眼光紙背に徹する


 私の眼光は、自分で言うのも何だが、並ではない。何しろ、紙背を徹するのだから。その徹し方は我ながら恐ろしくなるほどだ。文章の真意を徹するなどは当然で、その原稿を書いたときの作者の心境や顔つきまで徹してしまう。
 今まで色々な紙背を徹してきた。顔面蒼白になりながら命を削る思いで一字一字を紡ぎ出している文人、弟子の作品をほとんど丸写しにして発表し続けて全く罪悪感のない文豪、片手間程度の心境で「名作」を仕上げた一流作家、締め切りによるストレスで胃潰瘍になりながらも必死で「凡作」を書き続けている三流作家、原稿料のことしか頭にない売文家、原稿料よりむしろ世の人々に自分の文章を読ませたいと念じる啓蒙家(あるいは啓蒙家もどき)などなど。
 世に溢れる紙背には、真顔と間抜け面が半々くらいの割合で潜んでいる。と言いたいところだが、残念ながら間抜け面が大半である。某美人作家も、化粧を落とした顔で原稿に向かえば、その本性とあいまって数段見劣りする。某恋愛小説家が鼻くそをほじりながら執筆すれば、その姿もまた私の眼光に捉えられる。男色に耽りながらペンを走らせる某二枚目作家の実態を見てしまったら、彼の女性ファンたちはさぞショックであろう。
 私の眼光は、漱石や芥川など近代日本の文豪ばかりでなく、源氏物語やシェークスピア、さらには聖書や経典、その他あらゆる古文書の紙背に至るまで徹する。つまり私の眼光が徹する紙背は、私の語学力の乏しさには関係なく、人間が書いたものであるなら古今東西を問わないのである。
 最近に至っては、スプレーの落書きやホームページの文章など、紙ではない「紙背」ですら、おぼろげながらも徹するようになってきた。この眼光は益々盛んであり、当分衰えそうにない。
 この眼光を公にし、それぞれの分野の研究者に様々な真相を教えてあげてもいいのだが、客観的証拠に欠けるとして彼らは納得しないであろう。また、仮に私の眼光が社会的に認知されるようになれば、彼らの存在意義が無くなってしまう。どうあっても、私の眼光は受け入れられそうにない。彼らを社会的に抹殺しようとも思わないし、また、こちらが様々な思惑によって抹殺されるのも御免なので、黙っておくほうが賢明なのかもしれない。
 そう思うなら、なぜ私はこのような文章を発表しているのか?
 残念ながら、これほどの私の眼光を以てしても、ちっとも「紙背」を徹しないものがあるのだ。
 そう、他ならぬ自分自身の文章である。


妄言王のアとガキ

山本夏彦氏のエッセイを読んでるときに「眼光紙背に徹する」という言い回しに出会った。
かっこええ言い回しやなあ、と思うた。
辞書で意味を調べる前に、インスピレーションでちょこっと小説もどきを書いてやろうと企んだ。
よってこれが予の第一作なのです。

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