荒辞苑 あ行[49]2003.1.2

  あいぞめ・がわ【藍染川】京成高架線に沿って流れていた河川。京成電鉄上野本線が開通するより前の大正7年(1918)に造られた。日暮里の高台の文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠(トンネル)にて分水、それより下流は隅田川に合流するまで、開渠の川(排水路)として存在した。昭和7年(1932)から新三河島駅より上流などの暗渠化工事が行われたが、満州事変後中断した。昭和35年(1960)、保健衛生上の理由などにより全面暗渠化され、現在は道路となっている。(京成高架・東南側に沿う道路) 尾竹橋通りと京成線の交差する花の木橋などは、川があったその痕跡であり、現在でも欄干が残る。昭和32年(1957)現在で花の木橋、子の神橋(新三河島駅附近)、子育橋(町屋斎場前)の他、一号橋から八号橋が架橋していた。(ニ〜八は木造)
  あくと・21【アクト21】(東尾)区立の男女平等推進センターの愛称。平成8年(1996)7月1日開館。女性の社会進出を促進し、男女平等社会の実現をはかる拠点として、区民の幅広い交流を深める場として設立。ホール(150人収容)・会議室・関連図書等を設置している。熊野前ひろば館を併設。
  あくろしてぃ【アクロシティ】(南)1992年に完成した億ションといわれる超高級マンション群の名称。人工ストリーム(小川)に囲まれたその建物は風格が漂う。32階建てのタワーズや15階建て5棟、低層棟、スポーツセンター棟などからなる。有名人も多く住まい、国松警察庁長官が狙撃された現場として全国に知られた。また、宮部みゆきの推理小説「理由」の舞台のモデルともされる。
  あくろす・あらかわ【アクロスあらかわ】(荒)区立障害者福祉会館の愛称。平成9年(1997)8月22日開館。障害者やボランティアの活動の場として、区民との幅広い交流を深める場として設立。ホール(150人収容)・会議室・点字ワープロ室(予約制)・施設利用者の子供のための幼児コーナー他を設置している。
  あさひでんか【旭電化】(東尾)かつて区内屈指の規模を誇った化学工場。アデカの愛称をもった旭電化工業は大正6年(1917)に創業した。中小の町工場が多い荒川区において、代表的な大工場だったが、拡張のため、昭和50年代に郊外へ転出した。撤退後の跡地利用について長らく紛糾したが、現在、都立保健科学大学・都立尾久の原公園・住宅(ツインシティ)などが開設されている。なお、同工場は戦時中、アメリカ軍の日本本土初空襲の標的ともなった。
  あした・の・じょー【あしたのジョー】(南)荒川区を舞台とした人気漫画。あしたジョーの第1巻を開くと、見なれた光景に出会う。白鬚橋のガスタンクである。そう、実は南千住域が物語の舞台である。ジョーの銅像でも建ててもらいたいものだ。もっとも、良い印象を与える描写じゃなかったが。なお、ガスタンクは再開発の荒波の中、平成14年(2002)12月現在も変わらぬ姿を見せている。
  あべさだ・じけん【阿部定事件】(西尾)戦前の猟奇的殺人事件。大島渚監督の「愛のコリーダ」、大林宣彦監督の「SADA」のもととなったのが「阿部定」事件である。事件があったのは、昭和11年(1936)の尾久町で、当時は三業地として知られた。⇒尾久三業  昭和初期、世間の注目を浴びた事件であった。
  あらかわ【荒川】@河川名 荒川区には荒川がないといわれる。事実、区に隣接する川は隅田川である。もともと、隅田川というのは、荒川の下流域の名称であったのだが、荒川の洪水対策のために大正2年から掘削し、同13年に開通した人工河川「荒川放水路(現・荒川)」との分岐点・岩渕以降の荒川を、昭和40年(1965)の河川法改正によって、隅田川と称するようになったことによる。 A行政区画名 現行の7行政区画名の一つ。旧・三河島町を中心として昭和36年(1961)10月31日成立。自治省(当時・自治庁)の地番整理委託事業として、他地区に先駆けて実施。昭和43年(1968)3月1日、街区方式の住居表示の施行により、現行の荒川〜丁目体制となる。
