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第5部 自由貨幣・金利・あるいは資本理論 5-8 純資本金利:固定規模で <前の章に> / <目次に> |
| ここまで、一般的な物価上昇が見込まれる場合(産業界が好調なとき、つまり好況時)、利率には資本金利やリスクプレミアム(危険への保険金)の他、高プレミアム(期待される物価上昇に伴う、融資者の取り分)という3番目の要素があることを示してきた。ここからわかることは、資本金利の変動を確定したいならば、違う時期の利率を単純に比較するわけにはいかない、ということだ。そうすれば、商品の価格を考慮しないで異なった時代や国の賃金同士を比較する場合と同じように、誤った結論を出すことになるだろう。
だが高プレミアムが物価の一般的上昇時のみに共に起こり、共に消え去ることを考えれば、いわゆる大不況のために物価が下落している時の利率は資本金利といくらかのリスクプレミアムだけで構成されると、歴史的記録からも確言できる。その時期の利率は、そのため資本金利の動きを示す確かな指標である。 広く継続的に物価が下落した時期は、よく知られているように紀元前1世紀から1400年ごろまでの時代である(※1)。この長期間にわたって、通貨の流通は金(きん)や銀のみに制限されていた(紙幣やシンデルリンク貨(※2)はまだ存在しなかった)。その頃これらの金属の鉱山、特にスペインの銀山は掘りつくされていた。金利徴収の禁止もあって(多くの場合この禁止は有効ではなかったが)、古代から存在した金(きん)は流通から阻害され少しずつ失われていった。それゆえ、この一般的な価格の下落は広く知られた事実によって十分に基礎付けられており、どの方面からも異論を唱える者はいない。 ※1:貨幣品位を下げ、つまりいわゆる贋金作りにいそしんだフランスやイタリア、それにスペインの都市では、この物価の下落は例外的であった。 ※2:訳注:15世紀中庸にウィーンを中心に大量に発行された少額貨幣。インフレを引き起こしたために、3年で流通が停止された。 グスターフ・ビレーターの「ユスティニアヌス帝時代までのギリシア・ローマの利率史」によると、以下の事実が記録されている。 163ページ:「ローマではスッラの時代(紀元前82〜紀元前79)から、利率がその典型的な4%から6%に固定されていることがわかる」 164ページ:「キケロは紀元前62年末に『支払能力があり信用があれば6%の金利を払えばふんだんに資金を得られた』と書いている」。ビレーターは「これは物価の下落傾向を暗に意味しており、実際すぐに金利も下がった」と付け加えている。 167ページ:「戦時の金利(紀元前29年ごろ)は12%で、信用のある人でもこの金利を払うことを余儀なくされた。こうして利率は4〜6%から12%に上がった。だがすぐに、以前の4%に戻った」 注:一時的な12%という戦時中の金利は、異常に高いリスクプレミアムとして十分説明できるかもしれない。お金が一般的に欠如していても、一時的・地理的な理由で物価が上昇することもあり、そのため利率が高プレミアムを含む可能性も、考えに入れておかねばならない。おそらく金利禁止新法の運用などによるお金の流通速度の変化で、この経過は十分に説明できる) 180ページ:ユスティニアヌス帝以前の帝政ローマ時代:「安全な投資金利は3〜15%だが、3%は非常に稀だ。この率は、年金向けの投資にとっても最低のものだ。15%もやはり稀だ。12%はそれほど稀ではないが、標準ではない。10%も稀だ。標準的な率は4%から6%である。この率に関しては、場所や時間による違いは見られない。唯一の違いは投資の種類の違いで、4%は低金利で、6%は普通の利率で、その間にある5%は非常に優良な投資先への利率であり、この率は普通の安全な投資先への標準的な利率でもある。だいたい平均的な金利は4〜6%であり、決して12%ではない。資本還元率は4%あるいは3.5%である」 314ページ:ユステイニアヌス帝時代(527年〜565年):「結論はこうだ。特別な状況で資本還元率が8%くらいにまで上がり、2〜3%くらいにまで下がることもあるというものだ。平均的・標準的利率について言うと、5%という率は標準的なもののようで、平均としては恐らく若干高めだといえる。平均6%〜7%の場合、中くらいにしてもやや高いため普通の標準だとはいえない。5%弱から6%前後が、標準的なものだと考えられる」 ビレーターの研究はユスティニアヌス帝時代で終わる。彼の記述を要約しよう。 スッラの時代(紀元前82年〜79年)利率は4〜6%だった。キケロの時代(紀元前62年)、お金は6%でふんだんに手に入った。戦争(紀元前29年)による短い中断のあと、4%という以前の利率が復活した。ユスティニアヌス帝以前の帝政ローマの時代、利率はふつう4%〜6%だった。ユスティニアヌス帝の時代(527年〜565年)には、標準的利率は5〜6%だった。 この数字は何を意味しているのだろうか。つまり、この600年間の利率は、1500年後の現在とほぼ同じ水準であり続けた。この4〜6%という利率はおそらく現在よりもわずかに高いが、道徳や法律、そして教会が金利の保護を行っている現在と比べて、古代や中世ではリスクプレミアムが高かったことを考えればこの違いは納得できる。 