沿革
2000.10.22改訂 2004.5.17 2002.8.6

●タイトルの「尾久町(おぐまち=東京府北豊島郡)」は、市町村としては現存しない。「尾久町」が一つの町として存在したのは、大正12年(1923)から昭和7年(1932)までの、わずか9年にすぎないのである。
 
しかし、前身の尾久村
(明治22年成立)から、後継の荒川区尾久町(街区方式の住居表示が施行された昭和39年7月1日までの行政区画)までの町並みやその発展の経緯をみると、地域としての”尾久町”には興味深い背景がある。
 
 
昭和7年に誕生した荒川区の前身は、北豊島郡に属していた南千住町・三河島町・日暮里町・尾久町の4町である。このうち、南千住町・日暮里町は、旧東京市隣接地域(現在の荒川区域などの併合による大東京・35区誕生以前の旧東京市15区に隣接していた)であり、江戸文化の影響も大きく、比較的歴史遺産の多いところである。三河島町は現在の荒川・町屋地区に相当する部分が多い。三番目に町に昇格したが、近年町屋駅を中心に交通の要衝地として発展を遂げている。
<関連サイト・荒川区誕生>
 
 一方、尾久地区は町制がひかれたのが、現区内で最も遅い大正12年。昭和40年代に東尾久に住む老人から、「尾久の別荘地」として越してきた旨、聞いたことがあるが、まさに一番発展の遅れた、換言すれば、自然が一番多く残る純農村エリアであったのだろう。明治から大正の頃、三河島と尾久を隔てる境界線の役目を負っていた「江川堀」は、まさに「春の小川」の詩のイメージそのものだったという。

 尾久地区は、比較的人口密集度が低かったせいであろう、関東大震災以降の工場進出とともに、隣接する町屋地区とともに、町工場の多いエリアとして知られた。しかし、これといった特長のないマイナーな地域としてのイメージが強い。それは、町の中心となる鉄道駅(都電の停留所ではなく・・・)がないことにもよるだろう。旧4町のうち、唯一、鉄道駅がないのである。鉄道駅の存在が町発展の基盤であることは、どこの地域を見ても自明の理である。
 このことは、尾久が遊興地として栄えようとしていた時代、まさしく、尾久町が形成される大正から昭和の初めにかけて、既に指摘されていたことでもある。(尾久要覧)
そんな思いが、”尾久駅”を誕生させたのかもしれない。ただ、尾久駅(読みは「おぐ」ではなく、「おく」)は荒川区尾久の駅ではない。北区に存在する最寄駅に過ぎない。今となっては不自然な駅名であるが、国鉄の駅名に冠するに相応しい知名度を誇っていたことがうかがえる。
 

