紀州の山猿と大奥の女たち
七代将軍・家継が八歳で夭逝し、徳川宗家は途絶えた。
これにより、尾張・紀伊・水戸の御三家の内から新しく将軍を迎えることとなる。家格からいえば尾張の継友だったが、これを覆したのが紀伊の吉宗だった。六代将軍・家宣の御台である天英院が、継友は神君家康の玄孫だが吉宗は曾孫であると「血の尊さ」を主張し、結局これが通った。水戸の綱條も曾孫に当たるが、高齢を理由に辞退していた。
吉宗は大柄で浅黒く、鷹狩や相撲を好み、粗末な木綿を着、一汁三菜・一日二食を常として武辺や質素倹約の範を示し、家臣や領民にも強いた。その甲斐あって、大半の藩が貧窮しているなか、紀伊藩は財を蓄えるまでに至ったが、それを天英院や綱條らへの賄賂に充てたとの噂が流れた。また紀伊は山林の鄙であり、尾張は金鯱の都である。さらに吉宗の生母は卑賤の出だった。
それらが相俟って、奢侈な江戸の都人の多くは内心、吉宗を野蛮で吝嗇で成り上がりの田舎の殿様と思っていた。
新将軍は天英院に、大奥の美女を見繕って揃えて頂きたいと申し出た。既に娶っていた紀州女は世辞にも美形とは言えず、天英院はすぐにその意を察して承った。
匂うばかりの女たちが三つ指をついて吉宗に拝した。
「みな美しいのう」
凡そ貴族面とは言い難い吉宗の下品な笑顔を見て、山猿とは言い得て妙などと思った女も少なくなかった。またその野太い濁声は、女たちの多くにとっては粗野で耳障りだった。
一方で、吉宗は武辺者ゆえ閨好きと聞き及ぶ。将軍も女の前では只の男。この山猿の子を生せば一族の繁栄が約束される。
女たちの白粉は栄達の武器だった。
「そなたたちほどの美形であれば…」
と吉宗は続けた。
「嫁ぎ先は幾らでもあろう。よって里に帰してつかわす」
異例の宣告に、女たちは唖然となった。
天英院は仰天して吉宗に再考を迫ったが、「身共は下賎の育ちゆえ都びた女は合いませぬ。さりとて、この美女どもを大奥に埋めておくのは勿体のう存じます」と答えた。
実際、吉宗は生涯に亘って紀州の女しか娶らなかった。
ていよく大奥を追放されて失意の内に荷を纏めた女もあったが、憚ることなく山猿ではない男を知れると内心嬉々として支度をした女のほうが多かった。
吉宗には判っていた。天英院に美女を所望すれば、その寵臣も同然の「美女」が集められることを。吉宗はそれらを除くことにより、大奥の最高権力者の手足を捻じ切ったのである。
妄言王のアとガキ
ながらく非公開にしていた拙作だけど、ええーい、公開しちゃえ。
「暴れん坊将軍」のファンのひと、ごめんちゃい。
(なんぢゃそりゃ)