ミヒャエル・エンデというと、どうしても子ども向きの童話作家というイメージが強いが、彼は現在の世界経済についても人並み以上の関心を示しており、対談集などでたびたびそれについて触れている。このセクションでは彼の経済観をまとめ、グローバル経済の名の下に一段と競争社会になりつつある現在の経済とは異なった新たな道を探ってみたいと思う。なおこの「哲学者としてのミヒャエル・エンデ」ではまだ扱っていないが、「ハーメルンの死の舞踏」は彼が人間の精神と金銭との関わりについて描いた作品であり、一読をお勧めする。
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また、「エンデの遺言」も参考にしてください。
1982年2月に行われたこの座談会を始めるに当たって、彼はチューリッヒで企業家など経済の専門家を相手にユートピアについて尋ねて彼らから非難轟々の目に遭ったことを語っている(詳細はここをクリック)が、ここでエンデを攻撃した経済人は経済が一般市民にとってどんなものであるかわかっていないからこのような態度に出ている。彼がスピーチをするまでは彼ら専門家はいかにして経済成長率をある一定以上の水準に保つかということを一生懸命議論していたわけだが、なぜそんなにしてまで経済成長が必要なのかというと「そうしないと経済的破局は避けられないからだ」という一点張りで、経済成長至上主義的な態度を取っている。確かに現在の金融システムからすればある程度の経済成長がないことには金融が破綻し、それが経済危機を招くことは目に見えているわけだが、彼ら経済の専門家はこのシステムが永続可能なものだと信じており、このシステムを何とかして維持することが自分たちの使命だと考えている。だが、ここでちょっと考えてほしい。たとえばある銀行に私が年率6%(現在の日本国内ではこんな高利を期待することは不可能だが、たとえば経済的に急速に発展している国では現在でもこのような利回りが可能であろう)で1万ドルを預けたとすると、この1万ドルは12年後には約2倍、すなわち2万ドルになっている計算になる。さらにこのお金を引き出すことなくこの銀行に預け続けたとすると、24年後には4万ドル、36年後には8万ドル、60年後には32万ドル、120年後には1億ドル強になり、増え続けてゆく一方の元金に見合った額の利息をつけるためにはそれだけのお金を貸し付けるだけの企業が必要になり、いいかえれば資産家である私のためにそれだけの利息を稼ぎ出してくれる新たな産業が必要となる。もちろんそんなねずみ算式利息計算はどこかで破綻するわけで、景気の過熱により起こった不況で企業が倒産すると不良債権が発生し、それが銀行を破産に追いやっていった例は枚挙にいとまがない。経済成長をなんとかして持続させようと努力している経済人は、そういうシステム自体に無理があることを決して認めようとしない。
以下に、私が「オリーブの森で語り合う」を解説した文を引用する。「オリーブ」を既に読んだ方には蛇足である部分だが、この項の目的はエンデの経済観を明らかにするというものなので、しばらくの間付き合っていただきたい。
共産主義経済が一部の国を除いて実質上すべて崩壊してしまった現在、資本主義経済のみがこの地球上に存在している経済システムであるが、資本主義とはそもそも資本家が自分の資財をある営利事業に提供し、その事業で利益が出た際にそれを自分のものとする経済システムで、その意味では航海や仕入れのための費用をその方式で賄い、利益配当をしていた東インド会社が世界初の資本主義企業である。企業は資本家(複数の場合もあるが)の私有財産であり、その企業で働く人間は彼ら資本家に最大の利益をもたらすべく働くことを期待されている。企業の提供する財やサービスは企業が収益をあげるための手段にすぎず、その財やサービスが社会に及ぼす影響や、それらを享受する人間のことを考える必要はない。労働運動や消費者運動などが生まれたことで資本家以外の人間もそれら企業活動に多少参加することはできるようになったが、企業はそれに資金提供をしている資本家の私有財産であるという観念自体は、東インド会社から4世紀を経過した現在まで変わることはなかった。
資本主義経済は、確かに人類の物質的生活を豊かにする上では大きな役割を果たしたといえる。ある分野で需要があり、その需要を満たすような供給をすることで利益があがるような場合には、資本主義経済は貪欲なまでにその分野での物質的生活の発展に貢献してきた。フォードの自動車産業、ユナイテッド・フルーツ社が中米各国に所有しているのバナナ農園、近年ではマイクロソフトのWINDOWS関連の製品などはそのよい例である。だが、なぜそれらの事業に参入して利益をあげなければならないかといえば、資本家がそれらの事業を通して利益を受け取りたいからであり、必ずしも彼らの文化生活を実現するためではない。たとえば兵器製造業という、人間の文化生活を実現するという観点からすれば何の役にも立たない(もし戦争を人間の文化生活と認識するのならば話は別だが、個人的には私はそのような蛮行を「文化」とは認識したくはない)産業が成立している理由は、それらを購入する各国政府や反政府ゲリラ、マフィアなどがそれを必要としているからであり、この事業で利益が出る限りはこれらの産業は決して消滅しない。これらの事業を資金的に支援する資本家は、どのようにしてであろうと利益があがり、自分たちの懐が暖まる以上自分からそのような事業を規制して「もらえるべき」配当を失うような「野暮な」ことはしない。上記の兵器産業の例は極論にしても、かくして利益獲得を目指す現在の資本主義経済が成立し、経済人はそれら資本家に配当を送るべく利益調達に奔走する役を担わされる。その立場から逃れることができない彼らにとって、エンデのユートピア・ゲームは「非現実的」であり、「現実逃避的」でさえあるものに思えたのであるが、慧眼な読者の方ならばエンデがそのような意図で上記のゲームを試したのでないことはお分かりであろう。
