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「いやあ、杉本君、すまないねえ。朝の貴重な時間を。…ま、こっちに入って。…おーい、美香ちゃん、彼にコーヒー入れてやって!」
企画開発課に顔を見せるなり、杉本は菊地課長の熱烈な歓迎を受けて応接セットに通された。
「いや、どうかお構いなく。報告はすぐに終わりますから」
「まあ、そう言わんと、コーヒー一杯だけでも」
杉本は遠慮がちにソファーに腰を下ろした。と、同時に、課の同僚たちがどこからともなく湧いて出て、応接セットを取り囲んだ。間もなく、正面に着座した菊地課長が身を乗り出して言った。
「で、どうなんだ、高野の具合は?」
一同が息を飲んで見守る中、杉本は躊躇いがちにこう答えるしかなかった。
「…残念ながら、相変わらずです。まだ意識も戻っていません」
「そうか」
周囲から落胆の声が漏れた。テーブルにコーヒーが置かれ、少し間をおいてから杉本が言った。
「まだ予断を許さない状態が続いているそうです。回復できたとしても、職場への復帰は当分無理ではないでしょうか」
「そうか…」
「とにかく、外回りの帰りにもう一度寄ってみます。容態に変化があった場合はすぐに連絡を入れますので」
「うん。…すまないが、よろしくたのむ」
杉本がコーヒーに砂糖とクリームを入れ、かき回して口に運び、半分近く飲み終わるまで、菊地課長はロダンの「考える人」のように頭を抱えたままそこにいた。やがて、若い男が痺れを切らしたように横あいから小声で話し掛けた。
「課長、船井の件はどうするんスか?」
課長は溜息をつき、うめくように言った。
「うむ。…部長はあくまで高野で行きたいらしいが、この状態じゃ諦めてもらうしかないだろう。…かといって、ゼロから立ち上げるとなると時間が足らんし。…ああ、せめて、あいつがちゃんとした企画書を仕上げてくれていればな!」
課長はさらに深く頭を抱えた。
「とにかく俺、もう一度探してみるッス!」
若い男――和田は荒い鼻息でそう言うと、自分のデスクに走ってノートパソコンを開いた。と、その直後に異変が起きた。応接セットの周りの人だかりが瞬時にして消滅したのだ! いや、正確には消えたのではない。移動したのだ。和田のデスクの周りに再度集結した彼らは今、パソコンの液晶画面を睨みつけ、何やかやと議論を始めている。
「あれ、何やってるんですか?」
杉本は、ひとり残った課長に聞いた。
「ああ。『FUNAI FESTIVAL』の企画書を探してもらっているのだよ」
「『FUNAI FESTIVAL』って、高野が担当している仕事ですよね。…その企画書が見つからないんですか?」
「不完全なものならある。前回のミーティングで使った奴がな。しかし、あれじゃ意味がないんだ。全面的に手直しが必要になってな。昨日予定していた企画会議までに完成させておくよう、高野に言ってあったんだが…」
菊地課長の声は次第にぼやきに変わった。
「とにかく、明日、あらためて部長を交えた話し合いを開いて今後の方針を決めることになってる。高野でいくか、別の者に引き継ぐか…、どっちにしても頭痛いよ」
杉本は軽く溜息をついて、首を左右に振りながら席を立った。――担当が1人いなくなっただけで、この騒ぎとは。この課の仕事の体制はどうなっているんだか…。和田の席の周りでパソコン画面を前に喧喧諤諤の議論をしている連中を尻目に、杉本は企画開発課を後にした。
それから7時間が経過した。
ブラインドの隙間から漏れる西日が、ベッドの上に緋色の縞模様を形作っていた。
母親と入れ違いに病室に入った杉本は、ベッドの傍らに立ち、雅之の顔をしばし無表情に見下ろした。容態に変化はない。だが表情は、朝よりも険しくなっているように見えた。
「なんて無様な格好だ」
やがて、杉本は無表情のまま呟いた。
