「ブヨブヨとした」にまつわる短編集

ぶよぶよを追いかけて

(あ)

 
(1)
 台風の後の風がとても強い朝、あたしが目覚めると何物かがあたしの目の前に裸で立っていた。その瞬間、あたしはうわあ、と叫んだのだけど、それはひとり暮しの部屋に誰かが入り込んでいたという驚きであって、化け物がいたという驚きではなかったはず。ところが、目をこすってよく見てみると、そいつはあたしがいつも鏡で見ているような顔、体をしていたものだから、今度は動転して息が止まってしまった。『私』が言う。
「服を貸してください」
 この声には聞き覚えがある。女らしいとは到底言いがたいあたしの声だ。英語学習で自分の発音を録音したとき、あまりの不快さに参ってしまったことを思い出した。ともかく、『私』があたしに危害を加えることはとりあえずなさそうだったし、あたしもこれ以上リアルなあたしの裸を見たくなかったので、窓際のハンガーへと向かい、洗濯物が乾いていることを確認しながら適当に見つくろってやった。話を聞くのはそれからだ。
 あたしがベッドの上に放った服を一通り確認した後、『私』はまず下着を身に着けようとして左足を上げた。だが、『私』はよろよろと不安定そうで、やがてあたしの方に倒れ掛かってくる。結局あたしは『私』を抱き支える稀有な経験をしたというわけ。その時『私』はうらやましいほど軽く、皮膚には奇妙に弾力があることに気付いた。『私』のわき腹を人差し指でつついてみると、ぶよぶよと付け根まで埋まり、その状態で力を加えれば『私』を前後に動かせそうだった。
「どうしてこんな体をしているわけ? ていうか……」
「私は所詮ニセモノですから」
 あたしの言葉は途中で遮られたのだけど、まあ、聞かれたくないこともあるだろうし。
 『私』が服を着ようと苦闘する間、これ以外にも色々と話をした。よく分からないけれども『私』はあたしと同じ知識を持っているということぐらいは理解した。よく見るテレビ番組だとか、子供のころ飼っていた犬の名前だとか、気に食わない後輩だとか、思いつくままに聞いてみてもきちんと思ったとおりに答えてくれた。『私』はあたしと異なり尋ねることにとても正直に答えるので、内容によっては質問したあたしの方が恥ずかしくなってしまうこともあった。でもそのうちいいかげんに飽きてきて、依然気になることがあったのだけど、それらはおいおい聞いていけばいいか、という思うようになった。だって現にここに『私』はいるわけだし、あたしも今日は午前中から用事があるわけだし。


(2)
 はき慣れたジーンズのうち片方を出かける前に洗濯してしまったので、『私』にはスカートをはいてもらっている。あたしは洗濯してないほうのジーンズだ。そんな格好で『私』とあたしは駅に向かっている。『私』がやや先行していて、あたしは電柱二本分ぐらい間をあけて後をつけている。外はいまだすっきりと晴れてはいなかった。今は長い長い下り坂の途中だ。
 今日はユーヤと会う予定だったのだが、『私』がどうしても代わりに行きたいと言い出したのだ。それならば、というわけであたしは『私』に譲ってちょっとした探偵気分を味わうことにした。これでサングラスでもあればね、なんて歩きながらぼんやりと考えていると、突然一段強い風が吹いた。今日のスカートは、あたしの感覚でははき慣れていない服なはずなんだけど、『私』はまくれあがるのをうまく押さえ込んだ。その振る舞いを見てあたしは感心した。けれど次の瞬間『私』は風に流され、尋常でない角度までいったん倒れかけ、その後起き上がりこぼしのように体勢を立て直したわけ。路面に体を叩きつけて、そのぶよぶよの顔を文字通り歪ませないだけまだましかもしれない。いや、完全に路面に横たわって、坂の下まで転がられたら目も当てられない。でも幸いそんなことはなく、あたしが駅に着くまでこれ以上奇妙なことは起こらなかった。

 乗った電車は、席には座れないけれども、立つ位置は自由に選べる程度には空いていた。『私』はドアの横の手すりにつかまって窓の外を眺めている。あたしはその光景を隣のドアの位置から、ロングシート越しに時々見やった。そしてその合間には、家を出る直前に本棚から引っ張り出してきた文庫本の適当なページを開き、活字を追った。それはかなり昔に冒頭だけ読んで放っておいた推理小説で、挙句に登場人物がカタカナの名前で覚えにくいものだから、開いたところなんてさっぱり意味不明だった。それよりもあたしは、尾行中にまわりの目を欺くためこういうことをしているのだと、自分の行動にちょっと酔ってしまっていたので、やっぱり読んでもちっとも頭に入ってこないのであって。
 終点の駅に着く前に、電車は大きく左にカーブした。『私』の体はドアに押し付けられている。最後まで電車はほどほどに空いたままで、そのため例えば『私』が汗臭い大男に寄り切られ、結果男とドアの間で大音響とともに破裂するというような最悪の事態は避けられた。あたしは文庫本をかばんにしまい、次の移動に備えた。


