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葉をおおかた焼き払われて黒い幹だけになった公園の木々から、白い煙が濛々と立ち上ぼり、周囲を水墨画調のモノクロの風景に変えていた。その幻想世界の中心に、黒い薄手のワンピースを纏った真木刹那があたかも景色の一部のように幽然と浮いている。
安心した途端、雅之の全身から力が抜けた。彼は立っていることができなくなって、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「た、助かった。…」
そう言うのが精一杯だった。繰り返し押し寄せた恐怖と絶望とによって、口の中がカラカラに乾ききっていた。
それまで雅之の様子を冷静に観察していた刹那は、ゆっくりと彼に近付いた。白く煙る空気を反射してミルクの海のように見える水溜まりの上には、足跡のかわりに幾つもの波紋が広がっては消えた。
教会の玄関に音もなく降り立ち、彼女が雅之の前に右手を差し出すと、その掌の中に水を湛えた青いグラスが現れた。雅之は息もつかずにそれを飲み干した。
「ありがとう。…また助けられたね」
ようやく冷静さを取り戻した雅之は、口元を拭い、力なく笑って言った。
「よくここが分かったわね」
彼女の口調には、どこか人を突き放すような冷たい響きがある。しかし、人の深層心理までも見透かすような刹那の真っすぐなまなざしの奥に、雅之は自分を包み込んでくれる強く優しい光を見いだし、不思議と落ち着いた気持ちになっていた。スラックスの膝や尻のほこりを叩きながら、ゆっくりと立ち上がって、答えた。
「…名刺に、案内してもらったんだ」
「名刺?」
「この間、君にもらった名刺だよ。今は鳥になって…、ほら、あそこに留まってる」
雅之は教会から数歩離れて、玄関のひさしの上を指差した。刹那が顔を向けると、キリスト像のいばらの冠から白い小鳥が飛び立ち、幾度か旋回しながら彼女の目の前まで降りてきた。手を差し出した刹那の目の前で、小鳥は白い閃光を放ち、元の名刺の姿に戻って彼女の掌にひらりと収まった。
「へぇ…」
「名刺に案内させるなんてシャレた演出だよな。…さすがだよ」
しきりに感心して頷く雅之。少しの間掌を見つめていた刹那は、どうしたわけか突然吹き出し、名刺を弄びながら言った。
「私、何もしてないわ。あなた自身の想念が、名刺を鳥に変えてここに案内させたのよ」
「俺の、…想念?」
雅之はぽかんと口を開けている。刹那は得意満面といった感じで解説した。
「そう。無意識にやったのね。さっきの大火事だって、あなたが作り出したのよ。…ほんと、すごい想像力だわ」
「まさか…、そんな…」
戸惑う雅之の前で、白い霧がゆっくりと渦を巻き、そこに丸眼鏡の精神科医がぼんやりと浮かび上がって語った。
『――しょせんは夢なのです。現実の世界じゃない。あなた自身が作り出した世界だ。…――…あなたはその怪物の生みの親なんですよ。あなた自身が作り出したものをあなたが倒せないわけがないでしょう。――』
「いや、違う!」
雅之は叫んだ。瞬時に医者は消えた。
「俺は丸眼鏡に言われた通りあいつに立ち向かったが、まったく歯が立たなかった! あいつは…、あいつは絶対に俺自身の作り出した幻なんかじゃない!」
「ちょっと話が見えないんだけど、…あいつって誰?」
刹那の目が点になっている。雅之はやっと我に返った。
「あ、いや…、『炎の怪人』…のことだよ」
「炎の怪人?」
「さっきの火事の元凶さ。…全身火達磨になって、毎晩毎晩しつこく俺を殺しにやってくるんだ。…あいつのために、どれだけひどい目に遭ってきたことか」
「なるほどね。それで私が二度も火消し役をやらされることになったってわけ」