ここでエプラーが経営者たちを弁護して、「経営者たちにはユートピアがある。みじめで、月並みで、これまで存在したユートピアのなかでいちばん貧弱なユートピアだけどね。つまりテクノクラシーを継続してゆくというユートピアだ」と述べるが、これこそが彼らがエンデに対してあれほどまでに攻撃的な態度を示した理由である。科学技術に立脚した資本主義社会こそが唯一完全な社会であると心の底から信じきっているので、それを否定するエンデの発言は、ちょうど天動説が主流だった時代にガリレオが唱えた地動説と同じぐらい「危険発言」であり、そのような「現在の社会体制を転覆しようと企てるもの」を何とかして排斥せずにはいられなかったのだ。エンデ自身はそんなつもりはなく、ただ経営者がどのようなユートピアを持っているのかを知りたかっただけだが、そんなものを彼らは持ち合わせていなかったのである。環境汚染や貧富の差の拡大など現在の社会構造が重大な矛盾を抱えているにもかかわらず、それらを解決するために積極的に考えようとせず、小手先の手直しだけで何とか立ち逃れようとする経済人の実態がここで明らかにされる。
最後の段落では科学技術のことが話題になっているが、これを経済体制と読み替えても筋が通った文章になることを興味深く思った方もいることだろう。その理由としては、結局現在の社会そのものが拝金主義的資本主義と科学技術主義という唯物論をその基盤としているためで、そこでは全ての価値が否定されるわけだが、それについてはまた後程触れることにする。
その後に、エンデはフランス革命の三つの合い言葉について語る(これは実はシュタイナーの社会思想に由来するものだが、シュタイナー哲学に疎い私は彼の哲学には深入りしない)が、これこそが現在の経済に欠けている見方である。この発言のだいぶ前にエンデは「経済生活をひたすら経済の視点からだけながめる。そういう態度はまちがっているんじゃないか」と語り、経済を考える際にそれ以外の要素についても考慮すべきだと語ってはいるが、その具体例がここで明らかにされる。さっきと同様、「オリーブ」のところからまた引用する。
ここでエンデは、フランス革命の三つの理想、自由・平等・友愛に触れ、理想社会を構築したいと思う全ての人間のモットーとさえなったこのスローガンについて、「これまでみんなは、いつも、この3つをひとつの鍋にぶちこもうとしてきた。統一国家をつくって、そこで3つの理想を可能なかぎり実現しようと考えていたわけだ。そのさい、まったく気づかれなかったこと、あるいは、気づこうとしなかったことがある。それはね、国の使命は、理想を3つとも実現することじゃなくて、ひとつだけ実現すればいいってことなんだ」と述べ、それを「法のまえでの平等」であると定義する。残りの自由と友愛については、他の生の領域に属するものであり、それには国はタッチすべきではないのだ。「自由な精神」とは各個人の才能や自分独自の生き方を探ることを指し、それに関しては「どんな一般化もまちがっている」、つまり「「精神」は各人各様の能力におうじて、それぞれ独自のかたちに形成されなければならない」としており、残った「友愛」については、本人自身「現代においては、なんとも素朴、いやそれどころか滑稽にすらきこえるかもしれないのは承知で」と前置きしてから、「友愛は近代「経済」に内在している掟である」といっている。つまり、「「経済」にたいして、例の「需要と供給の自由なゲーム」を適用させることはできない。そうなると「万人の万人にたいする戦い」となり、経済的に最も弱いものがいつも割を食うことになるからだ」と話している。スイスでの経営者の会議で彼が話していた「ユートピア」は、こういった友愛主義的経済体制の中でのみ存在できるものであり、一般の経営者の理解できるようなものではなかったのである。しかし、この「友愛主義的」という言葉から共産主義を思い浮かべてはならない。エンデにとっての共産主義は国が経済に全面的に介入した形であり、これがわれわれ一般市民の需要を満たせないものであることは明らかである。そこでエンデが提案する経済体制は、国家や資本家から独立した消費者共同体であり、そこで生産者と消費者が直接向かい合うことで、生産者を搾取することなく消費者の需要を満たす経済を満たそうとするものである。
以上のように語った後、エンデは「文部大臣」という役職自体を「自己矛盾的」と定義し、「文化が全体であり、政治がその一部分であるときには、もはや文部省のような組織は存在できなくなる」という。政治と経済と精神活動という人間の生活の三つの部分が上記のような関係を持つならば、それらすべては「文化」という名のもとに統合され、経済に支配された政治の下位区分として存在し、経済に貢献する目的でのみ創造されるそれとは無縁な文化をわれわれは持つことができる。すなわち文化がわれわれの社会生活全てを決定する要素になり、それを実現する手段としてのみ政治や経済がその本分を果たし、自由な精神がその文化に栄養を与え続けるのである。
