自分が、なんだか馬鹿みたいに思えてくる。――今夜決着を付けてやる。あの炎の怪人め、思い知るがいい!! 雅之は意気込んで帰路に就いた。
その夜、久しぶりにパジャマに着がえた雅之は、医師に処方された睡眠薬を飲んでベッドに潜り込んだ。
「あはははは…」
杉の木が気持ち良く伸びた森に、千春の笑い声がこだまする。駆け出した千春を雅之も笑いながら追いかけていく。木々の間を縫うように走る千春の姿が、突然ふっと見えなくなった。足を止め、辺りを探す。――と、岩山の前に立つ千春の後ろ姿が目に入った。雅之は彼女にそーっと近付き、驚かしてやろうと肩に手をかけた。
「タカ…」
「えっ!?」
突然、千春の全身が赤々と燃え上がった。驚いた雅之が数歩後退する間に、火は見る見る森の木に燃え移り、振り返った千春の体は、炎の怪人の姿に変貌していた。
『タカ…』
怪人は雅之の方に歩き始めた。回りの炎も、それにともなって燃え広がっていく。込み上げてくる恐怖が押さえられずに、雅之は逃げ出した。しかし、――彼はすぐに踏み止どまった。
「畜生、そう思い通りにされてたまるか!」
意を決して振り向く雅之。怪人は足を止めた。
「これは俺の夢だ。…お前も、この森も俺自信が作り出した幻覚なんだ!」
炎の勢いが一瞬弱くなった。雅之は続けた。
「お前は絶対に俺を殺せない。やれるものならやってみろ!」
『…』
だが次の瞬間、火炎の勢いが以前にも増して大きくなった。それはあたかも、『俺はお前を殺せるのだ』という怪人の不敵な返事であるかのようだった。再び奴は進み始めた。火はかつてないほどの勢いで森の木を薙ぎ倒していく。強力な熱風が、呆然とする雅之の顔に当たった。
「馬鹿な…!」
彼は逃げ出していた。
あの怪物を倒そうなんて愚かな考えであった。早く目よ覚めてくれ!――彼はそれだけを願って走った。だが生い茂る草に足を取られ、すぐに転んでしまった。
顔を上げると、全周360度が炎に囲まれていた。もう逃げる場所がない。
『タカ!』
耳元で声がした。振り返ると同時に、怪物は雅之に襲いかかった。
「うわ〜っ!!」
全身が猛烈な熱さに包まれた。息苦しい。――こんな体験は始めてだ。なぜ目が覚めない? まさか――、まさかこれは夢ではないのか? これが現実なのか!? このままでは…死・ぬ!――助けてくれ!!
その時、突如岩山が砕け、割れ目から大量の水が吹き出した。ナイアガラをも凌ぐ勢いで流れ出した水は、濁流となって森を覆い、火を瞬時にして消し止め、雅之までも飲み込んだ。
強力な流れにもまれて、雅之は再び死の苦しみに直面していた。やっとの思いで水面に顔を出すと、すぐ目の前に手が差し延べられている。だれの手かも分からぬまま、彼はそれに掴まり、いつ、どこから現れたか分からないボートの上に引き上げられた。
「ありがとうございます。…助かりました」
息も絶え絶えに礼だけを言ってから顔を上げると、黒い衣服に身を包んだ若い女が、不思議な魅力のある瞳で彼を見ていた。
「危なかったわね。大丈夫?」
「ええ――、なんとか」
他に人影はない。落ち着いて船の回りに目をやると、辺り一帯全てが水に覆い尽くされていた。森や炎などかけらもなくなっている。
「驚いたな。森が海になっちまった。…一体どうなってるんだ」
「火を消そうと思ったんだけど、…ちょっとやり過ぎたかな」
回りを見渡した後、女は雅之に視線を戻して照れくさそうに笑った。雅之は唖然として彼女を見つめた。
「まさか、これ、…君がやったのか?」
「そうよ」
「…うそだろ!」
絶句する雅之を前にして、彼女は余裕の態度を変えない。
「そう驚くことはないわ。…夢なんだから何でもできるのよ。信じないのなら…、見てなさい」
少し考えてから、女は水面の一点をじっと見つめた。するとそこがブクブクと泡立ち始め、にわかに波うった水面からうねりをあげて巨大な水柱が立ち昇った。――何と! それは瞬時にしてフタバスズキリュウの首に変わった。長い頸部をねじ曲げてボートを見付けた海獣は、大空に向けて一鳴きした後、鋭い歯の立ち並んだ口をぱっくりと開けて獲物となった雅之たちに躍りかかった。
声を上げる暇もなかった。いきなり目の前にどう猛な首長竜のキバが迫り、雅之は反射的に顔を背け、片腕をあげて必死に防御の姿勢をとった。
目を閉じたまま、数秒の時が過ぎた。何も起こらないので恐る恐る目を開けると、恐竜ははるか遠くから自分たちを恨めしそうに見上げて鳴いていた。巨大生物がアヒルのように小さく見える。信じられないことだが、今や雅之たちを乗せたボートは水面を離れ、まさに海抜300メートルといった高度をふわふわと漂っているのである。正気を失っている雅之を見て、女は腹を抱えて笑った。ひとしきり笑ってから、女はなおも横腹を押さえながら言った。
「これで分かったでしょ。今自分たちがどういう世界にいるかってことが」
彼女は船縁に立ち、舞うようにしてふわりと空中に浮かび上がった。
「夢…。そうか、これってやっぱり夢だったんだ」
「そうよ。…基本よね。これって」
彼女はくるりと宙返りをした。
依然として冴えない表情のまま、雅之はぼそっと言った。
「じゃあ、なんでさっきは目が覚めなかったんだ。あんなに苦しい思いをしたのに、目が覚めないなんて…」
「あなた、寝る前に睡眠薬を飲んだでしょう」
唐突な質問を繰り出した女は真顔に戻っている。
「あ、ああ」
「やっぱり! …危ないところだった。私が通り掛からなかったら、今頃どうなっていたか分からないわよ」
「それ、…どういう事?」
「夢の中だって大きなダメージを受けると、体に影響が出るの。心臓の弱い人はショック死する場合があるし、…脳に障害が残ることだってある。…まあ普通の状態なら、大きなダメージを受ける前に目が覚めるようになっているから大丈夫なんだけど、睡眠薬とかで覚醒が妨害されると命を落とすことにさえなりかねないの。…分かった?」
雅之は女をしげしげと眺めて聞いた。
「やけに詳しいけど…君は一体だれなんだ?」
「私はね…、こういう者よ」
彼女の手から雅之の元に小さなカード状のものが飛んできた。受けとって見るとそれは名刺で、こう印刷されていた。
『夢探偵 真木刹那』
雅之はぽかんとした顔で女を見つめた。
第2部「夢探偵」 につづく
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