「ああ。…なあ刹那さん、君だって俺があいつに殺されそうになるところを見ただろう。炎に包まれて…。あの時の俺、睡眠薬を飲んでて危ない状態だったって、君はそう言ったよな!」
「確かにそうよ。あのまま放っておいたらショック死していたかもね」
「あいつを生み出したのが俺だとしたら、なんで俺を殺そうとするんだ。創造主を殺したら、自分だって死ぬことになるわけだろ」
いきりたつ雅之から、刹那はゆっくりと視線をそらして言った。
「…人間って、ときには自分で自分の命を絶つことだってあるわ」
「えっ!?」
その時、雅之は彼女の言わんとしていることを察し、慄然となって叫んだ。
「…そ、それじゃあ、俺に…、俺の心の中に自殺願望があるってのか!?」
「さあ、それはどうだか。…いずれにしても、このままじゃその怪物は当分の間あなたを解放してくれそうもないわね。無意識にしろ、命令を出しているのはあなた自身なんだから」
「そんな…。このままじゃ完璧にノイローゼになっちまう」
頭を抱え蹲る雅之。
「こほん」
刹那は咳払いを1つしてから屈み込み、石畳の上――雅之のちょうど目線の先に、さり気なく名刺を置いた。
「あっ!」
軽快な動きでそれを拾った雅之の眼に、さっ、と希望の光が宿った。
「夢探偵真木刹那!! 君なら、なんとかできるのか! あいつをやっつけられるのか!?」
「たぶん…ね」
「たっ、頼む! お願い!! 助けてくれっ!!」
なりふり構わず、…といった感じですがりつこうとする雅之を、刹那は慣れた身のこなしでひらりとかわした。
「引き受けてもいいけど、…高くつくかもよ」
「金なら、…借金をしてでもなんとかする!」
「現金じゃないわ。そんなもの、いくらあったって、夢の中では何の役にも立たないもの」
「じゃあ、…何を?」
「作品をひとつ、いただくわ」
刹那の漆黒の瞳が、一瞬重い光を放ったように見えた。雅之はぞくっという寒気を感じながら、無理におどけた表情を作って言った。
「作品って、…俺、芸術家じゃないけどな」
刹那は笑った。
「夢の中では、誰もが芸術家よ。無意識のうちに、自分の周りに様々な作品を作り出していく。夢世界そのものがそういった作品群で成り立ってるんだけどね」
「…そうなの?」
「ええ。…たとえば、これね」
刹那は、目の前にそびえ立つ4本の塔を見上げた。
「この建物は、あの有名な建築家アントニオ・ガウディ自身が作り出したものよ。もちろん、ノミや金槌でこつこつ作り上げたわけではなく、彼の想像力によって生み出された、世界で最も美しい作品といえるわね」
雅之はポカンと塔を見上げながら、無邪気な質問をした。
「ガウディ…って、何歳だっけ?」
刹那は不機嫌そうに横を向いた。
「とっくに死んでるわよ。何十年も前にね! …でも、彼の想念はこうして残った。彼の頭の中で完成していたこの建物とともに」
刹那は大げさに両手を広げ、くるりと回った。
「えっ、でも、聖家族教会って、まだ未完成なんじゃ…? 完成まで百年くらいかかるって聞いたことあるけど」
「よく知ってるじゃないの! でも、それは現実の世界でのお話。ここでは、この芸術品は彼が生きている間に築き上げられた。それも、細部にわたって完璧な形でね」
「へぇ…」
「話が脱線しちゃったけど、よーするに、どんな人でも、夢の中にその人にしか作り出せないオリジナルの作品を持ってるってわけ。もちろん、あなたもね」
雅之は恐る恐る発言した。
「それって、…たとえばあの炎の怪人とか…」
「ビンゴ!! まあ、あなたとしてはお呼びじゃないんでしょうけどね」
雅之は突然吹き出した。彼女の台詞が妙にオヤジくさく聞こえたからだ。そもそも初めて逢ったときから、雅之は刹那の見た目と話し方の間に言いようのないギャップを感じとっていた。顔立ちを見ると20代前半と思われるのだが、言葉遣いは『今時の若者』とは明らかに違っている。地味な黒い服装といい、彼女はいったい何歳なのだろうか。
