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千春は、雅之を睨み付けながら杉本の腕を引っ張った。
「行きましょ、杉本先輩」
「ああ」
動揺する雅之を無視して、2人はさっさと出口に向かって歩いていく。雅之はあわててその後を追い、彼らの前に立ちはだかった。
「ちょ、ちょっと待った! なんで2人が一緒にいるんだよ!?」
「これから『美女とデートする』人には関係ないでしょっ!!」
千春はプイっと横を向いた。完全にブチ切れてるって感じだ。
「ま、待て。誤解だ。千春以外の女とデートなんかするわけないじゃないか」
「さっき、自分でそう言ったじゃないの!」
「いや、あれは嘘だよ。…ススムの奴があんまりしつこいからさ、誘いを断るためについ、嘘を…」
千春は再び雅之を睨み、顔を突き出した。
「へえ、雅之ってそういう人だったんだ。平気で嘘をつくような…。――この間も、私と一緒にいるのがいやで手の込んだ芝居をしたんでしょ」
「違う。…あれも誤解だ。ちゃんと話し合えば分かることだって」
杉本が冷めた表情で口をはさんだ。
「じゃあ話してみろよ。俺達が納得できるようにな」
いざそう言われて、雅之は言葉に詰まった。これまでのいきさつをどう説明したらいいんだろう。――ええい、なるようになれだ!
「そもそもの始まりは夢だ」
「夢?」
「ああ。毎晩毎晩悪夢に悩まされて、ほとんど眠れなくなっちまった。…そしたら、夢探偵っていうのに出会ったんだ。…あ、聞いたことない? 夢探偵、――夢問題のエキスパートだよ。昨日、そいつと契約を交わして、いよいよ今夜から始めるんだ、悪夢払いを」
「…そんなの、どこでやるんだ?」
「決まってるじゃん。――夢の中さ」
千春と杉本は雅之を置いて、そそくさと歩き始めた。
「ま、待ってくれ、嘘じゃないんだってば」
「いいかげんにしろ!!」
取りすがろうとする雅之の顔面に、杉本の強烈なパンチがとんだ。
床に沈む雅之。一瞬だけ、彼に心配そうな視線を向けた千春は、杉本に背中を押されると、またゆっくりと歩き出していた。十数秒後、ようやく立ち直った雅之が目にしたものは、2人を乗せてネオン街の中へ消えていく1台のタクシーの後姿だった。…
千春と杉本は、居酒屋のカウンターにいた。ほぼ満席状態の店内は、ザワついた雰囲気になっている。
カルアミルクのグラスを空けてから、千春は焦点の定まらない瞳で呟いた。
「杉本先輩。…私、ばかみたいですね。…あんな、嘘つきで浮気症な男のこと、信じてたなんて」
隣の杉本は、ソルティドックを少し口に含み、眉間に皺を寄せながら言った。
「前からいい加減な奴だとは思っていたが、まさかこれ程とはな。あんな男をお前に紹介したのが間違いだった」
実は1時間も前から、会話が同じところをぐるぐると回っていた。しかし、2人とも、その膠着状態を打破するすべを知らなかった。
千春は、空のグラスを頭上に掲げた。
「マスター、おかわり!」
「おい、…もう、そのくらいにしとけ。…体壊すぞ」
千春は空ろなまなざしを杉本に向けた。
「杉本せんぱい、やさしいんですね。…あたしのこと、しんぱい…ヒック、してくれて」
すでにろれつが回らなくなってきている。彼女は杉本の肩にもたれかかった。
「あたし…、選ぶ相手を…間違っちゃったみたい。…せ、せんぱいみたいにぃ、やさしくってぇ、たよりがいがあってぇ、…まじめで…、…そーゆーひとにぃ、…ムニャムニャムニャ」
「お、おい、…川島?、――大丈夫か?」
グラスを持つ千春の手が、カウンターの上にガタン、と落ちた。もはや思考が混濁しているようだった。少しカールのかかった黒髪が、やや赤みのさした柔らかな頬の上に被さっている。半ば閉じられた瞳は潤み、半ば開かれた唇からは微かに言葉にならない声が漏れてくる。
「美しい…」
その時、杉本の胸の中で長いこと眠っていたものが、戦慄とともに封印を解かれ、野に放たれた。
雅之は、頬をさすりながら千春のアパートの前に立っていた。2階にある千春の部屋の電気は消えたままだ。吐く息が白い。時計を見ると、既に12時を大きく回っていた。
――もう夢探偵との約束には間に合わないな。
しかし、彼はそこを離れることができなかった。携帯を取り出し、まず、杉本の部屋にかけてみた。留守電だ。だめ元で、次は千春の携帯を呼び出した。
「お掛けになった電話番号は、現在使用されておりません」
――なぬ!? 使われてない??
