第9部 炎の中の少年   Boy in fire

 雅之は焦って周囲をキョロキョロと見回し、刹那の姿を探した。しかし、そのガランとした木造校舎の廊下には、人の気配がまったくなかった。
 黒光りする板張りの廊下に沿って、6つの教室が並んでいる。その反対側の壁にはめられた木製のガラス窓から、灰色のもやに包まれた山々の輪郭をかろうじて捉えることができる。こんな木造の校舎にも、外の景色にも見覚えはない。――本当に自分が通っていた学校なんだろうか…。
『そっちの様子はどう?』
 ふいに声が聞こえた。音量は小さいが、間違いなく刹那の声だ。雅之は再び周りに視線を走らせた。
「刹那さん、どこにいるの!?」
『ここよ、ここ!』
 その声は、すぐ下から聞こえた。トランシーバーのような、少しこもった感じの声…。雅之は、ハッとして自らが握り締めていた手鏡を持ち上げた。
「刹那さん!!」
 鏡に彼女の顔が映っていた。――なんか、楽しそうに笑ってる…。
『どう? 驚いた? その鏡には2つの空間を結びつける力があって、映ってる景色に触るだけで、そこに瞬間移動できるのよ。おまけに、こうやって、テレビ電話みたいに通信もできちゃう。…ほんと、便利な道具(アイテム)でしょ?』
 雅之はちょっとむくれた。
「前もって言ってくれよ、驚くじゃないか!」
 彼女は、そのクレームを軽く受け流した。
『あら、ちゃんと言ったわよ。あなた、上の空みたいだったけど』
「そうかあ…?」
 いぶかしむ雅之を無視して、刹那は本題に戻った。
『さて…、私が手を貸せるのはここまでよ。分かってるとは思うけど、あとは、あなたが一人でその扉をこじ開けて、中に入らなければならない。その教室の中には、封印された小学校時代の記憶がすべて詰まっているはずだから』
「それなんだけど…」
『何?』
 雅之は釈然としない表情で訴えた。
「…俺、本当にこんな学校に通ってたのかなあ? 全然ピンと来ないんだけど…」
『1つ聞くけど、転校した後の学校に木造校舎ってあった?』
「いや…、小中高と、全部鉄筋の校舎だったよ」
『そう…。じゃあ、可能性は高いわね』
「どういうこと?」
『夢の中には、世界中のありとあらゆる景色が存在している。夢の世界って広さが無限だから、誰かの想念で作られた風景や建物は、そのままどこかに残っちゃうのね。…で、眠っている人が“どこかに行きたい”と思うとその場所に――まあ、正確には、“その場所によく似たポイントに”――なんだけど、瞬時に惹き寄せられて移動する。…原理はよく分からないけど、そういう仕組みになっているのよ。だから、そこがあなたの夢に出てきたということは、あなたがその場所をイメージしたっていうことに他ならないの――たとえ自覚がなくてもね。…そして人は、自分が一度も見たことのないものをイメージすることなんて、できないわ』
「なるほど…。見たことがあるから、夢に出てきたってことか」
 いつもながら、刹那の言葉には説得力がある。
『そう。…ただ、その鍵とか鎖とかは、あなたが後から付け足した造形物(オブジェ)でしょうけどね』
 雅之は頷いた。
「…よし、俺、やってみるよ」
『あ、それから――
 刹那は、思い出したように付け加えた。
『記憶を取り戻したら、もう一度鏡をくぐって、こっちに戻ってきて。せかすようで悪いけど、――できるだけ早くね!』
「ああ。…わかってるって」
 雅之はニコッと笑い、親指を立てた拳を鏡に向けて突き出した。それから大きく深呼吸をして、ゆっくりと教室の入り口に目を向けた。
 上半分に複数のすりガラスがはめ込まれた木製の引き違い戸で、よくは見えないが、ガラスの部分には内側から板が打ち付けられているようだ。二枚の戸には、上から下まで不自然に幾つもの金具が取り付けられ、無数の南京錠で柱に固定されている。さらに左右の柱の間に何重にも鎖が張り巡らされ、戸に触ることさえ、困難な状態になっている。
 雅之は手鏡を床に置き、上着を脱ぎ捨てた。
 腕をまくり、ネクタイを緩め、気合を入れてから、鎖を掻き分けてガラス戸に手を掛けた。全身の力を込めて戸を引く。――しかし、戸はガタガタと音を立てるものの、まったく動く気配がない。
「鍵が掛かってるんだから、当然か」
 しばらく引き戸と格闘した後、彼は諦めて壁のほうに目を向けた。教室の前後の入り口の間には、腰の高さほどの板張りの壁があり、その上に木製のガラス窓が並んでいる。ガラスは透明だが、内側から黒い板で塞がれ、中が完全に見えないようになっていた。こじ開けようとしても、やはりビクともしなかった。素手では、どうにもなりそうもない。
「あ、そうだ!」
 あることを思いつき、雅之は走った。ギシギシと音を立てる廊下を駆け抜け、階段を下り、お目当ての「用務員室」を見つけると、適当な工具を鷲づかみにしてまた2階へ戻ってきた。
「よしっ!」
 気合を入れ直し、まずはドライバーを手にとった。南京錠の取付金具は、柱と戸の両方にネジで留められている。ネジを全部外せば、鍵も金具と一緒に外れるはずだ。
 しかし、その期待はわずか数秒で絶望に変わった。思いっきり力を入れてネジを回そうとしたら、ドライバーの先が潰れて使い物にならなくなってしまったのだ。工具箱を引っ掻き回し、他のドライバーやバール類で試してみたが、まったく歯が立たない。金槌で叩いても、金具はビクともしなかった。――ならば…。
 雅之は金槌を振りかざし、ガラスに渾身の一撃を加えた。
 今度は効果があった。甲高い破砕音とともに、すりガラスの1枚が粉々に割れて飛び散った。しかし――、喜んだのも束の間、素通しになった木枠の中を見た彼は、ガクッとコケてしまった。
「おいおい、…マジかよ」
 ガラスの向こう側にあったのは、木の板ではなくて、鉄板だった。叩くと、重い音がする。かなり厚みがありそうだ。念のために、壁の方のガラス窓も割ってみたが、案の定、姿を現したのは黒々とした分厚い鉄板だった。
「くそっ、…負けてたまるか!」
 くじけそうになる気持ちと懸命に闘いながら、雅之はネクタイを外し、頬を叩いた。
 それから、ありとあらゆることを試みた。
 鋸で柱の切断を試みた。――わずか一引きで、鋸の刃がパラパラと落ちてしまった。
 ペンチで鎖をねじ切ろうとした。――ペンチのほうがパキンと折れてしまった。
 電動ドリルで鉄板に穴を開けようとした。――ドリルの刃が磨り減ってなくなってしまった。
 ………
 