刹那は雅之の様子を怪訝そうにうかがった。
「何?」
「――あ…、い、いや、なんでもない」
雅之は今の自分の立場を思い出し、湧き上がる疑問を唾と一緒に呑み込んだ。
「じゃあ、話を戻すけど、私の条件はこうよ。仕事が無事終わった暁には、あなたの夢の作品を1ついただく。具体的に何にするかは、そのときに私が決める。いいかげんなようだけど、今はまだあなたが何を持っているか分からないですからね。…こういうことでよければ、依頼を引き受けるけど、どう?」
「その作品とやらを君にあげると、いったいどうなるんだ?」
「あなたは、それを夢の中で二度と見ることができなくなる。…まあ、そういうことよ」
「なんだ、それだけのことか。わかった。1つといわず、2個でも3個でも、…いや、いっそのこと、夢の中のものをぜ〜んぶ持っていってくれ! そうすりゃ、悪夢だって見なくなるわけだろ??」
刹那は首をすくめ、冷たく言い放った。
「これだから素人は…。そんなことしたら、あんた死ぬわよ」
「えっ、なんで???」
「夢の作品は人の想念――つまり、精神エネルギーで形作られていて、そのエネルギーを全部奪われたら、人は生きていけないのよ!」
雅之は顔を硬直させている。
「ひええ、意外と恐ろしいんだな」
「そうよ。例えばあなたの場合、その『炎の怪人』とやらを無理やり奪ったり消そうとしたら、命に関わる可能性があるわね。ま、普通の作品を1つ2つ失っても、ちょっと元気がなくなるくらいで問題ないんだけど。…で、どうするの?」
「はは、…1つぐらいなら、あげてもいいかな。でも、命は保障してくれるんだろうね」
刹那は笑った。
「もちろんよ。では、これで契約成立ね。詳細を確認するけど…、」
彼女は横を向き、雅之の回りをゆっくりと歩きながら説明した。
「依頼の内容は『悪夢払い』。まず悪夢の原因を突き止め、それからその原因を取り除き、2度とその夢を見ないように封印する。長期的な作業になるけど、毎回あなたに立ち会ってもらう必要があるわね。問題はこれからのスケジュールだけど…」
歩を止め、刹那が左手の人差し指の爪を右掌でサッと一撫ですると、そこに学校の時間割のような表が現れた。上に曜日が入り、下に予定が書き込まれている。
「実は今、2つの仕事をかけ持ちしてるんだけど、…あなたもけっこう追いつめられてるみたいだし、最低でも週2回は動く必要があるわね」
表を見ながら、ぶつぶつ言っていた刹那は、ぽん、と手を打って振り向いた。
「よし、毎週木曜と日曜の夜12時半に、ここで待ち合わせをして仕事に入る…と、こんなスケジュールでどう?」
雅之は肩をすくめた。
「すべてお任せしますよ」
その投げやりな態度に、刹那はちょっとむっとして顔を突き出した。
「あの…、人ごとのように言ってるけど、悪夢払いには、あなたにも参加してもらうんですからね。週2回、12時30分までに間違いなくここにきてもらわなきゃ仕事が進まないの。分かってる?」
「あ、ああ、そういう事か。で、でもさ、夜更かしをしないようにするのは簡単だけど、夢の中で迷わずにここに来るにはどうすればいいのかな?」
「夢世界の案内人は、自分自身の想念よ。ここに来たいっていう強い意志だけが、あなたをここに連れてくる。…まあ、慣れるまでは――」
刹那は雅之の右手を指差した。
「その名刺をお守り代わりに持っているといいわ。さっきみたいに、ここに案内してくれるはずよ。それに――、私がいないとき、その名刺があなたのピンチを救ってくれるかもしれないし」
刹那は、無邪気な笑みを浮かべた。
………