T.東京郊外の遊興地”尾久町”の発展
 
尾久町は、明治22年5月1日に上尾久村・下尾久村と船方村の一部が合併してできた尾久村が、大正12年4月1日に町制を敷いて誕生している。もっとも、前述したように当時はまだ荒川区自体が生まれておらず(昭和7年に区創立)、北豊島郡尾久町としてうまれたのである。現在の住居表示で言えば、荒川区東尾久・西尾久及び西日暮里と町屋の各一部にあたる。
 対外的に街の印象が薄く、この地域のこれまでの沿革を想像しても、荒川区の大半がそうであったように、明治終わりごろまでは農村地帯、それが旧東京市の膨張により、工業の転入が相次ぎ、とともに人口も拡大していった、と思うのがほとんどであろう。
 実際に尾久町もそのような発展を経てきているのだが、一つ荒川区の他地域と異なるのは、尾久町が東京郊外の遊興地として発展し栄えていったことである。その中心となったのは、大正3年に発見された尾久温泉(ラジウム鉱泉)であった。これを核にして料理屋(旅館)・芸妓屋・待合のいわゆる三業が大正〜昭和初期にかけて形成されていった。時を同じくして、王子電気軌道(現・都電荒川線)が開通したことや(大正2年)、乗客獲得の意思をもって提携した「あら川遊園」が開園したことなど(大正11年)、町創立時は、町発展に大変な勢いがあったのである。
 尾久町には、数多くの温泉旅館が乱立し、中でも、「寺の湯」として知られた後の「不老閣」(尾久温泉発祥の地・・・現・碩運寺)や広大な日本庭園を有した「小泉園」(現・荒川パレス)は著名であった。「小泉園」にいたっては、尾久町制記念で発行された大正12年の「尾久町地図」にも、はっきりと敷地が描かれているくらいである。
 しかし、現在の尾久を見てみると、旧王子電車の都電こそ元気に走っているものの、三業地として栄えた形跡は数少ない。東京の他の三業地がその後、繁華街として発展した例が多い中で寂しい感じがする。今もかろうじて往時の名残として見られるのは、割烹料理屋などの存在である。熊野前〜宮の前〜小台のあたりに旅館・料理屋が点在し、「熱海」「深水」といった料理屋が小台・宮の前電停近くで現在も営業している。
※追記:深水は建替えとなった。中でも「熱海」は開業当時は、温泉旅館でもあった。私は、何でこんなところに、このような大きな割烹料理屋があるのか、また何で熱海というのか、常々疑問を感じていたのだが、その背景には尾久温泉街といった歴史があったのである。「熱海」という店名は、有名温泉にちなんでつけたものと思われるが、このような命名として、他にも、有馬温泉、草津温泉というのが尾久町にあった。
 また、三業の名残として料理屋や待合の黒塀が町の中ほどに散在している他、古い木造の建物の入口脇を見ると、それがかつて芸妓屋であったことを示すランプシェードが見受けられる(かすかに屋号が読み取れる。)点に、かろうじて往時をしのぶことができる。
 
【追記】しかし残念ながら、2001.5現在、待合「武蔵野」、料理屋「深水」が取り壊されてしまっている。特に「武蔵野」は、尾久町一の待合ともいわれ、天井画を初めとする装飾品や調度品は、目を見張るものがあっただけに、後世に引き継がれなかったことは、非常に残念である。

2000.6.8
(2002.8.6現在、建替えられている)
料理屋(割烹)深水
2000.6.8
(2000.10.21現在、取壊されている)
待合「武蔵野」
2000.6.8
待合「いろは」
     
U.温泉の発見
 
発展の基盤となった温泉(といっても、温かいわけではなく、ラジウム鉱泉である。)は、現在の尾久警察署から都電をはさんだ向い側にある碩運寺(せきうんじ)で発見された。(大正3年) 記録によれば、住職が井戸水の水質がよく、焼酎の製造に適しているだろうと考え、水質調査を衛生試験場に依頼したところ、ラジウムエマナチオンの含有がみとめられたため、一躍、「寺の湯」として名声を博するにいたったのである。そののち、「寺の湯」は「不老閣」としてが独立し、周辺にも同様の施設が次々と作られていった。とともに湯女が必要となったのが発端となり、芸妓屋の発展につながっていったのである。 
 
 主な温泉旅館
小泉園●王電熊の前下車   旭館●王電熊の前又は小台下車
光泉閣●王電熊の前下車   保生館●王電熊の前下車
不老閣●王電熊の前下車宮の前   大河亭●王電小台停留所前
熱海●王電小台下車   石橋亭●王電熊の前下車
靈泉館●王電熊の前下車   富貴館●王電熊の前下車
小泉園分園●王電熊の前下車宮の前 熊野館●王電熊の前下車
ありま温泉ありま●下尾久電停際 富倉館●下尾久鬼怒電前

 
【鉱泉発見の経緯について】
 前述した経緯は、大正12年発行の「新興の尾久町」に記載されているものであるが、古老の言い伝えでは、足をケガをした子供が寺の井戸水で洗ったところ、血が止まったので不思議に思い水質検査した、というのがある。
 