  あらかわ・きゅうちゅう【荒川九中】(東尾)夜間学校の設置で有名な区立中学。荒川区立第九中学校。映画「学校」の舞台ともなった。また、東京荒川少年少女合唱隊の常任指揮者として、長いことご活躍された渡辺顕麿氏が教鞭をつとめた学校である。昭和28年(1953)、八城小跡地に開校し、同32年(1957)夜間学級併設。
  あらかわ・く【荒川区】東京23区のひとつ。昭和7年(1932)、東京市の拡大政策により、15区制から新規に20区を加えた35区制の下、荒川区は誕生した。町村合併による新区誕生に際しては、さまざまな案があったが、最終的に南千住・尾久・日暮里・三河島の4町にて荒川区を構成した。35区制において、荒川区の人口はなんと第1位。昭和18年(1943)の最盛期は35万人を擁した。(2002年11月現在、17万5千人、外国人登録を含むと18万8千人)
  あらかわ・く・ちいき・しんこう・こうしゃ【荒川区地域振興公社】区立の芸術・文化・スポーツ関連施設を運営・管理する財団法人。昭和63年(1988)8月1日設立。現在、サンパール荒川ムーブ町屋・日暮里サニーホール・町屋文化センター・あらかわ遊園などの運営・管理を荒川区より委託されている。また、各種イベントの企画・実施、情報誌「ほっとたうん」の発行(昭和63年11月創刊)と新聞折込による配布を行っている。略称:ACC
  あらかわ・こうえん【荒川公園】(荒)区役所を囲む区立公園(面積・区立第3位)。昭和42年(1967)の荒川区役所新庁舎建設にあわせて造られた。以後、隣接地の併合を経て区内第3位の大きさとなった。園内には小さな釣堀や幼児用徒歩池があり、豊かな植栽・垣根が設けられているが、どちらかというと、子供たちより大人(おじさん達)に占領されているので親子づれには評判が今一。14,707.9u
  あらかわ・さんいん【荒川産院】(町)町屋七丁目にあった都立産院。子供達の多かった時代の象徴的な荒川産院は、昭和11年(1936)7月に東京市立荒川産院・乳児院として開院、昭和18年(1943)7月、東京都立荒川産院となった。少子化の流れや施設老朽化により平成6年(1994)12月末でその役目を終えた。跡地には病院建設などの案もあったが、平成14年(2002)3月、特別養護老人ホーム(平成16年開設予定)用地として売却が決定した。
  あらかわ・しぜんこうえん【荒川自然公園】(荒)「三河島の汚水処理場」の屋根の上にある区立公園(面積・区立第1位)。正確には下水道局三河島処理場の施設に蓋をして人工盛土したところが公園となっている。昭和49年(1974)に処理場の改修を機に開園、その後、拡張している。自然公園という名称とは、まったく実態の異なる人工公園なのだが、区立公園としては、第1位の広さ(56,925.24u)を有する。交通園(平成7年・1995、4月5日開園)・昆虫観察園(カブトムシ園)・幼児プール・テニスコート・野球場や数多くの植栽がある。
  あらかわ・しゃこ【荒川車庫】⇒都電荒川車庫
  あらかわ・しょうねんしょうじょ・がっしょうたい【荒川少年少女合唱隊】⇒東京荒川少年少女合唱隊
  あらかわ・そうごう・すぽーつせんたー【荒川総合スポーツセンター】(南)荒川区営スポーツ施設の中核。旧東京スタジアム跡地に建設され、昭和60年5月にオープンした。区営だが実質の運営は、体育施設の運営企業に委託している。温水プール(大・小)や卓球・武道・弓道・エアライフル・各種スポーツ用体育館など充実している。