「勝手にムチャして、勝手に倒れやがって。…だいたいお前はいつもこうだ。行動にムラがありすぎる。思いつきで突っ走り、とっさの気まぐれで重要なことを決めてしまう。…いいか、仕事ってのは、積み重ねだ! 日頃からコツコツと情報を集め、人脈を広げ、顧客のニーズを把握し、情勢の変化を先取りして機敏に対応していかなければ、勝ち残れないものなんだ! それがお前ときたら、要領のよさだけで部長に取り入って大きな仕事を手に入れ、おまけに得意の話術と軽いノリで川島をゲットしたあげく泣かすようなマネしやがって…、すべて自業自得なんだよ!!」
雅之は何も答えない。ただ時折、苦しいのか顔をしかめるだけだ。
「入社以来、俺はずっとお前のことが嫌いだった。…その、脳天気で奔放なところがな。お前にだけは負けたくなかった。そう思って、俺はお前とまったく逆の方法で実績を作ってきたんだ。…いつかお前を追い抜き、お前のやり方が間違っていることを証明してやるためにな!」
杉本は眉をつり上げ、身をかがめて雅之の顔を覗き込んだ。
「こんな形のリタイアなんて、俺は認めんぞ」
吐き捨てるようにそう言うと、彼はクールな表情に戻って颯爽と身を翻し、つかつかと部屋を出て行った。
30分後、杉本はアトラスプランニング社の企画開発課に舞い戻っていた。再び人が集まってきたが、雅之の状態に変化のないことが分かると、それぞれ溜息を引きずりながら自席に引き返していった。杉本は和田のデスクに近づき、遠慮がちに声を掛けた。
「企画書は見つかったのかい?」
和田は書類を整理しながら、ムスッとした顔で応じた。
「ダメっス。…少なくともまだプリントアウトはされてないっスね」
「朝、パソコンの中を探してたよね。…LANサーバー上になくても、Dドライブあたりにフォルダが作ってあるかもよ」
「もち、全部探しましたよ! 自分も馬鹿じゃないっス」
例のパソコンは雅之のデスクの上に放置されている。もう、誰も関心を示さないようだ。黙々と作業を続ける和田にチラッと目をやった杉本は、横を向いて咳払いをした。
「コホン」
「…なんスか?」
和田がめんどくさそうにそう聞くのを待っていたように、杉本は振り返って質問を繰り出した。
「あのさあ。…高野、あの日帰るときどんな様子だった?」
「あの日って、倒れた日っスか? 別に、普通でしたよ」
「普通? でもさ、企画書の締め切りが迫ってて、毎日遅くまで残ってたみたいなのに、あの日に限って帰りが早かったよね。それって、やっぱり体調のせいだったのかな」
「いや…」
和田は、書類を揃えながら首をひねった。
「…妙に明かるかったし、体調が悪いようにはみえなかったな。5時ピッタリに『よっしゃ!』って叫んで、パソコンをバタンって閉めて、走るように帰ってったんスよ。…無理やり気合を入れてたんスかね」
「ふうん…、そうか。…なるほど」
杉本はなにやら納得したように頷きながら、ゆっくりと和田のデスクを離れると、そのまま廊下まで歩いていった。和田はその後姿に目をやることもなく、黙々と書類整理を続けた、
4時間後、企画開発課に残っていた最後の社員が席を立ち、フロアの照明が消えた。
その30分後、懐中電灯の光が揺れ、静寂の社内に警備員の靴音が響いた。
その10分後、企画開発課のドアが音もなく開いた。暗がりの中に突如四角い光が現れ、その青白い放射の中に杉本の顔がうっすらと浮かび上がった…
薄暗い駅の構内。一人の男が、懸命に階段を上がろうとしていた。ホームを結ぶ連絡通路に伸びた、灰色の簡易な階段である。段数はさほど多くはない。頂上まではもう少しだ。しかし、強烈な向かい風に押し戻されて、彼は手すりにつかまりながら、一段一段、這うようにして進むことしかできなかった。体は重く、胸が苦しい。でも、彼には進まなければならない理由があった。――階段を上りきり、4番ホームの電車に乗り換えなければ…。千春のアパートに行き、彼女とちゃんと向き合って、今度こそ本当のことを伝えなければ…。
風の強さが増した。足がふらつき、手すりが汗で滑った。危うく転がりそうになるところを必死にこらえ、腰ぐらいの高さの薄っぺらい壁を掴んでなんとか体勢を立て直すことができた。
「おい、雅之、大丈夫か?」
ふいに、声が聞こえた。自分がつかまっている壁の外側――それもかなり至近距離からだ。雅之は腕に力を込めて壁の上に顔を出した。そして、戦慄とともに叫んだ。
「父さん!!」