 いつしか、彼は途方にくれて座り込んでいた。もう、アイディアが何も出てこない。
『ねえ、まだ?』
 床の上に置いたままの鏡から、何度となく刹那の催促の声が聞こえてくる。それでも、彼は腰を上げることができなかった。
『まずい! そろそろ限界だわ!!』
 彼女の声のトーンが変わった。思わず鏡面に目を向けると、そこには刹那ではなく、炎の怪人を包んだ巨大な卵が映っていた。怪人は、唸り声と共に異様な“気”のようなものを放出し、卵がガタガタと揺れている。――と、突然、卵の殻にひびが入った。ひびはみるみるうちに広がり、そこから蒸気が噴き出した。

『うおおおおおおお!!!』

 卵の殻が四散した。目も眩むような金色の光を放ちながら、怪人はさらに巨大化していく。雅之は、驚きを通り越して、むしろ呆れながらその様子を見つめた。…と、画面がすべて金色の炎で覆われてしまった。距離が近すぎて、怪人の全身を映し出すことができなくなったのだ。“怖いもの見たさ”から、鏡を手にとって目を凝らしていると、映像がだんだんズームアウトされていった。怪人の脚部が映り、腰のあたりまでが視界に入り、なおもカメラは後退を続けていく…。
「ど、…どんだけ…?」
 やがて、鏡が怪人の全体像を捉えときには、すぐ後ろの観覧車がそっくり画面に納まっていた。それは、怪人が遊園地の中で一番大きい存在になった瞬間だった。