V.尾久三業地
 
三業とは、料理屋(旅館)・芸妓屋・待合の三業種をさす。尾久の場合、ラジウム鉱泉を源泉とした温泉旅館の相次ぐ設立が基盤となり、料理屋(旅館)・芸妓屋のニ業組合からスタートしている。後に組合が分裂する事態を招いたりしたが、待合が加わり三業が形成された。大正末から昭和初期のことと思われるが、その時期の明確な資料は残っていない。
 三業の内、芸妓屋は芸妓置屋とも呼ばれ、いわば、座を盛り上げる出張コンパニオン兼エンタティナーである芸妓の手配を行う業である。技量・経験により「半玉-舞妓-芸妓−花魁−太夫」とランクづけされていた。戦前の規模では、昭和4年頃で59軒に達していた。・・・
『新版大東京案内』「花柳總覧」(中央公論社・1986年批評社により復刻)による。(※参考 赤坂143、新橋264、浅草284軒)
 戦後のピークとされる昭和35年当時では、芸妓屋数37軒、芸妓衆330人を擁した。芸妓屋そのものは、アパートの一室のような狭い設備であった。
 
 一方、待合であるが、立派な黒塀を有するところも多く、料理屋・料亭と区別がつきにくいかもしれない。しかし、決定的に異なるのは、調理施設を持たないところにある。待合で給仕するのは、飲み物だけであり、料理は仕出しである。サービスの主たるところは、場の提供にあった。そこに、芸妓を呼び遊興し料理をとり、酒を飲み交わす場として活用されていた。
 ところで、尾久三業地が花街として賑わっていた頃、この場所で世の中の話題をさらった事件が起きた。猟奇的な殺人として知られ、大島渚監督の「愛のコリーダ」、大林宣彦監督の「SADA」のもととなった「阿部定」事件である(昭和11年)。尾久の待合「満佐喜」における殺人事件であったが、犯人の「定」の行動理由などが明らかになるにつれ、「お定」人気によって尾久三業が潤ったとも言われている。その「満佐喜」の戦後の建物がつい近年まで、待合「いろは」の北方(道路を隔てたところ)に残っていたらしい。
 
 戦後、高度経済成長を遂げる日本において、工場の多い荒川区でも、地下水くみ上げ問題が起きていた。工場用水として大量に利用するために
、地下水が枯渇する問題で、温泉(鉱泉)に依存してきた尾久温泉も、その大黒柱を失うことになる。とともに、工場の郊外移転により大口の顧客を失い、繁華街としての形成がないことから、新たな顧客を呼ぶという要素もない尾久三業地は衰退していった。それでも、昭和50年代から60年代バブル期にかけては、多少の復調も成し得たようであるが、バブル後遺症の現在において、終焉を迎えてしまったのであった。

定価表

一、御席料     御一人様一と座敷二時間以内 金四○○○円也
御一人様一時間増す毎に 金一五○○円也
一、芸妓花代 一と座敷二時間以内 二本 金五四○○円也
一時間増す毎に 金ニ七○○円也
   糸代 一座敷二時間以内 金六○○円也
一時間増す毎に 金三○○円也
一、約束料 約束の時は約束料を戴きます
一、特級酒 一本 金六○○円也
一、ビール 一本 金六○○円也
一、清涼飲料水 一本 金三○○円也
一、料理 時価
一、小もの お一人さま 金一五○○円也
一、サービス料 一座敷お一人ニ時間以内 金一○○○円也
お一人一時間増す毎に 金五○○円也
他に料理飲食等消費税として一割戴きます
公給領収証は必らず御受取り下さい
                                  昭和五十五年五月
                                       尾久三業料亭組合


←右のは、現在、撤去されている。
 


W.ヘルスセンター「あら川遊園」
 尾久町の発展につくした施設として、あら川遊園の存在を忘れてはならないだろう。今でこそ、幼児向けの遊園地となっているが、開園当初は大人向けのいわばヘルスセンターであった。宣伝文句に「東京に最も近き避暑地」がうたわれていたあら川遊園には、大浴場や食堂・遊具・宴芸場などが完備されていた。 
<あら川遊園については、こちらを参照
 

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