翌日、目を覚ました雅之は、ベッドの上に半身を起こして、しばらくの間ぼーっと白い壁に視線を向けていた。それから、「あっ」と叫び、上着の内ポケットに手を入れようとして胸を探った。今自分が「背広」ではなく「パジャマ」を着ていることに気が付くと、慌ててベッドから飛び出し、ハンガーにかけられたスーツの内ポケットに手を突っ込んだ。名刺入れと、入れた覚えのない飲み屋のレシート2枚とポケットティッシュがでてきた。全部の名刺に目を通し、それから別のポケットと他のスーツもチェックしてみたが、やはりお目当てのものは見つからなかった。
――寒い…。
鼻水をすすりながらジャージを羽織り、ファンヒーターのスイッチを入れた。
「結局…、夢なんだよな」
雅之は、自分に言い聞かせるようにぼそりと言った。漫画じゃあるまいし、「夢探偵」の名刺など、出てくるはずがないのだ。
――それにしても、また彼女の名前と顔を思い出せなくなっている…。
ティッシュボックスに手を伸ばし、鼻をかみながら何気なくテーブルの上に置かれたメモ用紙を眺めていた雅之は、思わず目を見開いて飛びのいた。それからティッシュを投げ捨て、テーブルの紙切れをひっつかむと、何度も目を通してメモの内容を確認した。
「なんでこんなものがここに…」
彼は言葉を失い、青ざめた表情のまま硬直していた。ファンヒーターの着火を告げる鈍い回転音が、荒々しく部屋に響き渡った。
雅之は会社の更衣室にいた。
コートを脱いでロッカーに納めてから、彼はポケットに忍ばせてあった紙切れをそっと取り出した。
『木、日 12:30』
メモ用紙には鉛筆でこう書かれていた。奇しくも、『毎週木曜と日曜の夜12時半に、聖家族教会で待ち合わせる』という、昨夜の夢の中で交わした契約とぴったり一致している。字は雑だが、明らかに自分の筆跡だった。
昨夜寝るときには、枕元のテーブルにこんな紙はなかった。まして、自分でこんなメモを書いた記憶などない。そもそもこのメモ用紙と鉛筆は、ベッドから2メートルぐらい離れた電話のそばに常備してあるものなのだ。
――寝ている間に、自分でベッドから這い出し、メモ用紙と鉛筆をテーブルに持ってきてこのメモを書いた、ということか? それも暗闇の中で…?
彼はホラー小説を読んでいるときのような寒気を感じ、身震いをした。その時誰かが近づいてきたので、あわててメモをポケットに突っ込んだ。
頭を思いっきり左右に振り、頬をバシバシと2度叩いてから、雅之は職場に向かった。
「――以上で、資料の説明はすべて終わりました。…何かご質問はありませんか?」
自然採光を大きく取り入れた会議室に、雅之の声が響き渡った。ページをめくるパラパラという音の中、雅之はミーティングの参加者10人の顔をゆっくりと見渡した。まもなく、菊地課長が口を開いた。
「この――、資料2の1ページの開始時刻だけど、『午前6時』とあるのは、『午後6時』のあやまりだよね」
「え!」
雅之はあわてて問題の箇所を探しだし、顔を近付けた。
「すみません。打ち間違いです。…皆さん、訂正しておいて下さい」
「それから…」
チェック魔・菊地課長の指摘は、それだけで終わらなかった。
「同じく資料2の5ページ、(3)が2つあるよ。で、その後が全部1つずつずれてる。あと、資料3の出演者の中の社長の名前も間違ってる。ユキオの『オ』は『男』ではなく、『雄』だ」
「も、申し訳ありません。…あとは、大丈夫でしょうか。…?」
一段落した後、雅之が恐る恐る顔を上げると、今度は大沢部長が渋い表情で身を乗り出した。
「高野君、君はこの案を、かなり短時間で仕上げたとみえるね。誤字脱字も多いが、イベントの進め方、会場のレイアウト、客の誘導の仕方など、どれをとっても抽象的で大雑把だし、費用の積算もつじつまの合わんところがある。それよりも何よりも、イメージが伝わってこない!こんな内容では、依頼主は納得せんぞ!」
