まさに間一髪だった。
甲高い急ブレーキの音がして、車は僕の後ろで止まった。
脇目もふらずにペダルを漕ぎ続けていなければ、今頃はあの白いマークUのフロントガラスと、サディスティックな絡み合いを演じていたに違いない。
背中に「ばかやろう!」の一声。それでも僕は、スピードを緩めることなく、ひたすらに自転車を前に進めた。駅に着くまであと3つ、大きな通りを横切らなければならない。…命懸けだが、一時停止なんかしている余裕はない!
腕時計に目をやる。
特快の時間まで、あと5分。…非常にまずい!
この特快が最後のチャンスなのだ。これに乗り遅れたら、ドイツ語の単位が…、ああ卒業が…
2分経過。
通りを3つともクリアーした。
用済みになった自転車を、人目を盗みつつ駅前にあるアパートの駐輪場に隠す。放置自転車として撤去されないための苦肉の策だが、その作業に1分かかってしまった。
肺活量の限界を感じながら、全速力で三鷹駅の南口に駆け込む。改札を通り抜けたとき、4番ホームから、発車を告げるベルの音。待ってくれや!
落ちるように階段を駆け下りると、案の定、中央線のオレンジ色の車両がドアをあんぐりと開けて待っていた。突撃〜!
発車ベルが止まる。あと3メートル…
まさに間一髪だった。
甲高い笛の音がして、車両はゆっくりと動き始めた。
脇目もふらずに走り込んでいなければ、今頃はあの頑丈な銀色の自動ドアと、エキセントリックなもつれ合いを演じていたに違いない。
空いていた席に年寄りくさく腰を落とした僕は、汗をだらだらと流しながら物事を成し遂げた充実感に満たされていた。
これでもう大丈夫。
中央線の特快は駅をビュンビュン通過するので、平行して走っている各駅停車の総武線に比べて、三鷹―四ツ谷間で約20分の時間短縮になる。三鷹に住む者にとって、特快は「魔法の絨毯」的な存在なのである。
ちなみに、三鷹駅から都心方面に向けて、3種類の電車が運行している。黄色い車両の総武線、オレンジ色の中央線、そして銀色の地下鉄東西線である。三鷹から中野までの複々々線化された(早い話、6本のレールが並行して走っている)区間では、この3色の車両たちによって、いつも抜きつ抜かれつのデッドヒートが繰り広げられるので、乗っている者にとってはちょっとした退屈しのぎになる。もっとも、中央線のエース=特快がいつだってこのレースの勝利車と決まっていることは、言うまでもない。
さて、僕を乗せた特快は、快調に駅を飛ばしていった。吉祥寺、西荻窪、荻窪、…阿佐ヶ谷を通り過ぎたところで、東西線の銀色の車両に追い付き、一気にぶっちぎりをかます。
第1の停車駅・中野に到着したとき、隣のホームから出ていく総武線の後姿が見えた。次の餌食はこいつか! 発車ベルが鳴り響き、黄色い車両の追跡が始まる。東中野の駅で、もたついている総武線を発見。2つの車両は並んだものの、各駅停車が快速に体を張ろうなど土台無理な話よ! 総武線はまもなく停車態勢に入り、窓の後ろに下がっていった。
列車は次の停車駅=新宿に停まった。客が大幅に入れ替わり、乗り込んできた外人が僕に話しかけてきた。
「アキバハ〜ラ? コレ、アキバハ〜ラ?」
「この電車は秋葉原には停まりません。御茶ノ水で総武線に乗り換えてください」
と、英語で言うには、なんて言えばいいんだろう。…緊張のあまり、僕は顔を伏せてしまった。
代々木を過ぎたあたりで恐る恐る顔を上げると、外人はいなくなっていた。ほっと胸を撫で下ろす。窓の外に目をやると、オレンジ色の電車が見えた。
そいつは、すぐ隣のレールを我々と同じ方向に進んでいる。車両内は、見ているこっちが気の毒に思うくらいの混雑だ。スピードは特快の方がわずかに勝っていて、窓の後ろに次第に後退していくその電車を、僕はしばらくぼーっと眺めていた。
だが、その電車の車両表示に目を留めたとき、僕は恐るべき事態に気がついて愕然とした。
「特別快速 東京」
小窓の表示は、確かにそうなっている。
こいつも、…特快だというのか?
特快が2つ、並んで走っている!?
まさか!
それは、あり得るはずのない状況だった。中央線には、レールは2本しかなく、上り用と下り用に1本ずつしか用意されていない。駅に停まっている間は別として、オレンジ色の電車が2両併走するということは起こり得ないのである。
まてよ…。
僕が乗っているこの電車は、本当に中央線なのだろうか。乗り込むときに見た車両の色は、確かにオレンジ色だったか? 間違いなく4番線に乗ったのか?
いや、しかし、中央線でないとすると、話はもっとややこしくなる。
総武線と地下鉄東西線を追い抜き、駅をいくつもすっ飛ばして走るこの電車は一体…
頭がパニックしている間に、電車はトンネルに入った。
僕は窓の外を見ようと懸命になったが、暗闇に見えるのは自分たちの写像だけた。
その鏡像が一瞬揺らぎ、死人のように青白い顔の乗客全員が、一斉に僕を見た。
天井の照明が消えた。
がたん!
衝撃が走り、周りがぱっと明るくなった。
窓の外には、ごくありきたりの駅の風景。
車内をうごめく人々の中に、ゾンビなど1人もいない。
事態を飲み込めず目をぱちくりさせていると、ドアが開き、アナウンスが流れた。
「とうきょう〜、とうきょう〜」
…あん?
僕はようやく、状況を把握した。
乗客がぞろぞろと降りていく中、僕は一人、呆れ果てて額を押さえたまま、席にとどまっていた。…なんという馬鹿げた結末だろう。あんなに急いで、やっとの思いで特快に乗ったというのに、居眠りをして変な夢を見た挙句、終点の東京駅まで乗り越してしまうなんて。いまさらどんなに急いで引き返しても、語学の試験に間に合わない。こうなったら、風邪をひいたことにして追試を受ける以外にない。
…それにしても、変な夢だった。なんであんな夢を見たんだろう。それに、一体どこからが夢だったんだろう。
立ち上がろうとしたら、膝にズキンと痛みが走った。体が重く、なかなか腰が持ち上がらない。…がむしゃらに走ったせいか? それとも、本当に風邪でもひいたのかな。
横の手すりにつかまりながらやっとのことで身を起こし、なんとかホームに降り立ったものの、すぐに激しい動悸とめまいに襲われて動けなくなってしまった。
ホームの真ん中でうずくまっていると、OL風の若い女性が、身をかがめて心配そうに話しかけてきた。
「だいじょうぶ? …おじいちゃん!」
「な!?」
自分の口から、しゃがれた声が出た。僕は自身の震える両手を見つめ、それから視線をゆっくりと横にずらしていった。
自分がさっきまで乗っていた電車の窓に目を留めたとき、僕はすべてを理解した。自分の身に何が起きたのか。どこからが夢だったのか。
最初から、…すべてが夢だったのだ。
過ぎ去りし、遠い日の夢…。
「ありがとう。…大丈夫だよ」
身を起こして礼を言うと、女性は安堵の表情を浮かべて立ち去っていった。
「はて…。どこに行こうとしてたんだっけ」
僕は電車の窓に写った白髪の老人を一瞥してから、ゆっくりとホームを歩き始めた。
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