砺波大和守源一という武将の名は、『武者言行録』にしか登場せず、しかもこの史書は二級もしくは三級扱いであり、さらにその登場個所も数えるほどなのであるが、なかなかに興味深い人物である。以下に主な部分を紹介したいと思う。
同書における砺波源一の名の初見は、最も激戦だったといわれる第四回目の川中島の合戦である。周知の通り、武田信玄と上杉謙信の争いである。
どういう経緯で仕えたのか(もしくは譜代だったのか)不明だが、父・正一が武田方として参戦していた関係で源一もこの合戦に駆り出された。同書に「父に具す」とあるので、これが初陣であろう。
源一が初めて実戦の槍を抱えると誰もが震え出した。
ふうに源一の目には映ったことだろう。何しろ「真冬の夜風に吹き晒されたが如く総身震わす」と同書にあるくらいである。源一の眼前も震え、周囲の人間が揺れて見えたことであろう。
悪く言えば臆病者、よく言えば初陣であれば無理からぬこと、もっとよく言えば文字通り「武者震い」だったのかもしれない。
この初陣からそうだったのかは不明だが、源一は信玄の家臣・高坂昌信に属していたが、上杉方の小島某を討ってからは信玄に武将として取りたてられ、さらに名馬を与えられた。青兎馬といったが、馬にあるまじく大根が好物だったようで、合わせて大根三百本も下賜されている。信玄からの賜物なのでさすがに表立ってこそ言わなかったようだが、この悪食馬を「阿呆兎馬」と雑言する家中の者さえいたという。成り上がりの源一への嫉妬も含まれていたのであろう。ちなみに、昌信もまた百姓から信玄に取り立てられた稀な身の上で色々と陰口を叩かれたであろう。源一に同情するところはあったかもしれない。
次に源一の名が現われるのは、信玄の死後、長篠の合戦である。織田信長・徳川家康の連合軍と、信玄の嗣子・勝頼が激突した合戦である。
同書には、源一が敵軍である織田・徳川の連合軍に対して「馬一疋にて[一騎で]突入す」とある。
勇猛果敢に突撃を仕掛けた。
のではなく、なんとそのまま織田・徳川の陣営に属したのである。早い話が、武田家を裏切ったわけである。詳細は不明だが、秘密裏に寝返りの承諾を家康か信長に貰っていたようである。何故源一は武田家を裏切ったのか。いや、戦国の世で主君の鞍替えは珍しくはないが、戦場での裏切りというのは稀である。その問いに同書は答えている。
源一は勝頼に対して、
「信長は武田騎馬軍団を殲滅するために馬防作をこしらえ無数の鉄砲まで揃えている。いま合戦を仕掛けるのは自殺行為である。退却を勇断して別の機会を窺うべし」
との旨を進言したが、受け容れられなかった。彼の意見が正しかったことは、同様の進言を行なった馬場信房・山県昌景ら武田騎馬軍団の中枢が鉄砲の餌食になり、やはり同意見だった高坂昌信が命からがら勝頼を擁して退却した史実が物語っている。ちなみに昌信は帰還から間もなく老衰で世を去っている。
また、合戦直前には雨がぱらついた。雨が上がらなければ武田軍が勝てたかもしれないし、ひょっとしたら源一は「突撃隊」として織田・徳川に挑んだのかもしれない。
しかし史実では雨は上がった。
雨天が勝頼率いる騎馬隊を、信長が揃えた鉄砲隊の眼前に誘い出した形である。信長が俗に「梅雨将軍」などと呼ばれるのは、有名な桶狭間での天佑のためぱかりではない。
同書は、この様子をこう記している。「信玄公への進言能く通り、勝頼公への進言悉く通らず。しんげんだけにしんげんはよく通るものなるか」
また、このとき源一が跨っていた馬が、合戦終了後、畑の大根をやたらと食い荒らしたという。側にいた織田方の長谷川某がこれを大いに面白がり、「信長公は珍奇なものを好むゆえ、お見せしたらよかろう」と述べた。
大根を食うという馬鹿な馬がそういるとは思えない。この馬は信玄より賜った青兎馬か、その仔であろう。
源一は長谷川の提案を受け容れ、おそらく内通のときに世話になったと思われる信長直臣・羽柴秀吉を介して信長に申し出ようとした。ところが秀吉から「糞食らえ」との返事が返ってきて謁見には至らなかった。単に「馬鹿を申すな」という意味なのか、それとも「大根を食らう馬なんぞ面白くも無い。糞を食らう馬ならば面白いし、餌代もかからぬから大いに使えるし、信長公にもお見せする甲斐がある」という意味なのかは解釈が分かれるところだが、いずれにせよ否定されたことには変わりがない。
源一は暫くの間秀吉に属していたようだが、信長を狙撃した杉谷善住坊を捕縛した功によって信長の直臣に引き立てられた。一説には、杉谷と信長暗殺を語らっていたが、狙撃に失敗したので杉谷を信長に売ったのだともいわれている。長篠の合戦の翻意からそのように推されるのは仕方がないし、理由は後述するが、唾棄しきれる説でもない。
「馬は大根食らふ。大根役者は当たらぬ。下手な鉄砲も数打ちて当たる。信長公、鉄砲披露せよとのたまひて……」
同書にはこのように述べられているが、要するに、源一は信長に鉄砲の腕前を披露しろと申し付けられたようである。つまり源一が鉄砲の名手だったということを物語っている。
この際、源一は信長の勘気を蒙って配下から追放された。原因は残念ながら同書には記されていない。ただ「無鉄砲なる行なひ」とあるので、家臣一同の面前で信長の射殺を企図したのかもしれない。しかし、もし暗殺を企んだのなら追放のみでは済まされまい。ひょっとしたら、源一が愛用している鉄砲というのがあって、その持参を忘れたのかもしれない。文字通り「無鉄砲」である。いずれにせよ推測するのみである。
本能寺の変で信長が没した後、源一は秀吉に拾われて千石の捨扶持を与えられ、秀吉の死後には家康に五百石で仕えている。
その間に、源一は宮本武蔵や柳生宗矩らに剣の極意を教えたという。つまり彼は剣の達人でもあったことを物語っている。その極意は極秘とされていて謎だったが、近年『砺波先生極意書』なる文書が発見され、そこに記されている。
「夜[闇討ち]、砂[目潰し]、三味線[口であれこれ言うこと]、選り好まず用いるべし。体を許し安堵させて討つのも有効なり[当時、男色はさほど珍奇ではなかった]」
極秘のままでいたほうがよかった気がする。
源一の没年は不明だが、関ケ原の合戦、大坂の陣、さらに島原の乱にまで徳川方として参戦している。ただ名前が記されているだけで具体的な活躍は一切記されていない。恐らく大した役には立たなかったのだろう。
同書における源一の最後の記述は、小瀬甫庵が戦国武将たちの活躍を纏めようと、生き証人のひとりである彼にこう尋ねたくだりである。
「ご貴殿がいくさ場で最もお得意だったことは何でしょうか」
源一は目を細め、昔を懐かしむ顔になって答えた。
「法螺吹なり」
例の大根馬は、家康に献上される前日に急死したということで没年が慶長十五年とはっきりしているが、皮肉なことに、その主人である源一の生没年は不祥である。
川中島の合戦から島原の乱にまで参加している武将の年齢なんぞ怖くて推算できない。
著作:妄言王