多少抽象的な説明になってしまっているので言葉を変えて改めて説明すると、「自由な精神」が自分の生活=文化を決定し(どの職業を選ぶか、アフター5や週末をどのようにして過ごすか、など)、それら個人の自由な行動が他人の迷惑にならないように法律が調停役として機能するが、経済とはそれら自由な精神が望んでいる生活を達成するために必要な財やサービスを供給する活動であるべきだ、とエンデは言っているのである。たとえば余暇の時間を利用してテニスをプレーするという文化をある人が選択した場合、その文化生活を送るために必要なもの(たとえばラケット、ボールなどのスポーツ用具)があるわけで、その必要なものを彼のために生産してくれる人に対し、その人が生活できるだけの報酬を払う必要が出てくるが、こうすることでテニスプレーヤーのほうは自分の需要を満たすことができ、またスポーツ用具の生産者はその生産によって食いつないでゆくことができるのである。
もちろんこんなことを言われて、政治の分野で長年頑張ってきたエプラーが黙っているはずがなく、「ところで、いろんな管轄が国の手からはなれている。たとえばヨーロッパ・レベルでは、ECやNATOの本部があるブリュッセルにわたったり、また州や市町村にうつされている」、そして「国の使命が平等を実現することだとすれば、教育を受ける機会の平等にも配慮しなければならない」と反論する。しかし前者に関してはエプラーがエンデの真意を取り違えているのであり、この場合の「国」という単語はあくまでも行政機関を代表しているのに過ぎず、エンデの言葉を「国がすべきではないのなら国際機関や地方自治体がすればよい」という次元の話ではなく、「行政機関にそんなことを頼るのではなく、市民自らの手で成し遂げるべきだ」と解釈すべきなのである。後者に関しては一見正論のように思えるが、教育こそが一般市民の自由な精神を形成する上で大きな役割を果たす以上、教育はむしろ「精神」に属する領域であり、義務教育の名のもとに同一の精神形成を行うという現代の教育システムそのものが言語道断のものであるのだ。エンデは「教育の機会均等は、市民じしんの手で生みだせるんじゃないか。それはまさしく社会の意識の問題だ」と答える。これは、もし市民が教育の機会平等を願っているのならば政府などに頼らず自分たちの自主的な活動でそれを実現すべきだ、ということで、今までの「商業主義ベースに乗らないような事業は全て国に任せよう」という安易な態度に釘を刺す。エプラーは「国がこの領域からすっかり手をひくとすると、その瞬間、安い学校と高い学校、・・ができるだろう。そうなればじっさい平等の要請に矛盾するわけだ」と指摘するが、エンデはそれに対し「社会的な「経済」というのは、競争と搾取ではなく共同の労働にもとづく「経済」のことだけど、そういう「経済」を想像するなら、機会はみんなにとってほとんど平等になるじゃないか」という。ここからさらに長い間エプラーとエンデとの間でかなりの対立がみられることになるが、その全ては資本主義経済とそれがもたらす社会的不平等を是正するための社会主義的公共部門経済との混合経済に立脚するエプラーと、資本主義そのものを捨て去って全く新しい経済体制への移行を主張するエンデとの違いと読むことができる。日ごろはそれほど激しい語彙を使わないエンデが、資本主義に対しては「ガン腫瘍」呼ばわりしているが、それだけ彼が資本主義を「諸悪の根源」とみていることが容易に理解できよう。
エンデとエプラーの経済に対する認識の違いは、以下の発言にはっきりと現れている。現在の国家の役割をまるっきり否定されて憤慨しているエプラーが「いったいだれが学校にお金をだすんだい?」とエンデにきくが、ここで彼は逆に「じゃ、きくけど、今日、学校にお金をだしているのはだれなんだい?」と聞き返し、「国民だよ。国はぜんぜんお金をだしていない。国は国民の払った税金を配分しているだけだよ」と言い放つ。その意味でいうならば、学校教育に限らず国立病院や市立図書館、その他行政が費用を負担する形で運営されている機構はすべてその利用者と納税者である国民が運営していることになり、その運営費用を賄うために国が税金を徴収しているのだが、そういう回りくどいやり方をするぐらいならそれらの行政サービスを必要と思う人たちがそれを運営すべきだ、ということなのである。だが、現在の資本主義の立場から経済をとらえているエプラーは「回り道がなくなれば、学校は、経済界の寄付によって、運営されるだろう。寄付は税金で控除の対象だからね。すると、経済が文化に及ぼす影響は、今日の比じゃなく、圧倒的になるんじゃないだろうか」といってこの分野での行政の介入を正当化するが、エンデは「資本主義「経済」を前提にしたままだと、当然そうなるに違いない。「経済」の基盤を別な場所にうつしもしないで、本当に「精神」を解放することはできない」と反論する。エンデの発言を聞いたエプラーの想像する学校は大企業がその運営費を負担するもので、そこではあくまでも現在の経済活動に役に立つこと、たとえば四則計算や英語、それに物理などの教科は重点的に教えられるものの、文学や音楽など直接は経済と結びつかない分野はなおざりにされるのであろうが、エンデ自身が描いている学校はあくまでも親など市民の寄付で運営されているもので、そこでは当然上記のような経済活動に必要な知識を扱う教科はもちろん、その他市民らしい生活を行うのに必要な教育を受けることができる。市民が理想の教育を目指すのなら、それに必要な経費を自分たちで払うのはむしろ当然のことである、と彼自身は考えているのである。それを政府などに頼るという姿勢こそ自主性のない他力本願的なものなのである。ハンネ・テヒルが自分の子供たちを通わせていたヴァルドルフ学校の例を持ち出して、増築資金が必要となった際にどのようにしてその費用を賄うか親が決めた例を挙げており、話は「市民にもっと多くを要求しなければならない」(エプラー)という方向に向かっていくわけだが、この姿勢は教育などの問題を全て政府に任せっきりにするのではなく、市民自らがこの問題の解決に積極的に参加するを望んでいるものである。