何回掛けても結果は同じだった。――使われてないってことは、番号を変えたってこと? いったい、いつの間に… 慌ててメールを打ったが、やはり宛先不明で戻ってきてしまった。
雅之は混乱し、不安は際限なく広がった。
1時間が経過した。
――う〜、寒い。
2時間が経過した。雪がちらついてきた。
――こんな日に初雪かよ。…勘弁してくれ。
3時間が経過した。積雪が2cmになった。
――へっくしょい!
夜が明けた。
雪はやんだ。
千春は帰ってこなかった。
…
またもや『眠れない夜』を経験した雅之は、不安とあきらめの入り混じった気持ちを抱え、千春のアパートを後にした。手も足も、感覚が無くなってしまっている。直接会社に向かうべく、電車を乗り継ぎ、いつもの駅で降りた。改札を抜けると、人ごみの中に見紛うはずもない杉本の後姿があった。昨夜3人で修羅場を演じた、ちょうどその場所である。早足で追いつき、横合いから肩をつかんだ。
「杉本!、−お前、夕べは千春とどこへ行ったんだよ!」
杉本は不敵な笑みを浮かべた。
「ノーコメント」
「な、なんだと!」
奴は止まった。
「いいか、高野。お前にはもうあの娘のことをとやかく言う資格はないんだ。川島がどこで誰と何をしようが川島の自由だ。−もうお前のカノジョじゃないんだからな」
杉本にはっきりとそう言われ、雅之は強いショックを受け、固まった。悠然と立ち去る杉本。雅之には、もはやその背中に挑みかかるだけの力がなかった。
「う〜ん…」
千春は、ベッドの上で寝返りをうった。頭がズキンズキン痛む。目が回る。重い瞼をちょっとだけもち上げると、真っ白い光が突き刺すように瞳孔に飛び込んできた。
「ん――?」
よく分からないけど、なにかいつもと違う気がする。なんだろう。――そうだ、窓の位置が違う。天井の色も…。ここって、いったい、どこ?
