荒辞苑 か行[13]2003.1.11

  かいせい・がくえん【開成学園】(西日)東大合格数トップ校で有名な男子中高一貫校。明治4年(1871)創立の共立学校を前身とし、明治28年(1895)に東京府立開成中学となり、明治34年(1901)に私学となった。その後、関東大震災で校舎が焼失したため、大正13年(1924).に神田淡路町から現在地・西日暮里に移転した。
  がっこう【学校】(東尾)荒川九中を舞台とした映画。下町の夜間中学校の様相を主題とした名作「学校」は、全編において荒川九中が舞台となっている。また、町屋周辺も登場している。平成5年度(1993)日本アカデミー賞受賞、山田洋次監督、西田敏行主演、松竹映画。 
  かみそり・ていぼう【カミソリ堤防】隅田川などに見られるコンクリート護岸の通称。高潮対策として昭和33年(1958)に、荒川水系基準水位(A・P)4mで完成。6m台に改修する工事が昭和35年〜50年にかけて施工された。これにより、荒川区の高潮被害はなくなったが、カミソリの刃のようにそそりたつコンクリート堤防は、人と水とのふれあいを断ち切る存在ともなってしまった。この反省に基づいて、現在は、耐久性とともに親水性を重視した「スーパー堤防」に切り替えられつつある。
  からくり・どけい【からくり時計】(荒)京成町屋駅前の人形が動作する仕掛け時計。「からくり時計」は一般名称。昭和63年(1988)9月、町屋駅前東地区市街地再開発事業により建設されたイーストヒル町屋はいから館(京成町屋駅前)1階に設置。大正ロマンをイメージした内容で、正午・午後1時・3時・6時に人形が登場する。
  かわのて【川の手】山の手に対する低地、特に隅田川沿岸域をさす言葉。立正大学・服部_二郎教授が山の手に対応する言葉として、初めて「川の手」を使用した。その服部氏の「荒川らしさの演出」という講演会−昭和60年(1985)6月4日−で、「荒川らしさ」のシンボルを作り上げていくことが提言された。以降、南千住旧国鉄ヤード周辺を「川の手新都心」とする施政方針を掲げるとともに、川の手再興事業の一環として、川の手キャンペーンを開始した。
  きょじん・の・ほし【巨人の星(町)町屋の長屋を舞台とするスポ根アニメ。アニメの中で星一徹宛ての郵便物に「荒川区町屋9−16」という住所が明記されている。もっとも、実在の町屋は8丁目までであるが、河崎実氏の研究本に次の一文がある。・・・これを町屋の本屋で買っている読者諸君、驚きそして誇りに思いたまえ。日本で一番有名なド根性親子の長屋は、まさにそのあたりにあったのだ!
  きりやま・べや【桐山部屋】(東尾)荒川区で二番目に開設された大相撲部屋。元小結・黒瀬川の桐山国由親方が指導する。
  くまの・の・わたし【熊野の渡し】(東尾)尾久橋の所在地にあった隅田川の渡し船。大正中期から昭和にかけて使われていた。昭和9年(1934)に小台橋・尾竹橋が架橋され次第に衰退し廃止された。
  けいせい・でんてつ【京成電鉄】昭和6年より区内に乗り入れた私鉄。大正元年(1912)開業した京成電鉄は、昭和6年(1931)12月に青砥〜日暮里間を開通し、8年に上野に乗り入れた。区内に開設した駅は、町屋・新三河島・道灌山通り・日暮里の4駅だったが、道灌山通り駅は昭和22年(1947)2月28日に廃止となっている。(京成の資料による・・・平成元年荒川区史では戦時中廃止となっている。) 京成線は荒川区にとって重要な幹線となり、特に町屋にとって発展の大きな要素であった。現在、本区を通過するこの路線は上野本線と称する。
  こうくう・こうぎょう・こうとうせんもんがっこう【航空工業高等専門学校】(南)都立の5年制教育機関。校章にプロペラがあしらわれ、本館校舎も3枚のプロペラをイメージしたものとなっているが、航空機だけでなくロボットやコンピュータに関する研究・指導も行っている。昭和37年(1962)創立。白鬚西地区再開発事業に関連して、平成4年暮れ、校舎も斬新な現在のものに変わった。校内に科学技術展示館があり古い航空機などがある。また、’95ROBOCONON「高専部門」全国大会において優勝している。大学3年時編入の道もあり、これを含め3割程度が大学へ進学している。鈴木研究室では、富士山のライブカメラを設置している。
  ここんてい・しんしょう【古今亭志ん生】日暮里に在住した屈指の名落語家。明治23年(1890)神田区亀住町に生まれる。昭和14年(1939)、五代目古今亭志ん生を襲名。住まいを転々とした後、60歳を過ぎて、初めての持ち家を日暮里にかまえた。(昭和26・1951) 昭和31年(1956)に「お直し」で芸術祭賞を受賞。 昭和48年(1973)9月21日、西日暮里の自宅で死去(83歳)。 長男は十代目金原亭馬生、次男は古今亭志ん朝。荒川区は下町らしく、他の落語家も多く居住してきた。
  こづかっぱら【小塚原】(南)江戸の2大刑場の一つ。小塚原は、現在の回向院や延命寺のあたりに広がっていた。数十万の人々が処刑、埋葬されたという。磔・獄門・さらし首が行われた当時の写真を、刑場跡に建つ回向院の資料室で見ることができる。安政の大獄で処刑された吉田松蔭や水戸浪士、あるいは鼠小僧などの終焉の地である。また、杉田玄白らによって解体新書が訳されるきっかけとなった腑分けが行われた(明和8年・1771)のもここである。(それを記念して銅版レリーフ・観臓記念碑が回向院に飾られている。)また、延命寺には、刑死者を弔うために寛保元年(1741)に建立された首切地蔵がある。
  ころく・じんじゃ【胡録神社】(南)汐入地区に氏子を持つ氏神。明治以前は村一番のさびしい魔所の守護神である大(第)六天と呼ばれたが、神仏分離令により、現在の名称となった。地域特産の胡粉(かきがらを石臼で粉にし装飾材料として使用)の「胡」と大(第)六天の「六」にちなんだ「録」が語源といわれる。再開発による遷宮のため平成14年(2002)10月〜15年(2003)7月にかけて仮社殿に遷座となる。