彼の父親が、彼に暖かい笑顔を向けていた。父親は手を差し延べた。
「こっちのエスカレーターのほうが速いぞ。さあ、こっちに来なさい」
雅之がその手につかまると、父親は力強く彼の体を引っ張り上げ、自分が立っているエスカレーターのステップ上に優しく下ろしてくれた。
「ありがとう、父さん。助かったよ」
「文明の利器は活用しなくちゃな」
父親は相変わらずニコニコと笑っている。その顔を見て、雅之の胸に例えようのない懐かしさがこみ上げてきた。――変わってないな、父さん。この笑顔を見るのは何年ぶりだろう…。
「…でも、父さん、何でここにいるの?」
父親はさらに優しく笑った。
「お前を迎えに来たんだよ。たまには一緒に帰ろうと思ってな」
「えっ!? 帰る??」
この時になって、雅之は初めてある重大な事態に気が付いた。景色がゆっくりと上がっていく――つまり、このエスカレーターは下っているのだ! 彼は慌てた。
「だめだよ、父さん! まだ家には帰れない! 僕には行かなきゃならないところがあるんだ」
父親の顔が翳った。
「でも、お前、かなり疲れてるように見えるぞ。どこに行くつもりか知らないが、無理は禁物だ。家に帰って、ゆっくり休んでからもう一度出直したほうがいいんじゃないか?」
その言葉は、雅之の体に深く沁み入った。同時に重苦しい疲労感が彼の肩にのしかかってきた。全身の力が抜ける。――このまま、家に帰ってぐっすり眠れたらどんなに楽だろう。このまま、なにもかも忘れて…
――雅之!!――
その時、彼の頭の中に千春の声が響き、フラッシュのように一瞬だけ彼女の顔が浮かんだ。その眼差しは悲しく、必死に何かを訴えかけているように見えた。雅之の体に力が戻った。
「父さん、心配してくれるのは嬉しいけど、今、帰るわけにはいかないんだ。ここで逃げたら、俺、絶対後悔すると思う。…悪いけど、行くね!」
雅之は、制止する父親の腕を払いのけて、エスカレーターの手すりを乗り越えた。
「雅之!!」
千春は叫び、そして走った。
彼女の視線の先には、赤いビニール製のハンマーを片手に、台の穴から次々と顔を出すもぐらを徹底的に叩きのめしている雅之の後姿があった。ゲームセンターの騒音は千春の声を完全に飲み込んでしまったが、駆け寄る彼女に気付いた雅之は、すぐに手を止め、爽やかな笑みを浮かべて振り返った。
「やあ、千春。何を慌ててるの?」
「雅之!…よかった、やっと会えた!」
彼女は泣きながら彼の胸に飛び込んだ。
「千春…」
彼女を優しく抱きとめる雅之。
どこからともなく彰幻が現れ、二人に近づいた。
「そちらが、雅之さんですか?」
感涙に咽びながら、千春が顔を上げる。
「そうです。…間違いありません。…本当に、本当にありがとうございました」
彰幻は表情を曇らせた。
「ちょっと待ってください。喜ぶ前に確認しなければならないことがあります」
「…なんですか?」
彼女はさらに強く雅之にしがみついた。彰幻の目にかすかに哀れみの色が表れた。
「それが本物の雅之さんなのか。…あるいは傀儡なのか。それを確かめなければなりません」
「パペット…?」
「くぐつ――、つまり、操り人形のことです。…まず、これを見てください」
彰幻が指した方向には、1人の男が立っていた。その顔を見て、彼女は目を丸くした。
「ま、雅之!?」
「千春…」
その男は、雅之に瓜二つの顔で、彼女に優しく微笑みかけている。彼女は思わず、自分が今抱きついている男の顔を見た。…やはり彼も全く同じ顔をしている。
「千春!」
別の方向から声がしたので顔を向けると、さらにもう一人の雅之が爽やかに微笑んでいた。
さすがに彼女は混乱し、3人の雅之の顔を順番に見ながら後ずさった。
「…どういうことですか!?」
「驚かせてすみません。…後から登場した二人は、私が作り出した傀儡です」
彰幻が手を叩くと、二人の男は、次の瞬間にマネキン人形に姿を変えた。最初に現れた雅之だけは、なおも千春に微笑みかけている。
「彼も、あなたの傀儡かもしれません」
「そんな…、そんなはずは…」