彼女は体を起こした。
「痛っ!!」
とたんに激しい頭痛に見舞われた。彼女は両手で額を押さえ、それからその手を口に持っていった。
「ちょっと、…そこで吐かないでよ!」
隣の部屋から、女が洗面器を持って飛んできた。聞き覚えのある声だ。
症状がひととおり落ち着いてから、千春はまだぐるぐるする目で、枕もとにかがみこんでいる女の顔を追った。ショートの茶髪、ちょっとニキビのある日焼けした頬。――確認! 親友の岡村香代だ。そうか、海外出張から帰ってたんだ。――じゃあ、ここは香代ちゃんのアパートね。
「ねえ、…私、なんでここにいるの?」
香代は、呆れ顔で聞き返してきた。
「ゆうべのこと、全然覚えてないの?」
「えーと…、」
考えようとすると頭の血管がドクドクと脈打つようだった。香代は立ち上がり、ベッドに背を向けて手早く着替えながら言った。
「いい? あんた、もう少しで大変なことになるとこだったんだよ」
「大変なこと…?」
「まあ、詳しくは分からないけど、あの杉本って奴、べろべろに酔っ払った千春を無理やりホテルに連れ込もうとしてたんだ。そこにたまたまあたしが通りかかって、足腰の立たないあんた背負ってさ――、雪で足元は滑るし、ほんと、大変だったんだゾ」
着替えを終えた香代は、クローゼットをバン、と閉めた。
「まさか、…あの杉本先輩が…」
香代は千春の顔を覗き込んだ。
「それとも、あんた、高野から杉本に乗り換えたってわけ? だったら、あたし、余計なことをしたのかな」
「違う!! そんなんじゃな−痛!」
叫んだら、一段と頭痛が激しくなった。
「とにかく、今日は会社を休みな。この部屋、自由に使っていいから。…そうそう、二日酔いの薬がそこの引き出しに入ってるよ。食べ物は冷蔵庫の中のものを勝手にどうぞ。…ま、夕方まで食欲も出ないだろうけどね」
千春をベッドに残して、香代はさっさと会社に行ってしまった。
一応、職場に仮病の電話を入れ、トイレとベッドを何度となく往復し、1時間もたった頃には、少し頭がすっきりしてきた。こんなに深酒したのは初めての経験だった。――なんでこんなことになったのだろう。
記憶を整理してみた。雅之と駅前で喧嘩別れしてからタクシーで居酒屋に行って、モスコミュールとジンライムとカシスなんとかとスクリュードライバーとカルアミルクを飲んだ。それから――、店を出た。また、タクシーに乗った。窓から雪が見えた。杉本先輩が耳元でなんか言ってた。断片的な記憶をつなぎ合わせると、…やっぱり、香代の言ってたような展開になってたのかなあ。
千春は激しい自己嫌悪に苛まれ、頭を抱えた。
雅之はデスクで頭を抱えていた。
企画書の見直し作業は、大詰めの段階にきて一歩も進まなくなっていた。夕べはあれほどアイディアが沸いて出たというのに、今日は午前中の時間を全部割いてもさっぱりダメだった。千春のことが気になって、仕事に集中できないのである。
千春の勤め先に電話してみたが、出勤していないということだった。相変わらず携帯はつながらない。彼女は部屋に電話を引いてないので、帰宅したかどうかを確かめるすべもない。重要参考人の杉本は朝一で得意先回りへ出かけてしまった。――ああ、一体どうすりゃいいんだ!? 千春よ〜、どこにいるんだ? 無事なのかぁ?
昼休み、社員食堂で給食に手もつけず、何か打つ手はないかと思案に暮れていたとき、携帯が鳴った。表示を見ると、「岡村」となっている。…誰だっけ?
「はい、高野です」
「あたし、岡村です。…香代って言った方がいいかな」
「あっ! ――千春の友達の!!」
雅之の顔が、さっと赤みを帯びた。
「突然電話してすいません。もしかしたら、心配してるんじゃないかな――と思いまして」
雅之の胸が高鳴った。
「千春のこと、何か知ってんの!?」
「やっぱり。――高野さんと何かあったんですね」
熱くなっている雅之とは対照的に、香代の声は、まるですべてをお見通しであるかのように、低く、冷静だった。少し間を空けてから、香代は慎重に言葉を続けた。
「詳しいことは言えませんが、心配はいりません。千春は昨日あたしの部屋に泊めましたから」
「え? あ、そうなの! なんだ、そうだったんだ」
「でも、かなり普通の状態と違ってました。あんな千春を見るのは初めてです」
「えっ…、普通と違うって、どんな?」
「それは後で彼女自身の口から聞いてください。とりあえず今日は、恋人のあなたが心配しているといけないと思って、電話してみただけですから。それから、もう一言だけ言わせてもらいます」
息を大きく吸い込んでから、香代は今まで押さえていた感情を爆発させた。
「コォラァ〜高野ぉ!! 千春のこと、しっかり捕まえとかんかい!!」
いきなり音量が上がったので、雅之は危うく携帯をスープの中に落とすところだった。表示に目を戻すと、もう通話は切られている。
――キツイ一言だなあ。…でも、マジでそのとおりだよ。
雅之は苦笑いを浮かべた。とにかく、千春の無事が確認できてよかった。彼女はいい友達を持っているようだ。安心したら、とたんに全身の力が抜けた。背中にドンっと疲れがのしかかってきた。胸が少し痛む。今頃になって、昨日の徹夜のツケが回ってきたのだ。だが、ここでのんびりしている暇はなかった。仕事の遅れを取り戻さなければならない。彼は食事を一気に呑み込み、栄養ドリンクも一気飲みし、また気合を入れなおして午後の仕事に臨んだ。
午後は自分でも不思議なくらいのハイテンションで作業が進んだ。今まで引っかかっていた問題をすべて解決し、午後5時ちょうどにパソコンのふたをバタンっと閉じた。――万全だ。部長でも社長でもドンと来い!!