エンデはここで、市民のそれと乖離してしまった行政の文化のために生まれた「奇妙な無力感」を例に出して、こういう。「作家や画家や音楽家が、よくこんなことをいう。「ぼくたちは、じっさいのところ、宮廷道化師とか社会の道化にすぎない。やりたいことは、やれる。道化師としての自由があるのは、どのみちぼくたちが無害だからだ。社会の現実は、ぼくたちがどんなに跳びはねようとも、ビクともしない。叫び、泣き、笑い、逆立ちをすることはできるが、それはまったくどうでもいいことなんだ。」・・それは、国とか共同体の「精神」つまり文化の栄養となるものが、奇妙にも麻痺しているということだ」そしてそれらの芸術がもし必要であるならば、政府からの補助金に頼ることなく市民自らの手で支えてゆく必要があり、補助金がなくては成立しないような文化は必要な意図さえいう。もし市民が豪勢なオペラを観劇したいと望むならば、それなりの費用を見たいと思う人たちが分担して負担する必要があり、それがあってこそそのオペラは成り立つのであり、もしそれだけの費用が賄えないのならばそのような芸術は「自由な精神」には必要ないものとして切り捨てられるべきものだ、というのがエンデの主張である。
上記の記述に、特に付け加える必要はないでしょう。
この日の会話で、エンデが挙げている昔の中国の医療制度は、現代の資本主義経済のもとで成り立っており、「最高の医療」の名のもとで高額な薬剤や医療器具の費用を負担しなければならない現代の技術一辺倒の医療に一石を投じるものになるかもしれない。彼によると、当時の中国では、たとえば約50家庭が集まって一人の医者を主治医として雇い、たとえ病人が出なくても毎月その医者にある程度の月謝を払う。だが誰かが病気になった時には、その病人の家庭だけではなく、その契約している50家庭全てが医者への月謝を払うのを中止し、医者は収入を得るためにはその病人を必死になって治療しなければならない(もちろんその経費は医者持ちである)。無論この制度をそのまま現代社会に応用できるとは私も思ってはいないが、ここで大事なのはいかにして医者を市民ひとりひとりが養ってゆくか、ということである。現在の医療制度では医者は「最高の医療を提供する」という大義名分のもと、患者に必要以上の経費を捻出することを強要しており、医療費や保険料の高騰を招いているが、医療の原則から照らし合わせてみれば、むしろこのような他の視点から医療について考察してみることも大切ではないかと思う。
もうひとつ興味深い点として、機械の労働に関するエンデの考察が挙げられる。彼は、「そもそもお金はなににたいして支払われるのか」といい、「靴屋が靴を一足ずつ手で仕上げていた時代では、一足あたり平均して、つぎにもう一足つくるまで家族が暮らしていけるだけの収入が、あったものだ。それが、値段を決める、おおよその尺度だった」(もちろん靴を作るための材料費もそれにプラスされるのだろうが)と、中世経済の実態を振り返った後で、機械が人間に代わって多くの労働を引き受けている現代のことを話題にし、「現代の労働者は、自分の手で靴を作ったかのような顔をして、60時間分の支払いをうけるべきなのか。それとも、じっさいに労働した6時間分だけ支払われるべきなのか」(エンデはここで、仮に1足つくるのに60時間かかるものとして上記のように論法を展開している)と問題提起し、「現実には労働者は6時間分の賃金をもらっている。機械労働による利益は、出資者の手にかえっていく。・・機械が仕事しているとき、いったい厳密にいうと何が仕事をしているのか?・・全人類が蓄積してきたテクノロジーに関する知恵だ」と現状を分析している(現在の経済競争のため実際にはそのようなことは起こらないだろうが)。そして、このような人類の共有財産であるべきものに対してお金を払わなければならない状況をおかしいという。知的所有権を重要視する人はこのような意見を聞くと、「テクノロジーの技術を発明した人に対して、その功績に報いるべく、それなりの報酬を払わなければならない」といって憤慨されることだろうが、おそらくエンデにしてみればこのような見方こそ「資本主義的」、つまり金にならないことはやらないという無責任主義的な態度だということになるものと思うが、複雑になるのでこの問題に関しては、とりあえずこれ以上深入りしないことにする。
従来の経済観とは完全に矛盾する記述だが、参考になる点が多い発言だといえる。消費者はいったいどういう財やサービスに対し、その提供者に対価を支払うべきか、われわれは新たな視点を持つ必要があるといえよう。
ここではエンデはマクロ経済に関する持論を余すところなく展開している。私が既につけている解説に解説を加えるような野暮なことは最小限にとどめ、この文章を読んでもらうことでエンデの経済論を読み取っていただきたい。