「信じたい気持ちは分かります。…でも、誰かに会いたいという強い思いが、その人の姿を実体化させてしまうというのは、夢世界ではよくあることなのです。…あなたも、今まで夢の中で何人もの知り合いに会ってきたでしょう? それらのほとんどは、無意識のうちに、あなたが作り出した人形なんですよ」
「でも、彼はきっと本物です!」
千春の声は上ずっている。
「ちょっとしたクイズで、はっきりさせましょう」
「クイズ?」
「ええ。雅之さんは知っていて、あなたが知らないことを問題にするのです。そうですね。…雅之さんって、何かスポーツをやってましたか?」
『中学・高校とサッカーを!』
千春と雅之が、同時に答えていた。
「ほお。…じゃあ、千春さんは?」
『テニスです!』
また、二人が同時に答えた。
「では、雅之さんに質問です。サッカー用語の『オフサイド』について、説明してください」
「オフ…サイド…?」
雅之は、考え込んだまま答えられない。彰幻は質問を続けた。
「では、1994年ワールドカップの開催国は?」
やはり、雅之は無言のまま俯いている。彰幻は首を振った。
「今質問したことは、サッカーの愛好者にとっては常識問題です。それが分からないということは、…残念ながら、彼は本物の雅之さんではありませんね」
その言葉と同時に、雅之の顔をした男の姿は霧のように消えていた。
真っ暗なオフィス。
小さな卓上スタンドの光を頼りに、杉本はひたすらノートパソコンのキーを叩いていた。
ログオンのパスワードを突き止めるまで10分とかからなかった。雅之のIDで社内LANサーバーにアクセスし、雅之専用のドキュメントフォルダを開く。ファイルを1つずつ確認していったが、和田の言葉どおり、船井関連の文書ファイルは1つも出てこなかった。次に、このパソコンのDドライブを見ることにした。案の定、「Funai」というフォルダが作られている。それを開くと、さらに数十個のサブフォルダに分割されていた。――こいつは、なかなか気長な作業になりそうだ…。
タバコに火をつけ、一服しながら腕時計を明かりにかざして見ると、時刻は1時40分を回っていた。煙をふーっと吐き出し、前髪を掻き上げて、彼は自嘲気味に呟いた。
「何をやってるんだか。…俺は産業スパイか?」
彼自身、自分の行動がよく理解できなかった。こんなところを誰かに見られたら、どんな誤解を招くか分からない。「産業スパイ」とまではいかないまでも、「アイディアの盗用」疑惑くらいは持たれてもしかたないだろう。下手すればクビを通り越して犯罪者だ。しかし、こんなリスクを犯してまでも、彼は自分の衝動を抑えることができなかった。
…
『5時ピッタリに“よっしゃ!”って叫んで、パソコンをバタンって閉めて、走るように帰ってったんスよ』
…
和田はそう言っていた。雅之のその自信満々な態度からして、『FUNAI FESTIVAL』の企画書は絶対に完成しているはずだ。そう思ったとたん、杉本の中に「それを見てみたい」という衝動が生まれ、抑えられなくなってしまった。――何故だろう…。らしくない。
しかし、1分も経たないうちに、彼は再びマウスを握り、パソコン画面を睨み付けていた。
やがて、すべてのフォルダの確認を終えた。そこに収められていた何百ものファイルのほとんどは写真や動画、図表などのデータ類だった。この事業に関係する資料ばかり、よくもこれだけ集めたものだ。その中に混じって文書ファイルもいくつかあった。起案文や手紙のあいさつ文、前の会議で使ったという「不完全な企画書」も出てきたが、更新日は1週間前で、誤字脱字の訂正さえされていなかった。やはり、新しい企画書は完成していないのか。――いや、そんなはずはない! 何か見落としがあるはずだ…。
もう一度つぶさに調べ直していると、「不完全な企画書」と同じフォルダの中に、「FF1.atl」という見慣れない拡張子のファイルを見つけた。アプリケーションに関連付けされていないため、開くことができない。――まてよ、この拡張子は確か…。
彼は全てのウインドウを最小化し、あらためてデスクトップに目を走らせた。そして、整然と並んだアイコン群の中に、「Atlas
Kit v0.91」へのショートカットを見つけた。――これだ!
