辞書
あるエンターテイメント作家が辞書を編纂することを思い付いた。
酒を飲みながら友人にその構想を話す。
「言語学者たちが編纂する辞書のように一般性に欠ける語を定義し、そういう単語の意味を求める人たちの要望に応えるようなものではダメなんだ」
「というと?」
「誰がどの項目を見ても『そんなことは誰でも知っている』と辟易する辞書、それが理想だ」
荒唐無稽なことを言う。酒の席の冗談かとも思ったが、表情から察するにそうでもないらしい。
友人は真っ当な質問をした。
「そんな辞書をつくる意義があるのか」
彼は薄く笑って答える。
「あるとも」
「一体どんな?」
「ははは、それは完成してからのお楽しみだよ」
言葉通り、彼は間もなくその辞書の編纂に取り掛かる。
どういうわけか表題は付けなかった。
そして、誰でもそう思うような、ありふれた、紋切型の定義を、ことばたちに施していった。諧謔の誘惑と戦いながら、この国の、この時代の、ごく当たり前の概念を淡々と。
しかし酒好きが祟ったのか、彼は志半ばにして世を去ってしまった。
主のいなくなった部屋を整理していた彼の妹がこの遺稿を見つけ、読み、首を傾げた。奇を衒う作風の兄にしては珍しく「そんなことは誰でも思うこと」程度の定義が、エピソード的に記されているのみだったからである。それでも妹は、この未完品を兄の遺作として出版した。
時は流れた。
かつての「誰でも」たちはとっくに死に絶えたらしく、「誰でも思うことの断片」だった代物は「彼の諧謔集の片鱗」となって人々に読まれていた。彼が長生きしていればもっと面白いものができた
だろうとも評された。
彼の文名は半永久的に残る。
これが彼の本意だったのか。
否。
彼はこの辞書をして、「誰でも」たちが惰性的に用いていた定義を直に見せつけ、その陳腐愚劣を知らしめ、恥じ入らせ、省みさせようと目論んだのである。単語さえ覚えればその内容を理解したと錯覚する大衆の習性を逆説的に皮肉ったのだ。一種の啓蒙だったのかもしれない。
彼がこの辞書に表題を付けなかったのは、題名を唱えるだけで内容を理解したと錯覚されては何の意味も無い、と苦笑混じりに考えたからである。また、名も伏せて出版するつもりだった。「あの作家の作品」と称されては、これまた意味を成さないからである。
彼の文名は、彼の意志とは異なった形で残った。
が、このような例は彼以外にも無数にある。
妄言王のアとガキ
「辞書」に後書きを添えるなどお笑い草である。