「私は今日の世界はすべて資本主義体制だと見ます。マルクス主義だっていまではみんな資本主義になっています。ただ西側が私的な資本主義であるのに対して国家を単位とした資本主義になっていることだけです」:一般的にわれわれは経済体制を論じるときに資本主義と共産主義を近代社会における対極的な体制だと考えがちだが、エンデによればこの両者は根本的にそれほど相違がないのである。資本主義経済を成立させるためには以下の三者、すなわち労働者と消費者と資本家が必要なわけだが、このうち前者2つを取り巻く状況は共産主義国家においても全く同じであり(労働者は企業に雇われ、企業の業務を遂行する役割を果たし、消費者はそんな企業が生産する財やサービスを消費するが、この両者の間には何のつながりもない)、最後の資本家の役割を共産主義国家では国家が果たし、資本主義が陥りがちな搾取(つまり長時間低賃金で労働者をこき使うこと)的ではない経営を行うよう心がけているだけの違いだったのである。そして国民の福祉を最優先する国家が企業家の役割をも果たしてしまったために、企業の経営効率は二の次にされてしまい、経済が行き詰まり、それがこの4年後に起こることになる共産主義国家の崩壊へとつながってゆくことになるのである。
「この体制がやがてどうしようもなく、人々にいったい何が根本原因なのかと、考え直しを迫るでしょうもう論じあきた、と人々が感じるのは、・・精神、文化、そのほか何を問題にするときにも、私たちの現在の生活の基本的なところを実際には変えるつもりのないまま、議論するからなのです。たとえば経済問題ひとつをとってみても、・・お金の性格、金融の基本については、根本的な考え直しをしないまま論じている」:結局現在の資本主義は永遠に続き、好不況の波はあるものの大局的には誰もが次第により豊かな生活を送れるようになっている、という一般的な思い込みのおかげで、今まで資本主義体制は生き延びることができたわけだが、実際には世界のどの国を見ても自由主義経済である限り、先進国・発展途上国問わず実際には貧富の格差が拡大しており、それだけ豊かになった人たちがその富を社会に還元せずにマネーゲームに流用しているためにバブル経済がアジアや中南米の各地で起きてはそれがつぶれて経済危機を招き、業績不振に陥った企業が帳尻を合わせるために罪のない労働者を大量解雇する、ということが現実に世界で起きており、本当にこの経済システムでいいのかもう一度問い直す必要がある、ということである。私が上記に付した解説は1998年末現在の世界経済の大局を描いたものだが、冷戦終結前にエンデが発した言葉が現在の経済の実態に即しているという事実に、われわれはもっと素直になるべきだろう。
「地球上の人間の五分の一は、どんどん金持になります。そして残りの五分の四は、どんどん貧しくなっていく。こちら側の人たちは、・・お金だのそのほかいろいろなものを第三世界に送ります。・・けれど、そんなことはみんな、その場限りのカンフル注射でしかなくて、ナンセンスです」:結局資本主義という大規模な搾取装置があり、その中で最低賃金でこき使われる人の国と、それらの経済活動で得られる巨万の富を享受する人間の国とに世界が二極分化してゆく中では、援助物資を送って飢え死にする人の命を少しぐらい永らえたって大してその貧しい人たちの状況を変えたことにはならないことをエンデはここで語っているが、だからこそそんな偽善的なカンフル注射よりも、なぜそれだけ貧しい人が生まれてしまうのか、その構造を探ることのほうがわれわれにとって重要ではないだろうか。
「今日なお学問の公式見解とされているダーウィニズムは、資本主義社会の仕組みを自然科学的に正当化しています。つまり自然界での淘汰の理論を、経済生活での弱肉強食のあり方に通用させて、・・精神生活とか文化というのは、一種のぜいたく以外の何物でもなくなってしまいます」:現在の資本主義経済のことを語る際につねに強調されることが「自由競争の大切さ」ということであるが、それは結局経済領域に生物学の理論を応用したものであり、「優勝」という点では文句ない制度であるといえよう。自由競争が品質向上のための努力を生み、ひいてはこれほどまでに発達した工業技術を人類が獲得するに至ったのである。だが、その「優勝」を獲得するためにはその企業(特にその従業員)はたゆみない努力を強要されるわけであり、生活から「ゆとり」が失われ、ぎすぎすした気持ちの中で毎日を過ごさざるを得なくなる。それよりも問題なのは、「優勝」に付随する「劣敗」にどう対処するかということが全く示されていない点である。自然界だったらその敗者は地球上から絶滅してゆくのだが、経済自由競争の敗者に同様のこと、つまり負けたからといって、彼らに滅び去れとはいえない。現在の自由競争経済は「負けるな、みんな頑張れ」とはいうものの、悲運な敗者に対してはにべもなく当たる。職を失うと収入源がなくなり、アパートの家賃が払えなくなるとホームレスになってしまい、そのホームレスが街中で野宿生活をしていると彼らに対して社会的制裁(投石、嫌がらせ、それに逮捕、投獄など)が無慈悲にも下される。そうなると音楽や文学、それに美術などのいわゆる"文化"は贅沢品、つまり「経済自由競争の枠組みの中では無用の長物とみなされるもの」でしかなく、競争に勝って勝利の美酒を堪能している人にしか享受できない、特権的生活になってしまうのである。
そういえば、経済ダーウィニズムが世界でも最も成功している米国では、人口の1割以上、何と3000万人もの人が貧困に由来する飢餓に苦しんでいるそうです。こんな社会体制がどこか間違っていると思うのは、私だけでしょうか?