震える指でアイコンをダブルクリックすると、シンプルなレイアウトのアプリケーションが起ち上がった。――この画面には見覚えがある。記憶が確かならば、我が社のシステム研究部が独自に開発を進めているプレゼンテーションソフトのはずだ。以前、「営業サイドの意見を聞きたい」ということで動作テストに立ち会ったときの印象では、マイクロソフトのパワーポイントを我が社用に特化して使いやすくした感じのツールだった。そして、記憶が確かならば、このソフトで扱っているファイルの拡張子は「.atl」だったはずだ。
メニューのリストから「ファイルを開く」を選び、ダイアログボックスで「FF1.atl」を指定すると、数秒後、メインウインドウに『FUNAI FESTIVAL』のロゴが現れた。次に「再生」ボタンをクリックすると、ファンファーレのBGMとともに、文字列が躍りだし、同時に別のウインドウに2行ほどの文章が表示された。ボタンをクリックするたびに画面は切り替わり、文章も入れ替わっていく。これこそ、このソフトの最大の売り「カンペ機能」である。提案説明会の際、スクリーンにはメインウインドウの画像だけが投影されるので、説明者はスライドショーの最中にパソコンのモニターに表示された原稿をこっそりと読むことができるのである。
マウスをクリックし続け、およそ15分ほどでショーは幕を閉じた。杉本の期待に反し、それは、社内の企画会議用の資料などではなかった。依頼主である船井産業に企画の内容を説明するための――つまり本番の提案説明会用の視覚的産物だった。
通常、事業案が社内で承認されていない段階でこんな資料を作ることはない。――単なる試作品なのだろうか? しかし、「試作」というには、そのスライドは極めてよく作りこまれていた。大量の現場写真、的確な図表、CGによる大胆な演出…。営業のプロである自分の目から見ても、ちょっと嫉妬を覚えるくらいの出来栄えである。――もしかして、これを社内の会議で企画書代わりに使おうとしていたのだろうか?
本当のところは雅之にしか分からない。しかし、この作品を見て、1つだけ、杉本にはっきりと分かったことがあった。
…
『や、やだなあ。ちょっとした情報収集だよ。仕事上あらゆる方向にアンテナを伸ばしておかないとな』
…
いつかの雅之の台詞が頭をよぎった。――俺は、高野のことを誤解していた。奴は決して、ノリと要領だけで仕事を適当にこなしてきた無責任男などではなかった。これだけの量の写真や資料はそう簡単に集められるものではない。そして、まだ完成していないこの「Atlas
Kit」というソフトを使いこなすためには、人知れずかなりの勉強を積んできたはずなのだ。
「今回は俺の完敗か。…しかし、これだけのものを完成させながら、発表の機会も与えられず担当を外されたりしたら、あいつ相当悔しがるだろうな…」
煙草に火を付けて煙を吐きながら、杉本は宙を見つめて呟いた。
雅之は階段の踊り場に立っていた。
彼の行く手を阻んでいた向かい風は、嘘みたいに止んでいる。
――今だ!
彼はその階段を一気に駆け上がり、4番ホームを目指して走った。長い連絡通路上に「4」の表示を探しているとき、携帯が鳴った。取り出すと、液晶に「アトラス企画」の文字が点滅している。彼は躊躇いがちに通話のボタンを押した。
「はい、…高野です」
「高野君! 今、どこにいるんだね!?」
菊地課長の声だ。かなり不機嫌そうに聞こえる。
「どこって、…日暮里ですが…」
「日暮里!? …けしからん! 大至急、社に戻りなさい!」
「そんな…、もう退社時間過ぎてるじゃないですか」
「なに寝ぼけたことを言っとる! もう企画会議が始まる時間だぞ。部長も席についておられるんだ。すぐに来なさい!」
「えっ!?」
携帯の日付表示を見て、雅之の顔から血の気が引いた。――なんてこった! 今日は企画会議の日じゃないか!