『タ〜カ〜、ソ〜コ〜カ〜』 

 巨人は、目の前のホラーハウスをグシャッと踏み潰した。刹那は、その直前にサッと飛び上がって難を逃れた。

『イナ〜イ…』 

 怪人は、まだ残っているパビリオンを蹴散らしながら、また園内をうろつき始めた。その周囲をハエのように飛び回る刹那。鬱陶(うっとう)しそうに手を振り回しながら、怪人は無数の火の玉を空中に向けて乱射した。
 火の玉の1つが鏡のほうに飛んできて、一瞬、画面が真っ白になった。その後、復旧した受像機がノイズとともに捉えたのは、怪人ではなく、石畳の上に立ち尽くす女性の姿だった。それを見て、雅之は愕然とした。
「千春!!」
 その女性は、立ち込める煙にゴホゴホと咳き込んでうずくまった。そのすぐそばまで炎が迫ってきている。雅之は混乱した。――そんな…。目覚めたはずの千春がなんでそこに? もしかして、俺のことを心配して戻ってきたのか? それとも、何らかの原因で目覚めることができなくなってしまったのか!? ぐるぐると回る思考の中に、いつかの刹那の言葉が響いてきた。
 …
『夢の中だって大きなダメージを受けると、体に影響が出るの。…睡眠薬とかで覚醒が妨害されると命を落とすことにさえなりかねないの…』
 …
 ピキピキ…
 いやな音がして、鏡にひびが入った。彼の震える手の上で、鏡面はパンっと割れ、手鏡自体がボロボロと砂のように崩れ落ちてしまった。
 ――そんな…。
 頭の中が真っ白になった。
 ――教室に入れないばかりか、遊園地にも帰れなくなってしまった…。一体、どうすればいいんだ、どうすれば…。
 彼はがっくりと肩を落とし、(こうべ)をたれて両手を床についた。まもなく背中が震え、力の入った十指の爪がぐぐっと床板に食い込んだ。その上に、ぽたぽたと彼の涙が滴り落ちた。
 ――俺はなんて無力なんだ…。千春も、刹那さんも、あのお坊さんも、…みんなが、こんな俺のために、あんなに必死になって動いてくれているのに、俺は一体、何をやってるんだ! 俺は、俺は、自分独りでは何もできない軟弱者なのか!? ――くそっ、俺はヘタレだ!弱虫だ!くずだ!腰抜けだ!アホだ!間抜けだ!最低最悪だ!

「うわあああああああああああああああああ!!!」

 雅之は声の限りに叫んだ。
 彼はカエルのように後ろに飛び退くと、相撲の四股(しこ)のような姿勢を取った。
 拳を握り締め、教室の入り口を睨みつけた彼の全身から、紫色のオーラが立ちのぼった。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 雄叫びを上げ、彼は教室の扉に猛然と体当たりをした。
 鎖が粉々に千切れ、すべての錠前が外れた。
 引き戸は、裏側にあてがわれた鉄板もろとも教室の中に吹き飛んだ。
 そして、彼自身の体も、勢い余って教室の中に飛び込んでいた。

 ――――

 真っ白い光の中に、同級生たちの顔が一斉に浮かび上がり、学校の風景や出来事が次から次へと映し出されていった。膨大な量の記憶の塊が、まるでイグアスの滝のように彼の脳内に一気に流れ込んできた。彼は、頭を抱えて叫んだ。

「うわあああああああああああああああああ!!!」


夜の帳(ナイトフォール)!」
 巨大な怪人の顔の前で、宙に浮いた刹那が両手足を大の字に広げた。
 次の瞬間、黒い衣装がまるで投網のように大きく拡散し、怪人の周りをすっぽりと包み込んだ。