定時に会社を後にし、電車に飛び乗った。一刻も早く千春に逢いたかった。昨夜の顛末を聞き、それからもう一度、自分に起きていることを詳しく説明して誤解を解きたかった。そして何よりも、彼女に謝りたかった。はじめから彼女とちゃんと向き合ってさえいれば、こんな誤解を招くこともなかったはずだから。電車を降り、乗り換えのため、別ホームに向かう。階段を駆け上がっているときに、異変は起きた。脚が上がらない! 駅の喧騒が遠のき、視界が真っ白になった。
香代がアパートに帰ってきたのは、午後9時過ぎだった。階段を上り、ここで暮らすようになって初めて、自分の部屋に明かりが点っているのを見た。
「ただいま。――千春、まだいたんだ」
ドアを開けると、スリッパの音がして、千春が元気に顔を出した。
「おかえり。遅かったね」
「早いほうだよ。取材やら原稿取りやらで12時過ぎることも多いんだ」
香代は提げていたカメラやバッグを床に置いた。
「へえ。雑誌の仕事って大変なんだね。…だから、電話連絡はいつも11時過ぎなんだぁ」
香代は千春の顔をしげしげと眺めた。
「もうすっかり良くなったみたいだね」
「おかげさまで。…あ、そうそう、夕ご飯まだでしょ?」
千春に導かれてダイニングに入ると、テーブルの上に食事が用意されていた。
「あ、作ってくれたの? 助かるなあ。ハラペコだったんだ」
香代はそういうなり、ハンバーグにぱくついた。
「せめてものお礼です。本当に感謝してます」
千春はぺコッと頭を下げた。
「気にしなくっていいのに。…あ!うまい! 千春、あんたいい奥さんになれるよ!!」
夕食後、キッチンで2人並んで食器を洗っているときに、ふいに千春が呟いた。
「香代ちゃんって強いね。…うらやましいよ」
「あん?」
香代は千春の顔を見た。
「…よせヤイ! だいいち、それって誉め言葉になってないぞ!」
「どうして? …誉めてるんだよ」
「あのね、男ってのは、いつの時代も千春みたいな女の子を求めてるんだよ。繊細で気が利いて、可愛くてさ。…あたしなんか、こんなだからいつも男っ気さっぱりだよ。女扱いされないんだ。あんまり気が強いってのも考えもんだよね」
「そんなことないよ。いつもまっすぐで、何かを信じて生きてるじゃない。かっこいいよ」
「そ、そおかぁ?」
「それに引きかえ、私ってダメだよね。いつもフラフラして。何を信じていいか、すぐに分からなくなっちゃう」
千春の肩が小さく震えた。横から表情は読み取れないが、泣いているようだ。香代は、千春の肩をそっと抱き寄せた。それから水道を止め、壁に掛かっているタオルを取って千春の手(涙じゃないよ!)を拭いた。
「話してみなよ。何があったのか。…少しは楽になるよ」
香代は千春の肩にそっと手を添えて、部屋にエスコートした。
千春はすべてを話した。ここ数日、彼女と雅之の間に生じている亀裂のこと。バッグを盗まれて、事後処理が大変だったこと。駅前で大喧嘩をしてしまったこと。杉本とのこと…。その間香代は、自分の意見を言わず、終始聞き役に回った。話がひととおり終わったところで、香代はやっと口を開いた。
「千春、…それって、もしかすると、もしかするかもよ」
声は低いが、眼に静かな興奮の光を宿している。彼女は自分のバッグの中から素早く雑誌を取り出して、千春の前に差し出した。
「我が社の最新号だけど、…ここを読んでみて」
記事のタイトルに目を走らせた千春は、驚きのまなざしを香代に向けた。
『神秘のセラピスト、“夢探偵”は実在する』