顔を上げると、景色が一変していた。
雅之はアトラスプランニング社の会議室にいた。
窓にブラインドが下ろされ、照明も消えて室内は薄暗くなっている。大沢部長以下10人程度の社員が、鋭いまなざしを雅之に向けていた。その中の一人、菊地課長が中腰になって雅之を促した。
「高野君、何をしている、早く説明を始めなさい」
「あ…」
雅之の前のテーブルにはノートパソコンが置かれ、彼の後ろに張られたスクリーンに、パソコンの画面が投影されていた。雅之は現在の状況を飲み込むと、頭の中を整理してから口を開いた。
「それでは、『FUNAI FESTIVAL』の企画会議を始めます。はじめに申し上げておきますが、今回の会議では、紙の資料に基いて説明を進めるという従来のスタイルはとらず、プロジェクターの画面を中心に、依頼主への提案説明会のリハーサルという形で、より視覚的に企画の意図をご理解いただきたいと考えております。スクリーンをご覧ください」
雅之がマウスをクリックすると、スクリーンに『FUNAI FESTIVAL』のロゴが多彩な3D効果を伴って現れた。会議室に「おーっ」というどよめきが走った。ここまでは計算どおりだ。彼はマウス操作により次々と画面を切り替えながら、企画案の説明を進めた。
「…会場内に漂う潮風の香り、波の音。…これらの要素をかんがみますと、不況の荒波を乗り越えて業績を伸ばしてこられた御社の社史を表現する場として、このベイシティパークは最高のロケーションと考えられます」
潮騒のBGMとともに、スクリーンにはベイシティパークの夕景が映し出されている。
「…さらに、公園の中央に位置する多目的ホールは最新の設備を備えており、特にこの可動式のドーム屋根は、晴天時には満点の星空を、雨天時には天井に投影した映像を演出に使えるという、まさに無限の可能性を持った空間といえます。そのシミュレーションCGをご覧ください」
スクリーンの画像が一瞬真っ黒になり、続いて、巨大な観覧車の前に色とりどりのパビリオンが並んだ遊園地の全景が映し出された。雅之は慌てた。
「あ、あれ? ここで、多目的ホールの映像が入るはずなんですが…、おかしいな」
汗のにじむ手でマウスをクリックしていくと、画像が次々と入れ替わった。
ツインループのジェットコースター
豪快に反り返るバイキング海賊船
髑髏の口から入るホラーハウス
テント型のゲームセンター
そのどれもが遊園地の風景だった。そして、そのスライドショーを見つめているうちに、雅之は不思議と落ち着いた気持ちになっていった。同時に懐かしい想いが湧き上がってきた。――確か、この遊園地に初めて行ったのは、幼稚園児の頃だった。父親に肩車してもらった記憶がある。見るもの全てが刺激的で、世の中にこんなに面白い場所があるんだって、ずっと興奮しっぱなしだった。もしかすると、その時の体験がその後の自分の生き方を決める原動力になったのかもしれない。催し物やお祭りとかに興味を持つようになり、大学では志願して学祭の実行委員長を務めたりした。何かに導かれるように広告代理店に就職して、今もこうしてイベントの企画に携わっている。今まで何回あそこを訪れたことだろう。落ち込んだとき。はしゃぎたいとき。“大切な人”ができたとき…。
スクリーン上に遊園地のセンターハウスが映し出された。
雅之の指が止まった。
彼の目は、その写真の一点に釘付けになった。――建物の前の小さなベンチに、背中をまるめた若い女性が一人でちょこんと寂しげに座っている…。
「千春!」
画素が荒く、顔がはっきり見えない。しかし、雅之にはそれが千春だとすぐに分かった。――千春が俺を待っている!? 何の根拠もなく、彼はその画面から、そんなメッセージを強く感じ取った。彼の胸に、忘れかけていた熱い想いがこみ上げてきた。――彼女に逢いたい! 一刻も早く逢いに行かなければ!