『ウ、ウオ…?』

 突然視界が真っ暗になり、慌てた怪人は動きを止めた。服を脱ぎ捨てた刹那は、その下に着ていた黒いキャミワンピース姿でいったん地面に舞い降り、千春を背負って再び高く飛び上がった。ジェットコースターの向こう側へ身を隠そうという作戦だ。しかし、彼女が着地するより早く、技は破られた。怪人を丸く包んでいた黒い布には、無数の焦げ穴が一斉に広がり、暗幕は数秒のうちに燃え尽きて消し飛んでしまった。

『ニ〜ガ〜サ〜ン』 

 怪人は、左から右へと舐めるように火焔を吐き出し、ジェットコースターを構築物ごと焼き払った。その炎の壁を盾にして地面に降り立った刹那は、千春を背負ったまま隠れる場所を探して走った。しかし――、行けども、行けども、目に入るものは建物の焼け跡ばかりだった。
 後ろで、バリバリという大きな音がした。いやな予感を抱えて振り向いた刹那は、珍しくその瞳を大きく見開いた。
「ちょっと…、冗談でしょ!?」
 炎の怪人が観覧車を抱え上げていた。体に触れた部分から観覧車のキャビンに引火した黄色い炎は、まるで披露宴のキャンドルツリーのように次々と隣のキャビンに燃え移っていき、あっという間に壮大な火焔の輪を完成させた。怪人はそれを頭上に高々と掲げ、ハワイのファイヤーダンスを思わせる豪快な仕草でグルグルと回し始めた。次に奴が何をするつもりかは、誰の目にも明らかだった。
「あんなもの投げつけられたら、――よけきれないわ!」
 刹那は止まり、怪人のほうに向き直って身構えた。
「あれを防ぐには、大技を使うしか――うっ!!」
 一瞬、刹那の体が揺らぎ、彼女は胸を押さえてガクッと(ひざまず)いた。
 巨大な炎盤(・・)は、さらに回転速度を上げた。

「やめろ、俺はここだ!!」

 その時、遊園地に雅之の声が響き渡った。
 ピタリと動きを止めた怪人は、観覧車を持ち上げたままゆっくりと声のほうを向いた。
 おとぎの城の残骸の上に、ボロボロのワイシャツ姿の雅之が、肩で荒い息をしながら、怪人を睨みつけて立っていた。

『タ〜カ〜、ミ〜ツケタ〜』

 怪人は、小躍りしながら、炎の大車輪をさらに高く振りかざした。
 雅之は、まったく怯む様子を見せず、叫んだ。
「そうだ! 襲うなら俺を襲え、――リョウ(・・・)!!」

『アウ!?』

 棒立ちになった怪人の頭上から、燃え尽きた観覧車の破片が火山弾のようにバラバラと降り注いだ。その火の粉を浴びながらも、雅之はまばたき一つしない。
「そうだよ、…お前はリョウ。俺の幼なじみの――加藤亮太だ!!」

 一瞬、勢いを増した金色の炎が、怪人の周りでグルグルと渦を巻いて黒い人形(ひとがた)を覆い隠した。炎の帯はらせん状に回転しながら、龍のように天に昇っていき、――消えた(・・・)
 炎も、金色の淡光(コロナ)も、その中にあった黒い巨大な人形も、何もかもが嘘みたいに消え去り、ただ煙だけが白く(くすぶ)るその場所に――野球のユニフォームを着たイガグリ頭の少年が、口をへの字に結んで立っていた。
「やっと、おれのことを思い出したみてえだな…タカ」
 少年は、ボソッと言った。
「ああ」
 (うなず)いた雅之も、同じユニフォームを着た少年の姿になっていた。
 雅之少年は、コンクリート片の上を身軽にポンポンと飛び移って地面に降り立ち、イガグリ坊主と対峙した。
「全部思い出したぜ。お前のことも、美緒のことも。そして――おれがお前に何をしたのかも――
 亮太少年は、口元をキッと引き締めた。
 雅之は、取り戻した自分の記憶を訥々(とつとつ)と語り始めた。
 