ここでエンデは、チューリッヒでの体験談を語る。彼は現地でチューリッヒの町並みがきれいか、と聞かれた時に「きれいな街です。清潔です。ただスイスの兵器産業が世界中に生産している人間の死体を路上に想像してみるとすると、この街もそんなにきれいではないでしょうね」と、スイス人にとっては多少嫌味な発言をする。もちろんその死体はスイス国内ではなく、南米やアフリカや東南アジアなどの政情不安地帯で毎日「生産」されているのでありるが、彼はこれを「われわれが生きている資本主義体制の結果」だという。そして「これが続くわけはありません。単にそれが道徳的によくないことだから、という理由だけではなく・・そんな体制自体が、貫徹不可能なシステムだからです」と語っているが、ここで重要なのは、エンデがこの死の産業に、道徳面からではなく経済面から考察をしている点である。「殺人は人間の道徳にもとる行為だからやめろ」などというきれいごとをいうだけなら誰でもできるし、そういった発言や政治デモは長年繰り広げられてきたが、それにもかかわらず今日に至るまで戦争がなくなる気配はない理由の一つに、兵器産業とその顧客とのエゴの一致が挙げられよう。例えば社会不安があったり近隣諸国と深刻な対立関係にある地域では、国家(この場合は反政府ゲリラでも別に構わないが)が国民に対し武力的に威嚇することで国体保持を図る必要があり、そのためには軍備を増強することが欠かせないが、最高の軍備を獲得するためには金に糸目をつけない国家や反政府ゲリラは産業界にとって貴重な顧客なのである。そしてそのような軍備を持った政府やゲリラはそれらを使用することによって軍事的支配力を拡大しようとするのだが、ここで大事なのは、それだけの兵器などを購入する金がどこから来ているか、である。特に発展途上国などでは軍備に比較的多額の経費をかけねばならず、それだけ社会資本や教育環境の整備に回るお金が減ってしまう。ということは社会の貧困層はそれだけ貧窮生活から抜け出すのが困難になるわけであり、場合によっては彼らが反政府ゲリラ活動に手を染めて自分の生活を守ろうとしたり、そこまで行かなくても窃盗や強盗などの犯罪に走ったりするわけで、そうすればさらに前述のスイスなどの軍事産業は儲かってしまう。ただ経済的に見ればこれらの軍事産業は低開発国が貿易を通して獲得した貴重な外貨を容赦なく収奪してゆく存在でしかなく、これらの国をどんどん貧しくしてしまっていったら、やがてそのような資金さえ払えない状況が生まれることは十分に想像できることであろう。
戦争は市民生活には多大な損失を与えますが、一方軍事産業には莫大な富をもたらします。戦争はそういった産業のために時に行われていることを、忘れるべきではないでしょう。その後別の話にそれてから、エンデの経済論が以下のようにさらに展開されることになります。
この章は子安がエンデになぜ原子力発電所の建設に反対しているかを聞くところから始まるが、彼がここで述べる理由は一般の環境活動家のそれとは一線を画している。「私がいちばん問題にしたいのは、もっと本質的なことです。人類が資源エネルギーをひたすらほしいままに使いまくり、その上にのっかって機能している現代の経済生活のことです。それがもしかして何千年もの間、人類のエネルギーとして恵まれていたはずだった石油を、たったの百年で使いきらせてしまうはめに追いやっているのではありませんか」つまり、毎年鼠算式にエネルギー消費をとめどもなく増やし続けていいのか、という根本的なところからエンデの問いかけは始まり、「それ(無意味なエネルギー浪費)がまたもや、とどまることを知らぬ現代消費社会の「成長」システムと結びついている。去年より今年、今年より来年と消費を発展させることにやっきになっている。これをどこまでも発展ばかりさせていったら、もう社会そのものが存続しえなくなるはずなのに、「もっと利潤を!」が脅迫的な強制になってしまっているのです」と、その「無意味なエネルギー浪費」を強制している現在の経済システムを非難している。そしてエンデはこういう。「原子力発電は安全か否か、の問いは第二順位になります」要するに、どのようにして増える一方のエネルギー需要を満たすべきか、ではなく、どのようにしてこのエネルギ−需要の増加を食い止めるか、がエンデにとってはより重要な問題であるのだが、それらすべてを統括して彼はこのようにいう。「どうやって、この経済成長の強制から人間を自由にするか」
ここの部分はそれほど経済とは関係ないが、絶え間なき経済成長による実害の例が示されているといえよう。
そして、彼の言葉を借りるなら「乳しぼり女の計算」(日本語で言うなら「取らぬタヌキの皮算用」)でしかない現在の経済システムについて痛烈な批判を浴びせる。まず、「今日の経済界のたたかいは、生産力を高めるためではなくて、市場をどうやって広げるかのたたかいでしょう。つくることは問題ではない。つくったものの捨て場所さがしです。なぜ、アメリカは中国と仲よくしようとするか? あそこに巨大な市場があるからだ、そこに目をつけているにすぎない」と、いかにして自分たちの生産物をさばいて利潤を獲得するかという点で激しく行なわれている経済競争について言及したあと、「買う人はだれか? 支払い能力があって、しかも買いたいと思う人がいなければならない。そこでまたもやおみごとな論理が成り立ちます。「私たちの品物を買いとれるようになるために、彼らをまずは工業化させ、十分な金もうけをさせて、その金でこちらの品物を買ってもらおう」−こういうのが「乳しぼり女の計算」です。おしまいまできちんと計算しつくしてみたら、どうしても割り切れなくなる計算です。おのずと自己矛盾におちいることがあきらかですから」と、生産物をさばくために何とかして市場を拡大しようとするもくろみは、必ずどこかで挫折するだろうと予言している。この対談がなされた80年代後半から90年代にかけて、アジア諸国の経済が大きく成長し、アメリカが意図するような市場拡大が実現したように見えるが、この成長を達成した陰には多額の債務があり、その債務が返済不可能な額にまで膨らんだりしたためにタイやインドネシアなどの諸国が金融危機に陥ったことをわれわれは忘れるべきではないだろう。