「高野君、何をしとるんだね!? 早く説明を続けなさい!!」
菊地課長の叱責を受け、雅之は正面に向き直った。怪訝な面持ちの参会者を見渡してから、彼は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい!」
雅之は、会議室を飛び出していた。
――イベントで、たくさんの人の笑顔を見るのが好きだった。その思いで、いままで必死に頑張ってきた。社内に一定の地位も築けた。この仕事を投げ出したら、多くの人に迷惑がかかるかもしれない。会社をクビになるかも…。それでも、彼は足を止めなかった。――何を犠牲にしても、今、自分が見たいもの、それは――、それは一番大切な人のたった一つの笑顔だった。
会社の玄関を出て、門に向かう雅之の前に、杉本が立ちふさがった。
「どこに行くんだい?」
杉本は落ち着き払った態度で不敵な笑みを浮かべている。雅之はイラついて怒鳴った。
「どけよ! お前には関係ないだろう!」
「川島のところに行くつもりなら止めときな」
「な、なんでだよ」
杉本の目がきらりと光った。
「もう、お前のカノジョじゃないんだから」
強烈な向かい風が雅之を襲った。
彼は踏みとどまれず、目をつぶって何歩か後退してしまった。
風が止み、ゆっくりと目を開ける。
――!?
周りの様子がガラリと変わっていた。
彼は屋内にいた。天井の高い、体育館のような広い空間である。正面の壁に手書きの横断幕が掲げられている。
『BLANKET SPECIAL LIVE』
――ここは…、ここって…
「なにボサッとしてんの! 高野君、早く指示を出してよ!」
甲高い声がした。振り向くと、眼鏡を掛けた長身の女性が彼に険しいまなざしを向けていた。
「浜口…さん?」
瞬時に記憶が甦ってきた。ここは大学の講堂だ。彼女は学祭の副実行委員長・浜口玲子。今日は、自分たちが一から準備を進めてきた学祭の当日なのだ。
「もう開演まで時間がないのよ! あなた、実行委員長でしょ!?」
「あ…」
――そうだった。学祭の超目玉、ロックバンド「BLANKET」のスペシャルライブ! 何回も交渉を重ねて、やっと実現にこぎつけたんだ。開演は2時間後に迫っている。なのに、会場の中はガラン堂で、一向に準備が進んでいない…。何人ものスタッフが、実行委員長である雅之の指示を待っている。
雅之はグルリと周囲を見回しながら言った。
「まず、フローリングの床の上にビニールシートを敷き詰めてください。シートは、後ろの準備室に格納されています。…それから、入り口の機材をステージの所定の位置に配置してください。配置図は、壁に張ってあります。精密な電子機器ですから、くれぐれも取り扱いは慎重にお願いします。では、皆さん、取りかかってください!」
その一声で、スタッフが一斉に動き始めた。――果たして、開演に間に合うだろうか…。
作業の様子を見守っていると、突然、背中に何か重いものがドンっとのしかかってきた。
「はい、スピーカー! 1人で運べるよねっ!」
玲子がマイクスタンドを手に雅之を追い越していった。自分の背中は見えないが、どうやらスピーカーを乗せられたようだ。――かなり重い。とても1人で運べるレベルではない。だれかに手伝ってもらおうと横を見ると、小柄な男子学生がピアノを1人で担いで通り過ぎていった。――嘘だろう!?
仕方なく、雅之はその荷物を背負ったまま、一歩一歩、ステージを目指して進んだ。――本当は、こんなことをしている場合じゃないんだ。自分には、行かなければならないところがある。でも、ここでみんなを見捨てて、自分だけ逃げ出すことなんてできない。実行委員長として、そんな無責任な行動は取れない。準備がある程度進んで、開演に間に合う目途がついたら、みんなに謝って退散することにしよう。とにかく今は、このスピーカーをステージまで運ばなくては…。
ふらつく足取りで、彼は懸命にゴールを目指した。あと20メートルほどか…。しかし、その距離はなかなか縮まらない。むしろ、だんだん遠くなっているようにさえ感じられる。――くそっ、負けてたまるかっ!!
その時、聞き覚えのある声がした。
「お〜い、雅之、手伝おうか?」
振り向くと、彼の父親がフォークリフトの上から微笑みかけていた!
第7部「集結」へ つづく
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