  あらかわ・ぱれすぼうる【荒川パレスボウル】(東尾)現在、区内唯一のボウリング場。熊野前停留所の近く。わずか、28レーンの小規模なボウリング場であるが、男子トッププロ・山崎行夫の所属先である。
かつて、この敷地を含む一帯は「小泉園」と称する温泉宿で、広大な日本庭園を有していた。⇒尾久温泉
  あらかわ・ふるさと・ぶんかかん【荒川ふるさと文化館】(南)郷土史料に関する区立施設。南千住図書館との複合施設。平成10年(1998)5月1日開館。常設展示室・企画展示室(以上観覧有料)・郷土学習室などからなる。ちょっとした民俗史料館である。昭和41年(1966)夏の夕方を想定した実物大の路地裏の街並みは、こじんまりとしているものの、なかなか郷愁を感じる。三軒長屋とニコイチ長屋(二軒長屋)を復元している。敷地は、平成元年3月末日をもって統廃合された南千住中学校跡地(瑞光小創設跡地)である。
  あらかわ・むら【荒川村】荒川区と姉妹提携している埼玉県秩父郡の村。昭和56年(1981)4月25日提携。村まつり・区民まつり相互に交流をはかっている。提携10周年の平成3年には、区民りんご園を開設。同年、荒川村から「石のように固い交流を」という願いをもって、名産・日野竜岩が贈られた。(現在、荒川区役所前の荒川公園にある。)平成5年(1993)4月9日には、荒川村村制50周年を記念しモニュメント「清流の風」が荒川区から荒川村に贈呈された。
  あらかわ・ゆうえん【あらかわ遊園】(西尾)区内第2位の区立公園(50,840.69u)。大正期に民間の行楽地「あら川遊園」として開設された。滝・池・築山・橋(観月橋=現存)・展望塔・竜宮殿、大浴場などがあって大人向けのヘルスセンターといった存在で城北の名園として知られた。戦時中に高射砲が設置されるなど荒廃したが、戦後は、区立「荒川遊園」として整備され、多くの子供たちに喜ばれた。昭和61年から平成3年にわたって大改修され、平成3年(1991)4月27日、よりファミリー指向の強い区立「あらかわ遊園」として生まれ変わった。
  あらかわ・ゆうえん・すぽーつ・はうす【あらかわ遊園スポーツハウス】(西尾)あらかわ遊園園外に開設した区立のスポーツハウス。平成5年(1993)7月24日オープン。ドーム開閉式屋根のある25m×15m公認プールや15m×5m子供プールはともに温水。その他、アリーナやトレーニングルームを備えている区立のスポーツ施設。
  あらきだ・の・はら【荒木田の原】(町)江戸名所のひとつ。電化通りと尾竹橋通りの交差点に荒木田の名が残っている。現在、第七峡田小学校のある一帯「荒木田の原」は、江戸時代、「江戸名所花暦」(文政10年)にも見られるように、すみれやれんげで知られた行楽地だった。江戸時代の大田南畝の書き残したものに次の一節がある。「・・・此頃、荒木田の原と云ひて野遊によろしといふことをきゝたれば・・・」 また、荒木田大根の産地でもあり、壁土や焼き物の土として知られた荒木田土の故郷である。
  いしはま・じんじゃ【石浜神社】(南)荒川区内最古の神社で、白鬚のガスタンク附近に氏子を持つ氏神。神亀元年(724)の創建と伝えられる。源頼朝の奥州遠征や、蒙古軍来襲の際に戦勝を祈願したという。鎌倉時代に大いに栄え、お伊勢詣り代わりの参拝者で賑わった。(昭和20年に戦災で社殿を焼失したが、現在の社殿も、伊勢神宮と同じ神明造りのおごそかな姿を見せている。) その後、江戸時代においても、天保9年(1838)の東都歳時記の挿絵に、夏越の祓(六月三十日)を、その壮麗さにおいて名高い夏の風物詩として紹介しているほど、知られた神社であった。なお、戦後、二度ほど移転しているが、室町頃に、千葉氏一族の居城として栄えた石浜城も含めて、現在の石浜神社付近にあったものと考えられている。(昭和63年・1988、7月に移転)