千春は食い入るようにその記事を読んだ。記事は女子中高生やOLら数人の証言と、噂話を中心に構成されており、おおよそ真実味のない、神秘性や怪奇性ばかりが強調された内容となっていた。夢探偵の力で、行方不明だった父親と夢の中で10年ぶりに再会できたとか、片思いの相手に夢探偵を介して告白をして恋愛を成就させたとか、逆に憎らしいいじめっ子に恐ろしい夢を見せて復讐したとか…。
何の予備知識もなしにこの記事を読んだなら、彼女は軽く笑い飛ばしていたに違いない。しかし、“夢探偵”という耳慣れない言葉を、千春は確かに昨晩雅之の口から聞いていた。「夢探偵と契約をして悪夢払いを行う」と、彼は確かにそう言っていた。千春の目の色が変わるのを確認して、香代は言った。
「ま、我が社みたいな女性週刊誌の宿命として、表現がどぎつく――なっちゃってるところもあるんだけどさ。でも、夢探偵に会ったっていう人に直接取材してみて、思ったんだけど――」
香代は身を乗り出した。
「――これ、記者としての勘なんだけど、…とても嘘を言っているようには見えなかったね」
突然、千春は苦悩の表情を浮かべて、叫んだ。
「どうしよう! 私、雅之の言ってることがどうしても信じられなくて、あんな、…あんなひどいことを!!」
そして、半べそ顔になった。
「ねえ、香代ちゃん、…私どうすればいいの? どうやって彼に謝ればいい?」
「そうねえ…。謝るも何も、あんたのとった行動は普通だと思うよ。ただ、…とりあえず、やってみる価値のあることが1つあるかな」
「えっ、何、それ?」
「あんた自身が、夢探偵に会ってみたらどう。そうすれば、高野の言ってたことが本当かどうか分かるわけじゃない」
「そんなこと言ったって…。どうすれば会えるのよ」
困り顔の千春を尻目に、香代はまたバッグの中からごそごそと書類を取り出した。
「これ、夢探偵に関してウチが掴んでいる最新の情報だよ。本当は部外秘なんだけど、特別に教えたげる。…夢探偵は3人いて、これがコンタクトを取る方法。――どれを選ぶかは、あんた決めな!」
その夜、千春が丸一日空けた自分のアパートに帰ると、ドアの下に小さな紙が挟まっていた。それは雅之の名刺であり、裏に手書きのメッセージがあった。『ごめん。でも、俺を信じてくれ』
その場で携帯を取り出し、雅之の番号にかけてみたが、近くにいないようだった。自宅の方は留守電になっていた。
「雅之、昨日はひどいことを言ってごめんなさい。――私、あなたを信じようと思います。それから、携帯が変わりました。新しい番号は090…」
とりあえず留守電にメッセージを入れ、少しおいてからもう一度トライしてみたが、結果は同じだった。12時近くになって、彼女は枕もとに1枚の紙切れをおいて布団を被った。それには『金閣寺』の姿が印刷されていた。
『――深夜0時に金閣寺の夢を見ると、夢探偵の1人に会える。若い僧侶風の夢探偵である。…金閣寺の夢を見るためには、寝る前にその写真を見て、眼に焼き付けておくとよい――』
香代の集めた情報ではそうなっていた。金閣寺の写真は、香代がその場でWEBから画像をダウンロードし、印刷してくれたものなのだ。写真を目に焼き付けてから、千春はスタンドを消した。だが翌朝、彼女は目を覚ますなり大きなため息をついていた。夢探偵には会えなかった。それどころか、どんな夢を見たかさえ覚えていなかったのである。
その日、勤務先の老健施設から千春は時間を見つけて雅之に何度となく電話を入れてみた。今日は土曜日なので、彼は休みのはずである。しかし、一向に連絡がつかない。それは夜になっても変わらず、千春は次第に不安を募らせていった。
――雅之、どこにいるの? もしかして、何かあったんじゃ…