部長のその一言は強烈だった。すべて適確に言い当てられている。最近の『眠れない生活』のせいで、ゆっくりと考える時間が取れなかったのだ。
しかし、うなだれる雅之の前で、部長は背もたれに静かに身を沈めながらこう続けた。
「だが、このテの企画で一番重要なのは、全体を流れるコンセプトだ。…書き方に問題はあるにせよ、この案の中には、…なにかデカイ、人をワクワクさせるようなロマンがある。夢がある。船井社長がこのフェスティバルに望んでいるのは、まさに、そういうものだと、私は思うんだがね」
「部長…」
雅之は目を潤ませながら顔を上げた。
「なるほど…。いやあ、確かに、その通りですなあ。…発想はいい」
課長もしきりに頷いている。――この人、部長の発言には滅法弱いのだ。
「ま、提案説明会までの間に、さっき言った部分を練り直し、じっくりと煮詰めて、もう一度見せてもらおう。…今度は、きちんとしたものを頼むよ」
結局、雅之の企画は採用されることになった。ほぼ全面的に書き直しの上、もう一度企画会議に臨むという宿題付きで…。
その日の夕方、雅之は今度のイベントの会場となるベイシティパークに佇んでいた。夕焼けに染まり、複雑なグラデーションを奏でる空をバックに、灯の点った高層ビル群のシルエットが鮮やかに浮かび上がっている。冷たい潮風が容赦なく頬に吹き付ける中、彼は刻一刻と変わる景色を次々とデジカメに納めていった。以前、部長と下見にきたときには、昼間だったためか、埋め立て地特有のただ殺風景な広場だという印象しか持たなかった。しかし、この会場の真価は、夜にこそ発揮されるのだ。この美しい夜景に花火やレーザーの彩りを添えたら、どれだけ感動的な舞台になるか分からない。イベントが開かれるのは初夏だ。この風が運ぶ潮の香りも利用しない手はない。たとえ見えなくても、「海」がそこにあるということを、参加者はこの香りから無意識に感じとることになるだろう。その風に乗ってさっそうと登場してこそ、「空飛ぶ船」には命が吹き込まれ、その存在感を強烈にアピールすることができるはずだ! 机上で、ただ機械的に組み立てられただけの原案が、現場の空気を吸収し、雅之の頭の中でみるみる組み替えられ、瑞々しいアイディアに膨らんでいった。――こいつは、凄い企画になるぞ!! 会場を後にしながら、雅之は久しく忘れていた興奮を取り戻していた。
社に帰り、退社する同僚たちとすれ違いながら更衣室に入ると、杉本誠一と出くわした。
「おや、もうお帰りかい?」
雅之がコートを脱ぎながら皮肉っぽく話しかけると、杉本は右の眉毛を上げ、ちょっと感情を害したように切り返した。
「俺たち営業には、勤務時間はあってないようなもんだからな。…何時に出勤し、何時に帰ろうが、実績を上げてれば文句は言わせない。そういう世界だ」
「分かってるって。おまえの成績もよく知ってるよ。…その点、俺たち裏方の仕事ってのは、実績がはっきり見えねー分野だからな。…まあ、コツコツとやらせていただきます」
――どうも、この男と話していると疲れる…。内心そう思いながら、雅之は手早くロッカーを閉めた。その横で、杉本はマフラーを巻く動作をふと止めて、言った。
「ところで、…おまえ、川島千春とはうまくいってるのか?」
「あん?」
予想外の展開に、雅之は一瞬、杉本の顔を見据え、それから言葉を選びながら答えた。
「まあ…な。なかなか休みの日程が合わないけど、週1ペースで会ってるし …」
「なら、いいんだが…。分かってるとは思うが、川島は俺の可愛い後輩だ。泣かすようなことをしたら承知しないぞ」
杉本は口元を引き締め、身を翻して、そのままつかつかと部屋を出ていった。 ――???