  いっきゅう・さん【一球さん】都電車両・6000形6152の愛称。一度は引退し応急車として車庫で控えていたが、塗色も6000形登場期のものを復元してイベント車両として復活した。6000形唯一の都電現役車両として愛されたが、平成13年(2001)12月引退。(京福電車の事故による旧構造車両の運行停止に伴うもの。) その後荒川区が入札し獲得。平成15年(2003)3月に近隣のあらかわ遊園に保存されることになった。「一球さん」という愛称は、照明が1基の設置であることに由来する。昭和24(1949)年7月製造。
  いっぽんまつ・の・わたし【一本松の渡し】(町)尾竹橋より約400m下流にあった隅田川の渡し船。昭和の初めから昭和30年代にあった。但し、昭和16年(1941)の地図には見当たらない。渡し場は、現在の水道橋付近にあったとみられる。
  えいけん【エイケン】(南)人気アニメ「サザエさん」の制作会社。昭和44年(1969)スタートの「サザエさん」や「コボちゃん」などのアニメ制作を手がける。初め旧東京スタジアム近くの工場にて制作していたが、現在は、旧南千住警察署付近に社屋がある。人気アニメ「鉄人28号」や「エイトマン」などを制作したTCJのアニメ部門が独立して設立した会社である。
  えがわ・ぼり【江川堀】江戸時代から大正の頃の用水路の一つ。八幡堀・地蔵堀などとともに、農業時代の荒川区域(もちろん荒川区成立以前)を支えてきた。特にこの江川堀は下尾久村と町屋村、後の尾久町と三河島町の境を流れる村境としての役目も担ってきた。現在でも、かつての江川堀の流路は詳細な地図を見れば、そのなごりを感じることができる。荒木田と尾竹橋の中間にある欄干のなごり、江川堀プロムナードから西にあるいは南に遡っていく水路あとの小道がある。小道は民家の軒下をくぐるような幅50cmほどのところもある。大正の頃までは、周辺にレンゲなどが咲き乱れ、さまざまな生き物が棲み、ホタルが舞い、童謡「春の小川」そのものであったという。大正以降の人口急増に伴い、生活排水が入り込みドブ川となってしまい、昭和34年(1959)暗渠化された。昭和32年時で、次の橋が架かっていた。荒木田新橋・江川一号橋・江川新橋・新開一の橋・新開ニの橋・新開三の橋・高橋・栄橋
  えど・さと・かぐら【江戸里神楽】荒川区にて継承されている民俗芸能。江戸時代から庶民に人気があった。宮中や伊勢神宮などの御神楽(みかぐら)に対して、民間を中心とした神楽が里神楽である。神事やおとぎ話などを題材とし、太鼓・笛などの楽器とともに演じるスタイルは、パントタイムと同じような黙劇である。松本源之助氏(西日暮里)の率いる松本社中が保持する江戸里神楽は、埼玉・鷲宮神社の神楽を源とし「土師(はじ)流」と呼ばれ、東京都無形民俗文化財に指定、平成2年(1990)2月22日、芸術選奨文部大臣賞を受賞。 
  えぬ・えす・おー【NSO】(西日)⇒西日暮里スタートアップオフィス
  えんぜる・ぷらん【エンゼルプラン】荒川区の少子化対策。荒川区エンゼルプラン(荒川区子育て支援推進計画)は、子育てや女性の社会進出の支援を目的とし、平成9年(1997)に計画策定された。(5年計画) @家庭での子育て支援A仕事との両立の支援B保健・福祉の充実C健やかな成長への支援D地域での子育て支援、を体系とする。
  えんにち【縁日】元来は定例の仏事・神事の日をさす。区内では、縁日=夜店としてとらえられることが多い。毎月定例の仏事・神事の日(縁日)の夜間に露天商が店を連ねる・・・それを縁日あるいは夜店(よみせ)と呼び親しんだ。平成14年(2002)11月現在、荒川区内では、3箇所で実施されているが、娯楽の多様化・少子化の影響もあり、かつての盛況さは感じられない。荒川遊園地通りの庚申堂・延命子育地蔵で毎月2日・12日・22日、東尾久の満光寺・二葉地蔵で毎月9日・19日・29日、熊野前商店街通りの伏見稲荷で毎月5日・15日・30日の夜間、露天商が並ぶ。かつては、南千住でも見られた。