 ………

 雅之と亮太は、小学校の同級生だった。栃木県の山中にある、各学年1クラスずつしかない小さな学校である。3年生のときに地元の少年野球のチームに入った二人は、4年生の夏頃には、ライトの正ポジションを争う良きライバルになっていた。二人はまた、教室の中でもライバルだった。一昔前のガキ大将タイプの亮太は、やんちゃでケンカが強く、いつも5、6人の取り巻きを引き連れて歩き、上級生からも恐れられていた。一方、茶目っ気があり、人を笑わすことが大好きな雅之は、女子を中心に人気を集め、クラスでも一目置かれる存在だった。硬派と軟派、剛と柔…、性格のまったく違う二人は、事あるごとに対立し、いがみ合っていたが、取っ組み合いにまでいたることがなかったのは、二人が心の中では互いのことを認め合っていたからかもしれない。
 その年の秋、4年1組に東京から女の子が転校してきた。
「今日からみなさんのクラスメートになる秋星(あきぼし)美緒さんです」
 教壇の横にちょこんと立った美緒は、若い女の担任に紹介されても、人形(にんぎょう)のように固まったまま、一言も声を出さなかった。
「…秋星さん、ごあいさつは?」
 先生にせっつかれ、背中を押されても、小柄でやせっぽちの少女は、口を真一文字に結び、どこを見てるか分からない視線を宙に向けたまま、黙って、頭を下げることさえしない。
「なんだい、こいつ!」
「口きけねえのかよ?」
 男どもの野次が飛ぶ中、先生は美緒の肩を優しく抱き寄せた。
「緊張してるのよね。さっき、先生にはちゃんとごあいさつしてくれたもの。…いいわ、秋星さん、席に着いて。…みなさん、秋星さん少し照れ屋さんみたいだから、休み時間には積極的に話しかけて、仲良くしてあげてね」
 休み時間になると、美緒の机の周りには代わる代わる子供たちがやってきて、前の学校のこととか、好きなテレビ番組のこととかを聞いてきたが、美緒は俯いたまま何も答えないので、みんなしらけ顔ですごすごと自席に引き返していった。しかし、美緒は発語が不自由なわけではなかった。彼女が口を利かないのは子供に対してだけであり、授業中、先生に質問されたときなどには普通に受け答えしていた。その様子を見て、女子たちがささやいた。
「なに、あの子?」
「感じわる〜」
 転校初日から、美緒はクラスメートたちに最悪の印象を与えてしまった。
 その3日後、ちょっとした事件が起きた。給食の時間、自分の配膳を運んでいた美緒が、よろけて亮太の机にぶつかり、彼の牛乳を倒してしまった。こぼれた牛乳がズボンにかかり、亮太は激昂して立ち上がった。
「なにすんだよ、てめえ!」
 一瞬ビクッとした美緒は、しかし、何事もなかったかのように給食を自分の机まで運び、そのまま普通に座ってしまった。亮太は美緒の席に行き、彼女の机をバンっと叩いて言った。
「なにシカトしてんだ、あやまれよ!!」
 美緒は、無表情のまま何も答えない。すぐに、亮太の取り巻きの男子たちが美緒の周りに集結した。
「ひどいじゃないか!」
「リョウちゃんにあやまれよっ!」
「あやまれ!!」
 険悪なムードの中、黙って俯いていた美緒は突然立ち上がり、近くの男子を突き飛ばして、一直線に廊下に飛び出していった。
 その日、美緒は教室に戻ってこなかった。放課後、亮太と子分連中は職員室に呼ばれ、担任から説教を食らった。亮太は不満を漏らした。
「なんだよ、先生! 悪いのはあいつだぜ! 人にめいわくかけたら、あやまるのがジョウシキだろ!?」
 担任は困ったように笑った。
「それはそうだけど、あんな風にみんなで寄ってたかって非難したら、…秋星さんだって怖くなって逃げ出したくもなるでしょ。彼女はまだこの学校に慣れてないんだから、みんなで優しくしてあげなくちゃ」
「ちぇっ、ヒイキだ!」
 結局、亮太の抗議は担任にまったく聞き入れてもらえなかった。荒々しい足取りで職員室を後にしながら、亮太はボソッと呟いた。
「ちくしょう、あのダンマリ女め! 都会育ちだからって、おれたちのこと、ばかにしやがって…。今に見てろ!」
 第二の事件が起こったのは、その1週間後のことだった。朝、みんなが登校してくると、黒板に新聞の切り抜きが貼られていた。それは、東京で起きたコンビニ強盗の記事のスクラップで、その横に、チョークで大きくこう書かれていた。
“秋星美緒は強盗の娘だ!!”
 黒板の前に子供たちが集まり、ちょっとした騒ぎになった。
「ねえ、なんて書いてあるの?」
「漢字ばっかで読めねえ…」
「えっと…、強盗未遂容疑で…、杉並区…の無職秋星啓吾(35)を逮捕…だって」
「それ、秋星の父ちゃん??」