あの堅物の杉本が、女性のことを話題にするなんて、どういう風の吹き回しだろう? ほんの数秒間、雅之の好奇心は杉本の背中に向けられた。が、それはすぐに、先程から心の中でくすぶっている仕事への情熱によってかき消されていった。――印象が新しいうちに、アイディアをまとめておかなくては。彼は急かされるように職場に戻り、パソコンの電源を入れた。
大通りの喧騒を吸い込む鬱蒼とした森の上に、あかりのほとんど消えた校舎が黒々とその巨体を横たえていた。決して広いとはいえない、田舎の中学校くらいの面積しか持たないその大学のキャンパスは、それでも、この都会の真ん中では、十分に異質な存在感を放っている。
杉本誠一は、4年ぶりに母校の横を歩いていた。フェンスの隙間から見え隠れする構内の様子は、当時と少しも変わっていない。中庭から漏れるナイター照明の放射と、ラケットがボールを捉らえる時に放たれる小気味良い反響音は、テニスサ−クルの後輩たちが、今も元気に活動していることを物語っていた。
大学を通り過ぎると歓楽街がある。その路地の一角に、昔よく足を運んだカクテルバー「ホライズン」があった。
木製のドアをカラン、と開ける。客は、カウンターの女性1人だけのようだ。杉本はコートを脱ぎながら、その女性のとなりに座った。
「久し振り」
「あ、先輩。…お忙しいところ、呼び出したりしてすみません」
「いや、嬉しかった。…と、いうより、びっくりしたよ。初めてだからな、川島から電話をもらったの」
川島千春は、照れ臭そうに笑った。
「なんか、…声を聞きたくなったんです。サークルの思い出話とかもしたいなあ――なんて。あ、飲み物、何にします?」
「リトルマーメイド」
「あ、やっぱり! 私、杉本先輩、ぜったいそれにすると思ってたんです!」
「やはり、ここにきたら、これを飲まなきゃな。懐かしいよなあ。そうそう、 …さっき、大学の横、通って来たんだが…」
――
杉本が、同じテニスサークルの2年後輩である千春と再会したのは、半年前のOB会の席だった。学生時代、2人は特に親しかったわけではないのだが、その場のノリで「お互いの友達を集めて合コンをやろう」という話が持ち上がり、あらためてセッティングされた飲み会で、雅之と千春が運命的な出会いを遂げたのである。古めかしい言い方であるが、杉本は2人の『愛のキューピット』というわけだ。
――
ホライズンの落ち着いた店内には、センスのいい洋楽が静かに流れていた。
サークルの話でひとしきり盛り上がった後、杉本はクールな表情に戻って言った。
「で、…そろそろ本題に入ろうか」
「はい?」
千春は、顔の表面に笑顔を貼り付けたまま、杉本を見た。
「おまえが俺を呼び出すなんて、理由は1つしか考えられないだろ。…高野と、喧嘩でもしたのか?」
「さすが、先輩。…見破られてましたか」
千春の笑顔は、すぐに半ベソ顔に変わった。
「私、雅之のことが信じられなくなっちゃって…。あの、…こんなことで先輩呼び出すの、失礼だと思ったんですけど、…他に相談できる人がいなくて。…ほんと、ごめんなさい」
杉本は、軽く溜め息をついて微笑んだ。
「いいさ。可愛い後輩のためだったら、いくらでも相談に乗るよ。…それを承知で、ここに来たんだからな。で、喧嘩の原因はなんなんだ?」
「ビデオです」
「え?」
「雅之、私といるより、部屋でビデオ見てるほうがいいっていうんです。…ひどいでしょ!?」
「許せん!! あいつ、川島にそんなことを言ったのか!?」
宙を睨んでいきり立つ杉本を見て、千春は少し慌てた。