  おうじ・でんしゃ【王子電車】⇒都電荒川線
  おぐ・おんせん【尾久温泉】かつて尾久町を発展させたラジウム温泉。大正3年(1914)、現在の尾久警察署から都電をはさんだ向い側にある碩運寺で発見された。一躍、「寺の湯」として名声を博するにいたり、「寺の湯」は「不老閣」として独立し、周辺にも「小泉園」「大河亭」「光泉閣」など同様の施設が次々と作られた。同じ頃の、王電の開通、行楽地・あら川遊園開園といった追い風とともに発展していった。とともに湯女が必要となったのが発端となり、芸妓屋などの三業を生み出している。なお、小台電停近くで現在も営業している割烹「熱海」は、当時の温泉旅館の一つであり、大正12年(1923)発行の「新興の尾久町」にも登場している。
  おぐ・さんぎょう【尾久三業】大正から昭和前期にかけての尾久の繁華街。三業とは、一般に料理屋(旅館)・芸妓屋・待合の三業種をさす。いわゆる花街である。大正期末では、まだ、待合を除く二業のみであった。三業になったのは昭和に入ってからと思われる。現在の女子医大通りと一つ西側の通りとの間あたりが中心である。昭和40年代以降はすっかり寂れてしまった。今では、尾久三業の案内板と、芸妓屋や料亭の名前の入った看板や表札がかすかに読み取れるものがいくつか残っていること、黒塀がわずかに残っていること、にかつての面影を感じるのみである。なお、昭和初期のこの街において、時代を反映した「阿部定事件」が発生したことは、あまりにも有名である。
  おぐ・しょうがっこう【尾久小学校】(東尾)荒川区成立時の合併旧4町の一つ尾久町地区最初の公立小学校。現在、東西尾久地区にある小学校(尾久西・大門など)のルーツである。明治11年(1878)1月開設の私立田辺(小)学校を引継ぎ、明治20年(1887)11月12日、華(花)蔵院の敷地(上尾久村)で開校した。当時、合併前であった上尾久村・下尾久村を学区とする公立尾久小であったが、下尾久村では、明治30年代まで満光寺内の私立井上(小)学校に通うものが多かったという。
  おぐ・せきそん【尾久石尊】(東尾)出世石尊とも呼ばれる石神信仰。南北朝の頃、不思議なことが多くあった時に里の人が発見したという。現在、小さなお堂がある。
  おぐ・の・はら【尾久の原】尾竹橋から尾久の原公園にかけての川べりにあった景勝地。江戸時代、「江戸名所花暦」で、桜草の名所として紹介している。「武江産物誌」でもレンゲソウやハンノキなど多くの植物について記述されている。また・「新編武蔵風土記稿」では「・・・そのさま青海原」と表し、狂歌の大田南畝は、「野遊によろし・・・」と聞いて訪ねている。
  おぐのはら・こうえん【尾久の原公園】(東尾)旭電化跡地に開園した都立公園。平成14年(2002)現在、荒川区内唯一の都立で区立公園を加えた中でも一番の広さを誇る(60,010.93u)。(なお、都立公園としては、区内ニ番目の汐入公園が、将来、開園の予定) 昭和50年代に旭電化が撤退し、跡地利用決定に時間がかかるうちに、様々な植物・生き物が回帰した。その結果、これらを活かす公園設置の機運が広がった。回帰した生き物の中でも、特にトンボはこれまでに、希少品種を含む30種以上が発見され全国有数の生息地として注目をあび、別名、トンボ公園として広く知られる。平成5年(1993)6月1日、旭電化跡地東側・区立原公園跡地に部分開園、下水道処理施設併設の予定のため、完成まで数年かかる予定。(なお、旭電化跡地には、都立保健科学大学が開設されている。)
  おぐ・の・わたし【尾久の渡し】(西尾)⇒小台の渡し
