ごぼ、ごぼ、ごぼっ・・・・・・。
 流し台。シンクの排水孔から、水が流れ落ちていく。
 ゆるやかな渦を巻き、野菜の皮の切れ端を巻き込みながら水は流れ落ちていく。
 ごぼっ、ごぼごぼ・・・・・。
 排水孔が、音をたてる。
 管に何かが詰まっているのだろうか。また掃除しなければならない。それとも、2階の住人も、今、水を流しているのか。真上の部屋は、一人暮しのはすが、いつの間にか2人暮らしになっている。お互いに顔も名前も知らないが、生活音だけは、なじみになってしまった。
 6畳一間のアパートの狭い台所。
 鍋の沸騰したお湯の中で、煮干しが踊っている、包丁の切れ味が悪くなった。研げばいいのだろうが、研石を買ってこなければならない。別の鍋で、大根が煮えてきた。
 一瞬、足下が揺れるようなめまいを感じた。

* * * * * * * * * *

 突然、子供の泣き声が聞こえた。
 振り向くと、リビングルームで、娘が泣いている。さっきまで、お兄ちゃんと仲よく遊んでいたはずなのに・・・・・。
 ぐすぐすと、鼻水をすすりあげながら、娘がやってきて、私のスカートにまとわりつく。
「どうしたの?お母さん、包丁使っているんだから、危ないでしょ。」
「だって、だって・・・お兄ちゃんが・・・。」
「お兄ちゃんがどうしたの?」
「アタシのこと・・・・うらの竹やぶで拾ってきた子だって・・・・。」
 娘は、また、泣き始めた。包丁を置き、手をエプロンで拭きながら、しゃがみ、娘の顔をじっと見る。
「そんなこと、絶対にないわよ。あなたもお兄ちゃんも、お父さんとお母さんの子供なんだから。とっても大切でとっても大好きな子供よ。お兄ちゃん、嘘ついてからかったのね。」
「・・・・・ほ・ほんとに?」
 娘をぎゅっと抱きしめる。それで、娘は安心したらしく、また遊んでくる、と言いながら、とことこ歩いて行った。子供部屋へ行ったようだ。
 さあ、急いで夕飯の支度を終えなければ。夫が帰ってきてしまう。

* * * * * * * * * *

 めまいが、おさまった。
 鍋がぐつぐついっている。さっきから、つけたままのテレビから、ボソボソと音が聞こえてくる。部屋が静かなのはいやだ。隣や上の住人の物音が、はっきり聞こえるのはいやだ。木の葉を隠すなら、森へ。音を消すためには雑音。
 ああ、大根に味をつけなければ。
 また、めまいがした。

* * * * * * * * * *

そろそろ、料理ができあがる。台所から、そっと部屋の様子を伺う。彼は、新聞を読み、ビールを飲み、テレビのチャンネルを変える。
 いつもと同じような行動。いつもと同じような態度。
 でも、私にはわかる。彼は、私のもとから去ろうとしている。
 彼のいない生活など、考えられない。
 でも、彼は去るだろう。
 私には、わかる。だって、愛しているから。
 でも、彼を失わずにすむ方法が1つだけある。
 戸棚から、そっと小さいビンを取り出す。中の粉が、蛍光灯の光を受けて、キラキラ輝く。
 これを、ほんのわずか、料理に混ぜればいい。彼の皿にだけ、そっと。苦しむことは、決してない。
 その後で、私も、この魔法の粉を飲んで、彼の隣に、横たわろう。彼と私は、いつまでも一緒。未来永劫、彼と共に・・・・・・。
 彼が、新聞から目を離し、私に声をかける。
「おっ、いい匂いだな、今日は何だい?」
「え?・・・・ひ・み・つ!!もう少しだから、待っててね。」
 私は、ビンの蓋に手をかける。

* * * * * * * * * *

 ふう・・・・・。ためいきをつく。めまいが、ようやくおさまる。
 鍋から煮干しを取り出す。味噌を入れる。ワカメ、ネギを入れる。ああ、魚を焼くのを忘れていた。
 外は、にわかに暗さを増していく。薄闇の染め付いたガラス。意味をなさない雑音。
 そろそろ、ストーブを出さなければ。そんな季節・・・・・。
 思わず身震いしてしまうのは、寒さのせい。それとも、さっきの、めまいの合間に見えた光景のせい?
 いや、あれは現実。あれは私。あれは未来、それとも過去だったろうか。
 もうすぐ、料理ができあがる。もうすぐあの人がやってくる。
 だから、私はテレビのスイッチを切る。
(おわり)




しあわせ町大バザール