これらの数字は、経済や政治や社会の状況に金利は依存していないことを証明している。さまざまな金利理論、特に生産性理論(現在、唯一少なくとももっともらしく思える理論)とはまるで正反対の結果である。たとえば蒸気脱穀機や自動刈り取り束ね機、双筒銃やダイナマイトといった現代の生産手段に対しても、鎌や殻竿、石弓やくさびといった2000年前のものに対しても同じだけの金利が支払われているということで、金利は労働手段(生産手段)の有用性や能率に左右されないことが十分わかる。 これらの数字が意味するのは、2000年前に600年間も続き、今日とほとんど同じだけの影響を持った状況のおかげで金利が存在しているということだ。この状況や力やものとは何か。これまでの金利理論の中で、この問題の回答のヒントだけでもわれわれに与えてくれるものは何一つない。 残念ながら、ビレーターの研究はユスティニアヌス帝の時代で終わってしまい、私が知る限りそれに続くコロンブスの時代までに関して信頼の置ける研究はない。もちろんこの時代、少なくてもキリスト教諸国に関する信頼できる資料を見つけるのは困難だが、それは金利の禁止が非常に厳格になり、貴金属の不足が深刻となるとともに通貨の流通や商業がますます衰退したからだ。1400年以降減価が大規模に起こり、利率の中でどれだけが純粋な資本金利かあもはやわからなくなったからだ。ここではビレーターは研究に物価統計を組み合わせ、利率からその時々の高プレミアムを分離しなければならなかっただろう。 教皇クレメンテ5世が1311年のウィーン会議で、金利に好意的な法律を公布した世俗の領主に対して破門をちらつかせ、権威を行使したという事実は、この時代の商業の弱さと、融資がそれほど頻繁でなかったことを示している。教皇は個々に罪を冒した者に厳しく臨むことはできた。だがもし商業が活発で、利子を取ることの禁止を破ることが日常的であれば、教皇はその脅しを使えなかっただろう。交易が盛んになるとともに、金利に対する教会の反対がすぐになくなった事実を見ればこれは明らかである。 純粋金利が不変とはいえほとんど揺るがないという主張にとっては、金利変動が物価変動(高プレミアム)に還元されるということがその根拠になるかもしれない。通貨制度に変化がなければ、2000年前から金利は3〜4%で安定していたことだろう。 紙幣の発明にも匹敵する影響を価格に与えた15世紀のシンデルリンク貨の発明と、オーストリアからハンガリーにかけてのハルツ山脈での銀鉱の開発で、通貨経済が欧州各地で可能となった。そしてアメリカの発見で16世紀から17世紀にかけての価格革命が起こった。物価はとめどなく上がり、利率に多大の高プレミアムがのしかかった。そのため、この全期間を通じて金利が極めて高かったことは驚くに値しない。 アダム・スミスの「国富論」から、私は以下の数字を拾った。1546年の法律で許された利率の最高額は10%と決められていた。この法律はエリザベス1世によって1566年に改正され、10%は1624年まで合法だった。 この頃には価格革命は実際には終わっており、一般的な物価上昇は緩慢なものとなっていた。これとともに利率も戻った。1624年に最高利率は8%に下げられ、スチュアート朝の復活(1660年)の直後に6%に、1715年に5%に下げられた。 アダム・スミスは、「利率の法的規制の変化は概して、自由市場では相場に遅れて現れる」としている。 アン女王の時代(1703〜1714)から5%が、「市場の相場」を上回り始めたようだ。価格革命が終わったため、これは自然のことだ。現在利率は単に資本金利とリスクプレミアム、したがってお金にかかる金利分とそれに対する危険負担から成る。 「戦争以前は、政府は3%で融資を受け、信用のある個人は首都でもその他の地方でも3.5%あるいは4.5%でお金を借りていた」とアダム・スミスは書いている。 これこそが、現在のわれわれの置かれた状況である。 純資本金利の高さが固定しており、3%よりも下がったり4〜5%を超えることは決してなく、利率の変動はすべて基礎金利の変動によるものはないことを証明するのに、これ以上の事実が必要だろうか。現代、利率が上がるのはいつだろうか。物価に連動する場合のみである。カリフォルニアでの金(きん)の発見以降利率は上がり、穀物価格の上昇にもかかわらず、債務を負った多くの地主が苦境を訴えた。穀物価格の上昇は、要求される賃金の上昇のために打ち消された。そしてカリフォルニアの鉱山が掘りつくされると物価は、利率と一緒に下がった。それからフランスから賠償金がもたらされ、物価と金利の上昇が起こり、1873年の大危機では、物価も金利も下がった。(1897年から1900年と1904年から1907年にかけての)最近の好況期も金利は上がった。この後物価も利率も再び下がり、現在、物価も金利も少しずつ上がってきている。つまり、全体的に利率から一般的物価上昇による高プレミアムを控除すると、そこに残る金利の量は固定している。 なぜ金利は決して3%よりも下がらず、なぜ金利は決して一時的にも、1年のうち1日だけでも、100年のうちの1年だけでも、2000年間のうちの100年間だけでも、ゼロまで下がらないのか。 |
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