「確かに変わった苗字だし、秋星さん、杉並から来たみたいだけど…」
「マジかよ」
「あ…」
 彼らの後ろに、少し遅れて登校してきた美緒が立っていた。一同が固唾を呑んで見守る中、美緒は怒るでも、泣くでもなく、無表情のまま黙って教室を飛び出していった。
 結局、誰がスクラップを貼ったのかは最後まで分からなかった。美緒はまた次の日から、何事もなかったかのように登校してきたが、彼女が「強盗の娘」だという噂は瞬く間に全校に広まり、校内のどこに行っても、彼女は後ろ指をさされたり、罵声(ばせい)を浴びせられるようになっていた。4年1組のクラスメートたちは、前にも増して美緒を避けるようになり、また、露骨に彼女に冷たく当たる子も出はじめた。“平和主義者”の雅之は、そんなクラスの雰囲気に嫌悪感を抱きながらも、ただ黙って成り行きを見守っていた。
 それからしばらくして、第三の事件が起こった。放課後、みんなが帰り支度をしているときに、一人の女子が叫んだ。
「あーっ!! ティファニーのペンがないっ!!」
 声を上げたのは、町一番の金持ちの娘、二階堂早苗だった。彼女はいつもシャネルのペンケースの中に、小学生には不似合いなブランド品の文具を揃えていた。なくなったのは、その中でも一番の高級品で、最近親に買ってもらったといって、みんなに見せびらかしていたボールペンだった。
「体育の時間の前までは確かにあったのに〜!! だれかが盗んだのよ!!」
 教室の中がざわめいた。亮太が言った。
「そういえば――秋星、体育のとき、遅れてきたよな」
 亮太は美緒の机の前に立った。
「お前が盗んだんじゃねえのか? チスジはあらそえねえって言うからなあ」
 美緒は立ち上がり、出口に走った。だが、亮太の取り巻きたちが、その行く手をふさいだ。
「おっと、今日はにがさねえぞ!!」
「ヨウギシャには残ってもらう!」
「リョウちゃん、今のうちに秋星の持ち物、しらべて!」
 亮太は、美緒の机の中のものを全部出して机上に並べ、それからフックに掛けられたランドセルを持ち上げて、中のものを床にぶちまけた。その中に、ティファニーのペンはなかった。
「まだわかんねえぞ。…おい、服をしらべろ!」
 男子たちは、いやがる美緒の両腕を押さえつけ、服を脱がそうとした。そこに、雅之がたまらず飛び出した。
「やめろ!! お前ら、なにやってんだ!!」
 雅之は、男どもと美緒の間に割って入り、彼女をかばった。亮太がつかつかと近づいてきて凄んだ。
「なんだ、タカ。おまえ、ハンザイシャのムスメの味方すんのか?」
 雅之は、美緒を背にしながら亮太を睨み返した。
「お父さんのことなんて、関係ないだろっ!! 秋星さんが犯人だっていうショウコがどこにあるんだよ!!」
「そいつの服をしらべれば、はっきりするじゃねえか」
「だったら、お前から服を脱げ!!」 
「なんだと?」
 二人は鼻を突き合わせて睨み合った。
「あなたたち、何してるの!?」
 そこに担任が駆けつけてきて、亮太ファミリーは慌ててバタバタと散らばった。雅之は美緒の荷物をかき集めてランドセルに入れると、立ち尽くす美緒の手を取って足早に教室を出た。
「さ、帰ろう、秋星さん」
 その日、雅之と美緒は肩を並べて下校した。二人の家は近所だったのである。道の途中で、美緒は蚊の鳴くような声で雅之に話しかけた。
「あれ…、本当なの」
「え?」
「私のパパ、…会社をリストラされて、やけになってコンビニに強盗に入って捕まっちゃった。…私、…そのことで前の学校でひどいイジメにあって、みんなの前だと、体がこわばって、うまく話せなくなっちゃって…。それで、ママの実家にひっこしてきたの」
 この時、美緒は初めて涙を見せた。彼は、どぎまぎしながら言った。
「…そうか、秋星さん、たいへんな目にあったんだな」
「でもよかった。…この学校に、高野君みたいな子がいて」
「タカって呼んでくれよ」
「じゃあ、私のことは美緒って呼んで」
 この時、美緒は初めて笑顔を見せた。どぎまぎしながら、雅之も笑い返した。
 それ以来、美緒は雅之にだけは心を開き、口を利くようになった。
 一方で、美緒に対する陰険なイジメが始まった。
 机の上に「どろぼうはようやに入れ!」と油性マジックで書かれていたり、机の中にオモチャの手錠が入っていたこともあった。上履きを隠され、体操着を切られ、物陰から石を投げつけられた。亮太とその仲間たちは、美緒が困っている様子を遠くから見てニヤニヤしていた。雅之は、落書きを消すのを手伝ったり、靴を一緒に探したり、また、毎日登下校を共にして、少しでも美緒を守ろうと孤軍奮闘したが、イジメはなかなかなくならなかった。