「いえ、あの、…はっきりとそう言ったわけじゃないんです。私の思い違いかも知んないし。…それに最近、彼、ずいぶんやつれた感じで…、体調悪いのかな。会社ではどんな感じですか?」
杉本は、ここ数日の雅之とのやり取りを思い出してみた。
「ま、確かに、あいつもデカイ仕事を任されて、一時的にかなりストレスを溜め込んでたみたいだな。早退したこともあったし。…しかし、かと思うと、仕事をサボって、コギャルとお茶会なんかやってたしな…」
「えっ? お茶会??」
「ああ。セーラー服の女子高生2人を相手にな! …まさかあいつ、援交に嵌ってたりして…」
「そ、そんな…!!」
千春は涙目になっている。杉本は慌てた。
「じょ、冗談だよ。…俺が思うに、君達2人には、コミュニケーションが不足してるんじゃないか? 最近、彼とちゃんと話してる?」
千春はうつむいた。
「それが…。私って、部屋に電話引いてないじゃないですか。で、携帯は喧嘩した晩になくしちゃって。…後でイタ電とか来るの嫌だから、買い直したときに番号変えたんですけど、まだ彼に教えてないんです」
「…つまり、全然連絡をとってないってことか。まずいな。…とにかく、一度じっくり話し合った方がいいぞ。なにか、行き違いがあるのかも知れないしな。よし、――善は急げだ!」
杉本は立ち上がった。
雅之は、職場に1人残って、会場のレイアウトを書き直していた。デジカメの画像を参考にしながら、かなり具体的な、自分でも納得のできる案が着々と形になりつつあった。キリのいいところで一息入れ、今後の日程を確認するため卓上カレンダーに目をやったとき、彼はあることにハッと気が付き、思わずカレンダーを手にとって叫んでいた。
「今日は木曜日じゃんか!!」
そして、ポケットから例のメモを取り出した。
『木、日 12:30』
雅之は時計を見た。――まだ、間に合う!
彼はすぐさま机の上を片付け始めた。
会社を出て、駅までの道を足速に歩いていると、胸元に不快な振動が伝わった。雅之は足を止め、ポケットから携帯を取り出して、表示を見た。
「なんだ…、ススムか」
かけてきたのは、同僚で飲み仲間の平田進だった。電話に出ると、ロレツの回らない声と一緒に、カラオケの大音響が耳に飛び込んできた。
「よお、高野ぉ〜、…どうだあ、まだ仕事中かぁ?…」
――そうか、こいつら、今日も飲みに行くって言ってたっけな。雅之も誘われたが、忙しいからと断ったのだった。とりあえず電話を耳から離し、ちょっとトーンを上げて答えながら、歩いた。
「いま会社を出て、駅に向かってるとこだよ」
「おお、そうかあ。こっちはビートハウスにいるんだけどさあ。盛り上がってんのなんのって。今から合流しろよ!」
雅之も飲み会は嫌いではない。いつもなら、電話一本ですぐにすっとんで行って、夜更けまで付き合うこともざらである。だが、今日はこんな誘惑に負けて、夢探偵との約束をすっぽかすわけにはいかない。
「悪い、ちょっと今日は行けないんだ」
「なに?…聞こえな……女の子たちも待ってるし、…来いよ…」
駅の構内に入り、片手で定期券を探していると、電車の通過音が響いてきて声がますます聞き取りにくくなった。なかなか話が通じないので、雅之は一層声をはり上げて言った。
「だめだって! これから、美女とデートなんだよっ!!」
ブチッと通話を切り、再び歩き始めようと前を見て、彼は凍った。
「ち、千春、――杉本ぉ!?」
すぐ目の前に、改札を出てきたばかりの2人が、険悪な形相をして並んで立っていた。
「な、なんで2人がここにいるんだよ!?…それも、お揃いで…??」
第4部「激情」へ つづく
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