  おぐ・ばし【尾久橋】(東尾)隅田川の区内上流部から二番目の橋。尾久橋通り<放射11号線>に架かる橋。昭和43年(1968)に架設。橋のある場所は、かつて、「熊野の渡し」(渡し舟)があったところに近い。
  おぐ・はちまん・じんじゃ【尾久八幡神社】(西尾)旧尾久町全域の氏神。東尾久・西尾久はもとより、尾竹橋周辺の町屋(ほぼ旧江川堀以北)地区もかつては旧尾久町であったため、尾久八幡神社を氏神としている。鎌倉時代の創建と伝えられる。かつては多くの古塚や木々や堀などに囲まれていたらしいが、今はその面影は全くない。
  おぐ・まち【尾久町】荒川区成立時の合併旧4町の一つ。明治22年(1889)5月1日の市制町村制施行に際して、下尾久村・上尾久村、船方村の一部を合併して成立した尾久村が、大正12年(1923)4月1日、町に昇格して誕生した。尾久町は、昭和39年7月1日の街区方式・住居表示に伴い、東尾久・西尾久と、荒川・町屋・西日暮里の各一部に分割した。大正から昭和初期にかけて温泉町・三業地として栄えた特殊な経歴をもっている。
  おだい・の・わたし【小台の渡し】(西尾)小台橋のやや上流にあった隅田川の渡し船。尾久の渡しとも呼ばれた。江戸時代から昭和の初めまで存在。足立区の西新井大師への参詣客が多く利用していた。昭和9年(1934)に小台橋が架橋され廃止されるに至った。渡し場は小台橋のたもとより50mほど上流にあった。
  おだい・ばし【小台橋】(西尾)隅田川にかかる区内最上流部の橋。関東大震災後の復興都市計画事業により、昭和8年(1933)3月に架橋。それまで、「小台の渡し」(渡し舟)が、西新井方面へ通ずる重要な交通手段であった。架設後、小台通りがますます賑わい、小台銀座商店街の形成につながった。平成4年(1992)8月5日現在の橋が全面開通となる。
  おたけ・の・わたし【お竹の渡し】(町)⇒お茶屋の渡し
  おたけ・ばし【尾竹橋】(町)隅田川にかかる区内上流部から三番目の橋。関東大震災後の復興都市計画事業により、昭和9年(1934)3月に架橋。それまで、尾竹橋よりやや上流にあった「新渡し」(渡し舟)や、やや下流にあった「お茶屋の渡し」(渡し舟)が、この地区の重要な交通手段であった。架設後、渡しは衰退し尾竹橋通りが賑わうようになった。平成6年(1994)現在の橋となる(型式:ニールセン系ローゼ橋)。尾竹の名は、「お茶屋の渡し」の別名であった「お竹の渡し」に由来する。
  おちゃや・の・わたし【お茶屋の渡し】(町)尾竹橋より約400m下流にあった隅田川の渡し船。天保年間に開設された歴史のある渡しで、近代では、明治末期から昭和初期までが正式な営業期間だった。名称は、対岸に三軒茶屋(富士見屋・柳屋・大黒屋)があったことに由来する。また、別称を「お竹の渡し」というが、これは茶屋に、「おたけ」という美人がいたからという言い伝えがある。渡し場は、現在の荒川区立尾竹橋公園の裏手にあった。
  おりおんず【オリオンズ】(南)荒川区の旧・東京球場を本拠地としたプロ野球チーム。東京球場が運営していた昭和37年(1962)〜昭和47年(1972)に荒川区をフランチャイズとしていた。オリオンズの名はパ・リーグ創設時の毎日オリオンズ(昭和25年・1950)から引き継ぐ。昭和32年(1957)大映ユニオンズと合併し毎日大映オリオンズ(通称:大毎オリオンズ)、昭和39年(1964)東京オリオンズ、昭和44年(1969)ロッテオリオンズと継承された。平成4年(1992)に千葉ロッテマリーンズに改称。[その後のフランチャイズ・・・昭和48年(1973)〜52年(1977)期は、仙台・宮城球場や東京・後楽園球場を間借りし「ジプシー球団」と呼ばれた。昭和53年(1978)より川崎球場、平成4年(1992)より千葉マリンスタジアムを本拠地としている。]⇒東京球場