 ところが、美緒がやって来て2ヶ月が経過した頃、今度は雅之が転校することになった。電気技師である父親の勤めていた研究所が閉鎖されることになり、父親はその機会に一念発起して独立を決意し、静岡の実家の近くで電気店を開業することにしたのである。
 少年野球の最後の練習の日、亮太は雅之に言った。
「お前、静岡に行くんだってな」
「ああ…」
 うつむく雅之を見て、亮太は意地悪く笑った。
「よかったよ、これでセイセイするぜ! ライトのポジションは俺がもらった。…教室でも、俺に歯向かう奴はいなくなるしな!」
 一瞬、雅之の頭に美緒の顔が浮かんだ。
「リョウ――お前…」
「おっと、カントクが呼んでるぜ!!」
 亮太は走り去っていき、それ以上会話ができなかった。雅之は、どろどろとした嫌な気持ちでいっぱいになった。――まさか、あいつ、おれがいなくなったら、おおっぴらに美緒をいじめる気じゃないんだろうな…。
 町を去る日の朝、雅之は美緒の家を訪ねた。
「これやるよ」
 彼は、ガラスのキーホルダーを彼女に渡した。平たいガラスの飾りはケースになっていて、中に四葉のクローバーが収められている。
「それ、お守りなんだ。クローバーはおれが見つけて押し葉にしといたんだぜ。…それを持ってれば、きっといいことがあるよ」
「ありがとう、タカ。…大好き!!」
 美緒は、雅之のほっぺにチュッとキスをした。硬直する雅之に、美緒はうるうるした目で言った。
「私、タカのこと、ゼッタイ忘れない!」
「お、おれも。…ちょっと遠いところに行くけど、必ず…て、手紙出すから」
「うん。…待ってる」
 雅之は真っ赤になって走り去った。
 額の汗をぬぐい、緩んだ口元を引き締めてから、雅之は学校の裏庭に向かった。今日は日曜日。野球の練習も午後からのため、学校は無人である。木造校舎の壁に寄りかかってしばらく立っていると、亮太がやってきた。
「お前…、この紙はなんだ? 果たし状のつもりか?」
 亮太が手にした便箋には、大きな文字で「明日午前10時、学校のうら庭へ来い 高野」と書かれていた。雅之は、亮太の前に歩み寄って言った。
「転校する前に、どうしてもお前に言っておきたいことがある」
「なんだ?」
「美緒のことだ。おれがいないからって、あの子のことイジメたりしたら、ゼッタイにゆるさないからな!」
 亮太はからかうような目をした。
「へえ。…お前、秋星のこと、好きなのか?」
 雅之は顔を赤くした。
「そ、そんなんじゃねえよ!」
「じゃあ、これはなんだ?」
 亮太はポケットから何かを取り出して、雅之の鼻先にちらつかせた。
「あっ!!」
 それは、雅之が美緒に渡したガラスのキーホルダーだった。――こいつ、美緒をおどして取り上げたのか!? 雅之は、全身の血が頭にのぼるのを感じた。
「返せ!!」
「やだね」
 飛びつく雅之をニヤケながら何度かかわした亮太は、雅之がよろけた隙に校庭の隅まで走った。
「こんなもの、こうしてやるっ!!」
 亮太はキーホルダーを地面に落として、靴で何度も踏みつけた。
 ガラスの破片が飛び散った。
 雅之の中で、何かがブチッと切れた。
「うわああああああああああああああああ!!!」
 ダッシュした雅之は、ありったけの力で亮太を突き飛ばしていた。ドサッという音がして、亮太の体は、目の前にうずたかく積まれた落ち葉の山の中に倒れこんで見えなくなった。
 雅之はよろよろと何歩か後退し、様子を伺った。亮太が埋まった落ち葉の山は、ブロックを4、5段積み上げて作った3メートル四方の枠の中に築かれたものだった。何秒か待ったが、亮太が出てくる気配はない。
「…へん! ざまあみろ!!」
 震えながら、引きつった笑みを浮かべた雅之は、ダッと校外に駆け出した。
 雅之が家の前まで戻ると、両親が外に出て、彼の帰りを待ち構えていた。
「雅之、どこに行ってたんだ。もう出発するぞ!」
「は、はい!」
 高野家の一家3人は、父親の運転する車に乗り込み、住み慣れた家を後にした。町内で世話になった人たちの所を何軒か回ってあいさつした後、父親の提案で、小学校の横を通ってから町を離れようということになった。車窓に木造校舎が見えてきた。その向こうから煙がもくもくと立ち昇っている。車がカーブを曲がったとき、オレンジ色の光が目に入った。ブロックを4、5段積み上げた3メートル四方の枠の上で、紅蓮(ぐれん)の炎が揺れていた――
 目を大きく見開いた雅之の顔から、サッと血の気が引いた。彼は気を失い、意識が戻ったときには、その学校のことを全部思い出せなくなっていた。