翌日、非番の千春は雅之のアパートを訪れた。新聞紙の束やチラシが部屋のドアに刺さったままになっている。新聞の日付を見てみると、一番古いのは3日前の夕刊だった。
――3日間も帰ってないっていうこと…? 不安は嫌が応にも膨らんだ。隣人に聞いてみたが、もともと雅之とはほとんど顔を合わせないので、何も分からないという。しばらくの間、千春はアパートの階段に腰を下ろして彼の帰りを待っていたが、やがて携帯を取り出し、意を決して杉本の番号を呼び出した。この前ホライズンで会ったときに番号を交換していたのである。
「川島――か?」
杉本の声は戸惑い気味だった。千春は口早に用件を切り出した。
「雅之と連絡が取れないんです。彼の居場所、知りませんか?」
「いや…、あいつとは金曜日の朝会ったきりだが――。出張にでも行ってるのかな」
杉本からは何の情報も得られなかった。
翌日、仕事中の千春に杉本から連絡が入ったのは、午後4時過ぎだった。
「高野の居場所がわかった。…実はあいつ、駅の階段から落ちて、入院していたんだ」
「え!?」
千春は目を大きく見開いた。
病室のベッドに横たわる雅之は、酸素吸入器を付けられ、苦しそうに顔をしかめたまま眠っていた。傍らには彼の母親が付き添っている。廊下で杉本と言葉を交わした千春は、恐る恐る病室のドアを開けた。
「どなた?」
母親の視線が突き刺さる。
「私、川島千春です。…雅之――さんと、お付き合いさせていただいてます」
「あなたが…千春さん!?」
一瞬驚いた後、母親は懇願の表情を浮かべ、千春ににじり寄った。
「ねえ、教えてちょうだい。雅之は、最近どんな生活をしていたの? あなたなら、知っているでしょう!?」
圧倒されるほどの気迫にたじろぎながら、千春は小さくなって俯いた。
「そ、それが…、よく分からないんです」
「そんな!! 付き合っていたのなら分かる筈でしょう!?」
千春は赤面し、返す言葉を失った。そこへ、杉本が割って入った。
「まあまあ、お母さん。…最近、いろいろありましてね」
それから、千春を伴って部屋を出た。廊下を少し歩き、病室から離れたところで杉本は詳細を語り始めた。
「金曜日の夕方に、駅の階段で倒れて、救急車でここに運ばれたんだ。怪我はたいしたことないらしい。精密検査の結果、脳にも異常は見つからなかった。ただ、…抵抗力が著しく低下している。衰弱が激しいんだ。普段は罹るはずもないような感染症をいくつか併発していて、おまけにひどい貧血を引き起こしている」
「回復には時間がかかるんですか?」
「それが、医者にもわからないらしい。峠を越えられるかどうかは、あいつの精神力にかかってるって」
「そんな…」
「なにしろ――衰弱がひどくてね。長期にわたって、かなり過酷な生活を強いられてたんじゃないかって。それで、お母さん、さっきあんなことを聞いてきたんだよ」
千春は、やつれ果てた雅之の顔を思い出していた。「悪夢のためにほとんど寝ていない」とも言っていた。――雅之はサインを出していたんだ。なのに、私はそれに気付いてあげられないばかりか、かえって彼を傷つけてしまった。…私のせいだ。
落ち込む千春に、杉本は申し訳なさそうな視線を向けた。
「今度のことの責任は、…この俺にもある。あいつを殴っちまったりしてな。それから川島、お前にも悪いことをした。ごめん」
「…」
千春には、言葉を返すゆとりがなかった。杉本は語気を強めた。
「だが、川島。これだけは分かってくれ。俺のお前に対する気持ちに偽りはない。…あんなことをしてしまったのも、気持ちが押さえられなかったからなんだ。…お前が好きだ。――ずっと前から」