(3)
 ユーヤと『私』は手をつないで歩いている。日が照り始めた。先ほどまでの風はぴたりと止んでおり、そのためか『私』の動きに不自然なところは見られなかった。二人は時々顔を見合わせ、軽く笑い声を上げる。ユーヤとあたしは長いこと付き合ってきているけれど、最近あそこまで明るく話をしたことはあっただろうか? さっきと同じように尾行しながら、あたしはちょっと嫉妬してしまう。ユーヤもあたしも近頃少し疲れ気味のため、とりあえずすることだけ済ませてもそれ以外はおざなりになりがちで、不満と申し訳なさが入り混じった感情を抱くことが多かったのだが。
 前を行く二人はどんどんと公園のほうへ向かっていく。うっそうとした木々に囲まれて、ここが都会であることを忘れてしまいそうな、そんな公園だ。あたしは二人を追って木で作られた橋を渡り、公園の中に入った。橋の下の川は昨日までの雨で増水していた。
 急にその時、あたしは背後に人の気配を感じた。すると、そこにいたのはユーヤであって。そしてあたしはほっぺたをユーヤにぎゅうとにぎられたのだ。その状態であたしは問う。
「何でユーヤがここに?」
 ユーヤのせいで不明瞭な発音になってしまったが、何を言っているのか理解してくれたようだ。ユーヤはあたしのほっぺたを解放して、答えてくれた。
「ああ、本物みたいだ、これは」
 これ呼ばわりですか、とあたしはちょっとむかついた。やられた頬も痛いし。ていうか全然あたしの問いかけの答えになっていないし。
「俺もあのぶよぶよたちをつけているんだよ」
「えっ、ユーヤのところにもぶよぶよ来たんだ」
 それならあたしもユーヤのほっぺたをつねって確かめてやりたい、そう思って手を伸ばすと、「おい、ぶよぶよたち見えなくなったぞ」と、ユーヤが言うものだから、結局反撃は叶わずじまい。ユーヤは走り出した。あたしもついて行く。そしてあたしは駆けながら、「やっぱり、自分と同じ声を聞かさせるのって嫌な気持ちにならない?」と、ユーヤに同意を求めたのだ。


(4)
 川沿いに芝生の斜面があって、その一番上にはベンチが置いてある。ぶよぶよたちはそれに横に並んで腰掛けていた。公園のかなり奥に来ていたので、他に人影は見当たらなく、ぶよぶよたちは上半身をお互いのほうに向け、そして接近させ、なにやら小声で語らっているようだ。それらをあたしとユーヤはやや離れたところから観察している。電車の中で読んでいた推理小説にこういうシーンがあったことをあたしは思い出した。ユーヤが言う。
「どう思うよ、あれ」
「あたし、あんな格好なんだ、ちょっとはずいかも」
「つーか、マジでどうするよ、あのぶよぶよ」
「でも、まあ、もうちょっと見てみようよ」
 ユーヤはどうやらいらだち始めたようだ。あたしは長い付き合いだからその辺よくわかる、というか、最近二人の間にちょっとしたいざこざが多くて、あたしはそれを恐れるあまり敏感になっているというか。ユーヤは今まで面白半分でぶよぶよを放任していたようだけど、あの様子を見てもう我慢ならなくなったようで、黙ってポケットから煙草を取り出した。
 あたしは確かに本当に恥ずかしかったのだけど、でもそれ以上にぶよぶよ、特に『私』がどう行動するかに依然興味があって、それらから目をそらすことができずにいた。やがて、あたしとユーヤが付き合い始めたころのことが自然と思い出されてきて、あたしのほうはなんだかほんわり暖かい気分になってきた。そしてその気持ちをちょっとおすそ分けしようと思って、ユーヤのほうに向き直って、声をかけてみた。

 でも、次の瞬間ユーヤは煙草を放り投げ、ぶよぶよのほうに駆け出していた。あたしもつられてぶよぶよのほうを見てみると、ぶよぶよたちの唇、というか顔全体が重なり合っていた。さらに『私』は自らスカートを少しまくりあげ、『ユーヤ』の手をいざなっていたものだから、あたしも慌ててぶよぶよの方へ走ったのだ。
 ユーヤがぶよぶよたちを突き押した。するとぶよぶよたちはふわりとベンチから落ち、斜面に横たわった。ようやく遅れて来て息をぜいぜい切らしているあたしに向かって、ユーヤは言う。
「もう、こいつら連れて帰ろう」
「えっ、どこまで? どうやって?」
「俺の家まで、タクシーで。ほら、足のほう持って。これぐらい軽いから大丈夫だろ?」
 とりあえず言われるがままにしゃがみこみ、ぶよぶよの足、計四本を持ち上げた。ぶよぶよは素直に体を伸ばし、二つ背中合わせに重ねられて、頭をユーヤに足をあたしに預けている。
「いや、危ないところだった。これで川に落ちたら……」
「くっついたまま、ぷかぷかと流れていくね」
「煙草も気をつけないと」
「パーンといっちゃいそうだし」
 ユーヤは運びながらさらに軽口を叩く。あと少しで公園の外に出ることができる。
「そうそう、俺の手をスカートの中に引っ張りこんでいたの、見たかよ」
「ユーヤこそぶよぶよを家に持ち帰って何するつもり? なんか怪しいことでもするんじゃないの」
「ところで、俺に何か言いかけてなかった?」
 ユーヤを見ると、さっき煙草を吸っていたころとはうって変わって、とても楽しげだ。あたしはこの共同作業もユーヤのその表情も、なぜか本当にうれしくなってしまっていたので、「この前部屋以外でキスしたのいつだったっけ」と、大して意味もなく尋ねてみたのだった。
 

作者メールアドレス: parenthesis_a@yahoo.co.jp


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