 ………

「お前がおれをショウキャク場の中に置き去りにして逃げ帰った後、おれがどんな目にあったか分かるか?」
 雅之がすべてを話し終えるのを待って、亮太がギラつく目で聞いてきた。雅之は、なにも答えず、ただ黙って亮太を見つめている。
「用務員のオジさんに火をつけられて、生きながら火あぶりにされたんだ。そのジゴクの苦しみが、お前に分かるか?」
 雅之は、なおも無言だ。亮太はカラカラと笑った。
「分からねえよな! ――お前は、おれのことなんか全部忘れちまったんだからな! いい気なもんだ! 虫も殺さねえようなゼンニンヅラで毎日楽しそうに笑い、会社じゃサイノウをみとめられ、カノジョもできて、まさにバラ色の人生だな! ――おれの人生をうばっておいて、そんなことが許されると思うのか!?」
 目に涙を溜めた雅之は、スーツを着たサラリーマンの姿に戻り、ガクッと(ひざまず)いた。額を地面にこすり付け、絞り出すような声で言った。
「…すまなかった。…これ以上、何て言えばいいか分からない。いや、どんな言葉でも、お前の気持ちを静めることなんて、できないだろう」
「分かってんじゃねえか」
 亮太は、雅之を冷たく見下ろしている。雅之は顔を上げた。
「俺は、罪を償いたい! そのためにここに来たんだ。…さあ、お前の気が済むように、煮るなと焼くなと、好きにするがいい!!」
 切腹を覚悟した武士のように、雅之は正座したまま目を閉じた。
「へえ。…じゃあ、味わってみるかい? …ジゴクの苦しみってやつをな!!」
 亮太が、不気味な笑みを浮かべながら、雅之の喉もとに手を伸ばした。

第10部「目覚め」へ つづく