さらにエンデの経済論は、アダム・スミスの「国富論」の時代にまで遡る。彼は自由市場がバランスのとれた経済を実現すると考えていたが、エンデは「それは幻想だったのです」とこのシステムに欠陥があることを語り、それについて「このシステムが続きうる条件は、まず第一に、植民地が必要だったこと。そこで気が向くままに搾取が可能だったこと。それから、社会的弱者、つまり労働者階級が存在して、彼らを搾取することが可能だったあいだです」と説明する。確かに大英帝国時代のイギリスの経済は、植民地に自国の製品を不当に高い値段で売りつけることで本国資本の産業を持たせることに成功したが、これは本当の意味での自由市場には程遠く、あくまでも帝国主義という政治的・軍事的庇護のもとに成立した経済システムでしかない。現在の経済では前パラグラフに見るような理由で市場については確保できているが、製品を低価格で生産するためには安価な労働力の確保が不可欠で、結局開発途上国で労働力の買い叩きが行なわれている。その結果が、「たとえばエチオピアのような国ひとつ見てみても、西側諸国からの借金の利子を払うためだけに、自国で産出する食肉全部を輸出にまわさなければならない」ことだという。つまり、「あの人たちは、本来自分でたべていけるだけの力をもっているのに、こちらの繁栄社会の私たちが、日々の食卓に肉料理を並べられるように、すっかり輸出することになる」のであり、「ここに私たちの経済システムの、おそるべき・・あえていいますが犯罪性がかくされています」とまでいう。
だが、さらに悪いことに、前世紀と違って現在はそのような経済構造の中で自分たちが生きていることを誰も認識できないことである。「ああ、南のほうの貧しい国の人たちだ。ああ、子どもたちが飢えている。あんなにおなかがぶよぶよして・・助けてあげなければいけない。薬を送ってあげよう。お金をカンパしよう。そういう同情心こそ起こしても、私たちのせいで犠牲になっているのだということが、直接には分からない」と、複雑に入り組んだ国際経済の中で富を収奪され、自分たちのためにさらに貧しい生活を強要される人たちとの関係が認識できなくなっている現状を批判する。
現在の経済が構造的な欠陥をかくも抱えていることが、お分かりになったことだろう。
この本では、井上やすしとの対談で経済について多少触れられている。以下にその部分を引用する。
それからエンデの最大の関心事である金融制度の話になるのだが、エンデは自然保護運動でさえ社会を駄目にしてしまう現状について、まずこう語る。「海の汚染の番組を見たんですが、・・制作者が出すまとめの言葉は、さて科学工場はこういう毒の汚染物を海に流すことを慎みましょう、という結論で・・おしまいにします。それ以上、思考を発展させることは中止します。だって、毒になる郊外物質を出さないように止めるとすると、それは生産された製品の値段を高くするという方向に、しっぺがえしが来るではありませんか。すると製品は高くなりすぎるあまりに市場での競争力を失います。その結果、明日には何百万人もの失業者が巷にあふれることになるでしょう。というわけで、犯罪的なことがら(環境汚染対策をきちんとやらずに低価格の製品を市場に提供する企業)を行ないつづける国民なり、それぞれの企業なりは、かえって得をすることになります。つまり、公害を止めようとする企業のほうがマイナスの報いを受け、そんなことを考えない企業体のほうが得をしてしまう結果になります。ですから、ヨーロッパの経済強国やアメリカや日本などは少しでも多くの品物が消費される方向へと行かざるをえない」エンデの語っていることは「経済のグローバル化」が確実に進行している現在、国境を超えて実際に起こっていることであり、製造業の企業は工場を環境基準の厳しい国から緩い国へと移転させているが、それは「環境対策費」という「生産活動には直接関係のない無駄なコスト」をできるだけ抑えようという動きであり(もちろん実際には人件費が安いことなども大いに作用しており、環境対策費だけが唯一の要因ではないが)、現在の市場経済の原理が変わらない限りこの流れを食い止めることは不可能に近い。
だが、問題はもっと根本的なものである現実を、エンデは「この悪循環の中では二つに一つを選ぶしかない。世界を破滅させることではあるけれども今のままの方向で進みつづけるか、それても大量の失業者と経済破局を覚悟するか。私が見ている唯一の克服の道は、本当に理性的な洞察によって、お金の制度自体がその内部ですっかり変わらなければならないことに、経済界の人たち自身が気づくことです」と叙述し、人間の消費欲求に応えるためではなく、利子を獲得するために現在の資本主義経済ではすべての経済活動が運営されていることを語り、その金融制度の改革案の一例として、「第二のお金」(利子をとることを禁止するお金)を世界恐慌時に取り入れたオーストリアのヴェーゲルという町の話をする。「それ(第二のお金導入)以前には、地域の住民の半分が失業者でした。また町の金庫は空でした。第二のお金を取り入れて、公的なオーストリア通貨と並べて使わせだしたところ、奇跡のように聞こえるかも知れませんが、一年後には全員が職を得て、町の金庫が豊かになり、世紀の通貨(オーストリア通貨のこと)はなくなっていました。オーストリア政府はそのことを耳にしたときに、この第二の通貨のシステムをただちに禁止しました。つまり、大抵の資本家たちはそんな考えが世間に広まるのを妨げる方向に強く動いたんです」ここで明らかになった点として、資本家は現在の形式で経済が果てしなく成長してゆくことを強く望んでおり、いいかえれば資本主義経済の永続成長を信じて疑わず、利息を取らない経済が成立してしまうと今までの利息搾取経済が成り立たなくなってしまうためにそれを防ぐために万策を尽くそうとするのだが、東インド会社が成立して以来数多くの資本主義経済が破綻してきた例を、資本家をはじめとして多くの経済学者や企業家、つまり経済界の頂点にある人が直視しようとしていない現状こそが問題ではないだろうか。