千春は杉本にまっすぐな目を向けて、きっぱりと言った。
「杉本先輩、ごめんなさい。今の私の気持ちははっきりしています。たとえ、雅之の身に何があろうとも、私、――雅之を愛しています」
「…そうか」
さびしそうにそう呟くと、杉本は千春に背を向けて、タバコに火をつけた。とたんに、看護師が飛んできた。当然のことながら、病院は禁煙なのである。
どうすることもできず、千春はしばらく廊下のソファーに気が抜けたようにとどまっていた。その前を、何人かの人影が通り過ぎ、雅之の病室の前で止まった。病室に入ろうとして、杉本に制止されたようだった。「まだ面会はむりだ」などという声が聞こえてくる。職場の女子社員達が知らせを聞いて見舞いに駆けつけたのだ。結局、彼女らは杉本に花束やお菓子を預けると、また廊下をすごすごと引き返してきた。
「…ねえ、彼、日暮里駅で倒れたんですって? 家とは反対の方向じゃない。いったいどこに向かおうとしてたんだろうね」
「そういえばさ、金曜日の高野君のシャツとネクタイ、前の日と同じだったよね。…女のところにでも泊まったのかな…」
千春は、頭をハンマーでガツンと殴られたような気がした。日暮里駅は、雅之の会社と自分のアパートの間の乗換えポイントだ。――雅之は、私のところに来ようとして倒れたの? それに、前の日彼が家に帰っていないというのは、もしかして、もしかして――
頭が真っ白になった。
心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打ち、平常心を失ったまま、彼女は病院を飛び出していた。
彼女は泣きながら、夜の街をひたすら走った。
途中、何度も凍結した路面に足を取られて転んだ。それでも立ち上がり、また走り続けた。
どこをどう走ったか、覚えていない。気が付くと、大きな川の河原で、太いコンクリートの橋脚に額をつけ、肩ではあはあと荒い息をしていた。服は汚れ、顔と髪は涙と汗でぐちゃぐちゃになっていた。でも、そんなことはどうでもよかった。
――雅之は、アパートの前でずっと私を待ってくれていたんだ。…雪の中で、一睡もしないで――。もともと体が弱っていたのに、私のことを心配して、そんな無理をして、それで、それが引き金になって…
雅之はそんなにも自分のことを想ってくれていた。それなのに自分は、あの日、彼のことを信じられずに、自棄を起こして、酒をがぶ飲みして、家にも帰らず、あまつさえ杉本に身を任せてしまうところだったのだ。
――私って、最低の女…。
張り裂けるような胸の痛みが落ち着いてくると、今度は雅之を心配する想いが、彼のために何かしてやりたいという熱い激情が、怒涛のように湧き上がってきた。でも、今の自分に何ができるだろう。危険な状態を乗り切れるかどうかは、彼の精神力にかかっている。でも、昏睡状態の彼を励ます術などない。――いや、1つだけある!
千春の頭に閃光が走った。
――眠っている雅之とコンタクトを取る方法が1つだけある。しかも、それはきっと、私にしかできない!
今まで橋脚と向き合っていた千春は、勢いよく振り向いた。こんなところでのんびりしている時間はない。だが、その時彼女の視界に入ったのは、眼の前に立ち塞がるガラの悪そうな茶髪の高校生3人組だった。
「おねえさん、こんなとこで、な〜にしてんの?」
「きったねえ格好!」
「めっちゃ、色っぽいやンけ」
彼らはよだれをたらしながら(?)、ゆっくりと千春に近づいてきた。
第5部「もうひとりの夢探偵」へ つづく
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