この本は、エンデが晩年に書き溜めた原稿をまとめて出版したものであるが、この中にも経済に関する言及がある。以下にそれを示したい。
クカニアの反抗
フランツ・アッシサ−というカリスマ性を備えた若者が、ある日本当に必要なものだけを買うように呼びかけ始める。するとこれが一世を風靡し、どんどん工業製品の売り上げが落ちていった。「ドイツだけで二千万人もの失業者が路上にあふれ」、困り果てた政治家と財界人はこの男を暗殺し、世界経済が復活する、というシナリオだが、ここでおもしろいことが書かれている。
「システム全体が滅亡するより、一人の死のほうがよい・・」。(フランツ暗殺の)仕事は組織犯罪の大物に依頼された(犯罪者たちはこの社会にとって、結局は害が少ないのである。放火魔や泥棒や強盗、いや殺人犯さえも、害を加えることで新たな売り上げに寄与し、そのことで職場の維持や新設に役立っているのだ。それが環境犯罪者たちにも当てはまるのは言うまでもない)。
この世の中にある産業で、われわれ市民の生活には役立っていないものは数多い。その際たるものが軍事産業(貴重な税金を国防の名のもとに殺人兵器購入に浪費されたところでわれわれ市民の生活が良くなるわけではないが、エコノミストにいわせればそうすることで軍事産業に携わる人の職が確保されるという。とんでもない詭弁だ)だが、放火魔や泥棒などが害を加えるからこそ成立する産業(たとえば保険)もあり、そうやっていったん壊されたものを再建する際お金が動いてGNPが増大する。環境犯罪でいえば、たとえば水道水が飲めないものになることでミネラルウォ−タ−の需要が増大するし、東京などでヒ−トアイランド現象が起きるとク−ラ−の需要が増え電化製品産業が潤う。そこまでして商品を売りつけて金回りをよくしなければならないのが、現代の資本主義社会の宿命といえよう。
お金と成長
現在の経済と金融システムが、「いつの間にか真正がんが形成されるときの特徴をみんなそなえてしまった。つまり、それは生きつづけるために、常に成長し増殖しなければならないのだ」とエンデは語り、現在の金融システムの問題を明らかにする。「この現代世界には、資本主義ではない経済の、つまり成長と増殖を強制することなく、人びとの需要を満たす経済の実際例が、一つもないことを知らなければならない」と彼は現在の世界が総資本主義化していることを踏まえた上で、「この”すばらしい”成長は無から生じるわけではない。そのためのおそろしい費用は第三世界、すなわち途上国が支払い、地球規模で言えば、ようしゃなく奪われ、破壊される自然が支払うのだ。そして、天然自然でまかないきれなくなると、ますます増えるエネルギー需要は”反自然的”に満たされなくてはならない」と、現在のシステムが常により多くのエネルギー消費を必要としていることを示す。確かに昔は人間が消費していたエネルギーは食物として体内で摂取するエネルギーの他は、調理や暖房のためなどに火をおこすための薪ぐらいだったのだが、特に産業革命以降は石炭や石油、そして現在では原子力まで使ってエネルギーを確保しているが、こうやって永遠にエネルギー消費量を増やしてゆくわけにはいかないことを、エンデは警告している。だが、そんなことを政治家が訴えても、経済成長の減速を嫌う産業界や、それに伴う失業に反対する労働組合からの反対を受けて彼の政策は実際には採用されないだろう。エンデはこの文を結ぶにあたって、このように皮肉を込めた文章を入れている。「まちがった方向へ走る船の上では、正しい方向へ歩いてもそれほど進めない」
「モモ」は、人間にとっての時間を主題にした作品であるため、お金に対する描写はではほとんどないが、お金を払う対象となる「価値」について、以下の部分の解説が参考になることだろう。私がこのページに記した解説を含めて、以下に示したい。
それに対し、おしゃべりのジジはたまに訪れる観光客に、ありとあらゆる大嘘を並べ立ててはそれを本当だと信じさせて、彼らからガイド料を受け取っていたのだが、そんなでたらめ話を非難する人に対し、彼はあっさりとこう反論する。
「詩人だってそうじゃないか。詩人に金をはらう人たちは、むだに金を捨ててるって言うのかい? 詩人からちゃんとのぞみどおりのものをもらっているじゃないか! それにさ、学者の書いた本に出てくるか、こないかってことに、そんなにちがいがあるかな? 学者の本に出てくる話だって、ただのつくり話かもしれないじゃないか。ほんとうのことは、だれも知らないんだもの、そうだろ?」/「ほんとうだとか、うそだとか、いったいどういうことだい? 千年も二千年もむかしにここでどういうことがあったか、知ってるやつがいるってのか? え、あんたはどうだい?」「知らないさ」「ほらみろ! そんならどうして、おれの話がうそだなんて言える? ひょっとすると、ほんとうにそういうことがあったかもしれないじゃないか。そうだったら、おれの話は、正真正銘の事実だってことになるよ!」
いかにも調子のいいラテン系の男の子の台詞であり、こういうあたりにドイツにはなくイタリアにあふれている、人生を謳歌しようとする哲学が感じられるが、ここでエンデの経済観が垣間見れる。詩人に金を払う人が彼から得るものは、そもそもいったい何であろう? 詩を鑑賞するということは、具体的に何かを得る行為ではない(詩集を買ったら本が手元に残るだろうが、それ以上のものは何もない)が、それでもその詩人にお金を払う人はいるわけで、それはその詩を鑑賞することを、ちょうど喉が渇いた人が水を欲しがるように求めているのであり、経済的観点でとらえるならば後者に飲物を売る売店の人と前者に詩を売る詩人の行為は完全に同一である。経済論については別のセクション(特に「オリーブの森で語り合う」)で詳しく取り扱っているためここでは深入りは避けるが、ジジは自分の紡ぎ出す物語は詩人のそれと同様にとらえており、要はそのお客さんがその話を楽しんでくれればいいわけで、その話の真偽は二の次なのだ。こうやってフィクションを楽しむあたりがいかにもイタリア的であり、ドイツ出身のエンデはイタリアのこのような陽気さを母国の人に伝えたかったのだろう。